母のタイムスリップ日記
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2004年03月31日(水) 「そんなに年取ってない!」だって


 朝一番に「やったぁ〜 お天気だっち〜 …」と米寿のお祝いファクシミリが届いた。母に会いに来ると言う合図だ。
友人は、私よりずっと若い。弟たちより若い。
でも、体力は 母と同等かそれよりないと思う。歩行のペースは母より劣るのである。
そんな友人が、電車に揺られて1時間半かけてやってきてくれた。
一人で来ると言っていたけれど一番下の双子ちゃんをお供に来てくれた。
待ち合わせの場所に出向くと母のために大きな花束を準備していてくれた。

昨夜、夫に「友人が来るかも…」と話したら「誰かさんたちに爪の垢でも飲ませてあげたらぁ〜」とご尤もな一言を頂戴した。
あちらは、今日も音なしの構えである。

友人たちと施設に向かった。
花束は米寿を迎える二人に 友人からのプレゼントという事にして頂いた。

「ねぇ〜。今日が88歳のお誕生日よ。おめでとう」と母に声をかけると
「私はそんなに年を取ってないよ」とご機嫌斜めである。
折角のお祝いもこんな調子なので…少し困った。
でも、仕方ない。
『いつもニコニコばかりも出来ないものね。其の儘で良いんだよ。
米寿を迎えられた…という事は、ある意味では 私の喜びでもあるんだか
ら…』と心で母に声援を送る。

母は、職員に着物を着付けて戴いた。
昨年は 座って記念写真を撮るとき右に右に倒れこんで背中も丸かった。
でも今年はしゃんとしていて別人である。
職員の一人も昨年の様子を思い出されたようで「今年はシャンとして良いですねぇ」と言ってくださった。

大きなテーブルに果物とお茶とケーキが並んだ。
家族や友人の分まで準備してくださった。それなら、職員の方もご一緒してくだされば良いのに…と思うのだが そうは行かないのかな?

入所者のご家族が手品をしてくださった。
入所以来、会があるごとに見せてくださる。最初の内は見向きもしなかった入所者の人たちもだんだん見入って来るようになった。
ボランティアして下さるご家族は「ここで随分腕を磨かせてもらいましたよ」と言われていた。今では、町のあちこちから声が掛かるとも話されていらした。
友人は、手品の間しきりに驚きの声を上げてくれて場を盛り上げてくれた。
こういう事も皆が集中する秘訣かも知れない。勉強になりました。
お供の双子ちゃんも参加してくれて更に場が盛り上がった。

友人は、入所者の一人一人に話しかけて肩をもんであげたりと大ハッスル。
「疲れるのにぃ〜」と思うけれど折角の好意に水もさせず、お疲れのないように…と祈るばかりだった。
母の着替えの間も親子して動き回っていた。

久々にご家族と顔を合わせて、それぞれの胸の内をお聞きした。
と言うのも 昨年の今頃は 母の急変に心配していた利用者さんも 今では
母より状態が良くないのである。
入所時は 母が痴呆度としては一番悪かったように思えたけれど 今の母の
元気度は 良い方だろう。
歩く事にかけては、一番良いかも知れないのである。

ご家族は、だんだん元気をなくしつつある事を感じて心配しているのである。それに加え、ご自身の健康不安も…。
ご家族は 寂しい顔をしながらそれぞれ覚悟を決めて居られると感じた。

ここでも、介護する家族の悩みを耳にした。
家族関係である。
協力しない家族の存在の悩ましさである。
利用者のご家族は もうこの世にはなくご兄弟が看られているけれど、嫁に出た妹さんのご主人が関っていらっしゃるのである。
「他にも兄弟がいるのですよ…」と言う話に胸が痛んだ。
施設に託しても 尚 家族には様々な悩みが付いて回る。
介護を受け止めた家族の葛藤がずしりと重たく感じた。

最近富に思う事がある。
介護とは、受け止められる人を選んでいるのではないかと感じるのである。
選ばれているとでも言うのだろうか。
受け止められない人は選ばれない。

ひたすらマイペースの私だけれど…それでも良いでしょうかね。お母さん。
選ばれたと言っても、頑張る事もしないこんな私だけれど…良いのでしょうかね。これからも、楽しみ探して生きて行きたいですねぇ〜。


2004年03月30日(火) やっぱり 会いたいのかぁ〜


 母の誕生日は明日である。
先日「おかちゃん」を連発する母に「おかちゃんに会いたい?」と聞いてみた。「うん。会いたい。でも何処にいるのかわからないのよ」と言う。
何か判っている様な気がして…
「○○(母の父の名)さんには?」と聞いてみた。
「会えるものなら会って見たいよ」というのである。
母の父は、母が3歳の時に病死しているのだ。
きちんと説明できないだけで何となく判って居るみたいと言う興味が沸いた。
「じゃね。◇◇(父の名)さんは?」と聞くと「すごく会いたい」と言うではないか。この所 父の事を聞いても「誰?」と言うくらい位だったのに…。
ますます興味が出て来て「××(長男)には?」と聞くと「会いたいよ。でもねぇ〜」と言葉を濁した。
「△△(次男)には?」「会いたいよ。でもこのごろはねぇ〜」
お見事である。
どの時代にタイムスリップしているかわからないけれど…母が弟たちに失望感を抱いた時代に違いない。
おまけに私の事も聞いてみた。
「いっぱい会いたい」と言った。「何処にいるの?」と聞くと「ここ」と私を指差した。
ほんの瞬間の事だけれど…わかったんだねぇ〜。

私は、兄弟と比べれば頻繁に母と接しているので役得か(笑)

でもやっぱり息子には会いたいんだねぇ〜。
「31日は施設で誕生会だけど来れる?」と電話が来た折に弟に聞いてみたのだった。
「仕事の具合で…」と言っていたけれど27.28にも連絡ないしなぁ〜。
過度の期待はしないし こちらから「来る?」とも もう聞かない。
でも、お金の用がある時はササッと電話してくるのになぁ〜。
いつもの誕生日じゃないんだよぉ〜。お金だって借りたんでしょうぉ〜。
虫が良すぎない?と思ってしまう。

