un capodoglio d'avorio
2003年01月24日(金) |
野島伸司「高校教師('03)」第3話 |
第3話「眠れないふたり」
惣一郎と桜井幸子バージョンと上戸彩バージョンの違いについて、少し話した。「あの独特の切ない雰囲気が、今回無いですよねー」って言ってた。確かに、そぉだよな。野島フリークサイトでも同じような指摘には枚挙にいとまなしやしなー。
'93版は、本当にセンシティブなシーンをひたすら継いでいった印象があるどか。桜井幸子の演技は素晴らしく、彼女演じる萌のいわゆる少女漫画的センチメンタリズム満載の仕草・行動。でも決してそれが甘ったるさにいかないで、破滅的なドラマ終盤の予感の波にはかなくたゆたう落ち葉のように、ふわふわ波間に揺れていて。それが誉れ高い'93版の「狂気と哀感」の正体だと思うどか。
対して'03版は第3話までに限れば、胸がキゥゥとなるような切ないデリケートな印象は、少なくとも感じないどか。ディテールにこだわった具象ではなく、イデアに即した抽象を映しとる映像作りになっている。これはそもそも描きたいテーマが違っているからか。今回のテーマとは、避けられない死に際した「依存と愛情」。第3話では、まず一つ目のキーワードの「依存」がクローズアップ。
雛 そしたら、私のこと「大丈夫?」って、 同情してくれる人が誰もいなくなっちゃう。
郁 同情されるのは、嬉しい?
雛 わからない。まだしてもらったことはないから。
郁 すいません。
雛 いいえ。
郁 かわいそうに・・・ かわいそうに・・・ かわいそうに・・・ かわいそうに・・・ (隣で静かに泣く雛に気づく郁己、ライターをつけて) 心配しなくていい。いいかい、君は・・・君は・・・
上戸彩、かわいい。もう、何でもいいから、かわいい。思わずウルウルどか。「依存」に対する「同情」。雛は明るく振る舞ってできるだけ自分の「依存」の重苦しさを、軽くしようと努める。でも、このシーン、ついに自らの「恐怖」と「孤独」に捕捉されてしまった雛。
・・・でもね、ここで神の視点で二人を見てる視聴者は、郁己に「同情」する。彼はこれまで、「恐怖」と「孤独」を抱えながらも捕捉されるのを拒み続けて、人前では強がって、何でもないように振る舞って。しかし、この四つの「かわいそうに」。最初の二つはきっと雛に向けられたもの。でもね、後の二つはきっと、郁己自身に自分でかけた言葉「かわいそうに」。背水の陣で踏ん張っていた最後の砦が、この静かなシーンで完全に陥落し、そしてついにこの呪われた<実験>の意義が、彼のなかで顕在化するのね・・・
その意義とは<鏡の構造>。郁己の雛を見つめるまなざしは、実は自分に向けられたものであるということ。雛が郁己に依存してくる瞬間、郁己が雛に依存しているということ。んー深い。こんなのを毎週ドラマでやるなんて、ね。冒険だわ。スピリッツが毎週毎週松本大洋を連載していたのと同じくらい、ヘビーな、冒険。
ちょい、脱線しちゃったけど。「依存」というのは、決していいイメージの言葉ではない。でも、野島伸司の紡ぐシーンからは、決して「依存」の気持ち悪さ、いやらしさのにおいがしてこない(少なくとも第3話までは)。「依存」していて何が悪いのか?という開き直りではないにせよ、
"I LOVE YOU"よりは "I NEED YOU"のほうが、 どれだけ信用に足るのだと思う?
という問いかけが見える気がする、これはうがちすぎかな?
でも、段々、面白くなってきたよ、確実に。
おまけ。
昨日、三茶に行ったとき「あ、そぉだ」と思って、キャロットタワーに寄った。第2話で、惣一郎のお気に入りであるところの藤村先生(京本政樹)が、決めポーズを作ってた場所がこのエスカレーター。第3話、藤村先生は段々その存在感を増してきた感じっすね、かっきー。
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