スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次過去未来


2009年08月31日(月) 高松へ

昨日は衆議院選挙だったが

期日前投票を済ませていたので

朝8時前に家を出て高松へ行ってきた。

チャンネル桜の香川県支部の活動に参加するためだ。

今回の活動は

NHKの大罪Tシャツを着て

正論やWiLLや産経新聞を持っての

ぶらぶら歩きということだった。

高速バスで2時間半。

12時前に着きお昼を済ませて12時半に集合。

男女合わせて18人が集まった。

中には私のように他県から応援に来ていた人がいた。

電車に乗りひと駅先の駅へ。

プラットホームにはNHKの大罪Tシャツ姿がずらり。

壮観だった。

そして、繁華街を歩いて中心部へ。

8月7日に台湾を襲った台風8号の台風被害への

応援募金を募る活動を始める。

丸く円になり並んで訴えた。

でも、反応は少なかった。

子供や若者の方が反応してくれた。

集まった募金は2万円ちょっと。

それでも、これだけ集まったことはすごいと思う。

参加した人たちに挨拶して別れる。

5時前のバスに乗り家に着いたのは8時を過ぎていた。

選挙の開票速報が始まっていたが

見る気もしない。

疲れていたので早目に寝た。

写真は30枚処理しチャンネル桜に送ったが

明日にはアップされるだろう。

10月の私たちのデモには香川から10人は応援に来てくれると言う。

こうして草莽の力で日本を守っていかねばならない。

そして、反日マスコミをつぶしていかねばならない。


2009年08月30日(日) 上杉鷹山

昨日は、私が所属する「日本の歴史に学ぶ会」の講演会があった。

今回の講師は日本政策研究センター研究員の岡田幹彦先生で

演題は「上杉鷹山について」であった。

岡田先生の講演会は

前回「二宮尊徳」を聴きその生き方に感動をした。

昨日の上杉鷹山の名前は知っていたが

鷹山についての知識はほとんどなかった。

だから、鷹山が米沢藩を立て直した為政者であり

日本で最も尊敬されている人の一人であるということを知り

ある意味、自分自身の教養のなさにあきれた。

上杉鷹山の知られざる一面を見たのは次のことだ。

誰にも再建不能と思われた米沢藩を、

30年かけて見事に立て直した江戸期随一の名君、

上杉鷹山は何より人間として立派であったが

彼はまた、家族を大切にした人物でもあった。

上杉家の養子である鷹山は19歳のとき、

先代重定の娘、幸姫(よしひめ)(17歳)と結婚したが、

幸姫は精神薄弱者で発育不全、体は少女のままで、

妻としてのつとめを果たすことのできぬ不幸な人であった。

しかし、鷹山はこのような幸姫を心からいたわり、

深い愛情をもって接した。

どんなに政務が立て込んでいても、

毎日必ず時間を割き、幸姫の部屋を訪れて相手をした。

折り紙や玩具や人形で遊んでやるのである。

幸姫はいつも少女のように喜々として声をあげてたわむれた。

幸姫は夫の鷹山がこうしてやってきて遊び相手をしてくれることを、

無上の楽しみとし喜びとしたのである。

この二人の様子を見て、

幸姫づきの女中たちはかげで袂(たもと)を絞った。

幸姫の喜び楽しむ姿を見てはうれし涙を流し、

夫婦の会話もかなわず子も産めぬ幸姫にいささかの不満を示すことなく、

心から同情し敬愛を尽くして遊び相手をする鷹山に

悲しみの涙を漏らしたのである。

幸姫は30歳で亡くなるが、

鷹山とともにあった13年間は至福そのものであったといえよう。

鷹山は薄幸の妻に対するこうした慈愛を

同様に米沢藩の人々にふりそそいだのである。

以上は岡田先生の話の中の一こまであるが

この話を聞いても鷹山という人物の高い人間性を思うことが出来る。

誰にでもできることではない。

人を愛することの原点ともなるのではないかと思う。

私自身、心臓の障害者であるが

こんな私のことを知って結婚してくれた夫も

考えてみたら上杉鷹山に通ずる一面を持った人なのだと思う。

鷹山についてはケネディが尊敬する日本人だと言ったという噂がある。

真偽は明らかではないが

岡田先生は聴衆にこのことを説明されている。

日本を代表する素晴らしい人物であったことは

世界に誇れると思う。


2009年08月29日(土) いちじく

以前にも書いたことがあるが

私の子供の頃の夏の思い出の中の一つにいちじくがある。

当時住んでいた長屋の裏の庭に一本のいちじくの木があった。

背が低いこともあって

小さな私でも木に登っていちじくの実を取ることが出来た。

いちじくにも種類があり

我が家の裏庭にあったいちじくは小粒だが甘みの強いいちじくだった。

雨上がりは水っぽくなるので

取るのは晴れ間が続いた日が良い。

学校から帰ってランドセルを下し

裏庭に回っていちじくの木をぐるっと見まわし

食べられそうに熟したものを見つけると

やった!と急いで捥いだものだ。

今思うと衛生的ではなかったが

洗わずに薄皮を剥き口に入れたものだ。

ねっとりした感触の甘みの強いいちじくは

私の大好物だった。

腹薬になると母も言っていた。

いちじくは買って食べるものではないという思いが強いが

その後、引っ越して思い出深い家もなくなった。

今、私の住む家の近くに農家から産地直送されるマーケットがある。

そこで一パック4個入りで200円余りで売られている。

懐かしい思い出の味なので買い求め食べてみるが

昔のあの味とは違う気がする。

戦争後のあまりもののない時代と比べ

今は飽食の時代となったから

同じいちじくでも美味しいと思わなくなったのかもしれない。

考えればもののない不自由な時代だったからこそ

裏庭のいちじくがとても愛しく思えたのだろう。

もう一度あの頃に戻ってもぎたてのいちじくにかぶりつきたい。




2009年08月28日(金) アンチエイジング

10月4日は私の誕生日だ。

あと二カ月で58歳となる私は、

最近新聞に挟んである

老化防止の化粧品広告チラシが気になり始めた。

そこには、

まるで30代に見える60代の女性の笑顔が掲載され、

化粧品の使用効果を嬉しそうに話している姿が紹介されている。

謳われている「アンチエイジング」は、

いわゆる抗老化、抗加齢だ。

これは老化の時計を止めるのではなく、

針を少し戻してその進みを遅らせることだそうだ。

加齢はどんな人にも平等に与えられたものだと思っていたが、

お金があればその老化を遅らせることができるのだと改めて思った。

確かに、女性にとってしわやしみは気になる。

紫外線防止やしみやしわを作らないために気を遣う。

起床後すぐに鏡を見ることを日課としている私も、

