エロとピンクとアミタイツ。
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2006年06月15日(木) |
きっと全ては社長の号令 |
シャンプー「TUBAKI」のCMの、 キャンペーンガールのラインナップに 違和感を覚えるのは私だけか? 揃いも揃って一昔前の 微妙なラインで攻めてくるのは何故なんだ。
観月ありさ 広末涼子 竹内結子 田中麗奈 上原多香子 仲間由紀恵
並べてみると改めて悲しい。 誰なの?どこなの?この6人に飛びつく世代は。 少なくとも都市部にはいないだろう。
栗山 千明 蛯原 友里 篠原 涼子 伊藤美咲
見よ、資生堂マキアージュは魅力的だ。 誰もまだ終わってない。
TUBAKIよ。誰に、どう、売ろうとしている? 細川ふみえの「バスロマン」が延々と流れ続ける平成に、 新しい伝説が始まろうとしている。
どうでもいい話ですが、 社会的にまずくなってきたので 仮名にしましたが、 書いてる人間は同じです。 ショウガッコウに出入りする人間が ブス死ね、ではいけません。 新しい名前になんら意味はありません。 読んでる人がいるなんて思いませんが。
本名改め 小日向マリー
2006年05月26日(金) |
5月、バンコクへの手紙。 |
いま、どこにいますか? 今日は、誰といますか? 東京は、雨が続いています。
先日、旅雑誌・コヨーテの深夜特急特集を読みました。 私は深夜特急を知らずに旅に出ました。 旅先で出会う旅人は少なからず深夜特急の影響を受けており、 今回、沢木耕太郎本人や、影響を受けた人々のコラムを読んで、 なるほどもうすこし過去にこれを自分の部屋で読んでいたら、 とりあえず飛び出したかもしれないと思いました。 私がどうして旅を始めたかというと、 それはもう恥ずかしいくらいに猿岩石だったりして、 旅先で(好意的に?)失笑されたりするんだけど、 彼らはこれによって飛行機に飛び乗り、車をつかまえて あの時私の前にいたんだな、と思うと 電波少年な私にも非常に納得するものがありました。
今までの旅と今回の旅で感じたことがあります。 沖縄には松山という、歌舞伎町を小さくしたような繁華街があります。 そこでキャバ嬢(もしくはウエイター)をしながら、 ただただ沖縄に長く滞在することだけが 目的となってしまった人を大勢見ました。 海に出ることでも島を見ることでもなく、ただ「居る」ことだけが 目的となってしまった、旅の成れの果て。 何だか話が合わなくて途方に暮れたのを覚えています。 で、今回チェンマイで出会ったあのおじさん(覚えてる?)。 「もうこっちは三年ですよ」と言って笑うあのおじさん。 年数くらいしか話題がなくて、やっぱり私は途方に暮れました。 ああ、二種類いるんだと。 沢木耕太郎が旅の終わりにアムステルダムとデリーで出会った 同じような若者と重なって、そんなことを感じました。 それは単に移動の意志だったり、 過去未来、どちらに目が向いているかということだったりするんだろうけど、 私は、あの日バンコクに降り立ったたくさんの日本人の中で、 眼差しを持ったあなたに会えて幸運だったんだなあと思ったのです。 なんていうか、ひとりごと。
次は中国でしょうか。 くれぐれもチャリに轢き殺されませんよう。 引き続き、よい旅を。 心から。
東京より
2006年03月03日(金) |
無邪気に彼を否定する。 |
相田みつをに共感したら もうすぐ歩けなくなるサインだ。
相田みつをに共感したら 自分の涙を全て疑え。
どうしても面と向かって言えないことがある。 ヒゲの生えた女たちよ。 何故剃らないのか。 気にはならないのか、そのヒゲが。
リリーフランキーが同じ問題を言及しているのをみるにつけ、 私はここに土下座する。 女子よ、お願いだからヒゲを剃れ。
男の無精ヒゲは、時にワイルドでよろしい。 しかし、女の鼻の下の毛は、単なる黒いうぶ毛だ。 黒いうぶ毛。こんなにテンションの下がる言葉があるだろうか。
向かい合って食事をしているだけでげんなりする。 そのヒゲが、よりにもよって「恋の話」などをしたがる。 ヒゲの恋。ヒゲの夜。 誰がヒゲの彼氏の話など聞きたいものか。 しかもその相手は「ヒゲが気にならない男」だ。 さらに始末が悪い。
リリーフランキーも言うように、 「鼻毛が出ている、などと言うのは単なる事故」だ。 毎日鏡を見ていて、ヒゲに気づかない、気づこうとしない、 これははっきりいって病気の域である。
リリー氏は「女子中学生と宗教の人」にヒゲ率が高い、としているが、 ブランド物で身を固めていようが、高いチワワを飼っていようが、 「ヒゲの女」はどうしようもなく「ヒゲの女」なのだ。 どういう訳か、そこだけ神経が抜け落ちているとしか思えないほど、 他は完璧な女が多いから理解に苦しむ。 先日立ち寄った、銀座COACHの春物新作ファッションショーに現れた全身COACHの女子も、 それはもう見とれるほど立派な「ヒゲの人」であった。
