スカーレットの心のつぶやき
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2004年09月30日(木) 波風の立たない嘘

人は嘘をついてはいけない、

正直なのが一番だ・・と、

私は今までずっと思ってきた。

そして、娘にも小さい頃から嘘はいけないことだと教えてきた。

でも、「嘘も方便」という言葉があるように、

生きていく間には、

嘘をついたほうが良いときもあるのだと思うようになった。

友人がある本の中で

「波風の立たない嘘」という言葉を見つけたと私に話してくれた。

私はこの言葉を聞いたとき、

なるほど!と思った。

私の友人もとても純粋な人だから、

私と同じように、

今まで嘘はいけないものだと思って生きてきたという。

そして2人で「本当だね!」と納得したのである。

この社会の中で生きていく上で、

人との関係をズムーズにするためには、

ある程度の嘘は必要なのかもしれない。

自分の思っていることを、

正直に言うだけが正しいことではないのだと思う。

時には、「嘘をつく」ことが必要なのだ。

その嘘をつくことで、

自分自身も、相手も傷つかず、

後でもめることもない、

そんな嘘ってとても大事なものだと思う。

この嘘は、

決して自分のことだけを考えた勝手な嘘ではない。

あくまでも、相手の立場や気持ちを優先した

相手への思いやりのある嘘である。

そして、この嘘をつくことによって、

相手のためになるのなら、

閻魔様も許してくれるだろう。

小さな嘘で大きな幸せを得ることができるなら、

嘘は駄目だと断言できない。

上手な嘘、

相手の為を思ってつく嘘、

嘘をつくことで、

自分自身の周りに波風の立たない嘘、

これは人生において潤滑油になる嘘だと思う。

私は今までの人生の中で、

正直に言ったりしたりしたことで、

周りの人とトラブルを起こしたこともある。

これからの残りの人生、

楽しいものにしたいと思っている私。

これからはこの「波風の立たない嘘」をつくことにしよう。


2004年09月29日(水) 不安の克服

不安になる人とならない人との違いは何だろう?

それは、その人の心の中に自信がある人とない人との違いだろうか?

自信って何だろう。

人よりも何かが勝っているから自信が生まれるのだろうか。

否、それは違うと思う。

人に負けなくないと思って一生懸命に努力し、

その結果良い成績を出せたとしても、

それがその人の自信に繋がるとは限らない。

それは単なる虚栄心を満たすだけのものだ。

自分に自信のない人が一生懸命に努力し、

何かを成し遂げたとしても、

それは真実の実りにはならない。

それは他人に比べて自分が勝っていると思う優越感や、

他人を見下す道具にしかならないように思う。

不安をなくすために努力しても実を結ぶことはない。

一生懸命に努力しているのに実を結ばないと嘆いている人は、

その動機が不純なのだと思う。

人から認められたいとか、

人から賞賛を浴びたいとか、

そういうことを動機として努力したって、

それは本物ではないと思う。

かえって、

こんなに努力しても報われることがないと自信を喪失するだろう。

不安を克服できるときは、

不安というものから解放された時、

つまり、不安という捉われを忘れることができたときだと思う。

「人から褒められたい」とか、

「人に認めてもらいたい」といった欲を捨てたとき、

始めてその人の悩みから解放されるのだと思う。

他人に勝つことや、

何かを得ることでしか自分に自信が持てないと思っている限り、

どれだけ必死で努力しても、

本当の自信を持つことはできないと思う。

自信をもって生きている人は、

特別な努力をするのではなく、

ありのままの自分を認め、

その今の自分に価値があるのだと思える人だと思う。

そして、そう思うことは、

決して思い上がりでもなく、

努力することをサボっているのではない。

ありのままの自分自身を認めることが出来る人こそが、

真の意味での向上心を持ち、

努力している人だと言えるのではないだろうか。

私自身を振り返ってみたときに、

私は自分を認めることがなかなか出来なかった。

人からの価値判断に頼っていたのだと思う。

人に愛されたいと願う気持ちと同じだ。

人を愛して初めて人から愛されるのと同じように、

まず自分自身を認めてやらなければならない。

そうすれば自然に不安も消え自信も生まれてくるのだと思う。


2004年09月28日(火) 時間

今、私達が生きているこの地球上で、

時間というものはとどまることをしない。

今というこの一瞬は直ぐに過去のものになる。

時間は止まらないから、

未来は直ぐに過去になってしまう。

もし、宇宙に時間が存在しないとして、

あなたは宇宙への旅へ出たいと思うだろうか?

宇宙への旅に出て、

地球に帰って来ても、

旅立ったときと同じ状態、

つまり年を取らないとしたら、

宇宙への旅を選ぶだろうか?

私達がこうして今生きているということは、

深い意味を持っている。

人は決して一人では生きていくことができない。

社会の中で人とのかかわりを持って生きている。

家族や友人たちに支えられて生きている。

色々な経験をし失敗もしながら生きている。

嬉しいこと、

悲しいこと、

辛いことを経験しながら、

それでも生きている。

これって考えたら凄いことだと思う。

いくら年を取らないから良いと思って、

宇宙へ旅立って帰ってきたとしても

その行っていた間の数十年は、

ただ時間が過ぎたというだけで、

自分自身の中で何も存在しないのと同じ状態だ。

年を取ること、

つまり人と時間を共有することこそが、

生きるということなのだと思う。

だから、過去と未来の間を無駄に過ごしたくないと思う。

未来にも過去にもこだわらない生き方が出来ればどんなに良いだろう。

本当に時間というものは止まらない。

今というこの時間と同じ時間を過ごすことはできないのだ。

だからこそ、今という一瞬は貴重なのであり、

その今を大事にしたいと思う。


2004年09月27日(月) 程よい距離

何にでも一生懸命になる私は、

人間関係でもやはり同じようになってしまう。

人と人との関係は、、

相手が物でないから、感情が介入する。

だから、私一人が良いと思って一生懸命にしたことでも、

相手によっては反対の意味に取られたり、

私の気持や行為が却って迷惑に思われるときもある。

子供のころはそんなことはあまり考えないで済んだ。

相手は家族、つまり親兄弟が主だったから。

たとえ、私の気持が大きくても小さくても、

相手は私を理解しようとしてくれた。

でも社会に出るとそうはいかなかった。

私は善意で行ったことでも、

悪意に取られたこともある。

悩み苦しんだこともある。

これが一般の人間関係なら、

まだ修復できなくても良いやと思えるところがあるが、

相手が自分の好きな人の場合、

つまり、恋をしているときは、

いつも天秤が揺れ動いていうような感じがするものだ。

こちらの思いがあまりにも重過ぎると、

相手に引かれてしまう。

怖い存在だと思われてしまうこともある。

あの有名なシェークスピアはこんなことを言っている。

「恋はほどほどにするものだ、そのような恋こそ長続きする。」と。

人生50年生きてきて、

色々な恋をしてきてやっと、

この言葉の意味を味わっている。

何でも一生懸命になる私は、

恋にも一生懸命になった。

2人の間が上手く行っているときには、

何も問題は起こらないのだが、

2人の気持ちのバランスが崩れかけたとき、

あまりにも相手のことを思いすぎると、

失敗するということが分かった。

恋はほどほどに!