毎朝素顔を見てため息をついている。

でも、顔や髪だけではなく、

心のアンチエイジングが大事だと思う。

年だから・・という気持ちを捨て、

何にでも興味を持ち、トライしようとする気持ちを持とう。

背筋をピンと伸ばし今日も元気で頑張ろう。

「心は青春」それが私のアンチエイジングだ。


2009年08月27日(木) 走る、走る・・・

昨日は、私の6週間に一度の心臓の病院の受診日だった。

母がいつも付いてきてくれる。

有難いことだ。

11時に家を出て途中重信のグランフジへ寄りお昼。

早目に病院へ。

どこかで新型インフルエンザが出たと聞く。

やはりここでも患者が出ていたのだとちょっと心配になった。

血液検査はいつもと変わりなかった。

血圧は上が85、下が50とやはり低め。

これはいつものことだから気にしない。

薬もいつもと同じものを処方してもらい岐路に着いた。

母はお昼に鍋焼きうどんを食べたので

喉が渇いたのだろう、かき氷が食べたいと言った。

私はそうでもなかったが

母に付き合ってかき氷を食べることが出来る店を探した。

今年はあまり氷の旗を見かけない。

結局、家の近くのショッピングセンターのフードコードで食べる。

そこで、大安売りになっていた100%ジュースの詰め合わせを見つけた。

お中元の売れ残りだろう。

5000円の商品が何と1500円になっていた。

病の叔父がジュースは飲めると聞いていたので

これを買って持っていこうと思った。

母はおかゆのパックを20個買う。

それから叔父の家へ車を走らせた。

案外道がすいていたので

1時間弱で着いた。

この間行ったことを叔父がとても喜んでいたということを

叔母から聞き、やはりこれからも機会を作って

顔を出そうと思う。

母も自分のたった一人の弟だ。

心配でたまらないのだろう。

母の気持ちを思うと車を走らせることぐらい

大したことはない。

それにしてもよく走った。




2009年08月26日(水) アブ

先週の月曜日

帰省していた義兄や娘や義母たち5人で

車で二時間ほどのところにある

面川渓谷へ遊びに行った。

都会から帰ってきた義兄は

まるで子供のようにはしゃいで

川に入り魚を手で取るなんて張り切って楽しんでいた。

私も面河には思い出がたくさんある。

だから、久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来た。

しかし、アブが飛び回っていたのには辟易した。

タオルやうちわで扇ぎ、追い払っても追い払っても

アブが飛び回るのだ。

そして、ちょっと油断していると体に止まり刺すのだ。

虫よけスプレーを持ってきたら良かったと思ったが

やはり二か所刺された。

そして、その刺された箇所がいつまでもかゆい。

お風呂に入った後はたまらなくかゆくなる。

足を二か所刺されたがそこは今も赤く腫れていて

3センチ大のしこりとなっている。

カとは違ってアブに刺されると本当に痛いし

後がいつまででも痒いし痛い。

ムヒを塗っても一瞬だけはすっとするが

またまた痒くなってついついかきむしってしまう。

いつまでこの痒みは続くのだろう。

秋になって涼しくなったら消えるのだろうか。

虫が大嫌いな私への報復で

アブは私の足を攻撃したのだろうか・・

なんて思ってしまうほど

いつまでも痒くてたまらない。

なんとかこの痒みがなくなれば良いのだが・・・


2009年08月25日(火) 叔父のこと

私には叔父と呼べる人はたった一人

84歳になる母の弟だけだ。

その叔父は田舎で夫婦二人の生活をしている。

盂蘭盆やお彼岸には母の実家のお墓参りに行った時に

叔父の家により話をすることにしていた。

今年は従弟の一周忌が行われたので

4月に行ってから昨日まで行っていなかった。

最近、叔父の体調が良くないと聞き心配していたが

昨日、叔父の様子を見てこれは放っておいたらだめだと思った。

しかし、叔父には遠くに住む息子以外に

孫がやはり離れて住んでいるので

叔父夫婦のことを気遣って様子を見に行く人がいない。

叔父は寝ていても座っていてもしんどいと言って

昨日も心臓が苦しくて食欲もないと

見ていて可愛そうなくらい弱っていた。

入院を勧めたが頑として受け付けない。

入院したら余計に悪くなるという。

秋になって涼しくなったら元気になると信じているようだ。

でも・・・

ほとんど固形物を食べない叔父が

このまま家に居て持ちこたえることが出来るかどうか・;

正直難しいように思う。

誰かがそばにいてあげることが出来れば良いが

それも難しいようだ。

叔父は母の弟で母にとったら唯一の身内だ。

だから、母はとても心配している。

叔母も同じだ。

なんとかしてあげたいと思うが

叔父自身が入院する気になってくれなければ

私にはどうしようもない。

市役所で介護認定を取ることを勧めた。

そうしたら介護が必要になった時に助かる。

もちろん家族がみてあげることが出来たらそれが一番だけど

81歳の叔母にそれを頼むことも気が引ける。

名前の通り老老介護の悲惨さを感じた。

なんとかならないのだろうか・・・


2009年08月24日(月) 久しぶりのつぶやき

15日以来、久しぶりに書いている。

一言で言って忙しかった!!

娘が13日に帰省し

22日に大阪に帰るまでに約10日は

私にとって言わば台風到来の日々だった。

娘が去年の春に家を離れ

夫婦二人の暮らしに慣れていたから

たった10日間であっても

私のペースが乱れ、

娘の行動を中心に時間が過ぎて行き

朝から晩まで落ち着く暇もない日々だった。

新聞も本も読んでいない。

何が忙しかったのか?と問われれば

娘のことをかまいすぎた私に問題があるのかもしれない。

放っておけば良いとわかってはいるものの

朝も遅くまで寝ていて部屋も掃除もできず

出かけるとなると一日お付き合い。

まあ、それでも機嫌よく帰って行ったのだから良しとしよう。

忙しい中でも、支える会の活動はしていた。

個人的に起こそうとしている裁判

また10月にやろうとしているデモ、

そして、他県の活動への協力等・・・

休む暇もなかった。

指もなかなか治らない。

今日は母の実家のお墓参りと

叔父が具合が悪いのでそのお見舞いに行く予定だ。

城川のかまぼこ板の絵展を見に行く暇もなかった。

こんなに忙しい時間を過ごしていると

ついつい心が荒れてしまいそうになる。

もっとゆっくりのんびりする気持ちを持とう。

母にかける言葉もついついきつくなってしまっていた

最近の私を猛反省。

8月も後半に入った。

秋はもうそこまで来ている。


2009年08月15日(土) 買い物

昨日は疲れた!!!

