un capodoglio d'avorio
2002年05月31日(金) |
松本大洋「ナンバー吾(2)」 |
どかが今一番心待ちにしているマンガの単行本の二巻が書店に並んだ。 連載と言っても季刊の雑誌なので単行本は年に一回ペース。 それでも自分が生きているこの時間に少しずつでもこの物語が紡がれていくことの、 何と幸せなことだろう!
この才能を前にして今さら何を言えるのだろう。 どかの中では前作「GOGOモンスター」で「ナウシカ」と宮崎駿を超えたと思っていた。 そしていまこの「ナンバー吾」で松本大洋は漆黒の暗闇の中を、 自らの才能の光で照らしつ進む彗星になったかのよう。 お手上げ、降参、感服、おもしろすぎ。
カッコイイとはどういうことなのだろう。 宮崎駿はカッコイイをポルコロッソに託して「紅の豚」を作った。 宮崎アニメの中ではどかはこれが一番好き、ああ、確かにカッコイイと思った。 ケンシロウやサエバリョウなんかよりずっとずっと。 そして「ナンバー吾」の主人公吾(ファイヴ)は松本大洋の中のカッコイイが結晶したのだろう。 うん、カッコイイ、殺し屋、スナイパー。
岡崎京子や望月峯太郎のすごさはまだ何となく話すことができるけれど、 松本大洋はもう圧倒的で上手く言えないところがある。 もちろん具体的な才能の表出ならすぐに羅列することができる。
「ヒトコマヒトコマの構図の秀逸さ、印象度」 「世界のリアルを描き出す、卓越したデッサンの正確さ」 「世界の雰囲気を写し取る、線の書き込みと大胆な省略」 「キャラクター設定の巧みさ」 「伏線の折り込み方の自然さ」 「研ぎすまされた一つ一つのネーム、多弁に陥らない凛々しさ」 「美学」
例えばこの辺のことはパッと思い付く辺りのところで、 このどれか一つをテーマに選んだとしても、 どかの「褒めそやしたい欲」は泉のように湧き出るだろう。 例えば「美学」。 松本大洋は「才能至上主義」だ。 いみじくもつかが残したセリフ「才能に勝る努力無し」を、圧倒的説得力で語るのを得意とする。 けれども「じゃあ才能の無いやつは不幸で終わるのか」というところで、 ここからが作家それぞれの「才能」の見せ場なのだ、 例えばつかが、最後まで一人、内角球を投げ続けたように(5/16参照)。 大洋はつかほど泥臭くなく、もっと手法が洗練されている。 弱者の「リアル」をその洞察力と想像力であぶり出し、自らの画力で輪郭と陰を与える。 結局彼等は絶望のうちに死を迎えるとしても大洋の手による美しい、 あくまで美しいコマのなかに彼等の「リアル」が息づく刹那があり、シンパシーを喚起する。
「いつかは努力は報われて才能を凌駕するよ」 なんて本人が信じていないようなことを言う作家より、どれだけ大洋は誠実で優しいのだろう。
どかは66ページで泣きそうになって、103〜105ページで総毛立った。 そう、何より大洋が凄いのは、彼の上記の美点すべてを備えつつ、 どこまでも完璧にエンターテイメントとして成立させてしまうところだ。 そりゃあこんなに深くて濃いくて絵も凄くて疲れたサラリーマンや大学生が電車の中で読んだら、 疲れてすぐに寝ちゃうくらい重厚な作品だけれど、 しっかり腰を据えて読んだらこんなに楽しめるマンガはちょっと無い。 腰を据えることが、条件だけど、あくまで。
にしても、吾はカッコイイ!
|