短いのはお好き?
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2003年04月15日(火) |
Stairway to Heaven |
「蒼い岸壁に粉雪が舞い降りる頃、ぼくらの恋も終りを告げるんだね」
偽ネフリュードフはそういって偽カチューシャに冷えきったコロッケ(本当はロシアの雰囲気を少しなりとも醸し出せればと、消え物の小道具としてピロシキがほしかったのだけれど商店街のお肉屋さんの前を通ったら、コロッケがどうしても食べたくなって逡巡する間もなくソッコウでコロッケを買ってしまっている自分がいて、たとえ重要な小道具であろうとも所詮は消え物であって、いずれ食ってしまうのだからという考えが脳裏を過ぎる。つまり、実用性は芸術性に優るという教訓を得たのだった)を差し出すと「カチューシャよ、いまこそおまえと私が必ずや結ばれる運命にあることを立証してみせよう」と声高に宣言するのだった。
「いいかい、これから私はこの肉のいっぱい詰まった揚げたてのコロッケ、いやピロシキを空高く放ってみせる。もしこれが私に所有され食される宿命ならば、いかようなことが起ころうとも私はこのコロッケを、もといピロシキを食べられるに違いない。
そして私はこのピロシキが私に食される運命にあることを信じて疑わない。
偽ネフリュードフは、右腕を一閃させるとピロシキを空高く放った。ピロシキは青空に吸い込まれるようにしてスローモーションでゆっくりと上昇してゆき、やがてその頂点に達し一瞬静止したかのように見えたその瞬間に一陣の風の如く影が舞い降りてくるやピロシキは忽然と姿を消してしまった。
口をあんぐりと開け、ピロシキの落ちてくるのをいまかいまかと待ち構えていた偽ネフリュードフは、目をひん剥いて驚いた!
「ウヲッ!」
「ネフリュードフさま。あれは魚ではございません。たぶんトンビかと」
「なにー! ナニヌネノォ!!」
「まあ、いい。ピロシキはまだ2個ある」
「まぁ。運命論者らしからぬ準備のよさですわね」
「いや。そういうことではないのですけれど」
ネフリュードフはふたつ目のピロシキを投げ上げた。素早く落下地点に向け移動すると顎がはずれるのではないのか思うほど口を大きく開けた。しかし落ちてくるであろうはずのピロシキは発射された散弾銃の弾のように粉々に砕け散った。
「なんなんだ、これは?」
「ほんの偶然ですわ。ほらそこの茂みの向こうにはクレー射撃場があるんですもの。流れ弾が飛んできたきたところで不思議でもなんでもありませんわ」
「しかし、それにしても見事に命中したもんだ」
「はい。もしかしたなら、ピロシキをクレーと間違えて撃ったのかもしれませんが…」
「そうだとしても、ううっ」
ネフリュードフはその場にくず折れた。
「ネフリュードフさま、どうなされたのですか?」
「いや。もう後がない…。から(サマ〜ズ大竹風)」
「そんなにピロシキのことを愛しておいでだったのですか」
「だから。そういうことじゃなくって」
「はい」
「はいじゃなくって」
ネフリュードフは、意を決して第3のピロシキをビニール袋から取り出すと半ばやけ気味にもう一度袋の中に突っ込み直すと、やおらぐるんぐるんと大きく回転させた後、すっとその手を放した。
弾かれたように飛び出すネフリュードフともうひとつの影。 美しい放物線を描いて落下してくるビニール袋の落下地点にまっさきに到着したのは、ネフリュードフだった。だが、見事にキャッチしようとした瞬間、無常にも彼は前に突き飛ばされた。
ネフリュードフはムチウチ症になってはいやしないかと首を気遣いつつ首を回さず後ろを振り返る。
カチューシャだった。
ネフリュードフは信じられないという眼差しでカチューシャを見つめる。
「ネフリュードフさま、運命とは自らの手で掴み取るものなのです。待っていたのでは何ひとつ手にはいりませんわ。もうこれも運命と諦めていらっしゃるのでしょう? あなたの思考は手に取るようにわかりますの。どうしても手に入れたいものであったならば、力づくでも奪い取る、そういった気概がないようでは到底むりなのではないでしょうか。それを自分の思い通りにいかないならば、すぐに運命だからと諦めているいらっしゃいませんか? それは逃避です。自分の都合のいいように運命の意味をはきちがえていっらっしゃる、そんなように感じます。わたしが奪い取ったこのピロシキのようにどうしてもほしいのならば、腕づくでお取りになればいいのに」
