窓のそと(Diary by 久野那美)
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テレビで。 統合失調症を特集した番組を見た。 長期的に幻覚や幻聴に苦しめられる病気だそうだ。 お薬でだいぶよくなることが分かってきたけれど、差別や誤解も多いらしい。
今は社会復帰しているある患者さんがインタビューに答えていた。 幻覚がいちばんひどかった時期の話をしていた。 いろんな敵が四方八方から襲いかかってきたという。 敵はどこにでも潜んでいて、どこまでも彼を追いかけてくるのだという。
病院へ行くタクシーの中で、彼は襲いかかる敵と闘っていた。 逃げても逃げても追いかけて来る得体の知れない敵。 斬りつけても斬りつけても起きあがって襲いかかる無数の敵。
「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」 と彼は大声を上げて敵と戦っていた。
一緒にタクシーに乗っていたのはお父さんだったそうだ。
−−お父さんはそのとき、どうされていたんですか?−− インタビュアーは質問した。
−−手を振り上げて、僕より大声を出して奴らと闘ってくれました。−− −−「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」って?−− −−ええ。「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」って。僕より必死でしたよ。 −−−じゃあ、ふたりで? −−ええ。ふたりでやってました。「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」って・・・。
それを語る彼の表情はとても明るかった。 どきん、とした。 人間としてとても贅沢な幸せを、彼は知ってるのだと思った。
突然得体の知れない敵に襲いかかられ追いかけられるのはどれほどの恐怖だろう。彼の目にしか見えない敵からは警察も友人も守ってくれない。ひとりで闘わなければ、あるいは耐えなければならない。解決しなければならない。幻覚であろうが幻聴であろうが、彼にはそれが切実な現実なのだ。 彼以外の人間にとっては全く意味のない、切実な現実。 父親だって、息子の恐怖が<非現実的>であり、それを<現実に>感じてしまう息子の側に問題があることもわかっている。
だけど父親がとっさに肯定したのはその事実ではなく、<非現実的な>恐怖に<現実に>傷ついている息子の存在だった。 そこで語られている出来事のおおきさに、私は絶句した。
インタビュアーに、彼はこの出来事を冗談めかして語っていた。 幻覚から解放された彼は、そのときの父親の行動が思い切り<非現実的>であったことを理解しているのだ。 同じ病気と闘うひとたちの集う会場には笑いが起きていた。 それはとてもとても温かな、祝福に満ちた笑いだった。
互いに<非現実な>世界にいる相手の存在を全面肯定すること・・・。 これが愛でなくて何だろうか。
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誰かにとって最も切実なことはそれ以外のひとたちにとっては最も非現実的なことだったりするのだろう。 私は自分の経験したことしか書けないので、自分では、とてもリアルで現実的な物語を創っていると思っている。私には幻覚や幻聴はないけれど、しばしば「観念的」とか「非現実的」とか言われということは、私の現実は私以外の誰かにとっては幻覚や幻聴に等しい、非現実的な物語なのだろうと思う。だからよけいに、遠くを指す言葉で語ろうとしてしまうのだろう。
だって。
自分にとって切実な現実を誰かに見届けてもらうことで、その経験や感情を、そしてひいては自分自身の存在を肯定することができる。 だけどもしその誰かがどこにもいなくても、遠くにいる誰か(物語の中の誰か)が同じ感情を持って存在している姿を私自身が遠くから見届けることができれば、そこから私は自分自身の存在を肯定することができる・・・・・・・。
物語というのは、愛を自給自足するための装置なのかもしれない。 こうやって書き出してみると、なんだか手の込んだ、へんてこな装置だけど。
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