個人的には 「顔に似合わない濃い口紅をしている人」に ヒゲ率が高い、と思っているのだが、 それはまた、別の、お話。
ずっと気になっていた。 あなたのヒゲが。会うたびに。 このグレーな「ちょっぴり気になる」が、 恋に発展することはない。
2005年07月27日(水) |
おもちゃの街で生まれて消える。 |
友人のライブを見に行く
自分の信念の上に素足で立っている彼が うらやましく うらめしく 自分に自信が持てなくなって いや 自信を持つためにどうしたらいいか見えたというか このままじゃいけないと 強くそう思った
‘東京は灰色だ‘と彼は歌った それをきいた私は 心の隅っこでちりちりしていた考えとようやく向き合った
「アウェイの奴らはいつだってハングリー」 「アウェイの奴らが団結してトーキョーに立ち向かうエネルギーは恐ろしい」
トーキョーで生まれ育ち 不自由なく暮らしている 都会の真ん中で 情報に溢れて
私には ハングリーが足りない
倒すべき敵はどこだ
`恵まれてる奴は努力しない` `食えない奴ほどハングリーに求める` 昔 貧乏だった漫画家はそう言った 満たされた生活は努力を奪う 住む家も愛情も 無限ではなく 有限
一度大きなアウェイに出てみる必要がある とてつもなくでかくて強大な でもただ行くだけじゃ意味も価値もない 私はそこへ何をしにいく? 何を成し遂げたい?
信念の上に素足で立ってる彼を見て 自分の信念のもろさに気づいたんだ 私がいない どこにもいない カッコ悪すぎて涙が出た
友人として仲良くやっていけるかどうかの決め手、 それは「バカに対する価値観」が合うかどうか、 この一点に集約されることが分かってきた
「何が好きなのか」「何をいいと思うか」そんなものが違っても、 大した障害にはならない
むしろ 「クリスチャンディオール大好き」と 「ジバンシー大好き」
は仲良くなるかもしれない
しかし 「ブランド大好き」と 「日本人の癖にそんな服着てんじゃねえよ似合わねえんだよ、バカが」
と思う人間は絶対に仲良くなれない
しかし、同じく彼らを「バカだ」と思う人間が現れれば、強い共感で結ばれる 強い嫌悪で結ばれる共感、それが「バカの価値観」だ
「何が好きか」がバラけていても問題はないのだ しかし、「何が許せないか」の違いは致命傷となる
「ニート万歳、適当に生きるって超ラクだよね」という人間と 「行動力の無い人間はバカだ」と思う人間が仲良くなるのは難しい
「男にもてなきゃ人生楽しくないもんね 女はかわいくてナンボ、今日も合コン★」という人間と 「おしゃれ?無縁 今日も図書館。男ウケのことしか考えてないカラッポ女はバカだ。」という人間が 仲良くなるのは難しい
逆に「モテてナンボ」と思ってる人間からしてみれば、 おしゃれもせず眉毛もボサボサで、キュロットはいて本ばっかり読んでる人間は、 「理解できない」バカに入ることとなる。
仮に嫌いあう双方が、共にディープな「ビートルズファン」だとしよう。 どうなるか? 「え、あいつ嫌いだけどビートルズ好きなんだあ、なんだ案外話が合うかも」となるだろうか。 実際は「お前なんかがビートルズ聴いてんじゃねえよボケが!」 となる場合が多い気がする。
ポジティブな価値観よりもネガティブな価値観の方が根が深い。 理由は分からないが、バカの価値観がずれた人間とは、 どうにも話が合わないのだ。
「何をバカだと思うか」「何が許せないのか」 友人としてそれが一致することは極めて重要である。
2004年12月18日(土) |
ジャンヌが無職を従えて。 |
すこし前のこと。
同窓会で会った友人に近況を聞くと、 「あたしぃ、ニートなんだよねー。」というまったるい返答が返ってきた。 「何?企業?」ニートという言葉を知らなかった私が意味を聞くと、 必要のない発音の良さで彼女は答えた。
「Not in Employment, Education or Trainingの略ぅ。 要は、何にもしてない人ってこと☆」
何だか「私は新人類」的な顔で得意気に話す彼女を見て、 すっかり脱力したのを覚えている。
「NEET」という言葉がはやっていると知ったのはその直後だった。
ニートとは、 『職に就いていず、学校機関に所属もしていず、 そして就労に向けた具体的な動きをしていない若者』を指す、 新しい言葉のことだ。
何故わざわざ居場所を作ってあげるんだろう。 それがそもそも疑問だ。 「社会不適合者」と呼べばいいのだ。 そう呼ばれるくらいなら、彼らはそこを出て行くだろう。 少なくとも、胸を張って自己紹介はすまい。 そう、「堂々と名乗れる」と言うところに、 この言葉の問題点がある。