午前10時過ぎから

午後3時まで

娘の買い物に付き合った。

母と娘と三人でエミフルへ。

夏物バーゲンはほとんど終わっているが

それでも半額から70%引きをやっている店もあった。

数多い店を一軒一軒見てまわり

めぼしい品をチェックしておいて

一巡して元の店へ帰るというやり方で

洋服や靴やバッグや・・・・

娘は気に入ったものを買うことが出来たようだ。

母は高齢だしついて回るのも大変なので

休憩場所で座ってもらっていて

私一人が娘と行動をともにした。

でも、やはり買い物は楽しいものだ。

疲れるけれど、昨日のようにゆっくりと

見て回ったことは久しぶりだった。

ついでに、私のスカートも安くなっていたので買った。

¥6900のスカートが何と¥1545となっていたのだ。

感じも気に入ったし試着してもいけると思った。

買い物の途中でお昼になり

フードコートで三人ともビビンバを食べた。

座る席もないほど混んでいた。

こうして、母と娘と三人でお昼を食べることが

どんなに幸せなことかを感じた。

こんな時間がずっと持てると良いけれど

いつか、母が抜け、娘も抜けていくのだろう。

今が一番良いときなのかもしれない。

娘は私や母からも買ってもらって上機嫌で帰宅。

母の腰は大丈夫だっただろうか。

私は疲れて夕食もあまり食べることが出来なかった。

何より、怪我をしている右手がまた出血している。

家事も同じようにしているのが

ちょっと無理だったのかもしれない。

でも、意義ある一日だった。


2009年08月14日(金) 怪我

昨日は、朝4時半に家を出て母とお墓参りへ。

本来は入り花は立てるなの言葉もあり

お盆の前にお墓参りへ行くものらしい。

でも、13日は父の月命日なので

13日にお墓掃除とお参りに行った。

午後はいつも色々なことを教えてくれる

いわば、私たちの会の裏顧問の方から連絡があり

2時から3時半まで会った。

麻生総理の靖国参拝はまだ行くとも行かないともわからないと言われた。

私はてっきり参拝しないことを表明したと思っていた。

でも、確かに麻生総理の口から参拝しないとは言っていない。

つまり明言していないのだ。

靖国神社への高金素梅の暴挙の話は知らなかったようで

やはり、私と同様の怒りを覚えると言ってくれた。

それから、NHKへの訴訟の件、

一万人訴訟ではなく個人が訴訟を起こす件について

色々と考えを話し合った。

なんとかなりそうだ。

少し見通しがついた気がする。

夕方は娘が大阪から帰るので

バスが着く営業所まで迎えに行った。

予定より30分遅れで到着。

元気そうな顔を見てほっとした。

車中で色々な話をしてくれた。

今までの私たちはぶつかることも多かったが

最近はとてもいい感じで大人同士の会話が出来て嬉しい。

家に帰る前に母のところに顔を出そうと実家に寄った。

母もとても嬉しそうだった。

帰りは娘が運転してみるということで運転を交代した。

免許を取って一年になるが運転はこれで二回目。

やはりおぼつかない。

そこで思わぬことが起きた。

娘が悪いのではない。

私のミスなのだが

思いっきりドアに右手の指を挟んでしまったのだ。

親指、人差し指がちぎれるかと思った。

血がダラダラ出た。

傷の大きさに比べて出血が多量なのは

私が飲んでいるファーファリンのせいだ。

痛みをこらえて帰宅。

なんとか血止めをして台所に立つが

思うように包丁が使えない。

今回の怪我が右手なので特に不自由だ。

夕食を終え、救急病院へ夫が連れて行ってくれた。

縫合手術をしようかと医者が言ったので

それは困る・・なんとかならないものか…と心の中で思った。

結局縫うことはしないで済んだが

包帯を巻き、水仕事は手袋が必要で、本当に不便だ。

昨夜は夜中に相当痛んだ。

寒気もしてがたがた震えた。

熱が出るのかも?と思ったが

朝には痛みも寒気もほとんどなくなっていた。

車は発進時にものすごい痛みがあるがなんとか乗れる。

でも、家事ができにくい。

雑巾も絞れない。

動作が遅くなる。

時間もかかる。

全治二週間。

当分不自由するだろう。

娘が帰省しているときに何と間の悪いことか!

でも、もっとひどいことになっていたら大変だ。

それだけでも感謝したい。


2009年08月13日(木) 5時間

昨日は、久しぶりに親友とお喋りする時間を過ごした。

彼女は、私にとって一番の友だ。

掛替えのない親友だ。

彼女との話は他愛もない話ばかりだけど

それでも、私にとっては

一番気が休まり嬉しい時間を過ごせる。

昨日も、11時半に会って16時半まで5時間が

あっという間に過ぎて行った。

何を食べる?と迷って迷って・・・

お昼前に注文すれな良かったのに

一番混んでいるころに注文してしまって

二人で大笑いをした。

彼女から私に悩みを相談することはない。

いつも、何かあると話を聞いてもらうのは

私の方だ。

でも、昨日はそんな話もしなかった。

ということは、最近の私には悩みもないということだ。

ただ、憂えるのは日本のこと。

麻生総理が靖国参拝をしないと表明したこと、

民主党政権になったら日本が大変なことになるということ、

私たちがだんだんと年老いて

どんな風になるのだろうかという

少々深刻気味な話まで

内容はまるでスーパーマーケットのように

何でもありの世界の話となってしまう。

お互いの子供の話をして

自分自身との違いに改めて気付き

また、ここで笑ってしまう。

あんまり人を観察するのはダメだと思いながらも

どうしても目が色んな人に向いてしまう。

そして、またしても(これで二回目)

