物語の誕生はカクテルの誕生に似ている。ラム酒をたまたまライムで割ったらとんでもなくおいしいダイキリが生まれてしまったように、偶然ときまぐれの組み合わせから思いがけない面白さが生まれたりする。『ぱこだて人』(当時はひらがなだった)が生まれた夜、わたしは函館山のてっぺんで函館ビールとワインの祝い酒に酔っぱらっていた。『昭和七十三年七月三日』ではじめてのシナリオ賞を取り、その授賞式に招かれたのだ。斉藤理香さんという女の子(彼女は脚本・監督し、水戸の映画祭で受賞した『一番列車に乗る前に』という作品をひっさげて映画祭に来ていた)と意気投合し、イエーイと盛り上がっていた。
どういう流れからか、「はひふへほをパピプペポにするとかわいいんだよ。ごきぶりもコキプリになると怖くないよね」という話をしたら、斉藤さんが「そういやパコ函館ってホテルあったよ」と言った。たしか映画祭のパンフに載っていた気がする。「パコ函館?かわいーい。じゃあ、ここはパコダテ?」とわたし。斉藤さんとわたしは上機嫌になって「パコ!パコ!」と騒ぎだした。「なんかパコダテってポップでいいなあ。パコダテ語の話を書こうかなあ」と言うと、「来年も賞を取って来ればいいじゃん」と乗せてくれた。
そうだ、賞を取ればまた函館に来て、たのしいお酒が飲めるのだ!今回は中年が主人公だから次は若い子の話にしよう。女子高生がいい。はひふへほにオマケの○がついてパピプペポだから…そこでハタと思い出した。何年か前の読売新聞の新春号のコラムに「近い将来、シッポが流行る」と大胆な予測があったことを。「人々は話すのが億劫になり、シッポをアンテナにしてコミュニケーションを取るようになる」といった内容だったが、日本中をシッポつけた老若男女が行き交う姿を想像して、「この絵は使える」と思った。ずっと忘れていたが、酔って頭の回転が良くなったせいで、いきなり記憶の引き出しが開いたのだった。
「パコダテ→おまけ→シッポ」という連想ゲームで「ある日突然シッポが生えてきた女子高生がシッポをオマケとして受け止め、明るく楽しいパコダテ語を流行らせる話」が生まれた。ホテルに戻り、部屋に備え付けた便せんに一気にあらすじを書いた。半年後に応募したシナリオの原型は、ほとんどその日にできていた。函館山ハイの勢いとしか言いようがない。
こうして生まれたシナリオ『ぱこだて人』は無事翌年のシナリオコンクールでも受賞した。めでたし、めでたし。だけど話はそこで終わらなかった。審査員じんのひろあきさんの家でシナリオを見つけた前田哲監督が連絡をしてきたのだ。はじめて会った日に新宿の談話室『滝沢』で6時間話した。父が教えていた大阪の高校に同じ時期に通っていたことがわかり、びっくりした。数日後紹介されたプロデューサーの三木さんは、数か月前に同じ飲み会に居合わせて名刺交換した人だった。さらに製作委員会の新谷さん(読売テレビ)は高校の先輩であることが判明。不思議な縁のオマケのおかげで、わたしの頭にあった話は、みんながたのしめる映画になった。