あたろーの日記
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2003年11月03日(月) 古本屋についての。。。

 また神田の話です。
 
 先日イラン人の知り合いに、連休中東京モーターショウがあるだろうと言われ、「東京は車もいいかもしれないが、いっぺん神田の古本屋街に行ってみィ」と、古本まつりのパンフレットを無理やり渡したのであった。「神保町の古本屋街は世界一本が集まってる所だよ」と何度も力説して。・・・相手は古本ばかりなんでそんなに集まっているのかと不思議そうだった。あれから行ってみたかしら?

 今日はあいにくの雨模様で、古本まつりに行こうとしていた人は気の毒だったなあ。今日は私もちょっと大人しくしていた。・・・池袋のリブロ書店にちょっとだけ行ってきたけど。
 
 昨日古本屋を回っていて、本を買いに来る人の量の半端でないことにびっくり。インターネットなど、書物以外のメディアの発達で、出版文化がすたれていくのではとの危惧もささやかれる昨今だけど、紙の本を読む人はまだまだわんさかいるんだなあと、なんだか嬉しくなった。新古本を売るとなにかと批判の対象になる某古本屋チェーンでも、新刊本の書店でも、閉店まで沢山の人でごった返してるし。本が売れなくなったと言われるけれど、本好きはまだまだどっこい、沢山生きてる。ただ、実際に出版する側にしてみれば、本の売り上げ量を肌に直接感じてるわけだから、きっと厳しいもんがあるんだろうなあ。

 今私が古書店の棚の前に佇んでしみじみ思うのは、この時代に生まれてよかったなあということ。あと少し遅く生まれていたら、昭和初期や戦前の良書にはきっともう手が届かなくなっていただろうと思う。

 「本は古本になると、真価だけで生きてゆくのである。」とは、司馬遼太郎氏の言(『街道をゆく36 本所深川散歩神田界隈』)。
 そのくだりを読んではっとした。そうなんだ。今古書店の本棚にうずたかく積み上げられ、店主が書名と値段を書いた札を下げられ大切に売られている古書たちはどれも、その真価だけで生き延びてきたものなんだ。でかでかと新聞広告で宣伝されるわけではない、センセーショナルな宣伝文句とともに沢山の人々に読まなきゃならないという錯覚と焦りを与えて売らんがなとアピールさせられるわけでもない、ただその本のもつ価値の重みのみが、古書店の一角のスペースを与えられる理由であったりする。話題や宣伝という後押しや庇護があるわけでなく、体ひとつ張って生き延びてきた本ばかりなんだ。そこには本の価値を見分ける目利きの店主がいて、暗黙のうちに信頼関係が店と客の間にあって、あそこで本を探すということ自体、すでに密度の濃い行為であるような気がする。それぞれの店に品揃えの個性があって、ひととおり歩いて回ると、客は自分の知りたい分野の書物群について、なんとなくかもしれないけれど、その概要を理解することもできる。そういうことは新古本を大量に売るチェーン店ではできないことだ。新古本チェーン店も利用するから私にとってはありがたい店だけど、これは従来の古本屋とは全く違う種類の店だと思う。

 ちょい薀蓄たれちゃった。おやすみなさいマセ。


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