飲みかけのジュースをひっくり返すのだ。

昨日もぬるくなったCCレモンを

見事にひっくり返してしまった。

スカートもびしょびしょになった。

アハハハ・・・ついつい笑ってしまう。

一階に下りてジュエリー店へ入る。

買うつもりはないが

色々と見てまわった。

その中で私の目に留まったのは

ペアーのリング・ネックレスだった。

良いなあ・・・

こんなのを誰かとペアーでつけたいなと言ったら

彼女に笑われた。

私の娘と彼に買ってやろうかと言ったら

そんなものは母親が買うものではないと言われた。

私が持てないから娘のために・・買ってやりたいと思ってのだけど

やはりおかしいのだろう。

ユニクロに入り、試着まではしないが

あれもダメ、これは?う〜んちょっと・・と言いながら

結局何も買わずに出た。

こんな風に時間を過ごすってたまには良い。

いつも、日本の未来を思って深刻になって

いつもいつも活動のことばかり考えていると

こうして普通の人たちの中で

普通の時間を過ごすことが

とても新鮮に思える。

5時間のいう時間を堪能した気分だ。

また、機会を作って楽しい時間と作ろうと思う。


2009年08月12日(水) 映画「オーストラリア」を

今春、映画「オーストラリア」を観て

これは反日映画だと思った。

私が参加しているMLでも話題に上り

反日映画だ、いや、そうではないと思う等

それぞれの意見が出たが

それ以降話題にも上らなくなった。

正直、人とはこんなものだと思っていた。

私はその折に

この映画について誰かが

オーストラリア政府や製作者に抗議をしてくれればいいと思った。

もちろん英語で。

悲しいかな、私には英語の力がない。

だから、知人に加瀬英明先生を紹介してもらった。

私の気持ちを綴った手紙を先生に送ったら

先生からご丁寧なお葉書をいただいた。

先生は映画を観ていないので

現時点では抗議ができない。

もし、映画がDVD化され観ることができたら

英文で抗議してくださると書いてあった。

あれから数カ月が過ぎた。

いつDVD化されるのだろうと待ち望んでいたが

やっとレンタルされるようになった。

そこで、昨日借りてきてダビングした。

そして、先生に再び抗議依頼の手紙を書いた。

今日はその手紙とDVDを先生に郵送することにしている。

先生が会長をされている

「史実を世界に発信する会」に入会しているが

本当に素晴らしい活動だと思う。

お忙しいから抗議文をいつ書いてくださるかはわからない。

でも、きっといつの日か

きちんと抗議をしてくださると信じている。

再度映画を観てみると

やはり反日映画だと思った。


2009年08月11日(火) 情けない

草莽の心にも書いたが

麻生総理に失望した。

15日の終戦の日の

靖国神社参拝はしないと決めたとのこと。

昨日、このニュースを産経ニュースで知り

唖然として、しばらく放心状態に陥った。

ここまで、自民党の支持率が落ちたのは

この麻生総理のように保守としての姿が危ういからだと思う。

もう何も怖いものなんてないじゃないか。

この期に及んで何をためらう必要があるのだろう。

なんでもありなのに。

核問題にしても

もっと深い時点の話をしてほしい。

非核三原則を守るなんて

誰が聞いても笑っちゃう。

本気でそんなことを考えているのだろうか。

靖国神社参拝は日本の総理大臣としての責務だ。

中曽根元首相が参拝したころまでは

毎年総理大臣が参拝するのが普通だった。

それを、思うと中曽根元首相が

中国や韓国に気兼ねなどせず

堂々と参拝をしていたら

こんな状態には陥っていなかったはずだ。

それにしても

本当に情けない。

政争の具にしたくない?

笑っちゃう。

初めから靖国神社参拝は政争の具ではない。

根本的なところから間違っているのだから

もう救いようがない。

「・大東亜戦争は侵略戦争ではない。マッカーサー自身が認めている。

・日本には戦犯などいない。いると言うのであれば、戦勝国も同様だ。

 米国の原爆投下や無差別空襲による非戦闘員の大量殺戮。

 ソ連の中立条約違反と満州における非道な犯罪、

 シベリア抑留こそ国際法違反であり、戦争犯罪だ。

・欧米諸国こそが侵略国家であった。

 大航海時代以降の彼らの冷酷非情な侵略の歴史を見ろ!

・中国に至っては現在でも侵略国家である。

 チベット・ウイグルにおける非道な圧政を見ろ!」

これは

私が参加しているMLで

私への返信をいただいた人の言葉だ。

その通りだ。

本当に情けない。


2009年08月10日(月) 回天記念館

昨日、「戦友たちは何のために自分の命を捧げたのかを、

是非とも今の若者に理解してほしい」との意の

「回天の志」を読んだ。

■1.「嫌だと思うものは、遠慮なく申し出ろ」■

 竹林博ら、第13期甲種飛行予科練習生100人が山口県周
防灘の入り江に浮かぶ大津島に着いたのは、昭和19(1944)年
9月21日だった。食料などの積み卸しを終えると、「海軍大
臣の許可なき者出入を禁ず」と書かれた建物の中に入った。

 中は薄暗く、目をこらすと直系1メートル、全長15メート
ルほどの円筒形の黒い塊があった。そばに立っていた板倉少佐
が言った。

 これが貴様たちが乗る一人乗りの人間魚雷である。もち
ろん、一度出発したら、絶対に帰ってくることはできない。
よく見て、そんなつもりではなかったと思うもの、俺は嫌
だと思うものは、遠慮なく申し出ろ。俺が責任を持って原
隊に帰してやる。

 竹林は、今にも爆発しそうな黒い塊に震えを感じた。人間魚
雷「回天」の開発者・黒木博司大尉(殉職後、少佐に昇進)は、
わずか2週間前に回天の訓練中の事故で、殉職していた。

 黒木少佐の殉職はショックだったが、それ以上に、後に
続くんだと奮起した。それは私だけではなかった。当時、
大津島にいた隊員はみんな、生の執着よりも、今の戦況で
は自分の命を投げ出さねばならないと心に決めていた。

■2.「後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように」■

 甲種飛行予科練習生はパイロットを大量養成するために採用
された満15歳から20歳未満の若者たちだ。竹林は札幌生ま
れの当時19歳で、大空への夢を抱いて、応募、入隊し、茨城
県の土浦海軍航空隊で学んでいた。

 一月ほど前の8月28日朝、突然、偵察専修者約1500名
に非常招集がかかった。集合場所の大格納庫は、白い練習衣に
白い艦内帽をかぶった練習生であふれた。猛暑の中、出入り口
や窓が閉ざされて、息がつまるような熱気の中、練習生たちは
直立不動のまま、指令の言葉に耳を傾けた。

 残念なことだが、前線将兵の奮戦にもかかわらず、一日
一日と敵の反撃の波は強く打ち寄せている。サイパンが陥
(お)ち、ラバウルに孤立した海軍航空隊すら、十分補給
もできない現状である。・・・

 そして今、この窮状にこたえて、敵撃滅の新兵器が考案
された。否、もう試作を終え、米海軍に一大反撃を展開す
る日も近い。

 殉国の熱情に燃える諸子の中から、この兵器に乗って参
加したい者があったら、後に紙を配るから、分隊名、名前
を書いた上、熱望は二重丸を、どちらでもよい者はただの
丸を書いて分隊長に提出しろ。

