すごい本を読んだ。『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(伊藤比呂美)。そもそも手に取ったきっかけが、あちこちの書評でいろんな人が口々に「すごい」とほめちぎっていたからなのだが、読んでいる間も読み終えた後も「すごい」としか言いようがなく、他の表現を探してみたのだけれど、「圧倒された」「しびれた」といった言葉しか思い浮かばず、「すごい」の一言に尽き、わが身の言葉力の貧弱さを思い知らされた。
著者の伊藤比呂美さんは映画にもなった『よいおっぱい悪いおっぱい』を書かれた作家であり詩人。小説のように読めるこの作品は「長編詩」として群像に連載されていたものだという。上下の余白を切り詰めたレイアウトが、ほとばしる言葉をページいっぱいに受け止めている。要介護となった母親の排泄の世話、アメリカ人の夫とのセックス不和、「生」につきまとう生々しいこもごもが包み隠さず描かれているのだが、そこにはジメジメした不快感よりも爽快感、風通しの良さがある。たとえば、要介護となった母のおむつを替えながら、わが子のおむつ替えを思い出す場面。
昔なんどもやりました。薄桃色のつるんとしたおしりたちでした。出てくるものもきいろくてみどりいろで指先ですくいとってもいいと思うほどうつくしく、発酵乳のようなすっぱいにおいがして、うんこといってしまうのが勿体なくて。それで、うんちとよびならわしていたのです。
書かれているのはシモの話なのに、下世話にならない。愚痴の垂れ流しではなく文学、露悪趣味ではなく芸術に至らしめるその違いは何なのだろう。書き手の覚悟だろうか。裸を堂々と見せつけられると、いやらしさよりも崇高さを感じてしまうような開き直りの強さ、本音の潔さがある。どうしようもない憤りや苛立ちがそのまま筆の勢いになり、現実から目をそむけたり蓋をしたりしている読者を打ちのめす。
四十手前になり、出産もし、若い頃に比べてずいぶん図太くなったとはいえ、まだまだ捨て身になりきれず、他人から見れば取るに足りない恥じらいやプライドを守ろうとしてしまうわたしには、伊藤さんの「裸の境地」は遠くに光る星のように眩しく見える。
ブラジャーなんかとうのむかしに捨てました。若かったころは乳首がぽつりと見えるのが、しかたないとは思いながらも気になっていたものです。今はそんなところに乳首はございません。もっとはるか下、しかも左右不均等な場所にゆらゆらとついております。ときにわき腹のあたりに下向きでぽつりと見えたりしております。
こんなことはとても書けないし、書けたとしても、こんな名調子、こんなおかしみと哀しみをたたえた文体にはできない。
ダンナの実家を訪ねるときに何度も通っている巣鴨のお地蔵さんが題名に登場する親近感も、この本に興味を抱いた理由のひとつ。場所としてのお地蔵さんも登場するが、「人生のとげ=苦」を抜くことが全編を貫いている。
たらちねの母といえども、生身であります。
昔は小さな女の子でありました。
怖いときには泣いてました。
父や母や夫や王子様に、助けてもらいたいと思っておりました。
(中略)
このごろじゃすっかり垂れ乳で、ゆあーんゆよーんと揺すれるっほどになりまして、
足を踏ん張り、歯をくいしばり、
ちっとも怖くないふりをして、
苦に、苦に、苦に、
苦また苦に、
立ち向かってきたんですけど、
あゝあ、ほんとに怖かったのでございます。
母であり、娘であり、女であり、それぞれの立場の苦しみを抱えている。その生身の人間の肉声が訴えかけてくる迫力は、体の奥底を揺さぶるような衝撃を伴い、陣痛の感覚を呼び覚ますようだった。気に入った部分を抜き書きして紹介していると、またしても写経になってしまいそうで危険危険。各章のおわりに、
宮沢賢治「風の又三郎」、そして、山本直樹、萩原朔太郎、山口百恵(阿木燿子)などから声をお借りしました。
といった具合に引用の断り書きがあるのだが、この言い回しには、伊藤比呂美さんはイタコのような人ではなかろうか、という想像もかきたてられた。
他に、最近読んだ本では、川上弘美さんの『神様』の中に、男に「好き」というかわりに「しあわせです」と言うようになった女の話があり、それがしみじみと好ましく思えた。こちらは圧倒されるというより、心地いい水にいっしょにつかる感じの一冊。打ちのめされたり、ほぐされたり、本によって全く違う場所に連れて行ってもらえるのが面白い。
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