わわわんわん



物欲の砦:猛暑だから

2004年09月21日(火)

もうしょーがない。


とほほ。マシンが熱死しました。ウィルスかHDDの寿命かいろいろ手を尽くしてみましたが新規インストールの途中で起動しないので脳が暑くて溶けたのであろうと。こうなるとお手上げですね。



同等のCPUをなんとか見つけてあげないといけません。前回の猛暑では空調のない部屋で電源がダメになりましたが、今回はモニタと別マシンの谷間に押し込んでいたとはいえ空調は十分だったはず。連続通電で過酷な毎日を送らせてしまったせいでしょうか。



いっそのこと手頃な中古ノートでも探そうかという気にもなってきます。が、それだったらWindowsなんて嫌なのでiBookのほうがいいではありませんか。俄然、またiBookだとかPower Bookが気になってきます。



全然Windowsマシンが欲しいわけではなく、Windowsでしか動かないソフトを使うためのマシンなのでここでMacを選択する意味は全くありません。欲しくないものを一所懸命探さなくてはいけないのはとても理不尽でやりきれません。しかし、欲しがらなくてはなりません。




楽しいはずの秋葉原詣が重苦しい気分で萎え萎えなのは暑さのせいだということにしておきます。


感染

2004年09月19日(日)

突然再起動するようになったので変だへんだと思いながら放置。ようやくウイルスチェックをかけてみたらウイルス様鎮座。

がーん。

本当にいらっしゃりまするとは。ウイルスチェッカーで「ウイルス」とか表示が出ているし。

該当するファイルは消去。再起動して快調にすごしていたものの一応気になり再チェック。時間がかかりそうなので本でも読みながらと目をはなしたらいつのまにか再起動。えー、えー、えー。


ぼんやり眺めるなかで延々再起動。




明日は再インストールでしょうかね。やっぱし。




最初におかしな動作(再起動)が起きたのは人からCDでもらったファイルをつつこうとしたときだったので感染経路として先ずそのCD-ROMを疑う。次にあやしいサイト巡りをしたかどうかだが、これはほとんど考えられない。最後に、感染者からあやしいメールが届いていたのを疑うが、これはWEBメールで受け取ってそのままポイしたはず。



と、ここまで書いて思い出した。あやしいメールをポイした後であやしいCD-ROMをつついたのだった。WEBメールから感染するということがあるのだろうか。んでも周囲から被害報告がなかったのはアウトルックエクスプレスを設定していなかったからだろう。もしあやしいメールが原因だとしたらアドレス帳を参照して送りつけてるんだろうが、参照先はからっぽのはず。



あーあ。再設定、めんどくさいなー。


既得の墓:衝動買

2004年09月14日(火)

しばらく使わずにいたら故障。明日から使おうというときだったので、Olympus C40-Zoomを即入院させて代替機を探しにでかけた。

時間もなかったので中古でNikon Coolpix5000のシリーズが見つかったので即決。使ってみて、こりゃなんだかデジカメって気がしないなと思っている。液晶モニタの表示に癖があるといえばよいのか。

暗いところで特に気になるんだが、撮影時の液晶モニタの表示が思いっきり補正された状態。つまりすんごく暗くてもなんとか画面内は明るく表示してくれる。ので撮影対象がちゃんと確認できる。んで、撮影すると撮れてる画面は真っ暗だったりする。

何でこんなことが気になるかといえば、Olympus C40-Zoomもそれ以前に使っていたCanon Powershot A5も撮れる画像が暗いなら画面は暗いまんまだったから。撮影した画像と、その直前直後の画面表示の印象があんまり違わない。

ところがNikonは全然違う。特にマニュアルモードのとき、撮影結果には設定したISO感度のフィルムを使ってる感じが再現される。画面の表示とは全然違う。

どちらがいいのかはわからない。んでも、この撮ってみないとどう写ってんだかわからないっていうのはフィルムのカメラっぽい。と思う。ちゃんと撮れてあたりまえ、とか、カメラまかせでキレイな写真ばっかり、とか、そういうのはなんだか飽きてきて、もうちょっと考えて写真撮りたいっていうのをデジカメでやってる気がする。

シミュレーションっぽいんだ、何か。フィルムカメラでの撮影のシミュレーション。


海からの道:船橋大神宮

2004年07月25日(日)