 ただし、最後に言っておくが、この兵器は生還を期する
という考えは抜きにして製作されたものであるから、後顧
の憂いなきか否か、よく考えて提出するように。

■3.「日本が敗れ、米兵が上陸してくると家族はどうなるのか」■

 竹林は躊躇しなかった。用紙が配られると即座に二重丸を書
き、その上に「絶対」に2文字を付け加えた。

 旗色は本当に悪いのだ。もし、日本が敗れ、米兵が上陸
してくると家族はどうなるのか。

 家屋は焼き払われ、家族や親類、隣近所の人たちも、全
員、殺されてしまうのではないか。

 こうした気持ちはほとんどの者に共通していた。9割以上の
練習生が二重丸を書き、中には血判を押して提出する者もあっ
た。

 翌日、100人が選ばれた。最も重要な選考基準は、後顧の
憂いがないかどうか、すなわち兄弟の多い者ということだった。
竹林は兄が一人いるだけだったが、攻撃精神旺盛ということで
選ばれた。洩れた熱望者の中には、「どうして自分は落ちたの
か」と分隊長に激しく詰め寄る者もいた。

■4.「俺たちもすぐに行くから靖国神社で待っていてくれ」■

 大津島に着いても、回天の操縦訓練はすぐには始まらなかっ
た。訓練用の回天が3基しかなかったからだ。出撃が決まった
順に、訓練が行われた。

 竹林らには、その順番が回ってこず、毎朝6時半に起床して
からは、回天の機構や整備の座学、調整場での整備の手伝いを
中心に過ごした。夕方からは搭乗訓練の後の研究会が開かれ、
搭乗訓練をしていない竹林らも傍聴した。研究会では階級に関
係なく激しい議論が行われ、深更に及ぶことも希ではなかった。

 大津島に赴任して、約1カ月経った10月半ば、第一次回天
特攻隊「菊水隊」が出陣した。3隻の潜水艦に各4基の回天を
搭載、合計12名の搭乗員が出陣した。西太平洋のカロリン諸
島に集結する機動部隊へ奇襲をかけるためだった。12名の搭
乗員は、母艦の艦橋や回天の上から、抜き放った軍刀をかざし
て、万歳を叫びながら、出撃していった。竹林らも大歓声で見
送った。

 12月末には、竹林らと一緒に来た二人の搭乗員が、第2次
回天特攻隊「金剛隊」としてグアム島を目指して出撃した。
「俺たちもすぐに行くから靖国神社で待っていてくれ」 そう
言いつつも、竹林は涙が出て仕方なかった。

■5.「真っ暗な道をヘッドライトをつけずに車を操縦するようなもの」■

 翌年3月、ようやく竹林にも訓練開始の命令が出た。覚悟し
ていたとはいえ、操縦席に腰を下ろし、ハッチを閉めた瞬間、
すさまじい孤独と恐怖が襲った。回天の操縦は、例えて言えば、
真っ暗な道をヘッドライトをつけずに車を操縦するようなもの
だという。

 しかも、電動縦舵機のスイッチを入れ、発信準備が整うまで、
19もの動作があり、これを正確に順序通りに行わないと、発
信しないばかりか、途中で酸素爆発を起こす危険があった。

 1回の訓練は1時間から1時間半。ストップウォッチだけを
頼りに、速度と航行時間から自分の位置を推定し、地図に記入
しながら進む。

 海軍兵学校出身で、同じく回天搭乗員となった小灘利春は、
こう述べている。

「軍部に強制されて」「人間魚雷の操縦席に、無理やり押
し込まれる」、ひどいのになると「殴りつけて特攻をやら
せた」と書く者がいるが、そのような性格の兵器では毛頭
ない。そんなことで操縦できる回天ではないし、まして命
中できる筈がないではないか。回天は搭乗員が「自分自身」
で乗り込み、自分の意思で突撃するものである。[1,p107]

■6.「早く発進させてください」■

 昭和20(1945)年7月14日、竹林ら6人の搭乗員は、伊号
53潜水艦に乗り込み、沖縄とフィリピンの中間海域を目指し
て出撃した。すでに沖縄は敵の手に落ちており、そこに九州上
陸のための人員や兵器が集積されつつあった。その輸送路を遮
断することが目的だった。

 出航10日後の7月24日、敵の大輸送船団を発見した。
「回天戦用意! 発進用意」と大場艦長の声が艦内に響いた。
竹林ら6人は母艦と回天を結ぶ交通筒を駆け上がって、ハッチ
を閉めた。その瞬間、竹林には「これでこの世とお別れだ」と
いう気持ちがこみあげてきた。「ハッチよし、電動縦舵機よし、
深度計よし、特眼鏡よし、艇内異常なし」と、回天と母艦を結
ぶ電話を使って、艦長に伝える。

 だが、潜望鏡で輸送船団の動向を追う大場艦長は「距離が離
れすぎた」と出撃命令をためらう。そこに搭乗員の一人、勝山
淳中尉(20歳)の悲痛な声が電話を通じて届いた。「早く発
進させてください。こんな船団はめったに出会えません。お願
いです」

 誰もが固唾を呑んで待つ中で、「固縛バンドを外せ」との大
場艦長の声が響いた。特眼鏡をのぞいていた竹林の視界が、勝
山艇のスクリューが作り出す泡と吐き出す蒸気で一瞬、真っ白
になった。泡が消えて視界が戻ると、目の前にあった回天の姿
はなく、外されたバンドだけが残っていた。「ああ、本当に出
撃していった・・・」

 それから約40分後、激しい爆発音が響いてきた。大場艦長
は潜望鏡で黒煙が立ち上る敵艦を確認し、「大型輸送船一隻轟
沈」と打電した。

 戦後の米軍側の証言では、勝山艇は間断なく投下される機雷
をかいくぐり、大型輸送船の艦底を通り抜け、折り返して再度
突入した。潜行して見えないまま襲ってくる回天は、米軍を恐
怖の底に陥れた。

■7.「魂は永久に留まりて故郷の山河を同胞を守らん」■

 5日後の29日、再び、十数隻の大輸送船団を発見。川尻勉
一飛曹(17歳)が発進命令を受けた。「関少尉や荒川らに頑
張るように言ってください。伊53潜万歳!」 この声を最後
に川尻艇が出撃。約1時間後に凄まじい大音響が響き、大場艦
長は潜望鏡で黒煙を確認した。

 川尻は遺書に、日本男子として出撃の好機を得た喜びと、親
への感謝を綴り、こう結んだ。

 日本に如何なる危難襲うとも、必ずや護国の鬼と化して
大日本帝国の盾とならん。身は大東亜の防波堤の一個の石
として南海に消ゆるとも、魂は永久に留まりて故郷の山河
を同胞を守らん。

