窓のそと(Diary by 久野那美)

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2001年12月06日(木) その場所

お芝居を作るとき。
「客席」というのがいつもどうにも腑に落ちない。
あれは何のためにあるのか。
観客が舞台をみるためにある、というのはわかる。だから観客席というのだということも知っている。でも、物語の中の世界にとって客席は何のためにあるのか・・。
なぜ、そこに住むひとたちは、一定の方向から見えやすい角度や高さのところに立ち、しばしばその一定の方向を特別な場所として扱うのか。彼らが暗黙の了解で特別な場所にしている「その場所」にはいったい何かあるのか。それが解決しないと、非対称な空間になってしまう。

20歳のときはじめて作ったお芝居は、「その場所」は線路の向こう側であり、はるか下方だった。(宙を走る汽車だったので)線路を斜めに配置したので、観客は舞台を斜め下からしか見ることができなかった。物語の中のひとたちは、斜め下方の「その場所」のことをきっと何も知らずに物語の世界を生きていた。だからあのときはあんまり悩まなかった。
次にやったお芝居では、客席は、展望台の眼下に見える町の中にあった。
物語の中のひとたちは、ときどき展望台の柵にもたれて眼下にある「その場所」を見下ろした。展望台である以上、展望される眼下の町が最も特別な場所であることには違和感がなかった。
次にやったお芝居では、「その場所」は海の底にあった。物語は港の上にあったので、そこでもやはり、「その場所」が特別な場所であることには説明がいらなかった。

山羊の階の公演では、「その場所」は壁の向こう側にあった。
物語の中のひとたちと、壁の向こうの「その場所」が、見通しのいい関係であることに違和感を感じた。

そこで、客席と舞台の間に壁を造ることにした。

出演者からクレームがついた。
「そこに壁を作ると客席から私たちが見えなくなってしまいます。」
彼らにとって、それはとても大切なことのようだった。

壁に穴をあけることにした。

スタッフ側からクレームがついた。
「それでなくても<自閉的な作品>といわれているのに、観客との間に文字通り壁を作ってどうするんですか?」

客席を壁の上方に作ることにした。
みんなあせってきた。
「物理的に<見えればいい>というものでしょうか。それでは観客が精神的な閉塞感を感じてしまいます。」
「<奇をてらったことをして>とうけとられ、方法ばかりが注目されて意図を汲んでもらえない危険の方がはるかに高いです。」
「それでなくても久野さんはいつも、「何のアンチテーゼですか?」と言われるのに・・」
「観客が疎外感を感じる舞台ってどうでしょう?観客を無視した自己満足だと思われますよ。」
あまりにも必死になって全員がそれそれの事情から反対するので、そして、何よりもその壁に魅力を感じるひとが他にいなかったので、結局他の方法を考えることにした。
私にとって魅力的な方法が他の人にとっても魅力のあるものであるための説得力が、そのときの私にはないのだとおもったので。説得力なくひとを説得してはいけないなあと思った。
魅力的に合理的に、物語を楽しんでほしくてすることが、観客に苦痛を強いることになるのは嫌だなあと思った。きっと、私にはまだわからない世界の見方があるのだと思った。
自分の方法を確認するのは、それを知ってからでも遅くないなと思った。

けれど。
あれから1年経つけれど・・。
私の気持ちはあんまり変わっていない。
このところ、お芝居を見ていないというのもあるけど、そもそもどうしても客席から全部見えなければならないのか。狭いところから広いところを覗き見ることに、ひとは本当にどきどきしないものなのか・・・。却ってわからなくなってきた。

私は好きなんだけどな。
大好きなんだけどな。目の前のわずかの手がかりを媒介にして見えないもののことを考えること。ひとが話してる電話の向こうにある世界、自転車をあそこにあんな風にして捨てていった誰かの事情、昔、この家にすんでたはずのひとのこと、この落書きが誰かにここに書かれたときのこと・・・

疎外されてるとは思わないよ。
そういう形でしか、ひとは自分も他人も壊すことなく他人の世界に参加することはできないんじゃないかと思ってる。「誰かいる。何かしている。」と思いながら通り過ぎること・・・。

見てる場所と見られてる場所が非対称にならないお芝居を作りたい。
それはそんなに難しいことなのかなあ。


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