「それは運命に逆らうことになりはしないのだろうか?」
「ねぇ、ネフリュードフさま。運命とは自分で切り拓いてゆくものではありませんか」
ネフリュードフは咳払いし、肩をすくめる仕種をしてみせる。
「ところで。きみは忘れてはいないだろうか。いかようなことがあろうとも私はピロシキを食すと」
「はい。うかがいましたわ。では、まだ諦めたわけではないのですね?」
「諦めるも何も…」
「では、どうなさるおつもりですの? 私がこれを食してしまえばピロシキはなくなってしまいますけれど」
「そうです。食べられたならの話だけれども」
「まあ! 今度は心理作戦ですの? なるほど。わかりましたわ、ネフリュードフさまのお考えが。でも生憎私はあなたのことを愛してはおりませんから心理作戦は失敗ですわね」
ネフリュードフは力なく笑う。
「あなたに愛されてなどいないことを私が知らないとでも思っているのですか」
「まあ! そんなことを仰るなんて。ネフリュードフさまこそ私ではなく私という存在の背景であるプロレタリアートという階級に惚れこんでいるのではありませんか。卑賤なものを愛するブルジョア階級という図があなたにはたまらないのです。自分を貶めることに躍起になっているあなたは滑稽ですらあります。でも頭の良いあなたはそれさえも計算ずくなのでしょう? 自分を汚し笑いものにすること、つまり己に罰を与えること、そこに喜びを感じているのです。そしてそれは、安っぽくて低劣な自己憐憫といったナルシシズムなどではなく、もっと高尚な贖罪といったものなのです」
カチューシャの声はじょじょに震えはじめ、わけのわからぬ激情に囚われたのかいつもならば涼しげな眸は不安の色を浮かべ、抜けるように白いはずの頬は朱に染まっていて自身も戸惑いを覚えているのがその眼差しにはっきりと見てとれた。 一旦解き放たれた感情の奔流はもう堰きとめることなどできなかった。カチューシャは知らぬ間に声を荒げていた。
「ご自分に罰を与える、私はその道具ですか? この卑賤の民があなたにはどうしても必要なのでしょうね。どこの馬の骨ともつかぬ汚らわしい生まれの私は、選ばれた貴種であるあなたをケガスためには恰好の材料ですもの。あ。つまり、あなたに選ばれたということはどれだけ私がケガレた忌避すべき存在であるのかの証明ですのね。あぁ、そうだったんだ自分でもいままで気付きませんでした。私はあなたの自らを辱める高尚なご趣味のための慰みものに過ぎないのですものね」
ネフリュードフは、すっとカチューシャの前に歩み寄ると無言のままその上気した頬を平手打ちした。
カチューシャは目を大きく見開いて驚いたが、じきに大粒な涙が頬を伝い落ちた。
「なにをなさるんです? 精神だけではあきたらず私の肉体までもずたずたに切り刻みたいのですか?」
ネフリュードフは何も言わず、大きく包み込むようにしてカチューシャを抱きしめる。
「な、なんなんですか? 好きでもない女をよく抱けますね。それともまた憐れみですか」
カチューシャの顔は涙でもうぐしゃぐしゃになっている。
「いっそ私に死ねと仰ってください、ただひとこと死ねと」
「わかりました。しかし、その前に腹がへりませんか?」
「まあ。忘れていましたわ。ピロシキを食べてからでないと死ぬに死ねませんものね。そして、私たちふたりは絶対に結ばれる運命にないことを立証してみせないと」
カチューシャは、ビニール袋からピロシキを取り出そうとして驚いた。それは、ピロシキなどではない、ただのタワシだった。
呆気にとられて何も考えられない様子のカチューシャ。その目は宙をさ迷っている。やがてその視線は、ネフリュードフの眸をとらえた。その目は笑っている。
「ごめんなさい。つい言い出す機会を逸してしまって。ほら、このとおり本物のピロシキは、ここにあります。ね? だから言ったじゃありませんか、私は必ずピロシキを食すと。」
カチューシャは、どう答えたらいいのかわからない。
「それでは、と。ワインがほしいところですけれど、ふたりの未来を祝してピロシキを丸かじりってのもオツなもんでしょ?」
「ふたりの未来って?」
「きまってるじゃありませんか。ぼくたちは結ばれる運命にあるんですから」
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