一定の距離を保つことがとても必要だとわかった。

あまりに熱心すぎると、

それだけ冷めるのも早いということだ。

長続きをさせようと思うなら、

微妙なつりあい加減を大事にして、

相手の心が全部分からないくらいなのが良いのかもしれない。

この年になって経験したことでもあるけれど、

あまりに思いつめると相手は引く。

そして適当な距離を置くことによって、

相手がまた自分のことを気にするということだ。

恋をするのは難しい。

もう残り少ない人生の中で無理かもしれないけれど、

気持ちだけでも、

私は良い恋をしたいと思う。


2004年09月26日(日) 淋しいな

友人が私に言ってくれた。

「楽しかったことだけ覚えておいたら良い」

「全部、忘れる必要はない」と。

そして、今の私は、

あの人との楽しかったことだけを

時々ふと思い出して懐かしんでいる。

でも、記憶というものは残酷なものだ。

あれほど、楽しかった2人の思い出を

いくら思い出そうとしても、

前に比べると鮮明に思い出すことができないのだ。

「ああ〜こんなときにあの人はあんなことを言ってたな・・」

「私がこの言葉を言ったら、絶対にこういう風に答えるだろうな・・」と

思うことはいっぱいあるのに、

まるで現実に起きたとは思えないくらい、

私の記憶の中で遠いものになろうとしている。

悲しいことや

辛かったことが、

こうして記憶の中から消えていくことは良い。

でも、楽しかった思い出が

消えていくことがとても淋しい気がする。

時は待ってはくれないのと同じように、

人の記憶の消滅も待ってはくれないのだろうか。

人は忘れることが出来るから生きていけるのだと思う。

これは本当のことだと思う。

いつまでも経験した苦い思いや痛い思いを覚えていたら、

生きることに恐怖感を覚えるであろうし、

消極的な生き方しかできなくなるだろう。

外傷性ストレス障害(PTSD)という病気があるように、

人にとっての心のショックはいつまでも後をひく。

だからこそ、

忘れるということが出来るのが有り難いのだと思う。

でも、今までの人生の中で

楽しかった思い出は消え去って欲しくないと思う。

二度と起きることのない、

あの2人の思い出を、いつまでも心の中に留めておきたい。

未来も過去もない、

今が一番大事だということはわかっている。

でも、時には記憶というバスに乗って、

あの頃の景色の中に帰りたいと思うことがある。

思い出はその人にとって宝物だと思う。

そして、その宝物が大事だと思える人は

きっとそのまま心の中で温め続けることができるのだと思う。

私も二度と帰らないあの人との思い出を、

心のよりどころとしておくだけだはなく、

私自身の生きてきた足跡として留めておきたいと思う。

忘れたくない・・・

忘れるのはあまりにも淋しい・・


2004年09月25日(土) 気分的なもの

人の気分って、ちょっとしたことで変わるものだ。

嬉しいことがあると、

自分の周りのものがばら色に見える。

何もかもがウキウキした気分になれる。

好きな人のことを思うとき、

何か楽しいことがあるのを待っているとき、

思わず鼻歌が出てくるように心が浮き立っている。

その同じ人間が、

何かちょっと嫌なことがあると、

笑顔も消え、暗い表情になるのは何故だろう?

本当に同じ人なのかな?と思うほど、

端から見た感じも全く違ったものに見える。

もし、自分をしっかりと持つことができたら、

どんなことが起きたとしても、

気分が変わらすに居られるのだろうか?

私が人に振り回されるのはやめようと思ってから、

前に比べると少しは強くなったと思う。

人間関係は相手のあることだ。

だから、私が一方的に良いようにと思ってしたことでも、

相手の取り方次第ではまるで正反対の結果になることがある。

もし、何かトラブルが起きても、

それは相手の考えたことが原因であり、

相手が判断したことなのだから、

私は気にしなくて良いのだと思うようにした。

そして、その訓練をしていくうちに、

段々と分かってきたし、

私の心も強くなってきていた。

今回もまたいつものように、

ある人が言った言葉で、

気分が悪くなりそうになったけれど、

私自身の気持ちの持ちようで

落ち込むこともなく、

悲しい気持ちになることもなかった。

そして、相手のことがとても可愛そうに思えて来た。

「なんと心の狭い人間なのだろう」と思えた。

今まで私の心が、

ちょっとしたことで身動きできないほど、

がんじがらめになっていたのかと思うと

なんとなくおかしくなってきた。

今はどんなことを言われても、

笑っていられる私が居る。

また今度はどんなことを言ってくるのか、

内心楽しみに思っている。

人のことで気分的に落ち込むなんて

本当にバカらしい。

憂鬱になるなんて大きな損だと思う。

気楽に!

これが一番なのだと思う。


2004年09月24日(金) 疲れた

今日は疲れた。

朝から耳鼻科受診の後、

母と高島屋へ寄っての買い物。

ああ〜しんど!

家に居るのが一番良い。

最近は遠出もしていなかったから

家にばかり居ると

どこかへ出かけたくてたまらなかった。

一週間自由な時間が出来たら

一人旅も良いなあなんて思っていた。

でも、今日久しぶりに外出してみると

とても疲労感を覚えた。

こんなはずじゃなかったのに。

街で生まれ育った私は

人ごみの中でも平気だった。

用がなくても

ウインドウショッピングが大好きだった。

でも、最近は家に戻るとほっとしている。

別に家が好きでたまらなくはないのに、

やはり、私の居場所はここなのだろうか?

なんだかんだ言っても、

帰る所はここしかないのかな?

心の中では自由に羽ばたいてはいるけれど、

実際の行動に移すことを躊躇う私が居る。

結局は心の中でしか

自由に旅もできないのかもしれない。

夫が干渉するわけでもなく、

時間に縛られているわけでもない。

好きなときに好きなことを出来る環境に居る。

でも、勇気が出ない。

何かしようと思っても行動力が伴わないのだ。

年のせいかな?

今日行った耳鼻科で、

めまいの原因は耳の三半規管にあると言われた。

聴力の検査の時には

高い音が聞こえにくくなっているといわれた。

そして、これは年のせいだとも。

ショック!

耳には自信があった。

どんな小さな音でも聞き逃すことがなかった。

でも、年を取るにつれて

体の色々なところで老化現象が出ているのだろう。

心はいつまでも青春!なんて思っていても、

自分自身の体が一番正直だ。

今日の疲れもそのためかもしれない。

過信はやめよう。

心も体も元気で居たいと思うなら、

もう少し自分の体に優しくしてやらなければいけないのかもしれない。

ああ〜本当に今日は疲れた。

ヴァイオリンの練習も出来ないで一日が終わってしまった。

まあ〜良いか・・

と一人心の中でつぶやく私が居る。


2004年09月23日(木) My memory

私は強いようで、本当に弱い。

何かあると直ぐに気持が挫けそうになる。

今年に入って始めたヴァイオリン、

8ヶ月が過ぎたというのに、

一向に上達しない。

レッスン日記を始めて張り切っていたのに、

途中で何度も投げ出しそうになった。

昨日も練習の後、

左肩が物凄く凝ってしまい、

私の弱い歯に来てしまった。

左の上の奥歯の親知らずが痛み始め、

歯茎が腫れて出血し始めた。

食事もろくにとれなくなってしまった。

今までの私はこうなると、練習を止めてしまうのだが、

今回は2,3日様子をみながらまたやってみようと思っている。

ある人に言われた言葉が頭をよぎる。

「ヴァイオリンの曲を聞いていて、ああ〜こんな曲を絶対に自分で弾きた

いと思う曲があるだろう?

その曲が難しいかどうかは関係なく、

もし自分だったら、それを目的にして時間の許す限り練習をする」と。

なるほど!

