2003年02月23日(日)
無気力。そうだ、無気力だった。
思い出せなかった、無関心、無感動と並ぶもうひとつ。
それら三つを合わせて三無主義と評された学生時代を、
ぼくは送っていたのだった。死語だがねー。
というわけで、今日は「無」のつく言葉で、
現在のぼくの在り様を示してみたい。
即座に思いつくのは、無知とか無節操とか無能などだが、
ちょっと考えれば、無秩序、無教養、無為、無益などわらわらと出てくる。
だが、無垢というのはいくらなんでも当てはまりはしないだろう。
無辜もだめだ。無味であるかもしれないが、無害や無臭でもない。
今のところ無職もちがうし、無色でいるのは人間には難しい。
ならば、無糖はどうか。糖尿病でなければ、そう主張してもいいのか。
無添加。輸血を受けたことがないとか、点滴の経験がないとかか。
無用。生を受けたことを真っ向から否定していないか、それは。
これらのことからわかるのは、ぼくのような人間であっても、
すべてを頭ごなしに否定しつくすのは難しいということだ。
誰しも無欠でいられないように、それは無理というものです。
☆彡
今さらだけれど、田口ランディの「コンセント」を借りて読む。
主人公は股を広げすぎという当時の書評はその通りかとも思うが、
初版からの2年半を、ぼくは無駄にした気持ち。
2003年02月19日(水)
考えてみると。
というか、なにか考察した結果のようだし、
ここは、はたと気がついてみたら、というべきか。
とにかく気づいてみたらば、
現実から逃避しようがしまいが、どちらにしたって、
どうせぼくは絵を描いているのだった。
これはいけない。
正しい現実逃避とは、
ふだんやらないようなことに没頭することをいうのではなかったか。
たとえば、試験前ににわかに机の整理を始めてみたり、
弾きもしないギターの弦を突然張り替えてみたりというように。
ところが、近頃毎日のように気分よく絵を描いているぼくは、
父入院の報に接しても、やはりせっせと絵を描いていたりする。
これはちょっと問題ではないか。
少なくとも、傍で見ている者には疑問を呈させる態度ではなかろうか。
っていうか、都合の悪いことを長時間考えていられないのだな、ぼくは。
仮に都合がいいことでも、ひとつのことを突き詰めては考えることができないし、
考えてもどうにもならないことをあれこれ思い悩んだりなんて絶対しない。
つうか、そもそもモノを考えたりはしないのだな、ぼくは。
思いつきとか気の迷いとか、魔が差したとか。
そういうものによって動いているわけだ。
だもんで、おとぼけダディについても同じ。
そんなことよか、おとぼけダディというこの命名に、
ぼくは今ほくそ笑んでいたりする。
いいのか、それで。そんなことで。
2003年02月18日(火)
気がついてみたら、起きてから24時間以上たっていた。
その前にたっぷりと寝ていたのかというと、そんなことは全然なく、
それどころか、最近のぼくは連続して4時間以上眠れなくなっていたのだ。
なのに、延々と起きて、延々と絵を描いていた。
あいかわらずのお絵描き馬鹿だ。尋常ではない馬鹿っぷりだ。
いくつか挫折し、いくつか削除し、そしていくつか掲示板に登録し、
調子に乗って、そこに描かれた少女に名前までつけていたりする。
わかっている。
ぼくは現実逃避しているのだ。
知らせはその朝やって来ていた。
脳梗塞が、半身の麻痺と痴呆を父にもたらしたと。
2003年02月12日(水)
とは言わないか。
異国にいるわけじゃないんだから。
まぁ、帰って来いというわけで。
引越し期日まで指定して。
3月29日。
なんでよ。
いつ引越そうと勝手だろ。
本社への出社日さえ指定しとけば。
……本社。本社だってよ。わはは。
茅ヶ崎と北海道にしかないのに。
その北海道も3月いっぱいで閉鎖だってのに。
それでもまだ言うか、本社と。
なんてことはどうでもいいんだけど。ふぅ。
北海道にいられるのも、あと一月半ばかしってわけで。
あちゃあ。
引きこもってばかりいて、旭川以外どこにもいってないや。
札幌なんて、通過だけは何度もしながら、一度も降りたことないし。
もう一夏、ここで過ごしたかったなぁ。
朝は3時半にはもう明るくて、
夜は8時になってもまだ暗くならないの。