そんな事も知らない母は「会いたい」と思っているのになぁ〜。
その思い 弟たちに届けば良いのに…。傍にいると余計な事まで気になってしまう。ストレスの元だなぁ〜。

明日は 施設で板さんが寿司を握ってくれるそうだ。
だから、お祝いの赤飯は 別の日にしようと思う。
お花と果物でも運ぼうかなぁ〜。


2004年03月29日(月) いいですねぇ〜

 利用者さん訪問。
今日は、遠方から妹さんがみえた。
少し離れた所に住む妹さんのご主人が倒れらたので、見舞い方々お顔を見にいらしたのだ。

姉妹が見えるまでの間 キッチンと食卓を挟んで利用者さんの幼い頃のお話を聞かせて戴いた。
目を閉じて語られる利用者さんは 昔の風景を思い浮かべて居られるのだなぁと想像できた。
おそらく 暫くお会いしてないのだろうから…楽しみなんだろうと思った。

利用者さんは 80を越えられたけれど、妹さんたちはまだ少しお若い。
介護の時間を削っても行動できる。

妹さんたちが見えると もう3人の世界の世界となった。
お互いのお話に花が咲いていた。
介護の話にもなり、在宅のヒントをあれこれと…。
「いやぁ〜。こうなってくると買い物をして物を増やすのも嫌になるし、買い物をしようという気にもならない…」という言葉が耳に残った。

適当に作ったお惣菜4点が出来上がっていたが 「ヘルパーさんって みんなお料理できると思ったら 生活が様々で作れない人もいるのよ。姉さん 良いわね。美味しそう…」と。
作ったものなんて「キンピラ」「ほうれん草のおひたし」は利用者さんの依頼。後は あるもので適当に…という事で先に使ったものが良い物を選んで
大根、ごぼう、さつま揚げ、インゲンで煮物。使いかけのキャベツ、玉葱にベーコンとインゲンを足してテンメンジャンとトウバンジャンで薄めの味噌炒めを作っただけ。料理名などないものである。それに大根おろし。

姉妹が揃ってあれこれお話できるっていいなぁ〜。
私には姉も妹も居ないもの…。
お互いを思って集ってこられるというのも羨ましい…。

素敵な時間を見せて頂き 家に戻った。
ふと気になって、菜園の通知を見直した。
すると4月1日から植えてくださいとあり その前に場所の確認を…と有った。直ぐ傍なので畑に出向いた。
すると もう土起こしをしている人が数人いた。
「こんにちわ」と挨拶して番号の所に行ってみた。ま、良い場所かな?
確認後 出口に向かうと「場所は何処ですか?」と聞かれた。
場所を指すと「あそこは 良い土ですよ」と教えてくださった。
「連作になっても困るのだけれど…」と聞くと「根菜は植えてなかったようだ」と言われた。
「いやぁ〜。何で4月まで植えちゃいけないんだかぁ〜。女の市長さんには困ったもんだ」と愚痴られた。確かに…。ふと先日の直訴した時の市長さんの姿を思い出した。投票した人がいたから当選したのだろうけれど…。
やっぱり あれこれ 不満は出ているのだなぁ〜。
さて、これからこの方に畑のお手入れをご伝授戴くことにしようかな…。
夫が何処まで手入れできるか…それ次第だけれど…。
今、植えるものを3点程注文中である。
その前に 家も土起こししなくちゃなぁ〜。



2004年03月28日(日) 母の苦悩


 「何をして過ごして貰おうかなぁ〜」と思って「本を読む?」と聞いてみた。すると、母はとても悲しそうな顔をして「あのね 読めなくなって…嫌なんだ」と言った。
そういえば、このごろ 行く度に本を手にしているし…私だって読ませている」母が食いついて声に出して本を読んでいるのを確認してから本を渡していたのだけれど…。見えてないところでは…判らないなぁ〜。

折り紙だって、編み物だって人が傍にいてくれれば出来るけれど…。
施設ではそうは行かないんだなぁ〜。
一人で取り組むってこの病では とても難しいだろう。
同じフロアの人に手仕事の好きな人いないなぁ〜。時に一緒に出来ると嬉しそうな顔しているけれど…殆ど一人だものね。

母の手仕事をみて「おかしいでしょ」と言う人はいるけれど…やらないものね。施設の難しさだなぁ〜。言ってる方も病だろうし…。

母がデイに行って居る時に今の母と同じくらいの人がいた。
でも目の前で「おかしい」とは言わなかったし、その辺は施設側も充分配慮して作業のテーブルを組んでいたなぁ〜。
家に帰ってから「おかしい人がいるんだよ」と報告した時だって「出来ないけど頑張って楽しめるって偉いねぇ〜」と言うと母も納得していたなぁ〜。

昨日、今日と母に絵を描いて貰った。
描き始めは やる気満々で始める。とても楽しそうで集中度も高い。
大体の目測をして印をいれて良いスタートを切る。
でもその内 描いている物の先に見える他のものに視点が移ってしまうようである。目に入ったものも加えて同じ絵に書き込むので描いている物がぼやけてくる。母自身 視点が移ってしまった事には全く気が付かない。
その内に「おかしい」「思うように描けない」という事に気が付き「嫌になったぁ〜」と言う。
そこで、お絵かきは終了である。
描き始めて30分くらいかなぁ〜。
他のものが目に入らない環境を作れば出来るのだろうか?

こんな風に思うように出来なくなっている事は理解出来てしまうのだねぇ〜。こういう事が悔しいのかな?

今日もお花見を兼ねながら良く歩いた。
公園で一休みしていると「あー綺麗だなぁ〜。いいなぁ〜」と言うのでその先をみると通るようなうす緑の葉が広がった柳の枝が風にそよいでいた。
かすみがかった青空がバックだった。
逆らわずに揺れる柳を見ていると心和んだ。
母は、疲れたのかベンチに横になって休んだ。
心地よいかも知れないけれど…まだ寒いので疲れが取れるくらいで起きてもらう。

いろいろと苦悩する事もあるけれど…自然の景色に心打たれる事もあるのだし…差し引きけば…苦悩は消えてくれるのではないかなぁ〜。


2004年03月27日(土) 母と共にキッチン

 母が我が家にお泊りである。
施設で「悔しい」と呟く声を聞いた。
「どうしたの?」と顔を覗き込むと「悔しい事なんてないよ」と言う返事だった。「悔しい」と言った事は記憶にあるようで 心の内を隠すような返事が気になった。
でも、母には具体的な事を説明できる状況ではない。
もしかしたら 単に悔しい場面を想像しただけなのかも知れないけれど…。