私にはこの「これを弾きたい!」と思う気持ちが足りなかったのだ。

何となく、この曲を弾きたいという気持ちはあったが、

それは彼が言う気持ちと比べたら雲泥の差だ。

彼は独学でピアノを弾いている。

それも仕事をしながら、忙しい時間を割いて練習している。

彼が始めて弾きたいと思った曲は

ベートーベンの月光だったらしい。

音大生が卒業の時に弾きたいと思う曲だとか。

その難しい曲を彼は3年かかって自分のものにしたという。

今はショパンの革命を練習しているはず。

あの左手の練習曲だとさえ言われる革命は

物凄く指使いの速い曲だ。

彼は昔私に言ってくれた。

「同じ一小節を繰り返し繰り返し、弾けるまで何度も弾くのだ」と。

私にはこの努力が足らない。

ピアノなら2時間が限度だ。

そして、ヴァイオリンなら1時間。

こんなものでは弾けるようになるはずはない。

目標を高く持ち、

夢で終わらせるのではなく、実現したいと願うなら、

頑張らなくちゃ!

決して諦めないで、投げないで!

今、私には弾きたいヴァイオリンの曲が一つある。

それは冬のソナタの中に流れる「My memory」

本当に美しい曲、心が癒される曲だ。

運転中に繰り返し繰り返し聞いている曲だ。

この「My memory」を弾くことが私の夢。

人は笑うかもしれないが、

彼の言うように、

私自身の夢を現実のものするためにも弾きたいと思う。

決して人のために弾くのではない。

自分自身のために弾くのだ。

でも、ほんのちょとだけ、

こんな風に思う私が居ることも確かだ。

もう、今では彼のピアノを聴くこともない私だけれど、

いつか・・

本当にいつか・・・

彼に私の「My memory」を聴いてもらうことができたら

どんなに良いだろう・・・

これこそ、私の人生の中で一番の思い出になることだと思う。

まさに私の唯一の「マイ メモリー」になるはず。

何年かかるか分からないけれど、

私はこの「My memory」を弾けるようになりたい。


2004年09月22日(水) 絵空事

私の心の中を覗いてみたら・・・

こんな絵空事が見えてきた。

笑っちゃうね。

あなたに会いたい。

あなたに会いたい。

あなたに会いたい。

あなたの全てが好き。

あなたの笑った顔。

あなたの寝ている顔。

あなたの怒った顔。

どんな顔でも私は好き。

あなたの我儘が許せる私。

あなたの言うことは皆受け入れることが出来る私。

あなたの言葉の一つ一つが

私の心に響いてくる。

どうして、もっと出会うのが早くなかったのだろう?

どうして、私が自由で居られるときに出会わなかったのだろう?

あなたの元へ飛んで行きたい。

あなたの胸に飛び込みたい。

あなたのことを思っているだけで

胸が切なくなる。

痛くなる。

悲しくなる。

人を愛することが

こんなにも切ないものだったとは・・・

あなたと出会ってから

私は変わった。

あなたのことを思うだけで

とても幸せな気持ちになれる。

切ない悲しい気持ちだけではなく、

とてもほのぼのとした気持ちになれる。

あなたの存在は私の生きる全て。

あなたの存在は私そのもの。

あなたとの別れが来るなんて

考えたくもない。

あなたは私の天使。

心のよりどころ。

あなたは私より先に逝っては駄目。

私はあなたのことをずっとずっと見守っていたい。

私が死ぬときに側に居て欲しいのはあなただけ。

そんなあなたとどうしていつも喧嘩してしまうのだろう?

あなたのことがこんなにも愛しいのに・・・

あなたは私のことを同じ位思っていてくれるのかな?

な〜んて言ってみたい私が居る。

絵空事!


2004年09月21日(火) つぶやき

一度決めたことを迷うことはいけないことだろうか?

人の心というものは揺れ動くものだと思う。

私がこのつぶやきに書く事が

その日によって変化していることが

読む人によってはとても不快に思うのだろう。

私はこのつぶやきは人に見てもらおうと思って書いているのではない。

それなら公開しなければ良いと言われるかもしれないが、

HPの中の1ページとして始めたものであり、

見る人が居ればありがたいし、

もしも誰も見てくれなくても良いと思っている。

だから、日々変わる私の正直な気持を書いてきた。

人は神様ではないから

良いと思っていることが間違っていたり、

決めたことをまた迷ってみたりするものだと思う。

私のこのつぶやきを読んで優柔不断だと判断されてもそれは仕方ない。

確かにその通りだから。

でも、それでも良いと思っている。

私は迷いながら、生きているのだから。

今までの人生の中でも迷うことはいっぱいあった。

そして、決断したことであっても

それを実行するには大変なこともあった。

若い頃の私はこの迷いの大きさと平行して

決心したら動かないという不動の強さを持っていた。

だから、拒食症という病気になったのだと思う。

一度食べないと決めたらそれを実行した。

どんな状況の中でも食べるという行為を拒否し続けた。

これは決して良いことではない。

心が病んでいたからこそした行為だから。

あれから20年という月日が過ぎ、

段々と良い意味でのずるさも出てきて、

今の優柔不断と思われるような私になってきた。

迷うのだ。

色々と迷うのだ。

夫のことも、過去の恋も、そして今の私の心の中に居る人のことも・・

迷いながら生きることがどうしていけないのだろう?

HPを休むと決めた時に

このつぶやきだけは続けるつもりだった。

でも、いけないことなのだろうか?

そんなに私って駄目な人間なのだろうか?

生きているからこそ、

人は迷い、間違いも犯すのだと思う。

泣くことも、怒ることも生きているからこそできるのだと思う。

私はこのつぶやきが私の心そのものだと思っている。

だから、日々矛盾したことを言うだろう。

そして読む人を不愉快な気持ちにさせるかもしれない。

もし不愉快だと感じる人が居れば

その人には読んでもらいたくない。

誰に読んでもらえなくてもいい、

私はここへ私の迷いや戸惑いや、

決心や、愚痴を書きつづけようと思う。

それこそが私の心のつぶやきなのだから。


2004年09月20日(月) めまい

天井がぐるぐる回る。

ベッドで寝ていたら、

思わずベッドのシーツをギュッと握り締めていた。

寝ていて頭をちょっと動かしただけで

ふっ〜とというか、

くら〜っとというか、

なんとも嫌な気分になる。

遊園地のコーヒーカップにのったあと横に倒れそうになる感じ、

絶叫系の乗り物にのったあとに、足がふらつく感じ、

トランポリンや空気風船のうえにのってふらつく感じ、

そんな気持ちの悪いことがたびたび起きるようになった。

そんな時は必ず、頭が重い。

首から上が何かで縛られているような

そんな感じがするのだ。

私は今まで頭痛の経験はあまりない。

人からの話で、

めまいがひどくて、起きられなかったということを聞いても、

実際に私自身が体験してみないと

その人の気持が分からなかった。

でも、この半月ほどのめまいは

私を不安にさせる。

座っていても頭を左右に動かすと駄目なときがある。

寝ているときと、

起き上がろうとする時が一番多く起きる。

私は元々低血圧だから、

そのためなのかもしれない。

でも、低血圧は今までもずっとだったから

最近急にめまいがするのもおかしい。

貧血だろうか?

それとも脳に何か異常があるのだろうか?

耳の中の三半規管に異常があるのだろうか?

