窓のそと(Diary by 久野那美)
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誰にでも何にでも、「各々の事情」というものがある。 各々の事情が1カ所に集まったときに、そこに現れる物語が私はとても好き。 各々の事情は、各々に属しているので、一カ所に集まったくらいでは簡単に輪郭を持たないかもしれない。特に、みんながそれぞれにてんでばらばらな「各々の事情」を持ち寄って来たりしたら。 「各々の事情」は各々に属しているので、他のひとやものが取り込むことはできない。誰かが誰かの事情でそこでそうしていることに、他のひとたちには責任も原因も負うことができない。
だけどばらばらの責任や理由にそれぞれ導かれてひとやものはしばしば一カ所に集う。ひとつの状況を、たくさんの事情が共有している。 「状況は」混沌と化す。 場合によっては意味不明にもなる。 だけど意味はある。いっぺんに見ると不明なだけで。
俯瞰してしまえばとりとめがなかったり、意味不明だったり、矛盾していたりするその「状況」の中に、断固として確固として、「各々の事情」は存在する。
そこには原因があり、理由があり、結果があり、文脈がある。 必ず、ある。 当事者以外には何の意味もない、当事者以外には何の合理性もない事情にも、絶対に、ある。
各々の事情だけを丁寧に矛盾なく描いてあげたいと思う。 その文脈をきちんと見ていてあげたいと思う。
そう思って、物語を創る。 言葉や台詞のひとつひとつに理由がある。 名詞にも助詞にも助動詞にもある。 声の大きさやアクセントの位置にもある。 会話してるのだから当たり前だ。
火星人が土星の犬と散歩する状況には火星人が土星の犬と散歩する原因と理由と文脈がある。それは物語の中に、描かれていてほしいと思う。 そうしてはじめて、観客(読者)はそれに違和感を覚えることもできるし、共感することもできる。そこから離れて別の何かについて考えることもできる。
「不思議な風景」「いろんな解釈ができる。」「イメージを固定しない」 というのは当事者(各々)ではなく、それを俯瞰しているひとの事情を表した言葉だ。
「各々の事情」に唯一責任を持ちうる<作り手>の側からは使いたくない言葉だ。
私は、ずっとそう思ってる。 どれくらい妥当なことなのかわからない。 だけど19のときから、私はずっとずっとそう思っている。 だから、一緒に作るひとたちにはそれを説明しなくてはいけない。 共感してもらえる言葉できちんと説明しなくてはいけない。 あるいは、絶対に共感してもらえないことを受け入れなければならない。
未だに叶わずにいる。 現場へ行くたび、それを痛感する。 私の信じていることがどれくらい妥当なことなのかはわからないけれど、 説得力のない思想でひとを説得しようとすることが正しいとはことではないということは分かる。
自分自身がとても悔しい。
こうやって、書いてみても・・・やっぱりさっぱっりうまく言えないのが、 ますますまた悔しい・・・・。
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