リハを受けた後 腹痛の訴えがありトイレで踏ん張ったけれどいきむ事を忘れてしまっていて いくら「いきんで」とお腹を押さえ込んでも出来なかった。諦めてトイレを出た。
それでも腹痛の訴えは10秒毎に続いた。お腹を撫でるとガスがゴロゴロと音がした。溜まっているんだなぁ〜。少し歩いてみようかと時計を見ると夕食の時間ギリギリである。
暫く考えて施設に「今日は、こちらに泊まります」と連絡を入れた。

それから 支度して駅前に買い物に出かけた。歩き出すとガスの抜ける音がした。これならきっと少しずつ収まっていくだろうと想像できた。
母の足取りは軽く休息なしだった。
途中桜を見上げたりしてお花見を楽しんだ。
帰路も歩こうかと思ったけれど あまり無理をしない事にしてバスを利用。
バスの中でまたしきりに「おかちゃん」が始まった。
周囲に聞こえて「何だろう?」と言う視線を感じた。
調子良くないかなと思いながら母の様子を見ていたが目を合わせるとニコッとするので単に不安なのだろうと思った。

家に戻って用を済ませる事が出来ほっとした。

夕食の支度は、母と共にした。
ほうれん草なら洗えるだろうと頼んだ。
すると母は、根の部分を手でちぎり始めた。「洗ってね」と数回繰り返したらようやく本来の洗いを始めた。
暫く作業していないとやはり忘れてしまうようである。
さすがに身体が覚えているのだろう やっているうちにちゃんとできるようになるものだなぁ〜。

ついでに大根もおろして貰った。剥いてある大根とおろし金を渡すと大根を水で洗い始めてしまった。
ほうれん草を洗ったあとなので切り替えられないようである。
こういう事は、最近良くある。タオルを洗った後で「鼻をかんでね」とティッシュを渡すとそれも洗ってしまう事だってある。
大根を少し擦りおろした後 母にバトンタッチしたら 最後まできちんと擦りおろした。おまけにおろし金を綺麗に洗うという事も出来た。

その後茹で上がったほうれん草を水から取り出して切るという事をやって貰った。初めに数本のほうれん草を取り出して母に渡して続きをして貰った。
指示しないのにちゃんと水分を適度に絞ると言う動作も出来ていたし包丁で食べやすい長さに切る事も出来た。

こうやって居ると言葉が だんだん増えてくるのがわかる。
自分の身体を動かしているうちに思い出すのだろうか…。
「腰が痛いよ」と言うのでキッチンに椅子を持ち込み休憩して貰った。
「有難うね。こき使ってしまってごめんね」というと「いえいえ」との返事だった。

夕食はかど(生の鰊)焼き尾頭付きとほうれん草のおろし和えとひじきの煮つけとキャベツとあげの味噌汁となすの漬物。ご飯は赤米と炊いた赤飯風。私と同量のものをぺろりと平らげた。
最後にひじきを食べるときは中の大豆を箸でつまんで食べていた。
これだけ上手に箸を使えるんだと感心した。

食後 洗濯物を畳んでもらった。

後片付けも全て洗い終えた物を洗ってもらった。
水切りに移す事が出来なかった。
でも最後に台布巾できっちり水周りを拭いて台布巾も洗えた。

ゆっくりくつろいで10時過ぎに入浴。
それから大あくびをして就寝だ。
1時くらいに最終トイレに起こせば大丈夫だろう…。
30分ごとに様子を見ているけれど動く気配もないほどぐっすり眠っている。


2004年03月26日(金) 乗り越えたのかな?


 久米氏のニュースステーションが終了した。
一回目から毎晩見ていた。
ただ、母の介護が始まってからは、だんだん見られなくなって行った。
時間的に無理だったのである。
そんな訳で、ニュースは筑紫氏の方にシフトして行った。

介護が始まりだんだんテレビからラジオにシフトして 気が付けばテレビからはすっかり遠ざかってしまった。

今日が、Nステの最終回という事で少しだけみた。

最後の久米氏の話が興味深かった。
つい先日、夫が話した事と重なり、また 私自身もそう思っていたからである。

久米氏は 番組に対してのクレームの中で番組に非があるものとそうでないものがあったと言っていた。
非のないクレームを入れてくださった方にも深く感謝すると言っていた。
そのおかげで 長く続けられたし感謝してますと言っていた。

夫も仕事で 似たような事があり 数年に渡り苦い思いをしていた。
先日「俺を恨んでいるんだろう…」と言われたそうである。
「とても苦しかったけれど、そのおかげで 学んだ事がたくさん有る。それがなかったら 楽に過ごせたと思うけれど…それでは今の自分にはならなかっただろう…。皮肉でも何でもない。感謝してるよ」と答えたそうである。
夫がかなり辛い思いをしていたのは 知っていた。
でも 乗り越えたんだなぁ〜と感じた。
夫の話を聞いて心底「良かったね」と思ったばかりだったのだ。

私自身も 最近になって 関った全てが自分の役に立っていると感じる。
いろいろの事があって今の自分があるんだなぁ〜と感じるようになってきている。
そういう意味で、みんなに感謝だなぁ〜と思えるようになってきている。

若い時には そうは行かなかった。
苦しんだ挙句 最終的には「正義が正しい」という結論に達していた。

長い介護を通して居るうちに道が見えてきた。
正しいという事で区切る事に危うさがあると感じたのだ。

意見を発しないのではない。

久米氏が降板するの訳のひとつに「適切な言葉が出なくなる」と言うのがあったと記憶している。
最近 見ていなかったので判らなかったけれど やっぱりそんな様子が見えた。私も、時折そんな事がある。
そして、母が大切な役を降りたのも同じ理由だった。
その時の年齢が丁度60だった思う。

普通に生活するのには 不自由さはなかったものの 皆の前でという事に対しての責任という事から考えれば 致し方ないことだろう。

わが身も60に向かって行く。
上手に年を重ねて60を迎えたいなぁ〜。






2004年03月25日(木) 買って見ようかな?