先日行った心臓の病院の主治医は

不整脈を抑える薬が心臓の動きも抑える働きもするので

そのために、頭に血液が行かない状態になり

めまいが起きるのかもしれないと言った。

正直、私には分からない。

今朝も起きようとしたけれど、

めまいが続いてなかなか起きることが出来なかった。

寝ているときや家の中に居る時に起きるのなら良いが、

運転している時にこのめまいが起きたら?と考えると

本当に怖くなる。

前の不整脈によって意識が一瞬なくなり

車をぶつけたことが頭に甦ってきた。

しばらく様子を見て

この状態が長く続くのなら

一度心臓の病院ではなく

脳か耳の専門の病院で検査してもおうと思う。

気分的にもとても憂鬱な朝だ。


2004年09月19日(日) 純愛

こんな年になって、

純愛などということを言うと、

笑われるかもしれない。

今、冬のソナタが大ブレイクしている。

中年以上の女性に受けているそうな。

その言葉通り、

私の母もヨン様の大ファンだ。

彼の話になると目が生き生きしてくるのが分かる。

そして、そんな母を見ていると

思わずにっこりしている私が居る。

私はTVでの放映は見ていない。

でも、あまりにも母が良いというので、

本を母に貸してもらって上下巻2冊読んだ。

まさに純愛だった。

今の世の中ではちょっと考えられないような純愛ドラマだった。

でも、私の心には確かに何か響いてくるものがあった。

純粋に人を愛すること、

一人の人を愛し続けること。

読み終えた私の心は言葉では言えない、

何かとてもクリアな感動を味わった。

「ああ〜私はこういう恋愛を求めていたのだ」と思った。

主役のヨン様が良いのではない。

あの2人の心に流れる純愛に惹かれた。

私にもたった一人忘れることができない人が居る。

彼とは結ばれることはなかったけれど、

私の心の中で一生生き続ける人である。

永遠の人でもある。

もし、彼と結婚していたら、

きっと今のような気持にはなっていないと思う。

結婚できなかったからこそ、

今でもこうして彼のことを

思い続けることが出来るのだと思う。

彼と別れてからの私は死んだのと同じ状態だった。

あんなに人を愛することはもう二度とできないと思う。

今の私は抜け殻と同じで、

ただ毎日形のある生活の中で、

時間と共に流されているだけに思える。

心はうつろ状態なのかもしれない。

そして、これが今の私の本当の心のような気がする。

50歳を過ぎても尚、

純粋な愛に憧れる私は可笑しいのだろうか?

人を心から愛することは、

その人の全てを受け入れることができること、

良いことも嫌なことも全て認めることが出来ることだと思う。

私にとってそれが出来るのは、

やはり今の夫ではなく、

私の心の中で生き続けている彼だけなのかもしれない。

こんなことを言うと、

きっと「今更何を言っているのか!」と

お叱りの言葉を受けるだろう。

でも、現実なのだからどうしようもない。

もし、私がもう一度純粋に夫を愛することができたら、

私の心もきっと晴れやかなものになるのだと思う。


2004年09月18日(土) 良い子

本当に人として正しい生き方とはどんな生き方なのだろう?

人に迷惑をかけない生き方だろうか?

それとも、人の気持を傷つけない生き方だろうか?

それは自分自身の気持ちを抑えて、

人に合わす生き方だろうか?

私は小さい頃、とても良い子だったらしい。

3歳の頃の第一次反抗期もなかった。

名前の通りに素直な子だった。

だから親は私をとても育てやすかったという。

勿論心臓の病気があるから、

親は私の体のことでは心配のし通しだったと思う。

でも、そのほかのことで母を困らせることもなく、

本当に素直で良い子だった。

でも今は、これって変だと思う。

意識しない間に自分の欲望を抑え、

親を困らせたらいけないという気持ちになっていたのだと思う。

その時には気付かなかったけれど、

抑えていた気持ちの爆発が思春期を迎えた頃に

起きてしまったのではないかと思う。

人に迷惑をかけないで、良い子で居たいと思う反面、

私自身の心に芽生えてきた感情を表現したかったのだと思う。

そして、自分の中の怒り、喜び、悲しみといった、

当たり前の感情を表現する方法を間違って、

自分自身の中にぶつけてしまった。

人を攻撃する代わりに、

自分自身を攻撃してしまった。

あの頃はいつも何か不安だった。

周りからの愛情がいつも私に向いていてほしいと思っていた。

人に嫌われたくなかったから、

自分を抑えて回りのことばかりに気を使っていた。

きっとそうすることが、

人との関係をスムーズにする方法だと思っていたのだと思う。

NOと言えなかった。

でも、それは間違っていたと思う。

もっと自分の気持をそのまま相手に伝えることができていたら

あんなに苦しまなくても良かったはずだ。

良い子から良い人へ自分を成長させようなんて思わなかったら良かった。

良い子なんておかしい。

我儘でも良い、

もっと自分の気持に素直に(決して人に対して素直になるのとは違う)

生きていればよかった。

そうしたら心の病気なんてならなかったはず。

今ならそんな生き方が出来るのに・・

でも、今からでも遅くない。

人に気を使うだけではなく、

自分の心に素直な生き方をしていこうと思う。


2004年09月17日(金) 幸せの基準

自分が今幸せだと思う基準は何だろう?

ほしいものが手に入ったときだろうか?

努力してきたことが実を結んだ時だろうか?

一生懸命に働いて多額のお金を手に入れたときだろうか?

心から愛する人と結ばれた時だろうか?

人生の中で一番輝かしい日、結婚式を迎えたときだろうか?

自分自身が幸せだと感じる基準は、

人それぞれだと思う。

1億人の人が居れば、

1億の幸せが存在する。

また1億の不幸も存在する。

同じことを幸せと感じる人が居れば、

反対にどんなことにも満足できないで、

自分を不幸だと思っている人も居る。

結局、幸せはその人の心の中にあるのだと思う。

そして、幸せはその人自身の心が決めることでもある。

お金持ちが必ずしも幸せだとは限らない。

反対に貧乏をしている人が不幸だとも限らない。

いくらお金があって、

欲しいものは何でも手に入ったとしても、

それは幸せだと言えない。

お金で買えるものほど心の充足感は少ないように思える。

たとえ、いくら貧乏をしていても、

いつもその人の心が満足できるなら、

その人は嬉しいし、

楽しいし、

生きる意欲も湧いてきて幸せをつかむだろう。

反対にいくらお金があって、

何でも手に入る人でも、

その人の心がいつも不満だらけなら、

きっと幸せにはならないと思う。

結局その人の心が豊かでなければ、

充実感は得られないだろう。

いくら貧乏をしていても、

心が豊かであれば

きっとその人は幸せを得ることができるはず。

幸せはその人の心の豊かさで決るのだと思う。

幸せの基準はいかに満足できるかということなのかもしれない。


2004年09月16日(木) やり直せることが出来るなら

過去も未来もない、ただ今を大切にしたいと思いながら、

やはり何か心の中にもやもやしたものがある。

この気持ちは何なのだろう?

残り少ない人生を思うからだろうか?

もし、今あの若かったころに戻れるなら、

私はどんな道を進んでいただろう?

