行動ログ。
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私たちが生存していく為には地球上のあらゆるモノを利用しているわけで、ある意味環境破壊をしないと生きていけない。
地表を掘り返し、空気や水を汚染し、自然というものは人間に支配される為に存在するのだ、とぶちかます人々もいます。逆に環境保護団体などは自然をあるべき姿から勝手に変えようとするのは人間のエゴだ、と言って譲りませんけど。
別に斎藤は自然に人間が従うべきとも、人間に自然が屈するべきとも思っていません。どちらも正しいとは言えないと思うから。
ま、とりあえず今は人類のさまざまな活動によって地球上の資源(特に化石燃料)の枯渇が危惧されているわけなんですけど。5年前ほどの報告書によれば、石油はあと44年くらいしか持たないとか。(教養原論の講義より)
ぶっちゃけ資源を使わないでおこうと思ったら、動かなければいいんですよね。ヒトもモノも。移動には必ずエネルギーが必要だから。 でも生きていくうえでの欲求として「自然に触れたい」とか「モノが欲しい」とか「旅行したい」とかがでてくるわけで。これらを移動することなくかなえるには、目の前でそれらを展開すればよい、ってことか。 すべてをコンピュータに取り込んで、いつでも再現させる。実際には一切のエネルギーを使用せずに欲求が満たされる、と。
こうなると『ヴァーチャルリアリティ』は単なる仮想世界ではなくなり、現実の一部となるのでしょうか。そして都市はアーキテクチャの集合としての機能ではなく、システム全体をさす言葉になり、建造物はセキュリティを兼ね備えたひとつのユニットになるってこと?
なんとも効率的ではあるが、味気ない世界。 やっぱり私はそんな世界に埋没したくはない。 現実として確かなものがあるからこそ、『仮想現実』は成り立つのだと思いたいです。やっぱり怖くないですか?そういう擬似世界に生きるのは。生まれたときからそういう感覚に浸るのならば何の違和感もないでしょうけれど、いきなり放り込まれたら、自分が生きてるのかどうかも分からなくなりそうで。
あ、そうそう。 自然に対して美しいと思う、その感情自体を不自然だ、と捉える意見もありますよね。誰の言葉かは忘れちゃいましたけど。 まぁそらそうかもしれないっすね。自分が今、身を置いているのが汚れた世界だという認識のもとに『自然は美しい』という認識が生まれるんですから。ヴァーチャルな世界に慣れた人間が、果たして自然を美しいと思えるか。
ホントに未来のことを考えるのは難しい。だってまだ掴めないから。時間の認識について書いたときにも同じようなことを言いましたが、時間軸は一定じゃないと思ってます。過去は縮小され、未来は手が届かないくらい先にある。
こういうことを言い出すと止まらなくなるため、今回はこれまで。 よろしければご意見、お聞かせください。
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斎藤基栄
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