 昨日、施設で職員が「フードプロセッサー 何処に行けばあるかなぁ〜」と話すのが耳に入った。
近隣のお店の目玉商品で出かけてみたらもうなかったという事だった。同じように買いに来た人も高齢者のために必要で買いに来ていたが売り切れでがっかりしていたと言う話だった。
施設では刻み食の人が増えてきて 現在使っているものでは間に合わなくなっていると言っていた。
そういえば、食事は職員が個々に刻んで居たなぁ〜。
「高いかもしれないけれど…」と近くのお店を紹介したが 良く考えあれば
母と共に通過する場所でもあるので「どうせ行くので見ておきますよ」と約束した。

器付きでなく、フードプロセッサー単体の物が良いという事だった。
お店に寄ると特設ステージで売っていた。
でも施設で言ったのは1万円以内の値段だった。ここのは、25000円から30000円だ。一応値段と売り場だけは施設に伝えだったのだった。

普段の生活で必要と思わなかったのでその手の物は見ていなかった。
「売っているなぁ〜」位の感覚だった。
それでも、考えてみれば 今 我が家にはフードプロセッサーはない。
お菓子作りのためのハンドミキサーや、コーヒーミル、少量用のミルは単独で有る。ミキサーも以前使っていたけれど…洗う手間が面倒で友人に上げてしまった。

今日、パンフレットを読みながら 考えてみた。
必要に迫られて居る訳ではない。
手動ではすりこ木だって卸がねだって有るし…。
でも、今あるものをひとつでまかなえそうである。
母にだって使うようになる…味噌を作る時だって楽になる。
そんな事を考えているうちにだんだん欲しくなってきた。

ミキサー、ブレンダー、ミル、泡たて器、すり鉢等の仕事をこれひとつで…と説明に「うまいなぁ〜」と思う。面倒と思うところをピックアップしている。洗うのも簡単そうだなぁ〜。

いや、その前に今有る器具をどうする?
明日、もう一度見に行ってみて決めようかな?


2004年03月24日(水) 虫の知らせって言わないだろうけれど…


 母を美容院に連れ出すために施設に向かった。
今日は、ついでに外食しようと思った。
何故って…母のお金を弟に送金するのだもの。
母は全く知らないけれど…でも哀しすぎる。

まず、弟に送金した。母の居ない所からでも可能だけれど、母のお金だし。
勿論 手続きしたのは私なんだけれど…。
その後、母の春秋用のパンツを2本買った。
他の方も待っているので試着室に入っても 何か気ぜわしかった。

昼時の混雑をやり過ごしてから お目当ての場所に行く頃には疲れ切っている母で多少不機嫌になっていた。
「ごめんね」と謝っても感触が悪い。
お店に入って母を良く見てみるとどうやらお腹が痛む様子だった。
お腹が空いているからだろう…と思ったけれど、今日は「お腹空いたな」と言う言葉は一度も出てない。
「お腹空いた?」と聞いても「大丈夫」の一点張りだったのだった。
それでもテーブルに食事が並ぶとしっかり食べ始めて全量お腹に治めた。

直ぐに美容院に向かおうと外に出ると空模様が怪しげだった。
お天気が悪く乾ききっていないので沢山の洗濯物が干してあった事を思い出し急いで家に向かった。

家について直ぐ「トイレに行きたい」と母が言ったのでコートを着た儘トイレに直行して便座に座った。座ると同時に出るべきものが出た。
座った儘でコートを脱がせた。
ヤレヤレ、間に合ってよかった。これで美容院に直行していたらどうなっていたか…。虫の知らせとは言わないだろうけれど…。
トイレの始末を終えて部屋に入ると今度は留守電がチカチカしていた。
「?」と思って聞いてみると弟からだった。
どうやら、私が口座番号の下2桁の数字を書き間違えたようだった。
「ががーん」何たるミスだ。母がいるので急いでいたから…と自分に弁解。
これもあっての虫の知らせだったか?

弟と話している隣で母は ソワソワ。トイレから出たばかりなので落ち着かないようである。
「今日駄目だったら、明日やり直す」といって電話を置いた。
母が落ち着くのを待って銀行に電話した。
「今日は行けないけれど…」と銀行より先に電話したら…「こちらから電話が行ったのですか?」と話が行き違う…。
向こうは、痴呆の母がいるなんてわからないし、用が詰まっているなんて判らないのだから仕方ないのだけれど…イライラとしてしまった。
とりあえず「銀行からの連絡を待ちます」と電話を切った。

夕食の時間まで戻れなくなってしまう…と慌てて美容院に向かった。
母は、美容院に入ると「可愛いい。可愛いい」を連発。
どうも色とりどりの椅子や装飾が一番先に目に入ったのだろう。いつもと同じなんだけれど…今日に限ってどうした事だろう?
それにしても 今日は混んでる。人がたくさんいるのだ。
母は、それにも反応して「いっぱいの人がいるね」と笑う。
母の番が来て隣の毛染めをしている若い方をみてケラケラと笑い出す。
つられて若い子もオーナーも笑い出した。
良かった。これで不機嫌になってしまったら…いたたまれないもの…。
母の笑いはそれだけで終わらなかった。
パーマ液を定着させ待っている間「目が見えない」タオルを押し上げようとした。「我慢ね」というとまたケラケラと笑い出した。
また、さっきの若い子が染色の為隣で 同じように待っていてまた笑い出した。
すると母は「ほら、笑っている…」と更に笑い出した。
母と若い子と私の笑い声が広がってしまった。
ま、不機嫌な声より良いかと居直る事にした。

途中水筒のコップにジュースを入れて渡すと母は、コップをかじろうとした。「飲むのよ」と言っても通じない。やっと口に含んだと思ったらクチュクチュとし始めた。「ごっくんね」と言うとやっと飲み込んだ。こんな事を数回繰り返してようやくちゃんと飲む事を思い出せた。

汗の出るような動作の連続だった。
もう、美容院は無理かなぁ〜と思うけれど…もう一息母には頑張ってもらいたいな。

施設の食事が始まる時間に美容院を出た。
もう、すっかり暗くなってしまっていたが…滑り込みで夕食に間に合った。

家に戻ると銀行からの留守電が入っていた。
それも、昼過ぎに電話を受けた人で留守電の受けた苗字と母の苗字が違うので確認したげだった。私もあの時名乗らなかったけれど…。私みたいなミスした人他にも居たのかしら?そんな訳ないよねぇ〜。
でもさ、もう銀行はとっくにクローズしているのよねぇ〜(はははぁ〜)