身は消えて 姿この世になけれども
 魂残りて 撃ちてしやまん

 ご両親、近所の方々(略)に永年の御高恩を謝しつつ喜
んで死んでいきましたと呉々もよろしくお伝え下され度候

■8.「伊53潜は必ず生き延びて下さい」■

 回天搭乗員6人のうち、2人を失った伊53潜は、さらに索
敵を続けた。8月4日午前零時半頃、頭上からダダーン、ダダ
ーンという爆発音が響き、艦が叩き上げられるように激しく揺
れた。敵の爆雷攻撃である。最新鋭の「三式探信儀」で探ると、
5隻の敵艦船が爆雷を投下しているのが分かった。

 伊53潜は100メートルの深度まで急速潜行し、さらに左
右への急旋回を繰り返して爆雷攻撃を避けた。しかし、至近距
離で爆雷が炸裂するたびに、艦は激しく揺すぶられ、乗組員が
床に叩きつけられた。主蓄電池も破損し、一切の動力が停止し、
電灯も消えて真っ暗になった。

 回天搭乗員の一人、関豊興(とよおき)少尉(22歳)が司
令塔に現れて、大場艦長に言った。

 相手が駆逐艦でも不足ではありません。我々は回天で突
入することを本望としております。このままでは死にきれ
ません。必ず成功させます。

 この一言で大場艦長の腹が決まった。「回天戦、用意」。4
人の搭乗員が、それぞれの回天に乗り込んだ。訓練したことも
ない水深からの発進である。

 敵艦隊は必ず仕留めます。伊53潜は必ず生き延びて下
さい。私の最後のお願いです。

 電話を通して関の声が艦内に響いた。関艇が発進した。20
分後、大爆音が轟いた。

 それを待っていたように、荒川正弘一飛曹(22歳)が電話
の向こうで「すぐに出撃させて下さい」と言ってきた。

「すまんが行ってくれるか」「はい! 行きます」 普段は口
数の少ない荒川は、一気にまくしたてた。

 頭上の艦隊は必ず退散させます。これまでいろいろあり
がとうございました。伊53潜は無事に帰還して下さい。
そして大津島で待機している仲間のためにも働いて下さい。

 発進から5分後、大爆音が響いた。爆発した距離が近かった
ため、余波で伊53潜も大きく揺れた。

■9.「価値ある死を選んだ者から見ると」■

 いよいよ竹林艇の番が来た。大場艦長と電話を通じて、やり
とりをしているうちに、頭痛がして意識が遠のくのを感じた。
「少し頭が痛みます・・・」と話したのを最後に、音信が途絶
えた。

 伊53潜の艦内から竹林艇のハッチを開けると、竹林は操縦
席でぐったりと意識を失っていた。激しい爆雷攻撃で、有毒ガ
スの容器が洩れ、ガス中毒となっていたのだ。

 残る坂本雅刀一飛曹の艇も酸素パイプに亀裂が入り、高圧酸
素が洩れて、意識を失っていた。二人ともすぐに治療を受け、
なんとか一命を取り留めた。

 関と荒川の決死の反撃で危機を脱した伊53潜は、広島に原
爆が投下された翌日の8月7日、帰還命令を受け、12日、大
津島に到着。3日後の15日に終戦を迎えた。

 回天特攻作戦は、昭和19(1944)年10月から、20年8月
まで続けられ、89人の搭乗員が戦死し、15人が訓練中に殉
職、二人が終戦時に自決した。

 竹林は、平成12(2000)年5月、北海道大学岩見沢分校で、
学生たちに講演を行い、自らの特攻の体験を語った。学生たち
の顔は竹林に釘付けになり、真剣に耳を傾けた。

 竹林はこう語っている。

 学校で教えないから、今の学生は戦争の悲惨さや当時の
ことを知らなさすぎる。だから、私の話が新鮮に映ったの
だと思う。戦友たちは何のために自分の命を捧げたのかを、
是非とも今の若者に理解してほしい。最近、自殺が多いが、
価値ある死を選んだ者から見ると、簡単に死を選ぶのは止
めてもらいたい。我々には理解できないんです。今の日本
人には、まず世のため、人のために役に立つんだという気
持ちがほしい。[1,p11]
(文責:伊勢雅臣)

回天をテーマにした映画は多いが

その中で「出口のない海」が印象に残っている。

反戦映画だったのだろうが

生き詰まる思いで観たものだ。

私海軍の特攻については思い入れがある。

鹿児島の知覧特攻記念館には行きたいと思っている。

そして、回天記念館が

山口県の徳山、大津島にあることを知った。

これは行かねばならないと思う。

何故、多くの若者が命を捨てたのか?

本当に皆、死というものが怖くなかったのか?

今の日本男児は国のために死ねるのか?