あの花の20代に病気をせず、

元気で居たとしたら、

今の私は絶対にないと思う。

否、無いと断言できる。

当然夫と知り合うこともなかったであろうし、

今とは違った人生を歩んでいただろうと思う。

勿論全てが仮定の話である。

もしも私の人生をやり直すことが出来るなら、

やはりあの私の原点でもある、

19歳に戻りたいと思う。

そして、あの頃の弱かった心の私ではなく、

人のことを気にせず、

気楽に生きる方法を考えてプラス志向で生きたいと思う。

もしかしたら子供をいっぱい産んで

肝っ玉母さんになっていたかもしれない。

私が中学生の頃、

街で10円手相のおじさんが居た。

友人と興味半分でみてもらった。

そのおじさんが私の顔を見て手相をみてくれた。

そして絵に描いてくれた私の未来の姿は、

本当に立派なお母さんの姿だった。

ど〜んと構えて、子供を4人を綱で引っ張っていた姿だった。

そしてその絵の横には「素晴らしいお母さんになる」との言葉。

正直なところ、私は心の中で笑っていた。

何故なら、

私はその頃から気持ちの中にはしらけたものがあったから。

このおじさんの手相を信じはしなかった。

でも、本当はそんな素晴らしい立派な母親になるのが、

私の姿だったのかもしれない。

仮定の話はしないほうが良いのだけれど、

そしてそのことは充分に分かっているのだけれど、

ついやり直せるなら?と思ってしまう私が居る。

もしもあの頃に戻れたら、

もっともっとステキな人になりたい。

明るく太陽のような母親になりたいと思う。

そして、今とは違う私として

しっかりと大地に足をつけて生きていきたいと思う。


2004年09月15日(水) 何を思っている時が・・

朝起きて夜寝るまでの時間、

何を考えている時が一番長いだろうか?

朝起きて晩御飯の献立を考えることもある。

今日良いお天気だから、

洗濯をいっぱいしようかなと思うときもある。

ヴァイオリンの音色をもっと綺麗に出そうと、

一生懸命に工夫して考える時もある。

本を読みながら、

主人公に自分を当てはめて、

その本の中に没頭することもある。

たまに、娘と諍いをしたときは、

その原因のもののいい方を反省することもある。

人は何を考えているときが一番幸せなのだろう?

私はいつのどんなことを考えていることが多いだろうか?