2004年03月23日(火) あれから6年かぁ〜


 母の病が軽度から中度に差し掛かっていた。
「家に帰らせて戴きます。おかちゃんが待っていますから…」日に幾度も繰り返される言葉にげんなりする日々だった。
また、鬱状態に陥って一日中畳みの目を数えるような日々だった。
そんな訳で少しでも気を紛らせて貰おうと手仕事を頼んでいた。

「あのね。縫い物ができない人がいて、どうしてもおばあちゃんにやって貰いたいんだって」と言いながら刺し子を縫って貰っていた。
「こんな簡単なこと どうして出来ないんだろうね。私は下手なのに…」と言いながらも 調子がよければ半日の時を縫い物に集中していた。

そんな様子を知っていた友人は、母に双子ちゃんの小学校入学に必要な体操着入れを作って欲しいと母に頼んできた。
その頃の母は 時折訪れる友人の子供をぼんやり記憶していた。
勿論友人の事も判っていた。季節には、顔を見せてくれていたし介護に行き詰まった私を訪問してくれていた。
「人の役に立てるなら…」と母は快諾してくれた。
もう、針目だって揃わなくなっていたのだけれど…料理する時も私の助手をする位で人の役に立つなんて久しくなくなっていた。
ただ、その頃の母の記憶は 消えてしまう事も多くて 受けては見たものの最後まで出来るか…という不安も残った。
駄目なら途中から変われば良いさと思った。

数ヶ月を経て 二つの体操着入れとズック袋(だったかな?)と給食用のナプキンが仕上がり 友人に送った。
友人と双子ちゃんは、とても喜んでくれた。
それより、こちらが双子ちゃんの話題も含めて母の可能性を感じさせてくれた友人の配慮に感謝していた。
作品としては そう立派な代物ではなかったのに、感謝してくれる友人に頭が下がった。

今日「お蔭様で子供も卒業しました。あの体操着入れの写真を撮ってお母さんの所にお礼方々伺いたいのだけれど…」と言う電話を貰った。
春休みのうちに…との希望で来週あたり…という事だった。
「31日が母の満88の誕生日で、施設で誕生会がある」と伝えると「そりゃ、おめでたい日だぁ〜。その日にしよう」という事になった。

でも友人は、身体の調子が良くないのである。
2時間近くの道のりはかなりの負担になる筈である。健康な私ですら余裕を持たないと行けないのだ。
「決して無理をしない事。駄目な時は直ぐキャンセルして欲しい」と頼んだ。

その友人の双子ちゃんの卒業式の日。
校長先生は、お話の原稿を前もって彼女に渡してくれて 隣に座ったご主人が話している場所を指で辿ってくれて「今」を共有させて貰ったと言っていた。最初の子が入学してから19年を経て ようやく 小学校とさよならである。「お疲れ様でした…」と言葉をかけた。
「いやぁ〜。お母さんたちが自分より10年若いのよねぇ〜。中学に行けばまだ年齢の近い人がいるから…」と笑っていた。

電話に出た双子ちゃんも もうしっかりとした口調で「ねぇ〜○○ママの所に行来たいなぁ〜」と言っていた頃の姿は微塵も感じない。
私の中では何時までもけんかして泣きべそをかいた儘の双子ちゃんなのになぁ〜。
よそ様の子は 大人になるのが早いなぁ〜。


2004年03月22日(月) 言葉がうまく伝わらない日


母は、ソファーに座って塗り絵をしていた。
顔を合わせると「あんたきたのね」と言ってまた塗り絵を続けた。
私も居室に入って荷物をおいた。
母の所に戻ると入所者の方から何か言われたらしく「この人 あんたを待っていたらしいよ」と私に言う。
入所の人は母に「ほら 来たんでしょ」といった風だったのに母に通じなかったのでイライラ気味となった。
少し険悪なムードとなってしまったので「ありがとう」とお礼を言って、母を居室に連れて入った。

まだ、しっかりしている方との会話は、時折こんな風になってしまう。
これが、今私の悩みともなっている。

母自身も デイで時折 憤慨する時も有ったので仕方ないのだろうけれど…。以前は、母がイラついていたのだけれど…今度は母がイラつかれているのだ。どっちになっても 哀しいなぁ〜。

居室に入って ストレッチ体操をした。
みぞれ混じりお天気なので 仕方ない。

施設で準備してくれたおやつと持参した果物とお茶でおやつタイム。
この所、すごい空腹感がないようである。
それもお茶だけは かなりの量を飲んで貰っている。

外の景色を眺めて「車が行った」とか「人が歩いていく」とか見えた事を直ぐ話してくれる。間違いはないのでほっとする。

帰り際、母に本と紙とエンピツを渡すと…本に書いてある文字を写し書きを始めた「絵を描いて」と渡したのだけれど…話が通じなかったのだった。
でも、とてもきれいに書き写していたので それも良いかと思い黙っていた。まだ、ちゃんと文字を書ける事に 感謝である。
近いうちに 手紙にチャレンジしてもらおうと思った。

利用者さん訪問後 昼食を飛ばして用を足していたので母との時間は短いものとなってしまい ゆっくり母と話す事は出来なかった。
言葉遊び 不足しているかもなぁ〜。


2004年03月21日(日) 探し求めて…


 夫と娘をそれぞれ職場に送ったところで施設から電話が入った。
母を買い物に連れ出そうと思うけれど、面会にいらっしゃいますか?という事だった。
面会に行かない旨を伝えた。

探し物をするため外出を予定していたので、ちょっとホッとした。
自分だけ出てしまう事が ほんの少し後ろめたいのである。

電車に乗って賑やかなところまで出かけた。
暫く 町をうろつく事をしなくなったので、お店が判らない。
あ、あそこに入っていたなぁ〜…といってみるとない。
浦島太郎状態だった。
初めにネットで調べて置けば良かったと思っても後の祭りであった。

