窓のそと(Diary by 久野那美)
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2012年10月28日(日) |
バターを落とすことの悲しみについて。たぶん。 |
ドロップドバター
という言葉があるのかないのか・・・・。
落としたバターにまつわる定理。
インターネットの相談掲示板で、男性が相談事を書いているのを目にしました。 夕食の前に冷蔵庫からバターを取り出そうとした奥さまが手を滑らせて、バターを塊ごと床に逆さに落としてしまったのだそうです。奥さまは床でぐしゃっとつぶれているバターの塊を見て号泣ししまい、何を云っても泣きやまず、どうしたのかと聞いてもただ、「わからない・・」とつぶやくばかり・・・。彼女の気持ちがわかるひといますか 私はどうすればよかったのでしょう? というような内容でした。
バターを塊ごと床に?真っ逆さまに?
読んでいるだけで鳥肌が立ってきて、ぞくぞくしました。 うわ。それは悲しいだろう。号泣もするだろう。その気持ちはそうそうおさまらないだろう。理由なんか聞かれても答えられないだろう。 それはそうだろう。かわいそうに・・・。
当然、「バターを落とすということはそういうことではありませんか。」 という回答が寄せられるものと思っていました。が、先を読んで呆然としました。
その相談には、読んだ人からのコメントがたくさん、つけられていました。 主に既婚の女性からでした。 「バターが原因のはずがないじゃないですか。ずっとため込んでいたものがあったんですよ。」 「鈍いですね。奥さまがストレスをためているのに気付かなかったのですか?」 「バターはきっかけに過ぎません。原因は別のところに。」 「奥さまの状態は普通ではありません。もしかして妊娠初期ではないですか?」 などなど。
ひとつとして、 「バターを落とすというのはそういうことではありませんか。」 という回答がないことに動揺しました。
自分だったらどうだろうと考えてみました。 そばに誰かいたら、号泣、は、しないかもしれない。 何かしている最中だったり、お客様がいたり、急いでいたりしたら、とりあえず感情は横に避けて、バターを片づけるだろう。でも、生きた心地が戻ってくるには少なくとも数時間の時間が必要だろう。心臓はドキドキしてとまらず、世界が停止したかのような緊張感と世の中を理解するのに使っていたあらゆる規則や規律が吹っ飛んでしまった恐怖感、 、とりとめのなさ、何がなんだかわからない悲しみ、は号泣するのでなければ振り払うのに相当な工夫と労力がいるような気がしました。
もし、自分の家の中で、そこにいるのが自分と夫だけで、特に急いで何かをしなければならない状況でないならば、手っ取り早い方法として号泣するか茫然自失になって完全に静止するか、どちらかだろうと思いました。
そして、それは、あくまで「バターを落とした」ことに対する感情であって、 そのほかのことに対する感情ではないのです。
その質問者の男性は、仕方なく、バターを拾って手際よく掃除をしたのだそうです。 泣いている奥さまは放っておいて。
彼女にとって、それはこの上なくありがたい対応だったろうなと私は思いました。
バターを落として号泣しているときに一番してほしいことは、そのバターを拾って片づけてもらうことです。叱られたり「早く掃除しなさい」と言われても当然の場面ですが、 もしそんなときにすぐさま黙ってバターを拾って掃除してくれる男性がいたら、それはもう結婚してしまうだろうと思います。この奥様はとても幸せだなと思いました。
彼女の内面を想像してストレスを推し量ることには私はあまり意味を感じません。 彼女が号泣したのは、バターを塊ごと床に落としたからです。 あの質感と重量がコントロール不能のところへふいに移動して次の瞬間、床にべちっと落ちるんです。自分で制御できない重力の移動と言うのはそれだけで猛烈な恐怖感をあおります。(ジェットコースターで落下するときのあの感じとかもそうだと思います。)
そして、そのちょっとした生理的な隙をつかれて思わぬ事故が起きてしまったときのとりかえしのつかなさといったら・・・・。 居心地の悪さ、気持ち悪さ。焦りと後悔。 しかも目の前に歴然とある、不始末の結果は自分がなんとかしなければ、消えることな永遠に目の前にあり続けるのです。内面にのパニックが目に見えるところにあふれだしたかのようなどうしようもなさ。 ちょっとの間ちょっと何かを我慢すれば起こらなかったはずなのに、そのちょっとがうまくいかなかったために引き起こしてしまった目の前の出来事の後始末をつけなければならないむなしさ。やりきれなさ。 今思いつく、いちばん近い現象は、「失禁した」ときのそれではないかと思います。
2,3日、落としたバターのことを考えながら過ごし、もう一度その掲示板を見てみました。コメントの数はどんどん増えているようでした。そしてその多くが、奥さんの心身の健康を心配するものと男性の鈍さを指摘するものでした。
はっとしました。
もしかして・・・・。
バターを落とすということは実はそういうことではないのかもしれない、と思ったのです。
バターを落として号泣する人間は実際、病んでいる。 という可能性に初めて、思い当たったのです。
そうすると。 上に私が延々乏しい語彙を総動員して説明しようとしたことは、バターを落とす ことの悲しみついてではなく、バターを落として号泣している人間の病んだ思考についてだということになります。私は自分の情緒不安定について実証していたことになります。 どうしたものか。
考えてみましたがいい案が浮かびません。
そういうわけで、このことについてこれ以上考えるのはやめることにしました。 誰かに話して共感を求めることも、とりあえずやめることにしました。
だけど、書いてしまったものをどうしたものかと考えた時、こちらはとりあえず日記にUPしておこうと普通に思いました。
今回に限らず。日記というのは、いえ、言葉というものは総じてそういうものであるのじゃないかと思ったからです。そこで説明されていることが、果たして、「バターを落とすことの悲しみについて」なのか、「バターを落とすことの悲しみを正当化しようとする人間の歪み」についてなのか、誰にもわかりません。分らなくても読めるのです。 ということは、両方書いてあることになります。
日記というのは、きっと、そういうものなんです。 そしてそれはおそらく、日記だけではなく・・・・。
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