un capodoglio d'avorio
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2004年12月19日(日) 青い車

やっと鑑賞@梅田ガーデンシネマ。


関係ないけど、きょうの梅田スカイビルは『本田宗一郎と井深大』展と『ペ・ヨンジュン写真展』が開催されていて、しかも後者は最終日だったこともあって、すごい人出(中性子爆弾が欲しい、なんて決して思わなかったですよ・・・思てへんかったってば!)。


『青い車』、原作のよしもとよしとも氏の短編は読んでいないどか。原作マンガを知らないまま、まっさらな状態で鑑賞できるのはちょっとぜいたくだなーと思ったり。


感想、いいと思う、とてもていねいに、繊細に作られていて、まず監督のその基本姿勢に好感を持った。原作がよしもとよしともサンだし、音楽が曽我部恵一サンだし、主演がARATAだし、いかにもサブカルミニシアター系な布陣なんだけど、撮影技術としては奇をてらった構図は一切用いず、オーソドックスかつ上品なアングルから少し引いたショットを多用。若干、ショットの繋ぎかたの「モンタージュ性」が強調されているかなーというくらい。


脚本も、とても繊細かつ緻密に練られている。セリフ数は少ないのだけれど、その合間の空気もきちんと整理されて、ひとつの焦点にきちんと収斂されていくのを感じる。


ひとつの焦点、それが原作部分だ。つまり、この脚本は、よしもとよしともサン原作の短編部分をクライマックスにそのまま持ってきていて、そこに繋げるまでの部分を新たに創作するというスタイルをとっている。つまり、彼女であり姉であったひとりの女性が死ぬまでの物語を創作し、残された彼氏と妹が海に行くという短編をそのまま生かすということ。これってかなり割り切った、思い切りのいる方針だったんだろうな。


さて、なぜどかが原作を見ていないのにもかかわらず、このスタイルがパッと分かったかというのが、問題だ。つまり「そこまで」と「そこから」が、明らかに異質の時間が流れていたからだ。焦点にたどり着いてからの、全てが隠匿され圧縮され亀裂が入った時間(それがつまり、よしもとよしともサンの代表作である『青い車』)は、焦点にたどり着くまでの、丁寧に緻密に上品に紡がれた時間。


奥原監督はこんな明らかな差違をどうして残したままにしたのか。もしかしたら「原作ファン」からも「映画ファン」からも糾弾されかねないほどのギャップをどうしてわざわざ生み出したのか。「そこまで」の時間をもっと圧縮しかき混ぜるか、もしくは「そこから」の時間をもっと延長しおしなべるかすれば、このギャップは容易に回避できただろうに。


そうしてどかは、奥原監督の原作への強いオマージュを知る。なるほど、と思う。これはあくまでひとつのオマージュなのであって、そしてオマージュであっても映画というメディアで成立しうると言う確信がここにある。


  傑作の誉れ高いよしもとよしともサンの短編、
  それがまずここにあって、この短い物語のプロローグは、
  読者にもいろいろ想像されてきただろうけれど、
  わたしとしてはこおゆうプロローグがあっても、
  いいんじゃないかなー・・・


と、奥原監督は言っているんだと思う。何と奥ゆかしいw、ヒトによっては物足りない、もったいない、とそれでもやっぱり糾弾されかねないほどに、控えめで、でも清々しい姿勢だなあ。そして、その監督自身の控えめな誠実さは、すべてのシーンとその繋ぎ方に、きちんと反映されていて、そして特にクライマックスまでのシーン、とりわけ原作には登場しない彼女であり姉である佐伯アケミ(麻生久美子)の造形に結晶している。


彼氏であるリチオ(ARATA)から、そして妹である佐伯このみ(宮崎あおい)からも、それぞれの孤独をそのままぶつけられて傷つき、その痛みを誰とも共有できないというアケミ自身の孤独は、彼女の死でもってはじめて輪郭が与えられる。けれども、孤独がそこにあると知っても、その孤独がどんなものかはリチオにもこのみにも、誰にもそんなものは分からない。そう言う意味で、彼女の死はコンテンツではなくインデックスだ。


リチオのサングラス、このみの花束、それらもインデックスとして機能し、そこに何かがあるのは分かっても、それが何かはわたしたちには分からない。分かったフリをしてみても、それがフリでしか無いことに目を背け続けられるほどにヒマなヒトは幸いだ。「みんな孤独だよね」と言ってみても「じゃあ孤独って何」と聞かれて、それはやっぱりわからへんし。


90年代の「薄っぺらさ」とはそういうものだった。「深み」が無かったのではなく、「深み」を知られなかったのだ。よしもとよしともサンが90年代後半を代表するマンガ家のひとりと評する向きがあるとすれば、それはこの「深み」に対して毅然と背を向けて「薄っぺらさ」の純度を高める方向に自らの資質を傾ける勇気を持てたことだろう。リチオはアケミのようについにはガードレールに突っ込むことができず、このみはアケミの死に「胸がチクチク」し続けても責任から逃避することに成功している。共有の重みを剥奪された二人は、ひたすら軽く、波間にたゆたう泡沫である。


そして、奥原監督は、よしもとよしともサンが巧みに描き出した孤独の泡沫を包むインデックスとしてのオブラートを、そのまま、破かないように見失わないように緻密に丹念に誠実にひとつのプロローグをつけて見せた。そしてこれが成功しているとわたしは思うので、この映画は、映画としてではなく、オマージュとしてとても優れた表現だと思ったことだった。


(多分、続く)


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