用があって出かけても、町を見て歩く事はなくなって久しい。
通過していくだけになっているんだなぁ〜と思った。

探し物は数点あった。
中でも一番欲しい物は、CHEMEXのコーヒーメーカーのフィルター。
地元にも有ったのに…取引しなくなったと言われたのだった。

最初は雑踏の中を人を掻き分けてあちこち探し歩いた。
混雑の中では 人を追い越すのがとても面倒だった。
人をよけて歩く勘が 鈍っているのを感じた

混雑を避けて歩いていると気分がいい。
人を追い抜いて歩くのも心地良い。

町のはずれの方に向かった。
娘が言っていた場所である。
大きなビルだけど、人はそんなにいなくて…。
初めての場所なので探検気分になった。
売り場は判ったけれど、やっぱりなかった。
探し出せない事が悔しかった。
お店の人に聞こうと思ったら「CHEMEX]が出てこない。
そんな馬鹿な…と思ったけれどやっぱり駄目だった。
「コーヒーメーカーはここだけですか?」と聞くのがせいぜいだった。
このお店は、みていて楽しかった。
時間が有るなら ゆっくり見て回りたい。
ここなら母を連れても大丈夫そうである。バスだって最寄り駅にピストンしているから。
ただ、母の趣味に合うかな?
ここでの探し物は諦めてビルを出た。

そして ホームレスの人の住む公園に出た。
桜は まだ咲きかけたばかりだった。
それにしても このごろの家はダンボールだけでないんだなぁ…。
家の前は塵ひとつなくて、箒で掃いた跡があったりして…びっくりした。
人々の暮らしは様々だと改めて思った。

もう少し若い時は 電車を乗り継いで別の町まで探しに出かけただろう。
今日は、諦めた。
駄目押しで、デパートに寄って聞いてみた。
ここだって、以前は扱っていた筈である。
でも やっぱりなかった。「別のビルで…」と言われても もう歩く気がしなかった。

以前なら 出たついでに何か買っただろうけれど…。
手荷物なしで電車に乗り込んだ。

探しきれなくて悔しいので 一体何処に行けばよいのだろう…とネットで検索。有りました。
今度は、そこに向かって「ゴー」である。
一体 次に行く時は何時になる物やら…。

急いで戻った物の家人はみんな遅い。
何も急がなくても良かったのだ。
気分だけ 追われているんだなぁ〜。
これって、夕暮れ症候群だろうかな(笑)


2004年03月20日(土) 牡丹餅なし…


 春分の日だというのに…今年は牡丹餅なし。
昨日、支度しようと思ったけれど みんな仕事で急がしそうだったので取りやめた。みんなが居ないと作る気が失せてしまう。困ったものだ。

使われなかった小豆が哀しげにキッチンに出ている。
こんな年もあるさぁ〜。
言い訳がましいね。単に面倒だったと言うだけ…。

母の所に出向こうとした時 みぞれが降って来た。
こういうのって気持ちが萎えてしまう。
「出鼻をくじく」って言うのかなぁ〜。
それでも 在宅で介護なさっている方を思うと怠け以外の何者でもない。
それに、トレーニングパンツだって無くなる頃である。
気合を入れて外に出た。
こんな日は、歩くにかぎる。スタコラサッサとバスターミナルまで歩いた。
この距離で 気持ちの切り替えするしかない。

母は、テレビを見て笑っていた。番組はわからないけれど…確かサンマと楠田えりこが出ていたような気がする。
気温が上がったり下がったりする時は あまり無理しない方が良いだろうと思い居室で体操をした。
30分は、畳に寝転んで足の屈伸と上体おこしの腹筋。
次に首の運動。
それから 手のグーパーで反射神経磨き。ウインクを左右交互にしてこれまた反射神経磨き。
立ち上がって窓のバーに掴まって身体を反らしたり 膝を屈伸したり。
両足立ちで手を広げて目を瞑ってみる。これは、少し危なげだったので少し身体を支えてあげた。
考えれば、6年位前までは片足で両手を広げて何とかバランスを取れていたのに…。今では両足で立っても危なげなんだなぁ〜。
それから、また 畳に座って柔軟体操。出来る所までで無理はさせない。

ふと思い立って舌の体操をした。
舌を顎の方まで伸ばす。次に鼻先の方に伸ばす。左右にペコちゃんのように移動させる。口の中で細く丸めたり、喉の奥に向かって縮めたり…。
これも訓練である。
母は、鼻先に持って行くのが出来なかった。どう頑張っても上に行かなかった。救いは、最後の方で気持ち上に動いた。少し訓練すればもう少し動きも良くなりそうな気がする。
出来るうちに 少しずつ練習しておこう。

これは、二人で笑い転げながらやった。
うまく出来ない時は、二人で鏡に向かってやってみた。
母の為だけじゃない、私の為にも必要な事だから…。
母が病にならなかったら、こんな事知る由もなかっただろう。


2004年03月19日(金) ウコギが…にんまりです。


 先日の会に 利用者さん担当のケアマネがいらしていたので、利用者さんの様子を伝えた。「家族に伝えるほどでもないのです」と言い添えた。
「近いうちに 様子を見に寄ってみます」と言われていた。

利用者さんを訪問すると 午前中ケアマネが様子見に寄って下さったと言われていた。月曜と違い 今日は割りに落ち着いていらしたので良かった。

今日は、お買い物に行きたいと希望されていた。
利用者さんは、しっかり支度なさっていた。
80を超える方だけれど首に「DKNY」のスカーフを巻かれていた。
「素敵ですね」と言うと「嫁のプレゼントです」と言われた。
「お高い物を…」というと「嫁は、気を使って選んでくれるのよ」と言って居られた。
丁度、私も春物のマフラーに替えたばかりだった。
こちらも、娘のプレゼントで…いえ、DKNYの足元にも及ばないのだけれど…。藍色に黒の模様が複雑に絡む綿の織物である。
「それも素敵ね」とお褒め戴いた。
春物に身を包み お店に向かった。

お買い物は、グラスとスープカップ。
グラスはカットグラスの小サイズを希望されていた。
でもカットグラスで小は見当たらなかった。
別の店にあると思うとお勧めしたけれどそちらまで行く気にはならないようだった。
幸い他の物で気に合う物が見つかったので良かった。
スープカップも重かったり、柄が気に入らなかったり…あったけれど手つきのカップが目に留まったようで…決まった。

お買い物を済ませて「食器が変わると気分も変わるのよね。ほっとしました」と満足そうに言われた。

でも立ち会った者としては、多少の不安が残る。
「こんな筈じゃなかった」とまた替えられるかな?
ま、いいかぁ〜。
ご家族も「本人の買いたい物を買ってもよい」と了解を得ているんだから…。それに 買い物で充分気分転換が出来たのだから…。

