わわわんわん



物欲の砦:オブらでぃ・オブらだ

2003年06月28日(土)

日曜が最終日の展覧会を見にゆくつもりが、一日引きこもりで過ごしてしまった土曜日。図面もかかなきゃいけないはずなんだが(こんなことしてる間に描け)、図版の修正もやらなきゃいけないはずなんだが(図版の解説文もだろう)、ときどきネットにつないではうとうとするダラケた繰り返しで今日が終わりつつある。

で、MacのG5が出るにあたってG4が在庫処分と思われる値下がりを見せている。自宅のG4もそろそろ3年目。ここは買い換え時だろうか。

最近はWindowsで作業をすることが多くなっているのでわざわざMacを使い続けることに抵抗もある。とはいえ、新たにソフトを揃えることや96年ごろからのデータをどうするのだとか、諸々考えると自宅はとにかくMacだろうとも思う。思うんだが、ここで迷う理由はといえば、デスクトップ機ではなくてノートが欲しくなっているからである。

このままノートもMacにするなら、ほとんど考える必要はない。ところがWindowsに切り替えるなら一挙に選択肢が広がるのである。価格帯も本体サイズも、イヤというほど悩むことができる。キータッチも出力ポートの配置もトラックパッドの操作性も、片っ端から店頭で試してはウロウロ歩き回り、悩ましい限りだ。

そんな店頭めぐりを繰り返してはみたものの、気が付くとAppleブースの前に。

iPod、新しいタッチパネルのやつ。いいなー。思い付く用途はないけど。


消えた過去、というより消された記録

2003年06月25日(水)

こちらの故障ですと部品交換ということになります。

と言われて、時計を修理に出した。約一か月後、受け取りにいったその時計はほぼ全体が取り替えられて戻って来た。プラスティック製の文字盤には大きな擦り傷があったはずだし、金属塗装の一部が剥げていたはずだが、戻ってきたそれはぴかぴかで金属部品の角は購入直後にそうだったとおりにしっかりカチカチしていた。

こんな修理を頼んだわけではないのに、なぜだろう。

1:修理方法が、他にはない
2:ついでにとりかえてしまえと思われるほど酷い傷だったから
3:このほうがリーズナブルだから

もしも3が理由だったのだとしたら、別に安くして欲しいわけではなかったのだから、なんとか伝えることはできなかったものかと思う。1なら、まあ仕方がない。2だとしたら、この傷や汚れがあるからこの時計を使い続けたいのだと、量販店の店頭で伝えることはむずかしいよな、と思った。1なんじゃないかと店頭で確認したんだけどな〜。プラスティックの一体成型だから修理できるのかどうか、結構ひつこく訊ねたんだけどなあ。あーあ。

でも、同様のものがみあたらなかったという理由もさておき、それが修理してまで使い続けたい最大の理由だったりする。せいぜい6千円ほどの時計を後生大事に修理してまで使うなってことですか?

新品交換を希望していたわけではないから、本当は戻して欲しいんだが、そんなこと言うとクレーマー扱いなんだろうな。修理できないならできないと言って欲しいし、新品交換ならそれを先に確認して欲しい。誰もが新品交換を喜ぶなんて、それは勝手な思い込みだろう。


デフレ

2003年06月17日(火)

価格が安いことはいいことだ。けれど、ひとつひとつ、選択肢が減ってきているように感じている。スーパーの深夜営業が便利なのもわかった。今までが高すぎたものだってあった。それはそうなんだろう。

だからお願い、近所のスーパー、がんばってくれ。

徒歩圏内には他にスーパーはない。郊外の大型店へ自動車でのりつけられるヒトばっかりではないのだ〜っ。


常時接続

2003年06月15日(日)

そんなにインターネットで見なくてはいかん何かがあるのか。パソコンの前に座り続けるのもしんどい。


雑感:村中で一番モボだといわれて

2003年02月22日(土)

村中で一番のモボは、生まれた川から出ていかなかったヤマメ説というのがある。

オリジナルは上田享矢と山田玲司共著の(名前の順番は逆だったか)名著?B-バージン番外編。マンガ『B-バージン』は連載終了後に上田氏の占星学サイトではじめて知って全巻揃えてしまった。たぶんこの紹介サイトがなければ全然読もうと思わなかっただろう。正直、絵が好みではなかったから。好き嫌いはいけませんね。

本題はネット苛めと関連サイト閉鎖という「事件」。これ、事件なのかどうなのかはいまのところよくわからないので括弧付きで。

小学校、中学校のころの人気者が大人になると町内の世話役とかになっていたりする。ひとたび町内の祭りだなんてときには世話役さんは上座に座ってたりするし、本人もこの場を仕切ってるのは自分だととっても自負しているだろう。

町内の祭りのときはそれでいいと思う。

インターネットはご町内のお祭りでは、たぶんないんだろう。例えば地元を離れたり、町内会以外の所属先(おおむね勤務先)のほうが重要だと感じている人にとっては町内会で尊重される人も中学の同級生だったことしか意識することが少ない。つまり、これがさらに拡大されて所属先をとりはらい、バックグラウンドなしで対峙しあうことになるのがインターネットなのではないか。

これはとりはらいましょう、と提言しようとしているのではない。好むと好まざるとにかかわらず丸裸で直接対峙する以外、どうしようもないのがインターネットなのではないかと考えているということである。それが自由というものなのではないだろうか。

にもかかわらず、一連の「事件」ではせっかくの自由を手放そうとしているように思えてならない。所属先を作り、特定サイトを運営する私としてアイデンティファイしようとする。だとしたら何のために川を下ったのか?

村中で一番のモボも、広い海に出てゆけばたくさんのモボのなかの一人でしかないかもしれない。それはみじめで惨いことかもしれないが、装飾の重さで息絶えることもない。

関係者の運営していたサイトが「閉鎖に追い込まれた」という表現を多く見かけたが、書きたい人はそれでも書き続けるだろう。それだけのことであって、なんら同情したり非難することでもないと思う。全ての人がヤマメである必要はなく、全ての人がサクラマスである必要もないのだから。

望んでヤマメになれるわけでもない。どちらともつかず、海にもつけず死んでゆく魚の数を思えば、それはどんなに幸運なことであろうか。

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