そんな思いがしているからだ。

人はそれぞれ考え方も思いも違う。

そして、自分の思いと違っていたといって

それを批判することはしない方が良いと思っている。

言論の自由思想の自由が

憲法で謳われているのだから

何を考え何を思い何を言っても良いことになっている。

しかし、当時のことを今の考えで判断することはしたくない。

思いを当時に馳せるのが本当だと思う。

回天記念館を訪れたら

また、私の生き方が変わるのではないかと思っている。

今年の夏か秋には行きたい。




2009年08月09日(日) お施餓鬼

昨日は実家の檀家のお施餓鬼だった。

午後6時から8時の予定だったので

拓殖大学の荒木先生の講演会をキャンセルした。

母がカットに行きたいというので

5時に美容院を予約し

先生に駐車のお願いとしておいて

夕食を食べに東雲へ。

ここは、父が元気なころ

仕事から帰る父と母が待ち合わせて

夕食をしてお施餓鬼へ行ったという

思い出深い店だ。

母がその話をするたびに父への思いを感じる。

蛸飯や天麩羅、煮物、味噌汁、サラダのセットを頼む。

店内には高校生がたくさんいた。

昨日は俳句甲子園が開催され

全国から高校生が集まっていたようだ。

同じ店に居たのは開成高校の男子学生と先生。

開成高校という名前を聞いただけで

そこに居る男子学生が皆賢そうに見えた。

東高はどうだったのだろう。

そんなことを思いながら食事を終え

外に出てみると雨が降り出していた。

傘を持ってきていてよかったと思った。

お寺へ行くと施餓鬼法要が始まっていた。

暑いし雨も降るし、境内で待つのも大変だった。

母は大丈夫だろうかと気になる。

母とこうして一緒にお施餓鬼へ来ることができるのは

後どのくらいだろうかと思うとなんだか寂しくなる。

数人のお坊さんがぐるぐる回り始めると終わりに近い。

終わった途端に境内に居た人たちが

一斉に本堂へ。

卒塔婆といただきに皆が押し寄せた。

やっと実家の卒塔婆を手にして外へ。

もう真っ暗だった。

毎年のことながら母にとって大分重荷になっているのだろうか。

帰宅して母はああ〜安堵したと言った。

13日は父の月命日だし

お盆の入りだ。

入り花を立てるのはいけないというが

父の月命日なので、この日の朝早くにお墓参りに行こうと思う。

15日はお坊さんが実家へ拝みに来てくれる。

お盆がこうして過ぎていくのだ。

日本人にとってお盆は特別なものになっていることが

なんとなく嬉しい。

ご先祖様をお祀りすることは

時代がどんなに変わろうとも

大事なことだと思う。


2009年08月08日(土) 悲劇の妻から容疑者へ

昨日の午後、たまたまTVのワイドショーをつけてみると

先日、夫が覚せい剤所持で逮捕された

酒井法子さんに逮捕状が出たという話をしていた。

一瞬、何?と思って

画面にくぎ付けとなった。

前日まで皆から同情される

悲劇の妻だったが

昨日は容疑者ということで

名前もさんづけではなく呼び捨てとなっていた。

その後の経過を知り

これは計画的に逃走していると思われても

仕方ないことをしていると思った。

覚せい剤の怖さを知らないはずはない。

撲滅キャンペーンに出ていたこともあるという。

頭ではわかっていたと思うが

何故所持・使用したのか、その理由は本人しかわからないだろう。

否、本人もはっきりとした理由はわからないのではないか。

ただ何気なく使用したのか

それともストレス解消で使用したのか

どちらにせよ、今の日本では違法行為なのだから

やってはいけないと思う。

でも、彼女について同情していたかのような

報道をしていたマスコミが

容疑者となった途端一転して悪者のように扱っているのが気になる。

マスコミって所詮こんなものなのだろう。

ということは、マスコミを信じてはダメだということだ。

まだ、逮捕されていないし

実情もわからないのだから

あまり大々的に批判はしない方が良いと思う。

それにしても

両親が覚せい剤所持で逮捕された子供の心を思うと

本当に胸が痛む。

彼はどんな気持ちになっているだろう。

10歳と言えば小学四年だ。

理解できる年齢だけに可愛そうな気がする。

芸能人が覚せい剤所持・使用で逮捕されることが多いが

それだけ、芸能人としてストレスもたまり

大変なのだと思う。

彼女が逃走するのではなく、一日も早く出頭すれば良い。


2009年08月07日(金) 睡眠

ずっと睡眠不足の日々が続いていたが

一昨日の広島行きが無理だったのだろうか、

それとも気持ちと体のバランスが取れなくなったのだろうか

昨日は朝からやる気がせず

午前中は部屋の掃除もしないで

冷房を効かせてうつらうつらしていた。

10時になったので

このまま寝ていても仕方ないと思い

思い切って美容院へ電話をして

お昼過ぎからカラーとカットに行ってきた。

まだ二カ月は経っていなかったが

頭のてっぺんに白髪がピンと数本立つようになり

髪も落ちつかなくなったので

少し早いがカラーをしてもらうことにした。

短めにカットをしてカラーしてもらって

何か落ち着いた気がする。

昨夜は夫が会合があり

帰宅が21時になるというので

一人で夕食を済ませシャワーをして

冷房を入れた部屋のベッドで

20時からチャンネル桜を見ながら

ベッドに横になっていたら

何とすぐに寝てしまって

起きたら22時半になっていた。

TVは消していた。

そして、またそのまま眠った。

目が覚めたら今朝5時だった。

結構睡眠時間を取ったことになる。

頭もすっきりした。

さあ、また頑張ろう。

それにしても、人間寝るって大事なのだとつくづく思う。


2009年08月06日(木) 広島の暑い夏

昨日は、チャンネル桜二千人委員会主催の

「8・5広島・長崎・ウイグルー核を考える国民行動」に参加してきた。

朝9時半に家を出て

観光港発スーパージェットに乗り

広島へ12時過ぎにつく。

それから電車に乗って街頭宣伝活動の場所まで行く。

午後1時を過ぎて

準備が始まり、旗や風船の準備を手伝う。

暑い!