昔あった不幸なこと、

過去の平凡な、

普通のこと、

あの時の楽しかった、幸せだったときのこと。

それとも、

明日の予定のこと。

それが辛いことならその不幸なこと。

毎日が平凡で過ぎて行っているなら、明日の普通のこと。

もしも明日とても良いことがあり、

そのことばかりを考えていると、

今していることに集中していないということにもなる。

過去のことや未来のことばかり考えることは、

今を忘れていることにもなる。

未来の幸せも良いけれど、

本当は今している

現在のことを

なんとなくしか考えていないのかもしれない。

過去のことでも未来のことでも、

いつも不幸なことしか考えない人は、

自分で自分の気持を不幸にしたいと願って居るようなものだ。

過去のことでも未来のことでも、

自分が幸せなことを考えるなら

きっと幸せな気もちになりやすいだろう。

でも、本当は過去のことでもなく

未来のことでもない、

今のこの瞬間の自分の気持を考えることが一番大事だと思う。

過去は過去、

もうどしようもないことだ。

私は今のことを考えることが大事だと思う。


2004年09月14日(火) 私の3つの〜しない

私が今心しようと思っていることがある。

それは3つの〜しないということだ。

一つ目は思い出に浸らないようにすること。

二つ目は言ってもどうしようもないことを言わないこと。

三つ目はこれからのことに期待をしすぎないこと。

これらは、私にとってとても大事なことだし、

これらのことを実行することで、

私の人生はきっと楽なものになるだろうと思う。

一つ目の思い出に浸らないということは、

言葉を変えれば過去に固執しないということでもある。

確かに人は昔のことを思い出し、懐かしく思う。

自分の今までの人生の中で、

一番輝いていた頃のことは、

年をとってから思い出すととても懐かしく、

また素晴らしいものに感じる。

でも、過去はもう戻ってこない。

いくら素晴らしい思い出であっても、

その時に戻ることはできないのだ。

過去の栄光を引きずって生きるくらい辛いことはない。

同じように、楽しかった思い出を懐かしみ、

ああ〜あの頃に戻れたら良いのに・・と思うことは、

今の自分自身を受け入れていないことだ。

そして、過去のことばかりに縛られると、

ついどうしようもない愚痴をこぼしてしまうことになる。

言ってもどうすることもできないことを、

ああだこうだと思ったり言ったりすることほど、

愚かなことはない。

今、自分自身が置かれている現実を見つめようと思う。

そして、いくら考えてもどうしようもないことは、

考えたり悩んだりしないようにしたい。

時間と労力の無駄になるだけだ。

今、生きているということ。

この今という一瞬は二度とないということ。

このことをしっかりと思っていれば、

将来への過度の期待も持つことはなくなる。

二つ目の言ってもどうしようもないことに愚痴をこぼさないということは、

私の信じる教えの中にもある。

言ってどうにかなるものでないなら

愚痴はこぼしたくない。

今に不満があるからこそ、

まだどうなるかも分からない将来へ期待や夢を持つのだ。

三つ目の将来への期待をしないということは、

期待は裏切られることが多いから、

未来への期待をしないようにしたいと思うのだ。

目的を持つことはとても素晴らしい。

期待ではなく、

夢でもなく、

目的を持って進みたいと思う。

過去にも捉われず、

未来にも夢や期待を持ち過ぎず

今、私の置かれている状況を受け入れたい。

この3つのことが出来れば

私はきっと今よりも幸せになれると思う。

私の願う生き方が出来るような気がする。

周りの人に左右されない、

確固たる自分自身を築くことが出来ると思う。

このことは今の私の大きな宿題である。


2004年09月13日(月) 待つということ

昔、私が子どもの頃、

明日が遠足だという前の日は、

何か胸がわくわくして落ち着かず、

いつもそのことを考えてはにんまりしていたのを思い出す。

前日の夜は特に眠ろうと思っても

なかなか眠れなかったのだ。

何でもそうだと思うけれど、

何かひとつでも良いことや楽しいことを計画したとき、

その日が来るまでの数日間は本当に楽しいものだ。

その日のことを思うだけで、

胸がわくわくする。

カレンダーに赤いマジックで印を入れて、

その赤い○で囲まれた数字を見るたびに

心の中で指を折って数える。

一日24時間という時間は、

どんなに世の中が変わっても決して変化するものではない。

でも、この待っている間はとても長く感じる。

その長さがいやなのではない。

寧ろその長さが長いほど、

楽しむ心や期待に胸を大きくする気持ちが長くなる。

だから、私はこの待っている時間が好きだ。

もっともっと長く続けば良いと思う。

長ければ長いほど、

その日のことを思う気持ちも大きくなってくる。

私は会いたいと思っている人や、

やりたいと思っていることを待つのがとても好きだ。

子供の頃の遠足を待つ気持ち、

若い頃、後何日したら彼に会えると思うだけで、

とても幸せな気持ちになった気持、

どちらも共通する気持ちである。

そしてその待つ日にちが長ければ長いほど

彼のことを思う時間が長くなることがとても嬉しかった。

でも、実際にその当日になると、

それまで心の中で大きくなっていた喜びが

消え去るような心淋しい気持ちになったものだ。

待つということ、

それはきっと幸せのパスポートを得るための準備期間なのだと思う。

そしてその準備期間は実行されると消えるということでもある。

私はいつまでもその日が来なければ良いのにと願う。

期待に胸を膨らませて

待つということはとても楽しいものだから・・・


2004年09月12日(日) 泣いても笑っても同じ一生

ドイツの格言に「笑って暮らすも一生、泣いて暮らすのも一生」

という言葉がある。

人生は一度きりだ。

今という時間も二度とは帰ってこない。

だから、何気なく生きるのではなく

自分の頭で考え、

自分の心で決めた道を歩いていきたい。

そして、出来たら楽しいことを考えて生きたいものだ。

今の自分の中で満足できないなら

何が足らないのか考えてみよう。

そして、もし考えても分からないときは

無いものを嘆くよりも、

今自分にあるものを喜ぼう。

済んだことをくよくよ考えるのはやめよう。

済んだことはもうどうしようもない。

後悔して悩むなら、

同じ過ちを繰り返さなければ良いのだ。

失敗したら、その失敗を生かすことができれば良いのだ。

その失敗を悔やむ前に、

良い勉強ができたと思えば嬉しいものに変わる。

暗い気持ちで過ごすよりも

明るく居たいものだ。

マイナス志向をやめ、プラス志向でいこう。

心だけは元気で居よう、

もし、誰かとトラブルを起こしそうになったら

その人の良い所を探してみよう。

両方の目を大きく開いて見てみよう。

人には必ず何かひとつは良いところがあるはずだ。

嫌なところばかり見るのではなく

良いところを見たいものだ。

人のことだけではなく

自分自身も同じだ。

自分の欠点ばかり見つめるのではなく

自分でもこんな良いところがあるという

長所を見つけよう。

人に「私はこういう良いところがあるのだ」

と言える人になりたいものだ。

嫌なところばかり見ていると

人も自分も嫌になってしまう。

人は人、私は私と割り切って生きるのも良い。

そして出来たら笑って暮らしたい。

泣いてもどうしようもないことなど

考えるのはやめよう。

自分が一番楽なような生き方をしたい

笑っても一生、泣いても一生、

同じ一生なら悩んでばかりいないで、

幸せになれることをしよう。

不幸を数えて暮らすより、

幸せを数えて暮らそう。

そうすればきっと知らない間に幸せはやってくると思う。

一昨日落ち込んでいた私が見つけた方法、

自分が立ち直れる方法、

いつも忘れずに居よう。

また同じように落ち込むことがあっても、

このことを思い出そう。

そして、元気になろうと思う。


2004年09月11日(土) 前を向いて、上を向いて。

昨日は本当にどうかしていた。

一昨日の夜の出来事から何もする気がしなくなった。

朝起きて家事はできたけれど、

後のことは何もしたくなかった。

笑うことも忘れ、胸の中は真っ黒状態。

いつもなら朝起きて直ぐにする

HPの更新も訪問も出来なかった。

PCを開く気にならなかった。

いつもここに偉そうなことを言っている自分がとても恥ずかしくなった。

もう書けないと思った。

あれほど人は人、私は私だと思っていたのに・・・

あれほど、人の言葉に振り回されないようにと思っていたのに・・・

私に非がないと思うなら、

私の言った言葉で相手がどんな態度を取ろうとも

気にする必要はないと思っていたのに・・・

こうして何かが起きると

落ち込んでしまう私が居る。

また大きな深い穴を掘って中に入りたくなった。

掘って掘って掘り進んで

地球の裏側まで行ってそこに立ち上がればまた元気になるかも?

前もこんなことがあった。

同じことを繰り返している私・・

何も進歩も向上もない私・・

ああ〜情けない・・

でも、今はこう思える。

こうしてあの人の言った言葉で悩むのってアホらしいと。

だって、あれはあの人が思ったことで私がそれで悩む必要はないのだと。

もうあの人の言った言葉で苦しむのはやめよう。

日にちが経てば、またきっとあの人の心も変わる。

今までもそんなことがたびたび起きた。

そして、そのたびに落ち込んでいた私。

少しは大人にならなくちゃ!

また明日は明日の風が吹く。

私のHNのスカーレットに笑われるよ。

あのスカーレットは良い強さを持っていた。

私がこのスカーレットという名前にしようと思ったのも

彼女の生き方、考え方に共感を覚えたからだ。

さあ、前を向こう。

上を向こう。

私には私にしかないいいところもあるはずだ。

私自身がそれを認めてやらなくちゃ!

私自身を愛してやらなくちゃ!

今日も一日が始まった。


2004年09月09日(木) その立場にならないと

頭の中でいくら想像しても、

実際にその立場にならないと分からないことはいっぱいある。

楽しいことや嬉しいことなら、

相手の幸せそうな笑顔を見ているだけで、

その人の喜びや感激がこちらにも伝わってくる。

でも、悲しみや辛さは分かろうとしても

決してその人自身が感じている痛みと

同じ痛みを感じることは無理だと思う。

今回の台風で、被害を受けた人は

日本中に沢山居る。

中には家族を失った人、

家屋を失った人、

田畑を失った人も居る。

家や田畑は残ったにしても、

床下、床上浸水で家に住める状態ではなく、

近くの公民館へ避難している人たちも沢山居る。

こんなときこそ、国の行政は

力を発揮すべきだと思う。

知事や市長が現地を視察して

目の前でその状況を見たとしても、

実際に彼らが被害に合っていないとしたら、

市民の気持ちが分かるはずがない。

公民館に避難している人たちに向って

市職員が「ここはいつまでもこうして使えるところではないから

     なるべく早く家に帰れ」と言ったそうな。

年老いて、家に住めなくなった人たちが

家に戻れるはずのないことに気付かないのか!

泥にまみれた家財道具や畳の始末や掃除は誰がしてくれるというのか!

他人事のように簡単に言ってのける市職員が信じられない。

見舞いに訪れた知事や市長自ら、

先頭に立って、後片付けをすべきだと思う。

予算がないというだけで、

仮設住宅の設置をしないのも変だ。

人間の値打ちは、相手が苦しい立場や困っているときにこそ

分かるものだと思う。

オリンピックで沸き返った日から数日後に、

今度はこういう被害で泣いている人たちが居るのだ。

行政はもっと国民、県民、市民のための政治を考えて欲しい。

幸い、私の所はなにも被害は無かったけれど、

TVで被害の様子を見ると心が痛む。

自衛隊派遣だなんだかんだと言う前に、

もっとこうしたことをきちんと考えて欲しいと心から思う。

その立場にならないとわからないというのは

結局逃げているだけのことだと思う。


2004年09月08日(水) 心のよりどころ

ここで愚痴を言ってしまったけれど、

私は今とても心が安定している。

それは、心の中に一つのよりどころがあるからだ。

私だけでなく誰でも何か一つ、

どんなときでもそのことがあれば

心がほっとするということがあるだろう。

例えば、たった一人で無人島で暮らすことになっても、

耐えていけると思えるくらいのもの。

そんな心のよりどころとなるものだ。

ささやかで小さなことでも良い、

そのことを思っているだけで

幸せな気分になれるもの。

それこそが自分自身にとって生きる力となりうるもの。

そんなものを持っている人って本当に幸せだと思う。

淋しいとき、

辛いとき、

心が真っ暗になりそうなとき、

目を閉じて、

心の中にそのことを思ってみよう。

頭の中に思い浮かべてみよう。

きっと心が安らぎ、

知らない間に微笑んでいる自分がいるはずだ。

今、私にはそんなものがある。

嫌なことがあっても、

悲しくても、

そのことを思うとにっこりしている私が居る。

本当に人が聞いたら笑うことかもしれない。

でも、私の心は幸せでいっぱいになる。

昔見た映画の中で、

とても耐えられそうもないことが起きても

主人公は自分自身の心に存在するある人のことを思うだけで、

どんな苦労やいじめにも耐え抜くことができたのを覚えている。

今の私が思っていることは、

それとは少し違うけれど、

同じような気持ちになれるのだ。

戦場で遠く離れた妻のことや子供のことを思い出し、

耐えていた兵士に似た思いのような気がする。

私は今のこの心のよりどころがある限り

どんなことが起きても耐えていける。

私には生きる力が存在している。

弱音なんて吐かない。

あのことを思うだけで幸せになれる。

そして、そんな私がとても愛しい。


2004年09月07日(火) 信頼

人を好きになる、

人を愛する基準になることの中に、

相手がとても信頼できるということを言う人が居る。

確かに相手を信頼できるということはとても幸せなことだ。

人を信じること、

人を信じられること、

人に信じてもらうこと、

人に信じてもらえること、

皆素晴らしいことだと思う。

でも、本当にどんなことが起きようとも

相手を信じることって出来るのだろうか?

