un capodoglio d'avorio
思うところがあって、フラッと散歩に行くことにした、飛鳥へ。 高校ン時の「百粁徒歩」以来だったのかも知れない、ここは。 「山の辺の道」や「柳生の里」は結構何やかや行く機会があったんだけど、 「飛鳥」は、本当に10年ぶりかも知れない、10年ぶり。
でも・・・、大阪の実家に戻ってきたときにも、 どかはそんなこと思わなかったけど、飛鳥駅降りて、 高松塚古墳についたときは自然に口をついて出たのが「ただいま」。 恥さらしのどかが、恥さらしのどかの人生のなかで、 いちばんどかっぽく恥をさらしまくった高校2年、 何回この道を下見したのだろう。 場所には記憶がしみつくものであり、 時間は流れるものではなく降り積もるものだということを体感する。 変わらない景色だけじゃなく、変わらない匂い、変わらない坂のキツサ、 変わらない汗をかき始めるポイント、そして何も変われない、自分。 コースは、第20回百粁徒歩とまったく同じコースをたどった。 実はかなり記憶はあいまいで自信が無かったので、 「歩く地図S」を持って行ったんだけど、 いったんコースを歩いてみれば、いったん分岐点に来てみれば、 頭よりも先に足がそっちのほうを向いていく、不思議な感覚。
つまり高松塚古墳→亀石→橘寺→石舞台古墳→岡寺→酒船石→甘樫丘、 というコース、なにげに飛鳥寺が外れていたりするのだけれど、 歩くコースとしては風景・起伏・味わい・あらゆる観点から見て、 これを超えるコースを飛鳥の里にとることは不可能、と断言してしまう。 土に宿る魂というのはたしかにあるよなーと思うのは、 その場に行ってみて初めて思い出せる記憶というのは、 思うよりも遙かに豊穣であるからだ。 石舞台の隣の公園でマーくんとフリスビーで遊んだよなーとか、 水田の真ん中のあぜ道で甘樫丘を見ながら歩いて足首ひねったよなーとか。
京都に通うようになってなおさら思うのだけれど、 どかは京都よりも、奈良が好き。 この奈良のスカッて感じの「抜け」の良さと、 それと同時に全ての色に少しずつ混ざる「哀感」がすばらしい。 タイムリーだけど、大島弓子のマンガみたいだ。 きょうのハイライト、甘樫丘へと登る。 飛鳥の水田の真ん中にポコッと残る、150m弱の小高い丘。 そこから眺める飛鳥の里と、大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)は、 奈良を撮らしたら世界一の写真家・入江泰吉の作品を例に引くまでもなく、 ベストだと思う。 「抜け」と「哀感」のあいだで1600年間揺れ続ける飛鳥の姿が、 いちばんはっきりしたカタチで見ることができるから。
いまでも百粁徒歩って、続いてるんだろうか? 携帯電話な時代になって、特別隊の定時通信ってどうやってるんだろ (マニアックな疑問だ・・・)? また「第20回」の特別隊メンバーと一緒に歩きたいなあと心の底から思う。 何やってるんだろ、某P隊副隊長とか、某M1隊隊長とか、某A隊副隊長とか。 S隊のみんなとはまた、そのうち結婚式で会えそうだけど・・・。
10年、だもん。 ちょっとくらい、昔のこと思い出しても、バチはあたんないよね。 いまだけ、いまだけ。
と思いながら、甘樫丘の頂上で春霞の三山を眺めながら、 腕時計の針を忘れた。
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