un capodoglio d'avorio
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2002年09月05日(木) 「批評」について

何かしら一つの表現に対して、
まとまった文章を物することを批評と呼ぶとすれば、
このつたない日記で細々と続けている一連のシリーズは、
「批評」の一つということになるのかも知れない。
しかしそのつたなさ加減といったら、もう、
ほんとに恥ずかしいので「批評」と呼ばれるのは丁重に辞退したい。

そもそも「自分にとってのリアリティ」を論じても、
それが「普遍的な価値」に繋がるとはやはり思えないし。
今は、というかこの場では少なくとも「自分だけのリアリティ」を、
どこまで掘り下げていくことが出来るかにこだわってみたい。

でも「批評」を書くヒトとして目標は一応、いる。
例えば劇評。
自分の中では長谷部浩さんの文章はずば抜けて説得力があると思う。
演劇界というのはジャーナリズムがまだ形成されていないから、
雑誌などに乗る記事もほとんどが提灯持ちなレベルを出ない。
でも、時々みるこのヒトの文章は、ちゃあんと、
説得力があるんだ。
ほんとにたいした物だと思う、先駆者は皆無な世界なのに。

それに比べてスポーツ界はスポーツジャーナリズムというものが、
前世紀末から急速にまとまりだして、
それはサッカー熱が一番大きな役目を果たしているのだけれど、
カリスマライターと呼ばれる一部の作家まで現れ、
ブームの震源地となった文藝春秋の雑誌「NUMBER」などに
その作品が掲載され続けた。
つまり二宮清純とか金子達仁などのライターの名前が、
スポーツフリークの外にまで普及していったのだ
(金子さんの「いつかどこかで」を文庫で読んだ、
 まあまあ楽しかった)。
でもスポーツ評論というフィールドでダントツどかが信奉しているのは、
もう、絶対、故・佐瀬稔さんだ。
佐瀬さんのフィールドはボクシングと登山家。
そういった命のやりとりをする現場について書くときの彼の筆致は、
圧倒的かつ論理的かつ情熱的だ。

佐瀬さんは辰吉丈一郎という稀代のボクサーが、
その昔、同じ日本人の薬師寺に名古屋で負けた試合について、
世間の盛り上がりに対して「凡試合」と切り捨てた。
辰吉は「その盛りを過ぎた」とまで書いた。
普通の読者がそこだけ読んだらなんと傲慢なんだろうというかも知れない。
しかし佐瀬さんがそういうときの、辰吉に向けられる愛着は、
まさに限りなくあついものがある。

世評の盛り上がりや当の本人達とのつきあいの中でも、
才能や神髄を見極める目をくもらせないで維持すること。
熱狂的信仰と冷酷的批判のどちらにも荷担せず、
それを止揚してひとつ高いレベルの、
ひとつ深いレベルの視点を獲得すること。
誰よりも辰吉の才能を認め、
日本ボクシング界が生んだ二人目の真の天才と評し
(ちなみに一人目は高橋ナオト)、
辰吉の強さの秘密を精神論ではなく、
技術的にぎりぎりまで肉迫した観察者だからこそ、
辰吉に対して厳しい言葉を向けてもそれはすっきりおさまっていく。
というかそれをおさめきってしまうほどの「克己」が、
佐瀬さんからは感じられる。

そうなのだ、長谷部さんも佐瀬さんも、とても自らが強いのだ。
それはだれかへの攻撃的な言辞をとるのではなく、
あくまで目の前の苛烈を極める表象を、
真の意味で自らの内面に呼び込んで持ちこたえる、
その強さがあって真の批評は完成するのだろう。
長谷部さんや佐瀬さんみたいな文章を目指すのもおこがましいけど、
とりあえずは自分の足下をしっかり確認していければなと思う。
結局は表現者じゃないくせに評論家づらして偉そうに話す・・・
と思われる「ライター」には単純に「克己」が欠けているのだ。


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