でも、皆頑張っていた。

3時前から街頭宣伝活動が始まる。

水島社長は自らマイクを握り

二時間以上演説をした。

核廃絶を訴える広島という地で

核の必要性を説き、中共のウイグル人虐殺

核実験を批判する演説は

本当に意味のあるものであり素晴らしいものだった。

中学生・高校生・大学生のグループが

田母神氏の講演を批判阻止しようとしていた。

日本軍の侵略戦争を批判していた。

彼らは何もわかっていないのだ。

田母神氏論文さえ読んでいないと聞き

これはダメだと思った。

それに比べて水島社長の演説がいかに力強く

また論理的であるかを思い知った。

18時半からは

日本ウイグル協会会長のイリハム・マハムティさんの講演会があった。

集まった人たちは皆イリハムさんの講演を真剣に聞いていた。

私も質疑応答の時間に

「イリハムさんは、日本が核武装することについて

どう思うか?」を質問した。

イリハムさんは「難しい問題です」と言いながらも

「戦争目的ではなく、あくまで外交の力として持つことは必要だ」と

答えてくれた。

そして、中国に対してものを言える

強い日本になってほしいとも言った。

本当にその通りだと思う。

中共はこの世界に必要はないと思う。

そして、中国の言いなりになっている

米や日本に対してとても歯がゆく思う。

日本は強くならねばならない。

ただ、平和を祈っていただけでは

真の平和は訪れない。

昨日の広島での活動に参加して

本当に良かったと思う。

決して疲れてはいない。

まだ充実感の余韻を味わっている。

暑い広島は今日原爆の日を迎えた。

秋葉市長の演説には中国が出てこない。

唯一の被爆国を強調するが

チベットやウイグルの被爆はどうなのだと言いたい。


2009年08月05日(水) 相次いで

昨日は朝から、芸能人、芸能人の夫の

覚せい剤保持、使用による逮捕ニュースが流れた。

一般人ならこれほど騒がれることはないと思う。

芸能人とその家族にとって

スキャンダルは命取りとなることを

改めて認識した。

二人とも

この事件がきっかけで

離婚劇へとすすみそうだ。

芸能人の結婚や離婚については

全く関心がない。

人は芸能人であれ一般人であれ

結婚するときには世界一幸せな顔をしているが

離婚のときにはほとんどが笑っていない。

同じ人間なのに

年が経ち、事情が変わると

こんなにも違うのかと驚く。

相次ぐ今回の事件の中で

酒井のり子が子供をつれて

失踪したというニュースが気になる。

こんなことくらいで

失踪などしないで良いのにと思ってしまう。

夫婦仲も冷えていたのなら

離婚になっても良いじゃないか。

小さな子供を連れていなくなるということは

周りに心配をかける結果になる。

捜索願いも出されて受理されたという。

家族の思いはそれほど深刻だということだ。

無事に帰ってくることを祈りたい。

そして、もし帰ってきても

そっとしておいてあげてほしい。

また芸能記者が追いかけるのだろうが、

これはしてはいけないことだと思う。

夫の覚せい剤保持逮捕で傷ついているはず。

死者に鞭打つようなことはしないのが良い。

誰でも人に触れられたくないことがある。

それを暴かれるということは

その人の人格をすべてあからさまにしてしまうことと同じだ。

今回の二つの事件で

私は人の心や人のあり方を考える。

とにかく、そっとしてあげるべきだ。

そして、改めて思う。

普通の暮らしがいかに有難いかを。


2009年08月04日(火) 今、読んでいる本

この数カ月というもの

新聞すら読めない日々が続いているが

やはり、本なしでは生活できない私だ。

そこで、ある人から紹介された本を読むことにした。

それは{「英雄たちの涙」目醒めよ、ウイグル}だ。

著者はアプドゥレヒム・オトキュル氏。

轟綾子さんの訳。

中国で発禁となった本だ。

今、中共によって

東トルキスタン・新疆ウイグル地区が

に住むウイグル人が虐殺されている。

何故、東トルキスタンがこうなってしまったのか。

ウイグル人は元々強い民族だ。

軍隊を持っていて力もあった。

そして、昔から独立を目指して戦ってきている。

そのウイグル歴史を描く本であり

ウイグル文学初の邦訳だそうだ。

「中国の火薬庫・新疆ウイグル」は

何故、独立を求め続けるのか?

その原点を描いた壮大な歴史小説。

描かれるのはティルム・カリフという

天山に革命の嵐そ吹き寄せた人物である。

彼はウイグル人の中から誕生した

素晴らしき、勇敢な「砂嵐の鳥」だった。

彼、そして彼らは

二百数十年の間、民衆にとって

魔の洞窟であったクムル王家の王城と

黒光りする門に象徴される

ウルムチ将軍府に地獄のごとき衝撃を与えた。

そして、彼らの寿命を縮めたのだ。

チベットはダライ・ラマがいらして

皆の関心度も高い。

でも、ウイグルに対しては

今回の中共の虐殺で初めて知った人も多いだろう。

しかし、独立のために戦っていた歴史は

ウイグルの方が古い。

中国はチベットと同じく

ウイグル人を虐殺し民族浄化をやっている。

日本もやがて同じ運命をたどるのではないかと

恐怖を覚える。

まだ三分の一しか読んでないが

この本を読みあげれば

ウイグルの独立への戦い

長い、遠い道のりが理解できると思っている。

数ページを読んですぐに眠たくなってしまうので

読み終えるのはまだまだ日がかかりそうだ。


2009年08月03日(月) 最後(?)の役員会

5月に会を立ち上げて以来

なんだかんだと問題が発生し

もうやめてしまおうか

解散してしまおうかと

何度も何度も考え

そして

今まで踏みとどまっていた。

会員は皆、同じ保守で

目指すところは同じだから

内輪もめもなく

一致団結するものだと思っていた。

しかし、

現実は違っていた。

性格にもよるのだろうし

それを批判する気はない。

ただ、何もしないで意見をいうのは

実際困る。

動けないのだから。

そんなことが次々と起き

一番嫌な思いをしてまで

この会をつぶしてはいけないと思ったのは

やはり日本にとって

チャンネル桜が必要だからだ。

辛い日々だった。

落ち込むこともあった。

でも、乗り越えないと前には進めない

そう思って頑張った。

昨日の役員会は

定例役員会としては最後だった。

今後は必要時に

私が召集をかけ

集まってくれる人たちで

活動をすることになった。

これが正しい姿だと思う。

時間も短くてすんだ。

帰宅して

報告書を書きメールで送信。

PCをしていない人たちには

印刷して郵送することにした。

考えの違う人同士が集まっているのではない。

しかし、全く同じ人はいない。

それが人と人との付き合いの

難しさかもしれない。

これで良いのだと思おうとしている私を

もう一人の私が見ている。


2009年08月02日(日) 一周忌

昨日は父方の叔父の奥さんの一周忌だった。

去年に秋分の日に亡くなった叔母は

父の三回忌にもとても元気そうだった。

それなのに、数日であっけなく逝ってしまった。

まだ70代の若さだ。

その叔母の一周忌が午前11時から

檀家のお寺で催された。

集まったのは20人ほど。

叔母の兄弟と息子家族と私たち甥と姪。

久しぶりに顔を合わすものだから

叔母の話題が少し出ただけで

後はお互いの話しをしていた。

お寺の法要の時に

私は前の方に座っていたので

何か違和感を感じた。

それは叔母の遺影の写真がないのだ。

そして、お花もない。

もちろん、お団子やおまんじゅうのお供えもない。

お寺さんが用意してくれた

お料具膳と位牌しかないのだ。

エッ!!

でも、言えないし・・・

そんな風に思ったのは私だけではなかった。

母も姉も従姉も同じ思いだった。

それを従弟のお嫁さんに話すべきか否か?

迷ったが、来年は叔父と叔母の七回忌と三回忌があるので

その時のためにも言うべきだということになり

母が年長者の立場でお嫁さんに話した。

とても素直に聞いてくれた。

葬儀社に尋ねても必要だと言われなかったという。

本当ならお寺さんに尋ねるのが一番なのだが

お嫁さんにはその考えがなかったようだ。

それにしても、なくなったら終わりだ。

後に残る人たちは適当にことを済ますのだから。

死んだ人にはわからないのだからという

理由は本当はダメだと思う。

やはり魂はある。

だから、きちんと供養してあげるべきだ。

でも、私が死んだら、娘はちゃんとしてくれるのか?

そんな気がしている。



2009年08月01日(土) 帰った!

28日に大阪へ行き

昨日の夜帰ってきた。

この四日間は本当に忙しかった。

思っていた通りの部屋。

そして、想像していた以上のしんどさ。

暑かったし、車がないということも

疲れを助長した気がする。

でも、愚痴はこぼせない。

私が決めて行ったことなのだから。

今日は叔母の一周忌。

明日は役員会。

しんどいと言って休む暇はない。

私のこのタフさに自分でも驚いている。


スカーレット