相手との関係が上手く行っているときには

お互いに信じ信頼しあっていると感じる。

でも、男女の間の信頼関係だけをとって言えば、

その信頼関係は誤解の上に成り立っている

と言っても過言ではないように思う。

ひとたび何かが起こると

今までの信頼関係はまるで音を立てて壊れてしまう。

そして、残るのは相手に対する不信感と

自分自身の心の中に生まれる後悔だけ。

そして、自分の心の中に生まれた後悔は

やがて相手への憎悪へと変わる。

相手を憎むことによって

自分自身が崩壊することを守る。

自分を正当化していく。

こういうふうに考えると

男女の間の信頼関係ってなんと脆いものかと思う。

絶対的なものなんてないのだ。

いつもゆらゆら揺れている。

でも、私はそれでも良いと思う。

その時、お互いに信頼し合っているということは

お互いに愛し合っている証拠だと思うから。

相手への信頼=愛

この錯覚がまた恋愛の源になっていると思うから。

本当の信頼関係の絶対さは親子関係の中には確かにあると思える。

私の母は絶対的に私を守ってくれる、

そして、私も娘を守れると思っている。

どんなことが起きようとも

母だけは私を信じ、守ってくれたように

私も娘を信じ、守りたいと思う。

そこには無償の愛が存在し、

絶対的な信頼関係も存在するのだと思うから。

そして、それは男女間の信頼関係とは全く違うものだと思う。


2004年09月06日(月) 人形のように

昨日はつい愚痴のようなことを言ってしまった。

別に今に始まったことではない。

こに数年は特に今の状態が続いているのだから

気にする必要はないのだ。

夫のことはもう良いと思う。

あの人はあの人、

私は私。

頭では分かっているのに

ついつい、昨日のような気持ちになってしまう。

映画を見たせいかもしれない。

なんとかああいうふうになれば良いなとか、

もしかしたら変われることがあるのかもしれないとか・・・

未来への期待は持たないことにしていたのに、

やはり期待している部分があったのかもしれない。

私は自分自身の心の中で

色々と思うことがあるだけでも幸せだと思える。

何も感じない、

まるで人形のような生活をするとしたら、

虚しさと気持ちの楽さはどちらが勝るのだろう。

私の心を殺して、

何も感じないようにして、

人に気を使うのでもなく、

自分を良いように見せようと思うのでもなく、

ただ、機械的に家事をこなし、

時間の過ぎゆくままに身を任して、

流されて生きるとしたら

今のような心の中での葛藤は生まれないのかもしれない。

きっと平穏な心のままで生きていけるのかもしれない。

人形のように!

ロボットのように!

夫や娘の笑う顔を見て微笑む。

美味しいと感じなくても物を口に運ぶ。

頼まれたことは全てYESとこたえる。

決して嫌な顔を見せはしない。

そうして、私を殺して生きる。

どんな出来事も私にはかかわりのないことだ。

私は私のことで精一杯。

人のことも考えない。

感情のない目でTVを見つめる。

あれは私の世界ではない。

目はただのガラスの玉に過ぎないのだ。

こんな人形のような生き方ができたら

どんなに良いだろう。

きっと楽に違いない。

でも、私にはできないのだろうと思う。

やはり心が存在しているから。

私の心は私だけのものだから。

人形には心はないのだから。

人形のようには生きられない。

だから、また弱い心になるだろう。

そしてこれが生きるということなのだと思う。


2004年09月05日(日) 心の旅

人は何かがあって初めて

自分にとって一番大事なものは何かということに気づく。

仕事一筋で家庭を顧みない夫、

その寂しさに心をほかの男性に移す妻、

両親の愛を感じられず孤独感を味わう子供。

そしてその沙漠のような生活が当たり前だと思う怖さ。

そんな話で始まる「心の旅」という映画を見て、

私は改めて私自身のことついて考えてみた。

私の家族は夫と一人娘の3人家族だ。

決して裕福な生活ではないけれど、

私は働かなくてもそれなりに生活できる。

夫は真面目で女遊びも賭け事もしない。

仕事を優先しながらも、

娘のことをとても大切にしている父親でもある。

人は私たちを見て、

本当に絵に描いたような幸せな家族だという。

にこやかな家族、

いつも和気藹々で、笑顔の耐えない家庭。

食事は3人で一緒に取るようにしているし、

どこかへ行く時も一緒のことが多い。

娘は私には反抗するけれど、

夫とは仲良し兄弟のような感じで接している。

夫も私も病気はあるけれど、

そのことで寝込むこともなく

元気で仕事、家事をすることができている。

何も言うことなどないのかもしれない。

でも、私の心は満たされず、

いつも空虚な思いを抱いている。

何故だろう?

何がどうなれば私は満足するのか?

それは夫との心の交流がない淋しさなのだと思う。

もし、夫婦の間で会話も弾み、

お互いに顔を合わせて笑える関係、

どんなささいなことでも話し合うことの出来る関係、

喧嘩しても分かり合おうとする姿勢の見える関係、

私が望んでいるそんな関係が築けたら

きっと私の心は満たされるのだと思う。

今夫か私が何かあったとき、

この映画のように献身的になれるだろうか?

相手を心から支えることができるだろうか?

分からない・・・

自信もない・・・

私の心の旅は終わることはない。

永遠に続くものなのかもしれない。

淋しさを荷物に当てのない心の旅は当分続きそうだ。


2004年09月04日(土) 私の人生

私の人生は誰のものでもない、私だけのものだ。

今まで50年間歩んできた道が

決して全て肯定されるものではなかったにしても

人に否定されるようなものではない。

いくら腹が立ったとしても

言ってはいけない言葉がある。

相手の心をずたずたにするような言葉、

怒りを超越して情けなさと悲しみを覚えさせてしまうような言葉。

後で謝っても一度口から出た言葉は消えることはない。

言った側はちょっとした気持ちで言ったにしても

言われた側は傷つくことがある。

人の人生を否定するような言葉もその中の一つだ。

もし、あなたが誰かに

「あなたの生き方は最低だ、

 今までの人生は全て最悪だ」と

言われたらどんな気持ちになるだろう?

私の人生は私しか否定できるものではないと思っている。

否定しながらも肯定しなきゃ

今まで生きてはこれなかった。

色々なことがあった。

良いこともあったけれど、

悪いことも沢山あった。

辛く悲しいこと、

人間不信に陥ったこと、

心の病気を患ったこと、

人生から逃げ出そうとしたこと、

親に心配ばかりさせてきた私の人生。

この年になってやっと、

私は私の生き方で良いのだと思えるようになったのに・・・

あなたに私の人生を否定されるとは思ってもみなかった。

あなたに私の人生がどのくらい分かるというのだろうか。

たった10年ちょっとの付き合いの中で

私の何が分かるのだろうか。

私は心臓疾患をかかえながら

それなりに一生懸命に生きてきた。

努力もしてきた。

頑張ってきた。

私の生き方が良かったか悪かったかは、

私が死ぬときに感じることである。

誰にも邪魔されない私の生き方だ。

人に捉われるのはやめた私、

人は人、私は私、

そう思って生きていくことにした私、

だから、今回あなたに言われたことで

腹は立たない。

そうだ!

