un capodoglio d'avorio
2002年08月29日(木) |
よしもとばなな 「王国 その1アンドロメダハイツ」 |
「吉本ばなな」改め「よしもとばなな」の第一作は、 作家の処女作の「キッチン」に迫る最高傑作の一つとなった。
どかは、吉本ばななは大好きな作家の一人だけれど (もっと言うと三本の指に入る作家だけれど)、 実はもう下り坂のヒトだよなと、尊大かつ失礼ながら思っていた。 キャリアの最高点が処女作に来てしまい「TSUGUMI」でもう一度がんばったけど、 あとは自ら持つ不偏のテーマを文章に落とすことが辛そうで、 それが分かったから読んでいても時々辛かった(「アムリタ」とか)。 いつぐらいからだろう。 その下向きのベクトルが上向きになったのは。 「ひな菊の人生」や「ハードボイルド/ハードラック」くらいかな。 また面白くなってくるのかもと、期待する流れが起こった。 そして今作だ、完全復活、よしもとばなな、面白かった!
「キッチン」にいろんな意味で似ている作品だと思う。 でもあの一世を風靡した作品よりもすべてのポイントで進化している。 文体も、あの「ヘタウマ」という言葉で形容された文体から、 全く変わってないように見えながら実は、凄い変わった。 言葉一つ一つが徹底的に吟味されており、流れを阻害せず、 かつイメージをより広げるような言葉がさりげなく綴られている。 その徹底的な校正の跡をほとんど残さないのも、また気持ちが良いし。 テーマも、処女作と比べると確実に一歩前に進んだことがしれる。
「キッチン」の主人公みかげにとっての<キッチン>は、 「王国」の主人公雫石にとっての<サボテン>だし、 みかげにとっての<料理>は雫石にとっての<お茶>だし。 しかし白眉は次の点。 みかげにとっての<雄一くん>は雫石にとっての<楓>、 そして<真一郎くん>なのだ・・・
「キッチン」では主人公の辛いときに寄り添う<同志>として雄一くんが登場するが、 彼は後に<恋人>としての存在にもなる。 しかし今作において作家はあくまで<同志>と<恋人>を丹念に分ける作業を行う。
楓は私と永遠のきょうだい、友達でもあり、師でもある。 楓は私の運命の一部なのだ(「王国」よしもとばなな)。
どかはあくまでこの二つの要素を混同せずに分ける文脈に、 よしもとばななの作家としての底力を感じた。 だって、それ、一緒にした方が簡単に本、売れるもの、至極簡単に。 そのほうが一時の感情に押しつぶされて辛い(辛がってる)ヒトを、 慰めて包み込む作品に仕上がるもの。 それは突拍子もない例えだけど「ザ・ブルーハーツ的優しさ」だ。 でもよしもとばななは甲本ヒロトが辿った道を行くかのように、 辛い逡巡の道をなぞり「ザ・ハイロウズ的透明さ」を手に入れた。 その「透明さ」は汚れのない真っ白さという意味ではなく、 冬の寒い朝の身体に差し込むような空気の純度、 木々の葉っぱを取り去って本当の姿を浮き彫りにしていく厳しさ、 それの裏返しに見えてくる(見えてくるヒトには)優しさ。 そして本当の本当は、 こういう「優しさ」をデビュー以降ずぅっと書こうとしていたのだけれど、 筆が追いつかずにその手前で止まってしまいその先を匂わせるにとどまっていたのが、 吉本ばななだったというのがどかの印象で、 それがよしもとばななはいろんな辛い経験や修行を経て、 ついにそこに直接手が届くところまで来たんだなあという。 それがこの傑作を読んだ後の感想だった。
あの小さな願いは空の上に届いて、 どこかにそして至る所に存在する大きな力を少し動かしたに違いない。 冬の空にうずまく冷たい風が星をまたたかせるように、 私の願いが矢のように空を渡って、聞き届けられたのだ (「王国」よしもとばなな)。
・・・一人の作家を信頼しついてきて良かったと思える。
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