2009年10月20日(火)  悦楽共犯者本『円朝芝居噺 夫婦幽霊』(辻原登)

10月11日付け読売新聞「本よみうり堂」内「空想書店」の店長・緒川たまきさんのコメントの中に「悦楽共犯者」という言葉を見つけた。「そもそも、読書の愉しみは、本の醍醐味を受け取る時はいつも独りということにあると思います」と緒川さんは言い、本=読者の悦楽共犯者なのだと説く。うまい言葉だなあと感心し、また本を読みたくなった。

このところ読んだのは、「さびしさ」ではなく「さみしさ」という響きが、いっそうせつない『さみしさの周波数』(乙一)、15の職業についている15人の女性を描いた短編集(解説代わりのおまけに女性占い師が書いた番外編短編もとても良かった)『絶対泣かない』(山本文緒)、宮澤賢治とイソップを足したような寓話が聞きしに勝る面白さだった『頭のうちどころが悪かった熊の話』(安東みきえ)と立て続けに短編集を3つ。電車の移動のお供には、短編の短さがありがたい。

それぞれに悦楽を味わえたが、ここにきて、大型悦楽共犯者が現れた。その名は、『円朝芝居噺 夫婦幽霊』(辻原登)。『牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』で知られる円朝の幻の口演記録が見つかり、それを著者が読み解く過程が極上のミステリーになっている。そんな新聞の書評を読んで興味を持ったのだけど、事実は小説より奇なり、ノンフィクションの持つ圧倒的な面白さにページをめくる手が止まらなくなった。

遠い昔の人に思われた円朝と平成の文人がつながり、円朝を生で聞けなかった後世の読者に語り口が届けられる。この本を読むという行為が、その奇跡に立ち会うことになる。まさに悦楽の共犯である。

著者の辻原氏がかつて小説の題材にした人物の遺品の中に、円朝の口演記録と思しき速記原稿が残されていた。その原稿が著者の手に渡るまでもドラマティック。原稿の類いの遺品の整理を頼まれた古書店の店主が、故人の記録の中に著者の名前を見つけ、知人であった著者の従姉に連絡を取り、興味があればと遺品を見せてもらった中に見つけたのだった。

速記には流派があり、時代とともに進化しているため、当時の速記を解読できる人を捜すまでが、一苦労。解読した内容をこなれた日本語に書き直す作業と並行して、著者は「果たしてこれは本物か?」の調査を進める。語り口の名調子(辻原氏の貢献も大きいかもしれない)も内容の面白さも円朝の作品だと思わせるものがある。だが、「夫婦幽霊」の話に便乗したわけでもあるまいに、速記の中に「幽霊」が登場する。当時はまだ使われていなかった表現が見られるのだ。口演の時期と速記の時期にずれが生じる。だが、これはおかしい。現場に居合わせて書き留めることが速記の宿命なのだから。

となると……元の原稿は群像に連載されていたが、単行本のために書き下ろした最後の章で、著者は大胆な推理をする。果たしてこれは円朝の芝居噺であるのか。だとすると、「時差」の説明は? そこに、「誰が何のために」この原稿を遺したのかも語られている。その推理を証明するのは難しいだろうし、他にも様々な可能性が考えられるだろう。けれど、これ以上に夢のある想像があるだろうか。長い眠りから覚めた原稿への、そして原稿を遺した人物の思いへの、著者の限りない愛が感じられて、胸を打たれた。

本を読んでこれほどの知的興奮を味わったのは、『日本語は天才である』を読んで以来のこと。「速記」も「英語」と同様にひとつの「言語」であるといえるが、使い慣れた「母国語」でない言語は「暗号」となり、それゆえスリルとサスペンスをはらむ。

もちろん『夫婦幽霊』の出来も秀逸。謎解きの面白さに人情話が加わり、夫婦の睦みごとなどの色っぽいネタも盛り込まれ、サービス精神は満点。テレビもインターネットもない時代、マルチな娯楽を提供して人々を魅了していたことが想像できる。比喩の面白さにも目を見張った。 これ、どなたか高座でかけてくれませんかねえ。

次なる一冊は『図書館戦争』。有川浩の本に外れなし、なので、こちらも悦楽共犯者になってくれると思う。

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