船橋の駅前を通りかかるとお祭りだったので賑やかな通りへ人波に乗ってゆくと船橋大神宮へたどりつく。

最も広い通りの先に鳥居が見えた。これがメインの参道だとしたら神社は小高い丘か山の上にあって参道をずーっと見通せるはず、と鳥居の下までくればやはり石段が続いている。

ところが本殿の向きは約90度折れている。で、本殿の方向にもちゃんと参道は続いていてこれも一本のやや広い道路へとつながっている。


どちらかの先が海になっているはずなのだが。もう暗くなっていたので戻ってから地図で確かめることにした。

果たして、屋台が建ち並んでいた賑やかなメインストリートは陸路。東京方面へ続く。

神社の本殿に向かって一直線に続く道路は今は埋め立て地となっている海へ。周辺の建物がまだなにもなかったころは、この神社も海から見えていたのではないだろうか。




日本の都市には眺望が欠けていたとされ、眺望は近代から現代に至ってはじめて得られたとされるが、本当だろうか。

長く失われていたと考えたほうが自然ではないのか。


物欲の砦:求めよさらば与えん、とケンチクカが言った?

2004年07月23日(金)

今日は鞄だとかPCだとか、そういう固い詰め物の話ではないので。いつもの検索用語で飛んできてくれた方には回れ右されそうだ(そんな奇特な方が大勢いるとも思えないが)。

とりあえず周囲で話題になるので買って持ってはいる本というやつのなかに「錯乱のニューヨーク」が混ざっている。ほとんど読んでいないので実際どういう内容なのかわからない。あまりにも引用されて擦り切れた姿しか見ていないのでめんどうで読んでいない。ただの横着。

機会があっていつごろ初版が出ているのかを調べていて、たまたま検索結果のなかに目次があった。気になる単語があったので、目次をちゃんと眺めてみた。

1978年というのがネット上から得た初版の出版年だ。これは日本語訳ではもちろんなくて、英語版だろう。若干の前後があるとしても1970年以前まで遡りはしないだろう。いや、1966年以前には書かれていないのではないか。

1966年は「山羊少年ジャイルズ」の出版年である。

さて、目次のなかで気になった単語は「神話」である。「山羊少年ジャイルズ」は神話のフレームを借りた物語のおそらくかなり初期のものである。同じジョン・バースの「キマイラ」は1972年の出版であり、より意図的にこの手法が用いられている。

目次から予測した「錯乱のニューヨーク」は、ニューヨークの生い立ちに伝説と神話のパターンを発見してやる内容である。それもたぶんギリシア神話や北欧神話(とっても粗雑な分類)の。

あくまでも目次以外、ほとんど読んでいないので全然違ってるだろうが。

ニューヨークに建築を欲する人(人々)はニューヨークに伝説と神話(よく知っているパターンに準じた伝説と神話)を欲しており、従来の建築は伝説と神話の代替物であった。ならば伝説と神話そのものの方が嗜好に叶うはずだからさあどうぞ、でもそのせいで実態と乖離してるじゃん、とでも書かれているのだろうか?


「キマイラ」の最終章、「ベレロフォン物語」はペルセウス神話のパターンを踏襲することで成功をつかもうとするベレロフォンの試みの失敗と錯乱した状況で終わる(んだったはず)。

「錯乱のニューヨーク」はメタ・神話でメタ・バース、という評論は全然どこにも見かけないので、やはり思い過ごしというか間違い?



読まないで本の内容を想像するお遊びということで。
あぁ、それで、答え。答えが今日のほしいもの。



20040927追記
後で検索したらベルギーの大学だか大学生だかが書いてるページに一群のメタ・フィクションの流れだとした分析(というか論評?)があった。トマス・ピンチョンとかドン・デリーロ、ボルヘスとかと並記で、特にバースが対象というわけでもなかった。メタ・xxっていわれるとなんか古くさいのでこういう議論そのものがもう旬を過ぎてるのかもね。メタが日本でわーわーいわれてたのはWeb前夜ぐらいだったし。

正直いってボルヘスとかを先に読んでからだと「錯乱のニューヨーク」はなんかできの悪いコピーみたいだった。あのぐんにゃりしたビルの絵がキリコのヘクトルとアンドロマケっぽくてカッコいいのに比べて、あんまりだと思った。いくつかのイメージはヒプノシスのジャケットデザインみたいだったし。なんてことは口が裂けても言ってはならないのだろうな。

全ての神を疑えといいながら己の信奉するものは除外せよという。そりゃないよ。

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