窓のそと(Diary by 久野那美)

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2013年07月19日(金) 【クチミミ稽古日記〜1日目〜】朗読のコスプレ?

朗読公演の稽古をしています。

本を読むひとのお芝居は作ったことがあるけど、舞台の上でほんとうに本を読むのは初めてで、何から何まで試行錯誤の4時間。

朗読家のひとにとっては当たり前で考えるまでもないことなのかもしれないけど、やることすべてが「ほお。」「なるほど」「へえ」「そんなっ?」の私たちは、本の持ち方と座り方・立ち方だけで稽古の半分くらいを使って試行錯誤していたのでした。

もうひとつ、改めて考えたのが、<言葉に感情を込めるということ>について。演劇にも台詞はありますから、そんなことは当然、これまでにも考えたことがあったはずなのに。言葉だけの世界になると、俄然クローズアップされてくるのです。

「声を出して物語を読む」という行為には子供のころからなじみがあるので、「あんな感じね」とイメージしやすいのかなと思います。「舞台に立って台詞を言う」ということはそれに比べると一般に馴染みのない行いなので、ちょっとハードルがあって、ハードルのところで多少考えるために「朗読」ほど、「あんな感じね」感少ないのかもしれません。

読んで内容を理解する前から共有できるような<あんな感じね感>が、内容を際立させるはずはなく、そんな架空の<朗読幻想>に沿って気持ちよく読んでしまうと、うっかりすると<朗読のコスプレ>のようなものになりかねない。<読んでいる>ことはすごくわかるけど、何を読んでるのかいまいちわからない朗読になってしまう。

そういうことに気づかせてくれた稽古でした。

まずは手当たり次第、ためしてみるかと思って(やるのは出演者ですが)ちょこちょこ注文をつけて試してもらっていたのですが、
「内緒話バーション」のとき、学者のセリフがとても聞きやすかったので、

※注 この物語には、学者の卵と瀕死の兎が出てきます。

「何をしました?」と出演者の片桐慎和子さんに、聞いてみました。
「何を?…えっと…感情を込めることを考えてませんでした。」

ほお。

そういえば、読んでもらっていると、兎の台詞のほうが断然意味がわかりやすい。この兎は何を考えてるのかわかりにくいので、既存の感情をこめようがないのです。そもそも瀕死の兎がしゃべるときの感情のこめ方を誰も知らないので、こめようがないのです。
なので、言葉の連なりを手掛かりに発音するしかないのです。

一方、学者のほうはなまじっか日本語を話す人間で、瀕死でもないので、うっかりすると<感情を込めて台詞を読もうと>してしまいます。知らないひとの知らない感情を容易に込められると思ってしまう時点で、実はどんな感情なのかあまり考えてないということなのかもしれません。
どうにも、学者の台詞がわかりにくかった理由はもしや<感情を込めて>読もうとしていたことに原因があるのか…???

前回の(道の階の)ときと同様、出演者がひとりなので、稽古場には私と出演者のふたりだけです。ふたりで一生懸命考えてみました。

その結果、分ったこと。

読む人が自分の知ってる世界の<感情をこめて>読んでしまうと、登場人物が物語の中で何を考えてるのか、わからなくなってしまう。読む人の感情を登場人物の言葉を通して表現しても、それは物語を理解する助けにならないのです。読む人は物語の中にいる人ではないからです。

さて。
考えるのは一緒にできても、演出する係は私なので、ダメ出しは私が出演者に言葉で伝えなくてはなりません。出演者も、演出家がダメ出しするのを待っています。

※ダメ出しって言葉はあんまり好きじゃないのです。目的は要望や意見を伝えることであって、ダメなところだけ指摘するわけじゃないと思うので。もっと前向きな表現はないでしょうか。


混乱の末に、こんな風に(ダメ出し)してみました。

「可能な限り、分りやすく読もうと思わないで台詞を読んでもらえますか?」
「…今のだとわかりやすかったですか?」
「わかりにくかったです。このままだと、とてもわかりにくい。」
「???」

ひどい会話になりました。
自分の表現力の乏しさが悲しい。そして申し訳ない。ごめんなさい。

でも、出演者の片桐慎和子さんは、平然と根気強く話を聞いてくれました。
その後、逆に「地の文」こそ「どこの誰でもない人」として客観的に読むよりも、私たちに理解できる感情を込めて読む方がわかりやすくなるのではないか、という話になり、<地の文の人の感情><兎の感情><学者の感情>について考えながら1回読んだらタイムアップで稽古が終わってしまいました。


おそろしく要領の悪い稽古場で、もしかしたら稽古とは言えないようなことをやっているのかもしれないのですが、でも、これ、楽しいんですよ。かなり。
稽古場に行く前と帰るときで、台本の見え方が全然違う。
登場人物の見え方も全然違う。
稽古する度、作品の全体像も目指すべき地点も変わっていく。
それまで考えたこともなかったことがたくさん、稽古場で共有されていく。
棚を作るのと同じで、これまではたしかに見えてなかったはずのものが、もはや最初から当然そこにあったものにしか見えなくなっていく…

その状況を許してくれる出演者に恵まれてきたことに心から感謝しています。

だって、言い方を変えれば、稽古に先立って具体的なビジョンがなく、全体像も、見えていて当たり前のことも見えないままに進めていくってことですから。いや、私もさすがにこの年でそれはまずい、と思って、最近、機会あれば別の演出家の方の稽古を見せてもらいにせっせと稽古場通いしているのです。
だから、そのうちもうちょっと段取りよくなるはずとは思うのですが…。

でも、だからこそ、今は誰も知らないけれどきっとあるはずの「完成形」を掘り当てるべく、あきらめずに精進しなくてはと思うのです。なにが何でも見つけ出さねばと思うのです。

……そんな感じで、クチミミ稽古、1日目は終了したのでした。
帰ったらぐったり疲れて、焦点が定まらない感じで、そしてなぜかわからないのですがひどい筋肉痛でした。


稽古のときにうまく言葉にできなかったことを、帰ってから日記を書きながら考えてみました。
要するに、

「知らないことを知っているかのようにさらっと説明すると余計に分りにくくなる」
というシンプルな問題なんだなと思ったのです。この物語の中にしかない<理由>や、この物語の中の登場人物にしかない<感情>が、物語の中にちゃんと見えるようにしたい。そのためにはどうすればいいのかを考えて工夫しないといけないということなんだと…。

翌日、出演者の片桐慎和子さんに、この日記に書いたことを一生懸命伝えたら、ふむふむと聴いてくれて、

「演劇も同じですね。恐ろしいことですね。」
と云われました。たしかに。


そして、
はっ。と気づいたのです。

今回クチミミの久野パートで読む「王国」という本の中に、

王国のことを誰もが知っていましたが、王国については誰も何も知りませんでした。

という一文があるのですが、つまり、この王国って、もしや…!

役者さんに、
「あの物語のことが、ちょっとわかったような気がする。私たちが今やろうとしてるのは、つまり、『王国』の研究なんじゃないかと…」
と云いましたら、

※注 「王国」は、幻の「王国」のことを研究している学者の卵の物語なのです。


「へえ〜。そうなんだ〜。」

と感嘆の返事が。

全体像にはまだ遠いですが、目指すべき方向が少しずつ、見えてきたような気がしました。
私パートの稽古はあと4日です。
着々とはいきませんが、よいものを見て頂けるよう、地道にがんばります。


ちなみに、「王国」の中にはこんな一文もあります。

ここから先はもう、何を頼るわけにもいきません。出会った人に尋ね、出くわした出来事をよりどころにして進んでみるしかないのです。





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