un capodoglio d'avorio
2003年03月16日(日) |
川端文男陶展@三越本店 |
一昨日からどかんちにお泊まり中のくりぞうサンと、同じく岡山から上京してきたとよぷくサン、アートマネージメントの鬼くわじぃサンとどかの4人で、とよぷくサンの師匠の個展を日本橋に見に行った。とよぷくサンというのはどかの大学時代のサークルの先輩で、今は岡山県備前市で陶芸家をやってるヒト。その師匠はなかなかすごいヒトだといううわさは聞いてたので、すごい楽しみに。6Fの催し物会場の一角に、シンプルで格調高げなスペース。
どかは、焼き物を見る目、無いと思う。正直、まだよく分かんない。分かんないと言いつつ、お気に入りの焼き物といえば、志野焼が好き。あの白くて、ふんわりしてて、簡素なやつ。備前焼は、あまりに本格派で、ちょっと苦手だったかも知れない。色目も濃いい赤黒い感じのズドーンと構造的な骨太具合が。でも備前焼がいちばん、日本の焼き物の中でステータスが高いというのはよく分かる。確かにこれが、一番、ある種の説得力に満ちている。
で、川端文男サンの作品。これが、ビックリ。重くないし、黒くないのさ。あんまりビックリしてしまい、気づいたら口をポカンと開けてたくらい、ビックリした。一目で、好きになった。白い素地が目立つモノが多い。また、あまり重さを感じさせない、軽やかなデザイン、でも薄っぺらくはないのが、また良いなあ。で、その白い素地に、いわゆる備前的な赤や黒のゴマゴマの貫入がまたインパクトに満ちていてナイス。ぐい飲みから、茶碗、花瓶、特大花器まで、いろんなサイズの作品が並んでたけれど、全てが大空に舞い上がる凧のように自由だけれど、凧糸が切れてしまった無秩序の混乱に堕すことなく。
というか、その素地の白色が、大好き!よく見ればいろんな青だとか緑だとかのつぶつぶがたくさん見えるんだけど、でもやっぱり全体では白いの。で、志野焼の白とか、iBookやiPodの白とかともまた違って(当たり前だ)、なんだか吸い込まれそうなのな。ダムの堤防にたって下をのぞき込む感覚。志野焼はまた違うよね。あれは包み込まれるような温かい感じ。川端サンの白は、もっとビッと凛々しく、走ってる感じなの。
会場には川端サン、その人もいらっしゃって。予想していたのは細身の華奢な方だろうかって思ってたら違った。背の高いがっちりした、けれども顔には知性がにじんでて、かっこいい。とよぷくサンとくわじぃサンが話をされてたけれど、どかも、少し、話したかったな。ちぇ。怖じ気づいてしまった。やっぱり本物なヒトはオーラがあるんね。素晴らしい作品とちゃんと見事に拮抗している彼自身の雰囲気を見て、なんだかひとりで嬉しくなってしまって。
あとでとよぷくサンに聞いたら、川端サンはやっぱりあまたの備前職人の中でもかなり前衛的な作風で評価されてる第一線級の陶芸家だって。で、どかはあの白い素地は備前の土を使ったら不可能なんじゃないんですか?って聞いたら、あれは「自然練り込み」という手法で、土をこねるところからいろんな鉱物を混ぜ込んで作っているから、備前の土をそのままオーソドックスに使ったこれまでの素地とは異なってくるらしい。でも、すっごいすっごい、手間がかかるんだって。あと、ろくろも使ってないらしい。ひも状に伸ばした土を、少しずつ重ねて重ねて構築していくらしい。そりゃあ大変だあ。とよぷくサンも言ってたけど「あの値段でも全然高くないよ」って、本当だと思う。
当然、あたらしい土を作れば、焼き方(焼成法というらしい)も工夫して新しくしなければ上手く焼けないだろう。そういった意味で、備前の歴史の中でもっとも洗練された、そして洗練され続けている技法をどかは目の当たりにしたのかも知れない。けれども、本当にすごいことは、そんなことじゃない。
目的と手段があって、その調和がとれていることが、何より素晴らしいのだ。手段だけが先走りして、表現すべきメッセージや内容が空虚な現代美術は腐るほど、うんざりするほどある。また、メッセージや内容が手段を通り越していて、表現として破綻している自己満足の出来損ないも、しかり。どかが、きょう見ていた陶器には、その目的と手段の境目が見えない。見えないくらい、実は陶芸家の中でこの2つの要素が絶妙のバランスで綱渡りしてるんでしょう。それこそ、太陽系第三惑星に生命が誕生したのと同じくらいのバランス。
というか、欲しい。欲しいけど、高価いー。ちぇ。川端サンの茶碗、買ってから会社辞めるんだった。個人の資本は、こういうところに投下すべきだよねーと、負け惜しみな昼下がり。
この後、惣一郎が合流。五人でお茶した後どかは惣一郎とデート。新しい丸ビルまでブラッと歩いたとさ。
|