un capodoglio d'avorio
2004年09月11日(土) |
"Amarcord" di Federico Fellini |
『アマルコルド』観る。『ローマ』を撮った翌年、1974年の作品。
『ローマ』がすでに、監督自身の思い出が基本な作品だった。でも『アマルコルド』はさらにダイレクトな意味で、そうである。フェリーニの少年時代の1年間、その「風景」を映しとった作品。ひとつの物語の筋が通っているというよりも、いくつものエピソードが断片的に続く特徴的なスタイル。ストーリーとか、起承転結という「神話」に背を向けるのは、フェリーニの最盛期のりりしさだとどかは思う。
「思い出」というものを扱うときに、どうしてもわたしたちは感傷的になってそれを美化してしまう。だからそれは他人にはちょっと押しつけがましくなっちゃう。
でも『アマルコルド』を見て、そうは思わない。どかは少なくとも、そういう意味でお腹いっぱいにはならない。それは、フェリーニがちゃんとあきらめているからだ。『ローマ』の感想文でも書いたけれど、彼は過ぎ去ったものに感傷は抱くけれど、執着はしない。過ぎ去るものをそのままにしておくほどに、彼はいさぎよい。
もしくはこうも言える。愛しい過去の時間に、自分が執着してしまいそうになった瞬間、フェリーニはその執着を時間を止めることには向けず、そのシーンを息をのむほどに美しく彩って送り出してやることに使うのだろう。それを続けて続けて、最後にどうしても心が溢れてしまってにっちもさっちも行かなくなったとしても、フェリーニには切り札がある。そう、フェスタ。フェリーニは心が溢れてしまったそのときに、あの有名な大団円のシーンをフィナーレに持ってくる。ニーノ・ロータの音楽も沁み渡る。画面の中ではみんなが笑い、画面のこちらでは少し涙。そんな感じ。
時間芸術としての映画の体裁を崩してまで、フェリーニが追求した絵の美しさは、たくさんたくさん印象的なシーンを残してる。どかがホエーッと感心したのは次のシーン。
○ 綿花が街に舞って子どもたちが歓声を上げるシーン ○ 祭り、摘み藁の上に魔女の人形を置いて燃やすシーン ○ ファシストの兵が反乱分子を鐘楼に射殺するシーン ○ 主人公の叔父が木に登って叫ぶシーン ○ 公道のカーレースのシーン ○ 大雪が降って、街が雪の迷路になったシーン ○ その雪の中、逃げ出したクジャクが羽を広げるシーン ○ 主人公の母の葬列のシーン ○ 主人公の想い人の結婚式、草原に綿花が舞うシーン
誰でも、最後のシーンで再び綿花が風に舞うのを見ればアッと思うだろう。それはまた、冬から春に、喪失から再生へと向かうことを示す、それはそれは美しい記号なのだ。どかは上にあげたシーンのなかでも、とにかくお母さんのお葬式のシーンが忘れられない。このヒトの映画自体が、だって、葬列そのものなんだもの。葬列のなかの葬列、と言ってもいいかも知れない。非凡なのは、この悲痛なイベントすらも、フェリーニは決してウェットにはしないことだ。悲痛だからこそ、ドライに扱い、そして何よりもまず、美しく。
もひとつ。彼にかかればファシストの暴挙のシーンすら、美しくなってしまう。鐘楼に逃れた「インターナショナル」を奏でるヴァイオリニストめがけて、兵達は一斉に銃を撃つ。弾丸が鐘にあたって小刻みに音が鳴る。ヴァイオリンは止まない。しかし、ついにヴァイオリンは止み、鐘の音も止む。別に悪を賞揚しようとしているわけじゃない。善だの悪だのに囚われることなく美を追究したかった。生粋のモダニストでありフォルマリストであったフェリーニらしい、優れたシーンだと思った(関係ないけど、北野武の『ブラザー』の銃撃シーンを思い出した、彼はフェリーニ好きなのかな?)。
観始めてすぐに、あれ、これは期待はずれかしら。と思ったけれど、観終わって、ああやっぱり大したものだなーと思う。でも一方で、この前に観た『8 1/2』のすごさが身に沁みてきた。あれはやっぱりすごかったのかも知れない。なぜだか、自分でもわからないんだけど。
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