情けないなんて思わないで良いのだ。

あなたになんか分かるはずもないことだから

あなたに否定されようと

どんな言葉を浴びせられようと

気にしないで良いのだ。

一晩明けて、今はそう思える。

私の人生は私だけのもの。

私の人生の中では私が主人公なのだから。


2004年09月03日(金) 愛のかたち

私が若い頃、「ああ〜こんな愛の形もあるのだなあ・・」

と思ったことがある。

それは私の親友のことだ。

もう20年以上も前の話だから時効になっているだろう。

こうして書いても彼女が許してくれると思う。

彼女はある人に恋をした。

それも世間では道に反するものだと批難されてもしかたの無い恋をした。

でも、私から見ても彼女はとても幸せそうだった。

彼女は私に彼の話ばかりする。

その当時、彼女の家庭では色々な問題が起きていて、

彼女自身とても落ち込み、欝状態になっていた。

だから、彼女が恋をして、

その姿がとても幸せそうだったから私は嬉しかったし、

許されない形の恋であっても

親友として心から応援していた。

でも、付き合いはじめてから半年過ぎた頃から

彼女の恋にかげりが見えてきた。

彼女の話の内容も

はじめの頃のように嬉々としたものから

辛く悲しい感じのするものに変わってきた。

恋には始まりがあれば終わりもある。

そのことは分かっていても、

分かりたくない気持のあるのも確かだ。

私は彼女の相手には一度も会ったことはない。

ただ彼女の話から想像するしかなかった。

そして、彼女には悪いけれど、

私の想像する彼に対して好感を持てなかった。

私は人を判断するとき

その人の顔や形、

職業や経済状態でははなく

その人の考え方や性格を見ることが多い。

私には彼はとてもエゴイストで、

我儘で、

彼女をまるで自分がどうにでもできると思っているように感じた。

そしてその気持ちを持ったまま彼女の相談ごとに乗っていた。

一年半くらい経ったとき、

ついに彼女たちの間にトラブルが起きた。

そして私には彼の心が彼女から離れて行ったように思えた。

彼女は今にも病気にでもなって死んでしまうのではないか

と思うくらい悩み苦しんでいた。

そして「もう彼のことは心が決った、私は大丈夫」という

彼女の気持ちを知ったとき、

私は心から良かったと思えた。

でも、実際の彼と彼女の間は

そんな簡単に解決できる関係ではなかったようだった。

悪い言葉で言わせてもらえば、

馴れ合い・・

腐れ縁・・

私にはそう思えた。

数ヶ月に一回の彼からの連絡が入るたびに

彼女の心は揺れ動くのだ。

私にはもうどうすることもできなくなってしまった。

世間には、常識的に見ても信じられない、

理解できない男女の関係があるということを

当時まだ若かった私はいやというほど思い知った。

私はその時に思った。

結局は彼女が自分の頭で考え

自分の心で決め、

自分が選んだ道を歩いていくしかないのだと。

あれから20年以上の年月が過ぎた。

彼女は今ではまるで何もなかったかのように、

家庭の中で幸せに暮らしている。

勿論その彼との生活ではない。

私は思う。

世の中には色々な愛の形があっても良いのだと。

周りに理解されなくても良い、

自分自身が納得してさえいれば良いのだと思う。

彼女にはあの時の恋も今の幸せも

どちらもとても大事なものなのだと思う。


2004年09月02日(木) 幸せは歩いてこない

水前寺清子の歌「365歩のマーチ」の中に、

「幸せは歩いてこない だから歩いて行くんだね・・・」

という歌詞がある。

幸せは待っているだけでは自分の方にはやっては来ない。

自分が幸せになりたいと思うなら、

その幸せを自分の手でつかみ取らなければいけない。

でも、どのようにしたら幸せをつかみとることが出来るのか、

その方法さえわからないまま

毎日、自分は不幸だと嘆いて生きているのではないだろうか?

もしも、幸せが欲しいなら、

自分の中の幸せを数えてみよう。

今まで自分が生きてきた人生の中で、

ささやかなことでも良い、

自分が持っている幸せを思い出してみよう。

そして、その幸せが自分にとってどのくらいの価値があるのかどうか?

自分の心の仲で確かめてみよう。

そうすればきっとその幸せがとても大きく感じるだろう。

ちょっとしたことで良いのだ。

朝起きたときに天気が良くて、

今日は洗濯物が綺麗に乾くだろうな・・と思うだけで

一日のスタートが幸せに感じられるはずだ。

冷たく冷えた牛乳が美味しいと感じるとき、

それはひとつの幸せを思い出したことだ。

もしも、今風邪を引いて熱があったとしたら、

同じものでも美味しく感じることはできない。

物を美味しいと感じることこそ、

今の自分の体調が良いということであり、

それこそが幸せだということでもある。

こういうふうに次々と

自分自身の中で幸せを思い出し、

それを幸せだと感じることが出来ていけば、

幸福感を持続することができる。

幸福感を高めることも出来る。

毎日の暮らしの中で幸せを数えて生活できるようになれば、

もっと幸せに暮らせるようになれるのかもしれない。

小さな幸せでも良い、

出来るだけ多くの幸せを思い出してみよう。

探し出してみよう。


2004年09月01日(水) 結婚記念日

今日9月1日は夫と私の19回目の結婚記念日だ。

昭和60年に結婚してからもう19年になるのだなあ・・・

19年という年月は長いように思うけれど、

今振り返ってみると短かった気がする。

夫と結婚したことを後悔したこともある。

でも、これはお互い様だろう。

夫も私には不満もいっぱいあるに違いない。

口には出さないだけなのかもしれない。

19年間という時間は、

お互いの心の中から恋愛感情を消し去ってしまった。

今では相手に対して心がときめく気持ちもなくなった。

人の気持は変わる。

永遠の愛なんて映画や恋愛小説の中に出てくる戯言に思える。

夫婦の愛なんてこんなものだろうか?

よく、長年連れ添った夫婦の言う言葉の中に、

「まるで空気のような存在だ」と言う言葉がある。

空気は目には見えないけれど、

そして普段は意識していないけれど、

生命体がこの世で生きていくには一番不可欠のものである。

だから、お互いに相手のことを、

空気のような存在だと思えることは、

幸せなことではないかと思う。

私達はそういう夫婦ではないように思う。

そうかと言っていつも側に居て、

仲が良いというわけでもない。

どういえば良いのかな?

私たちはいつも相手の存在を意識しすぎて、

言いたいことも遠慮したり、

気を使いすぎて疲れてしまうのだ。

そして、余計にギクシャクギクシャクしてしまう。

私たちはお互いに干渉しない。

このことは一見、お互いが相手に寛容であるように思えるが、

決してそうではなく、

ただ喧嘩しないように

要らぬ問題を起こさないようにと思うあまり、

相手のことに無関心なのかもしれない。

私は夫婦というものは、

喧嘩になっても良いから

お互いに思っていることを言い合って

ぶつかり合って分かりあいたいと思う。

それが本当の夫婦のあり方のような気がする。

いつになったら本物の夫婦になれるのだろう・・

夫婦は鏡のようなものだと思う。

私が夫に心を寄せてたまには甘えてみれば良いのかもしれない。

これからも長く夫婦で居たいと思うのなら

お互いに歩みよることが一番大事なのだろうと思う。








スカーレット