利用者さんを訪問する前に庭に出て ある木を見た。
一昨年 故郷のおばからもらった木である。
昨年は、まだ、小さくて葉っぱも少しだけだった。
今年はどうだろうと思って見た。
「ウコギ」と言う木である。
びっしりと木の芽が付いていた。
今年は、ウコギご飯が作れそうである。
「ウコギ」は夫の故郷の義姉がテレビでみて「良いものあるんだね」と言ってくれていたので、何れ義姉にも分ける予定である。
ほろ苦いウコギご飯を食べる日をカウントダウンである。




2004年03月18日(木) サイタ サイタ サクラガ サイタ

 
 施設に着いた時 母がソファーから立ち上がった。
「きっとトイレだ」と思い 様子を見ていると 自分の部屋の前に行って中を覘いてからくるりと背を向けた。
その時母と視線が合ったので手を振って傍に行った。
「ここは、どなたの部屋でしょう?初めて見る部屋です」
「そうですか?ちょっと入ってみましょうかね。あれ、ここは○○チャンのお部屋ではないでしょうか?」
「そうかしらね。でも初めて来る所ですよ」
そんな会話から今日の面会が始まった。

「ちょっとトイレに行って見ましょう」と誘う。
母は、トイレに向かって歩き出した。
でも、ちょっと確かめたくなって「何処に行くのですか?」と聞いてみた。
「ご不浄です」とかえってきたのでほっとした。

やはり、「小」が間に合わなかったようである。
お腹を押しながら「大」を誘導。
今日もいきむ事を忘れていた。繰り返しお腹を押して「いきもうね」と声をかけてようやく目的達成。
「大」の失敗はなかったけれど、下着を下げた時プンと匂ったので「大」のタイミング時だろうと察知したのだった。

痴呆者に 何処まで求めていくか…。
強い拒否はしない母なので、出来る限りトイレでの排泄をさせたいと思っている。基本的生活習慣は、残存させてあげたい。
少なくとも「でそう」と言う感覚は残っているのだから、現状維持に努めて行きたいなぁ〜。
無理のない範囲で 手助けしていきたい。

雨の中、傘を差して散歩に出た。
母の部屋の窓から桜並木が一部白くなっている所が見えたからである。
一部咲いていたのは ソメイヨシノだった。
曇った空で下から見上げると花弁が見えにくかった。
公園の奥まった所にパーッと白い物が…。
山桜ぽい桜が満開だったのだ。
「ほらほら」とその木の下に行って二人で見上げた。
「きれいだなぁ〜」と母が感嘆の声を上げた。
いろんな事が判らなくなっているのに未だ桜が綺麗だって言えるんだ。
感じ取れる心、弾む心があるなら それで充分だ。
そこで「サイタ サイタ サクラガ サイタ」と言ってみた。
母は 「何言ってんだかぁ〜」と言いたげに笑っていた。

母の足は浮腫んでいて、歩いていると息切れしてきている。
先日の元気さは 何だったのだろう。
それでも「歩きたい」と言う意思はある。
突然「負けない」と母は言った。
「そうだよ。負けないでね。私も負けないよ」と一人呟いた。

帰る前にちょっといたずら心が湧いた。
紙に母の両親の姓名、母と父の姓名、息子家族の姓名を書き 母に渡した。
そして 順番に聞いていった。
母は、名前を声にしながら頷いていた。
全部読んだ後で 「私は?」と聞いてみた。
すると「あれ、ここにないね」と言った。
感覚的に「ここに在るべきなのにないな」と思っていると感じて嬉しくなった。折り紙の裏に夫婦単位に名前を書きそれをセロハンテープで繋いでテーブルの上に置いてきた。


2004年03月17日(水) 春風のいたずら


 昨夜、娘が途中駅から電話してきた。
夕食を有り物で済ませたので 時間を読みながら温麺を作った。
夜食の時間帯なので 重い食べ物だと良くないと思ったのだった。

帰宅時間頃に また 電話。
「何処?」と聞くと情けない声で「さっきと同じ所」と言う。
体調が良くないとの事だった。
「何時に帰れるかわかんないよ」と言われた。
私が迎えに出ても どうしようもないし…。
終電ギリギリでようやく帰宅したのだった。

「食事 どうするの?」と聞くと「体力が落ちたら困るから…」と普通に食べていた。

昔から、ストレスが多くなると出る症状なので 会社が変わったからかなぁ〜等と考えたりした。
娘は それとは違う感じだと言ってはいたが…。

今朝、通院して出社。罹り付けのところは休診日で心細い思いをしたが…。
診察に拠ると「胃腸風邪」という事だったらしい。
今、近辺では 学級閉鎖が出るほど「胃腸風邪」が流行っていると言う事だったらしい。
学校と言う場所との接点がなくなって こういう情報はなかなか入って来ないのだなぁ〜。

娘の歓迎会があるので休むわけには行かない様だった。
「よりによって中華なんだよなぁ〜」と言っていたな。
「大丈夫かいなぁ〜」でも あいつは 対外的には弱音を吐かないから今頃はヘラヘラしているんだろうな…。

昨夜、あれこれ 考え始めてしまい どんどん覚醒してしまった。
久々に イメージ睡眠をしてみた。
でも久しぶりのせいか、イメージが浮かばなくて 時間だけがどんどん過ぎた。布団に入ったのが午前1時で、それから2時間は経過した。
仕方ないので起き出して、いろいろチェックしたり お茶を飲んだりした。
「一晩くらい寝なくても死ぬ事もないよね」と居直って再度布団に潜り込んだら…いつの間にか眠ったようである。
心臓に毛が生えたような伯母はんでも こんな日もあるんだなぁ〜。

母の病の進行も心配だけれど、考え事が出来るって事は 母の状態が良いという事でもあるのだと思う。
ほんとに緊迫するような介護が続いていたら 疲れ果ててコンコンと寝るだろう。

この所の強い風には ほとほと参る。今日も強い風の吹く日だった。
我が家と隣との境にスチール製の柵がある。
柵には 隣家に落ち葉が落ちていかないように簾を張っている。
その簾が、この所の強風でちぎれ始めて実に情けない状態になってしまった。「グォーン」と風が吹くたびにひらひらとする簾に ため息が出てしまう一日だった。
梅や椿などの花や葉っぱも何処からか飛んで来て、門前に溜まって行く。
朝夕に掃除するけれど…これも春風のいたずらだ。
仕事が増えるなぁ〜。






2004年03月16日(火) 柚子茶って…?


