窓のそと(Diary by 久野那美)

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2012年05月11日(金) 作品に対して感想を言うこと

これが、よくわからない。
ほんとうに、わからない。

どうしてこんなにわからないのかとずっと悩んでいる。

この日記も、何回書きなおしてもうまくいかない。
私はこの問題について考えることさえ苦手なのだ。

作品を創った人から、

「どうだった?どう思った?」
「どうか忌憚のない意見を。」
「単純にいいか悪いか、率直な感想を。」

と感想を求められることがある。
いいかげんに言われるのならまだしも、相手が真剣であることはわかる。
悲しいことにそれだけはわかるのだ。

こんなときに言うべき言葉があるのだと思う。
そういうことが巧みにできるひとを知っている。
感想どころか、創り手もうなるほど的を射た批評をさらりと書ける人もいる。しかも、そういうひとに批評してもらうと創り手は充実感を感じたり楽しかったりするのだということも実感して知っている。

なのに私にはうまくできない。
申し訳ないし、情けないし、なんだか途方もなく悲しい。


「この作品は(この舞台は)・・・・」を主語にして言葉を続けるにはどうすればいいのかわからない。

他人の創った作品というのはこの世で最も「私にはどうしようもないもの」であり、それについて語るには私はあまりにも関係ないところに立ち過ぎているのではないか・・・・というのは言い訳か。

私が語ることができるのはせいぜい、その作品とそれを見た私との接点についてであり、でも、それは「その作品に対する」感想というには、私についての比重が大きすぎることになるのではないか・・・・というのも言い訳か。

困っていると、「なんでも、思ったことを言ってくれればいいから。」
と言われたりする。

確かに、何かを見れば何かを思う。何も思わずに何かをみることの方が難しいし不自然だろう。

毎日見ている空を見たってそのたび何か思うのだから、初めて見た「作品」にだってそれは当然なにかしら思うだろう。だけどそれって、どれくらいその「作品」と関係のあることなのだろうか?
空を見て私が今日思ったことは、空に対する批評だろか?
月を見てふと思い出したことは、今日の月に対する感想だろうか?

舞台を見て、小説を読んで、音楽を聞いて、そのとき思ったことや思い浮かんだことは、いつもその作品に対する感想なのだろうか?
全く関係なかったりすることはないのだろうか?

考えるとわからなくなるのだ。

誰かが創ったものを見るのは楽しい。
見て、いろいろ考えるのも楽しい。
楽しく何かを見ている時って、ひとはとても無防備になるのではないだろうか。

感想を求められると、だらしない恰好でだらしない姿勢でひとりでリラックスしてる部屋にふいに訪ねてこられたような気分になる。訪問者は言う。「どうぞ私のことは気にせず、気楽にいつもどおりにしていてくださいね。」
この日のために考え抜いた服装で、礼儀にかなった姿勢で、選び抜いた言葉であいさつをする人のことを「気にせずいつも通りリラックス」するにはかなりの才覚と修練が必要だ。私にはその才覚がない。それなりに準備して緊張して望む方がずっと身の置き所がある。時間かかるけど。

そんな無防備にしていったい何を考えているのかというと、きっと、自分のことだ。自分と、自分にとって大切な何かや自分にとって有害な何かについてだ。恥ずかしいから言いたくないけど、(これを言うのがいやだからこの日記がなかなか書けないのだ)他人の作品を見ながら、私は自分ことばかり考えてるのだ。きっと。

感想を求められると、それが露呈するような気がして、いたたまれなくなるのだ。しかも、自分のことしか考えていない私には、いうべき言葉がみつからない。それが相手を多かれ少なかれ気落ちさせ、がっかりさせることなのだということはわかる。だから、頭が真っ白になるのだ。


中高校生の頃の模擬試験での作文や感想文のことを思い出す。答案が返されるのがショックだった。いつもとんでもない点数だったから。(ほとんど0に近かった。)。書き上げた時はすごく得意で、「もしかして最高点かも。」とほくほくしていたのに。(つまり、とても自信があった)
その作文にはいつも、
「課題と関係ないことを書かないこと。」と朱書きされていた。

そんなはずはなかった。関係ないことなんか書けるわけないじゃないかと思っていた。それとそれが関係あるということがすなわち私なのであって、私が書いてる以上関係はあるはずなのだ。べつに奇を衒ったわけではなく、○○について書けと書いてあるからふつうに○○について書いたのだ。

当時はとても理不尽で納得がいかなかったけど、今では腑に落ちている。私はそれについて書こうとしたけれど、結果的にそれについて書くことはできなかったのだ。そういうことは、あるのだ。
何かについて考えようとしたからといって、必ずしもその何かについて語れるとは限らないのだ。いや、実際にその何かについて考えているのかどうかさえ、わからないのだ。そして、結局自分が何について語れたのか何について語れなかったのかということは、自分では判断つかないものなのだ。

いや、自分でちゃんと判断つくのだろうなと思えるひともいる。
なので、これはもう、生まれついての能力の問題なのかもしれない。

何かについて語ること、的確な感想を述べたり批評したりということは、私にはとてもとても難しいことに思える。そしてそれは、私が自分のことしか考えられないということと、関係があるような気がしている。

・・・・・う〜ん。うまく言葉にならない。

でも、なんとかここまで考えたから、この日記は残しておこう。


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きのう、あるお芝居を見て、帰る前に知人に会った。
事情があって、そのお芝居に関しては、見た後に何らか意見や感想を言う必要があったので、心の準備をして行った。なので、出演者に感想を言うときには、そう、ひどいことにはならなかった(と思う。)

それを終えて、すっかり無防備になっていたところに、会ってしまった。
「どうでした?」と聞かれて、思わず、

「<舞台に三人いる>感じってすごくいらいらしますね。あれから自由になるにはどうしたらいいんでしょうね。」
と言ってしまった。言ってから、

「このお芝居に対する感想じゃないと思いますけど。」と言い訳した。そのひとはその作品の創り手ではなかったし、若いけどできたひとだったので、「う〜ん。三人、ね。なんでしょうね。」と話を合わせてくれたけど、もし出演者だったら、こんなこと言われたら困っただろうなあと思った。



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