同じく身分をあやふやにするごまかしの一つに、「フリーター」がある。 「フリーター」。こんなに便利な言葉があっただろうか。
かつて、定職に就かない者はただ「無職」と呼ばれた。 彼らは目を伏せて「無職です」と答えるしかなかった。 しかし、今は違う。 「フリーターです!」 カタカナに暗さを排された明るい無職は、 座りのいいネーミングに居場所を見つけて増加を続けている。
「フリーター」という言葉の名づけ親である元フロム・エー編集長の道下裕史氏の話によれば、 元々は「明確な夢を持って努力もしている、 しかしまだそれだけでは収入が生活に追いつかないアルバイター」 を応援しようとして作った言葉であったらしい。 しかし結局は「やりたいことが見つからずにふらふらしている層」を指す言葉になってしまった今、 「胸を張って宣言できるダメ」として 「フリーター」と「ニート」はどこまでも同意語である。
もうひとつ。 新しい言葉ができると、必ずそこに寄り添う人間がいると言うことだ。 「ストーカー」という言葉が流行った折にはストーカーが増えたし、 フリーターも然りだ。 「ニート」という言葉に寄り添い、 自分の状況に名前がついたことに安心して前進をやめる何万の未来が見える。
逃げ込む先を見つけた彼らは、そこからもう動かないだろうと思う。
世界は、言葉ありきで動いている。 例えば、英語に「肩こり」そのものを指す単語はない。 言葉がないから、 「なんだか肩が重たいけど、理由が分からんな。」と、 とりあえず気にならないという。 しかし、意地悪な外国人が「それはカタコリという症状ですよ」と、教える。 すると、実際肩がこるそうだ。 言葉が、人を先導する。 それは紛れもない事実だ。
人はたびたび、ダウナーな集団に名前をつける。 学問としてカテゴライズを進めるのは自由だ。 しかし、言葉はジャンヌのように大勢を先導する。 「フォローミー!」 その後ろに続く何千何万のヒッキーの列。 私は、ちょっと見たくない気がする。
しりとり竜王戦に出る夢を見た。 板尾に「なかなかやるやないか」とほめられた。 決勝まで進んだ。
そういえば昔、「DAIBAッテキ」に出る夢を見た。 チェキッ娘になるために、私は水着で歌った。 夢なのに落ちた。
記憶はどうしようもないところでつながり、 どうしようもないことを思い出させる。
ロリータファッションという文化がある。
ロリータファッションの愛好と言うのは、 フリルやリボンを過剰に着けることによって 足りない「かわいらしさ」や「キュート」を補おうとする行為だ。 そういった意味では、 自分にはそれらが足りていない、という、 ある種自覚の現れでもある。 十分かわいいのにロリータファッションに走る人もいるが、 それも素の自分で勝負する自信なさの現れだ。
ピンクと黒で、足りない自分に塗り絵をする。 ブスの補正下着、それがロリータファッションだ。
私はロリータバッシングをしたいのではない。 むしろ私も17の頃、ロリータファッションに身を包んでいたクチだ。
花飾りのついたカチューシャ フリルスカート プトマヨのブラウス ジェーンマープルの指輪 厚底サンダル ロビンと名づけたパンダのぬいぐるみ 姫カット
ロリータの魔力はすごい。 かわいくなった気がした。 点数が上がった気がした。 友達が減った。 やめた。
しかし、あの陶酔感を知っている私としては、 その辺の人よりはロリータに理解があるつもりだ。
さて、下妻物語だ。 あの映画の影響で、全国のデコラたちが脅威にさらされている。
日ごろ理解されないロリータに光が当たったのはよろしい。 問題はフカダキョウコだ。 本当の美人が、フリルを手にしてしまったのだ。 それは、スーパーモデルが補正下着をつけるようなもの。 真の意味で補正下着を付けている下々はどうしたらいい?
「いやーん、フカキョン超カワイイー」じゃねえよバカ。 かわいい+ロリータ、という完全体が現れたおかげで、 かろうじてフリルで保っていた自分の「キュート」にボロが出ているのが分からんのか。 フカダキョウコの登場で、フリルとレースの魔法は解け、 ロリータ→一応かわいらしい感じがする、という時代は終わってしまった。 もはやロリファッション愛好家は、フリルを付けたただのブスだ。
下妻物語はコッチの世界に打ち込まれたミサイルだ。 全国のロリータ達よ、フカダキョウコと戦え。 でも戦う方向を間違えてはいけない。 ロリたちの声が聞こえる。
「フカダよりもデコラに!デコラに!」
ほうら、着飾ったブスの完成だ。
もしくはこれを機に素直に鏡に向かうこと。 そうすればキミも私のように、ラミパスラミパスルルルルル。
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