独白2
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団鬼六の美少年を原作に書いた小野塚カホリの美少年を読みました あの言葉遣い あの独特の時代の雰囲気 現代の世界観よりも、失われてしまった時代はどうして同じ現実世界なのにこんなにも違うものなのか ただ、失われてしまったものだからこそ世界は現実現在ものとは違うがためによく感じてしまうのかもしれない
とにかく官能小説からきているものなので、縛る、犯す、吐精するは当たり前なのですが 特に団鬼六といえば私が知っているのは花と蛇のみなので、しかも杉本彩のものなので少し偏見があるかもですが、縛るというか、SMは当たり前に付属でついてくるわけで とにかく縛られていたんです
杉本彩はホントいい体でしたけど、あの映像の中で美しいと思うのは本物の官能ではなく、偽者の、デザイン、見た目、美しさを主に出すべき演出だったわけで それを美しいと感じる瞬間があったのならばそれは当たり前のことなのです 美しさを演出するために映像を作っているのだからね だからもちろん被写体は美しいし、最も美しく見える瞬間、角度、光、すべてを求めて映像を作るのだから美しく見えて当たり前なんです
ただ、団鬼六の原作の文章を私は読んだことがないのでなんともいえないのですが、小野塚カホリの感じる美しさというのはどこからくるのか それが気になります
もちろん彼女の描くものも美しさを強調して描いているのだから美しいのは当たり前だと思う まあ彼女が美しいさを求めて真実描いているかはわからないとしても ただ、「美」とタイトルについているわけだから美しさを求めていると私は思っている
何度もいうが、私は団鬼六の小説を読んでいないので実際のところはわからない けれども、もし小野塚カホリや団鬼六、杉本彩の出ていた花と蛇を作った人達が、「美しい」人が、演じるものを美しいというのであれば納得はするが、「官能」そのものが美しいというのであれば全く私には理解が出来ないものになってしまうわけです 人が美しさを感じる瞬間は人それぞれなわけですからもちろん官能の瞬間に美しさを感じる人間もいるのでしょうが、私からすれば官能の瞬間、痴態などはとても滑稽で仕方なく、醜いものであると感じます 愛着がわく、と美しいという事は違うわけです
世の中は不思議なもので、人の感性も不思議なもので、求める美しさは違うというのにもかかわらず、美しいと思う心は同じである その事を思った 当たり前な事なのに、とても不思議に感じた
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