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■ 恋愛論
今日はまだ始まったばかりなので これは今日の夜書くであろう日記の 代替日記(?)とりあえず今日の夜には 新しい日記に更新されます。
恋愛論か〜。 友達だからセックスしたらあかんの? 友達だから一緒にどっか遊びに行ったらあかんの? 友達だから同棲したらあかんの? そんなことないやろ? お互いに「好きです」ってなって じゃーこれから付き合いましょうって なったらそうなる前とどう違うのか? 俺が思うに付き合うってことは お互いにお互いの自由を一部奪うって事 じゃないかな? 逆に言うとお互いに自分の自由が侵されることを 許すって言うかさ・・・。 排他的になれとまではいかないけど、 それに近いような拘束、束縛、独占・・・。 だって自由だったら付き合う意味無いじゃん。 恋人たちがすることって基本的に友達関係で したらあかんってことないやん。 (てゆーか法律に違反しないことは基本的にOK) (あ、でも違反しないからって何やっても良いって 考え方は嫌い) 敢えて友達、恋人って分けるからには 友達ではダメで恋人ならOKって言う何かが あるのが必然なんじゃないかな・・?
そもそも友達と恋人を区別しないって 言う人もおるよね。でもそれって言い換えると ある程度、誰でも代替の利く人間関係ってことで しょ?それは自分が他の誰にとっても 代替の利く人間であると言うことであって・・・。 じゃ一体何が欲しいの?って俺から見たらなる。
寂しいから付き合うって言う人もおるよね。 でもそれもやっぱりさ、どっか他の人間でも 代替できるよね。だって寂しくなけりゃ 誰だって良いんだもん。
でも結局恋愛なんて当人同士が良ければ それで良いもんだしね〜。 端から見たらおかしく見えても、 当人同士が納得してるんならそれが全てだしね。 逆に周りから「おかしいよ〜」って 言われて折れるくらいの関係なら 本当におかしいのかもしれんね。
「恋とは錯覚である、愛とは思いやりである」 ひろお(1980〜)
恋というのは互いに互いの中で 自分が他人の中で一番に大切な存在である 自分は他人にとって換えの利かない存在であると 錯覚している状態を言う。 錯覚している間はこれが錯覚であると 気づかない。(←これが重要) しかし錯覚というのはいつかは醒めるもので だんだん相手が自分の信じていた姿と 違うと言うことがわかってくるようになる。 自分が一番だと信じていたものが 「それほどでもない」とわかってくるようになる。 これが恋の終わり。
そして愛とは自分が相手にとって 言うほど大切な存在でない とわかりながら、しかし自分にとって 相手が大切であると感じ。自分の相手への 不満足を許す、、、言い換えると そうであってもそれでも一緒にいて欲しい と思うこと。 もともと人は一人では立てないけど、 だからといって誰か自分以外の 特定の個人に完璧に依って立つことも できないのだろう。
とか言ってみましたが、 要するに他人の心を糧に生きていくことは できないってこと。常に不安と 疑心にさいなまれることになるしね。 それに究極まで行ったら 「あたしのために死んでください。そしたら 私はあなたを信じて、あなたを一番大切にします」 ってなるやんけ。
補足ながら恋の話 「冷めた」は「醒めた」やね。 錯覚の論理でいくと。で一方が醒めて もう一方がなんでや〜〜〜ってなってる状況って よくあるやん?錯覚から醒めた方は 錯覚してる奴を「なんだこいつ、バカな奴」 ってなるでしょ。錯覚してる方は 未だに現実に戻ってきとらんわけやから 「なんでや〜好きって言うてたやんか〜」って なるわけやね。
ん〜〜なかなか説得力あると思わん? これが真実か? ぶぶ〜真実ではありません。 真実の愛とは常に無意識の中にあるものです。 言葉で説明できるものは真実ではありません〜 と思う。てゆーかそうであって欲しい・・・(笑)
でもこれが真実だとして 冷静に分析してる自分は錯覚できるんかな・・・? 真実じゃなかったとして意識してる自分は・・・。
誰かこの自分でも本当にイヤになるくらいの 冷静で「醒めた」心をぶっ壊してください
2001年04月08日(日)
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