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[フィルクリエイティヴ]掌編創作物
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創作物:乾杯の美酒
今夜は乾杯の美酒に酔いしれたいとめずらしく思った。が、しかし、ミチルの周りにはそんな付き合いのよい連中はいなかったと思い出す。一瞬、克也のデスクを見たのだけれど、思い直してエレベーターを降りた。いきつけのカフェで夕食するいつものコースを辿った。
長いことミチルを苦しめていたプレゼンテーションが、今日全部終わった。午後の予定はわりと濃いめ。2時間単位で大きな商談を2件掛け持ちした。どちらもその後の半年を定める大事な内容だった。
1週間前からミチルのプレッシャーは日に日に増し、ストレスを募らせていた。やり始めてしまえば早いのになかなか重い頭は働かなかった。ぎりぎりまで部署の人間を不安にさせて、不興和音を響かせてしまった。もう間に合わないだろうと、部長もさじを投げかけた頃、やっと動きだす。徹夜明けの朝には文句のつけようのない書類を仕上げて、熱いコーヒーを入れて、皆の出勤を待っていた。
そんな大役が、今日の夕方には全部終わったのだ。万全に全てをこなして。後は着実に進めていけばいいだけ。緊張はさほどでも無い仕事だった。
ミチルにとって勝利だった。満足のいく一瞬。仕事が上手くいって嬉しくない人間などいるわけがない。今夜はその喜びを誰かと分かち合いたかったのだ。よくやったと誉めてもらいたかった。ミチルだってそんな時がある。いつも気を張ってしかめ面しているばかりではない。
ミチルは、もう随分と長いこと、同僚と呼ばれる連中とは酒を飲みに行かなくなった。同期の女の子たちはとうの昔に寿退社していたし、もともと同期の男連中などは幼な過ぎて入社の頃からろくに会話もしなかった。彼らも今では係長だマネージャーだとそれなりに頑張っていたのだけれど。
克也はその同期のうちの一人だった。去年、地方転勤から戻ってきて今は販売部署をひとつ任されていた。転勤が決まった当事、資産家の奥さんから離婚された噂は、同情を誘って社内を賑わせた。それから3年が過ぎてからの本社帰還だった。
転勤の決まる前の克也を思い出す。ミチルのアパートから段ボールを車に積んでいた。前の週にミチルが勢いにまかせて荷造りしたものだった。部屋着やら剃刀やら、ミチルの家で克也が使っていたそれら。捨ててしまえばいいものばかり。
その時ミチルは、最後の別れを告げる克也の顔すら見ようとしなかった。かっこいい別れなどできやしない。悔しくて涙をこらえるのが精一杯で、怒りに震えたまま窓辺から克也を見送った。車のエンジン音が完全に消える前に、嗚咽しながら泣き崩れた。ミチルにとって、克也は会社でも家でも唯一の味方だった。唯一、心を許した同僚だった。
それからほどなくして、克也の転勤は決まり、離婚して東京を離れて行った。行った先はもう何年戻ってこれるか分らない所。
3年前、克也は自分より1階級上の役職にいた。当たり前のように女の昇格はいつも後回しにされていたから。でもこの3年間でミチルは克也と逆転していた。克也より上の役職と仕事を手に入れていたわけだ。
壊滅的に克也との関係を修復できないのはわかっていた。克也のプライドをくすぐるカードを、もうミチルは何も持っていない。
いつものカフェでカフェオレをすする。ワインを頼もうかと思ったけれど、酔える気分になれずやめた。呼び出そうと思えば、一人くらいつきあってくれる男がいなかったわけでもない。でも、その後の甘い決まりごとを交わすのが億劫なのでやめた。ひとりのほうが楽だと思った。そう、いつもそうだった。
空腹が満たされわずかな充足を得て、抜け殻を置き去りに席を立った。瞬間、前の椅子に男が腰掛けて制した。
「もう少しだけ、今夜は僕とつきあわない?」
克也だった。
「何故、ここに?」
驚いて奇声を上げそうになりながら、できる限りに平静を装って聞いた。
「君は、嬉しい時や悲しい時、一人でいたい時にいつもここに来る。いくら忙しく3年ぐらいの月日がたっても、それくらいは覚えていられるさ」
「さぁ、乾杯しよう」
「私、もう食事すませたもの」
克也は聞かずに、ウェイターを呼んでオーダーする。2つのベネチアングラスに深いワインが注がれた。
「何に乾杯するの?」
「君の、仕事の勝利にさ」
そうだ、克也はいつも私の仕事も、やり方も何もかも見透かしていた。悔しくて、涙が出そうになって急いで咽を潤わせる。
「僕たちの再会のための祝杯でもあるんだ、ゆっくり飲めよ」
ミチルは、吹き出しそうになった。笑いとばして、勢いで涙はこぼれ出す。緊張は一気に解けて、変わってないねと泣き顔のまま言った。君もなと告げて、克也はたばこをふかす。
たった1杯の美酒を素直に飲み干したいと思えた。飲み干すまで克也は待っていてくれるだろうか。気持ちは甘い香りに重なってゆく。深い色のお酒で良かった。きっと心が深紅に染まる頃、涙は乾いているだろう。グラスに彩られた絵柄がキラキラと光った。
自分でゆっくりと言っておいて、克也のグラスにはもう濃い色はほとんど残っていない。ためらう間もなく2杯目を頼んでいた。ミチルはもう一度笑って、今度は静かにワイングラスを傾ける。
まだ少し涙のしょっぱい味が舌に混ざっていた。それでもチープなワインを極上の味わいだと誉めたくて、カフェの空気に歓びを分ける。
しょっぱさが嬉しい時間は、まだもう少し続いているのだから。
※2002.5.19 FILL 書き下ろし
収納場所:2002年05月18日(土)