すげぇ。白夜の国か、ここはって感動したなぁ。
毎日、メロンばっか食べながら。
などと感慨にふけりつつ、
目を通してたりする「旭川シゴトガイド」。
2003年02月08日(土)
しょうがねーなー、まったく。
1週間? ま、そのぐらい。
書いてないんだよねー、日記。
書けよな、なんか。あんだろ、なんか。
……なんもないんですよねー。
生活、安定してるし。
っていうか、変化ないし。
思うところも別段ないし。
っていうと無感動で無関心な奴みたいですが。
あれ? 三無主義って、あとなんだっけ。忘れた。
無差別? ちがうって。
無節操? じゃなくて。
まぁ、いいや。
☆彡
で、感動ね。感動。してるですよ、感動。ちゃあんとね。
何度聞いてもその読み方を30分と覚えていられなかった一青窈。
聴いたんですわ、アルバム『月天心』。
いきなりぞくっとしましたな、「あこるでぃおん」。
そりゃまぁ、「もらい泣き」はキャッチーですが。
どちらをシングルカットするかと訊かれりゃ、
ぼくだって「もらい泣き」を選びますが。
でもね、やっぱり「あこるでぃおん」。
多感な時代が沸々と蘇えってくるようですな。
瑞々しいとはこのことですわ。
音楽室の隅……、ああ、もうだめだ。
あとですね、「月のしずく」でしょう、やっぱし。
RUIですか。柴咲コウですね、実は。
横山智佐が真宮寺さくら名義で歌うようなものですか。
楽曲の出来のよさもさることながら、
天は、与えるところには二物でも三物でも与えてしまうものなのだなと、
改めて不公平感を募らせてみたり。
☆彡
まぁね。さよなら10代が合言葉の学生さんだって、
恋をしたりアルバイトに精出したりし始めたら、
そうそう毎日書いてられませんから。日記。
まして、連日の残業と休日出勤と夜勤に苦しむぼくですぜ。
と、自己の正当化に走っておりますが。
っていうか、あれだけ連日お絵描きしてちゃ、
そりゃ日記なんて書いてる暇ないわな。
2003年02月02日(日)
大多数はレノンじゃないかと思うのだ。
なかにはスカしてフォガティと答えるぼくのような者もいるだろうし、
アーヴィングだとかトラボルタとかいった答えも出てくるかもしれない。
そりゃあ隣の犬の名だと言いたい人も、ひょっとしたらいるんだろうが。
だが、やはりレノンが多数派ではないかと思うのだ。
「ジョンといえば?」と訊かれたとき。
そうなのだ。
ぼくは思いついてしまったのだ。
その人の趣味や嗜好を知る手がかりとして100人の名前を。
いや、本当は100人分も考えてはいないのだが、やるからには100人だ。
ここはどうでも「100の質問」に対抗せねばならない。
というか、100訊けないことは1つだって訊くな、だ。
訊くからには100。五十歩百歩? 大間違いだ。
というわけで、ジョンとくればジョージだろう。
これは答えの分かれるところである。
ハリスン、ルーカス、所、山本。
ワシントンとか紫とか言い出す人もきっといる。
次はポールだが、マッカートニーではおもしろくないので、
ここは無理にでも違う名を挙げたい。
ロジャース、コゾフ、ウェラー、ニューマン、スミス、ピコなどなど。
ぼくならきっとリンジー・ディ。
ほら、またそうやって坊ちゃん嬢ちゃんがついてこれないことを言う。
っていうか、ポールといえばリンジー・ディ?
反則ちゃうん?
しょうがないのでリンゴについても訊いてやろう。
一見外すのが難しそうだが、スターキングとか津軽とか出てきそうだ。
なかには「追分!」と勇んで答える人もいそうで怖い。
いや、「青い?」と逆に聞き返す人の方がもっと怖いか。
とまぁ、そういう次第で、趣味嗜好のみならず、
お調子者か天邪鬼か、あるいは素直か、
はたまたまったくの無知蒙昧かということまで
これでわかってしまうという寸法だ。
ところで、ここで無知蒙昧とはなにか。
人の名前を知らないヤツだ。
シルベスターと言われてもわからず、アーノルドと言われてもわからない。
「ジョーといえば?」に対して「オダギリ」と答えるのが精一杯だ。
試される100人の名前。
こういうのは、しかし、思いつきにとどめておいて、
実際に100人分ひねり出すのはよしておくのが賢明というものだろう。
「365行計画」で得た、それが教訓である。