 土曜のリハが祭日の為、今日に振り替えて戴いた。
午前中しか空いて居ないと言うので急ぎ母を迎えに行く。

家に向かう途中、スーパーに寄った。
高齢の方がモタモタと行く方向を塞いでいた。
その人を何とか追い越した時「ああいう時、ちょっとどいてと押したくなるんだよね」と母が言った。まだ、聞こえる場所にいるのではないかと「ひやっ」とした。また、赤いメッシュを入れたお兄ちゃんとすれ違う時も「ほら、見てごらん あの頭 変でしょ」と。
耳が遠いので話す言葉は自然に大きくなる。
病になる前の母は そういう事は言わなかったのに…。
外に出さないだけで、心でそう思っていたのかな?

今日は、足取りがすごい軽かった。
私の早歩きのペースであった。久々に母の健脚ぶりをみた。
療法士さんも「今日は、浮腫みがないですね」と言われていた。
リハを受けるまで眠そうな様子は無かったのに、リハが始まると寝入ってしまった。今朝は早く目覚めたのかな?

昼食後、近所を歩いた。
調子が良さそうなので45度傾斜の長い坂を下りてみた。
降りると里山風の景色となり 母の通ったデイの建物が直ぐ下に望める。
「あれは…あれは…」と言いかけたが次の言葉が出なかった。
「そうだね。学校だね」と言うと「うん」と。
坂を下りれば当然 何処かで上らなければならない。
30度傾斜のダラダラ坂を何とか上っていつものコースに戻った。
大きな家並みが続くと「こんな大きい家に住んで怖いよね」としきりに言っていた。
坂道で体力を使ったので半分のところで切り上げて家に戻った。
家の近くに来ると「おかちゃんの住んでいる所が近いね」と言った。
最近は、私の事を「おかちゃん」と呼ぶ時が度々ある。
今日も興味本位に「私は誰?」と聞いてみた。「○○ちゃん」と言ったので「××は?」と聞くとにやりとして私を指した。
「違うのに…同じなんて…おかしいよね」と言った。
きっと、言っている事がおかしいと気が付いたのだ。
でも どちらが正しいかは 判らないようだった。
こんな風に時折 からかって反応を見る時がある。
母が嫌がる時はそんな聞き方は出来ないけれど…。
今日みたいな日は、大丈夫。

疲れていたようなので入浴の準備はしていたけれどやめた。
でも歩けそうだったので帰路も2キロ弱の道を駅まで歩いた。
残念だったのは、駅の傍で一番先に咲く桜の木下のベンチに座ったのに肝心の桜を見ることを忘れてしまった。ひょっとして咲いていたのかも…。

家人の帰りが遅いと言っていたので夕方、柚子茶を作った。
先月、娘が「怪しげだから買ってみた」と韓国産の柚子茶を買ってきていた。作り方は、書いてないけれど見た目は柚子ジャム風であった。
「柚子の実まで使い果糖で作りました」と表示があった。
果糖は無いので、蜂蜜で煮る事にした。
柚子の種を取り除くのが面倒かなと思ったけれど、裏ごしでやったら種を取りやすくなった。種を取り除いて実も一緒に煮た。
柚子は、夫の故郷の友人からたくさん戴き 処理できないほどの量があったので丁度良かった。

見た目には、変わらない柚子茶が仕上がった。
ジャムのような物をカップに入れてお湯を注げば柚子茶である。
勿論、ジャムとしても有効である。

あと、一回位作れそうである。
作ったほうは 多少苦味があるけれど…ママレードのように重曹を使えば苦味は抜けるかな?
苦味は嫌いじゃないから、このままでも充分美味しかった。
後は、家人の反応待ちである。


2004年03月15日(月) また、整理なんです


 利用者さん 訪問。
先週に続き、また 食器棚の整理を依頼された。
お彼岸が近くなり来客(ご家族)が多いようで、食器の出し入れが気になるようである。
先週「大きな食器が邪魔だから…」と別の所に移動を頼まれた。
湯飲みも使いやすいように…と移動。
その際 背の低い利用者さんの事を考えて「頻繁に使うものは 手の届くのところへ…」とアドバイスした。
確認を取って移動したつもりだった。
でも、使ってみて都合が悪かったみたいなのである。
「無理じゃないかな?」と思っていたところがやはり気になるようだった。
私の考えを押し付けてはいけないと思い 利用者さんが望まれた通りに置いたのだった。
今日も全て食器を出してから治めたいというので希望りにした。
出しては見ても、高い所はもとの儘だった。

これが、母だったら…。
「ほら、同じでしょ」と言っていただろう。
でも利用者さんの行動に腹が立つ事はない。むしろ「可愛い人」と思えてしまう。
こういう差を今までも感じてきた。
存在が近すぎると客観的に見られなくなってしまう場合が多いのかも知れない。

食器の移動をしながら「利用者さん痴呆の加速かな?」と心配にもなる。
でも、話を伺っているといろいろ考えられて居られる様子で、それはそれで素敵だなと思う。

訪問者が多い事、ちょっとした揉め事で落ち着かないせいかも知れない。
移動が終えたら「これでやっとほっとしました」と言われた。
確か先週も同じ言葉をうかがった。
「お役に立ててよかったです。また都合が悪かったら言って下さい」と伝えた。
それから、急いでおかずを作った。
時間通りに終了。

家に戻って食事して直ぐ 今度は保健所へ出向く。
初回参加の方は居なかったので、割りにゆっくりペースで話を聞いていただいた。
ここでは、割りに自由に物が言える。
介護保険利用の不具合を直接訴えられる貴重な場所でもある。

来年度は、主催者が保健所から支援センター、役所、保健所の協同で開かれる事になった。
新年度の活動に向けて 家族の希望を伝えた。
参加するのに面倒な事もあるけれど 家族の声を直接伝える為に無くしてはいけない場でもある。
最近、参加者が減ってきているけれど もう少し口コミで広げてより良い介護保険となるように踏ん張らなければならないだろう。

会が終わってから、参加家族とお茶をした。
その時に介護者が倒れた時 誰にも頼れない状況になるからご近所との支援体制を早く整えないと…。と言われた。
その方の地域は、割りに活発な動きがある所なので「?」と思った。
すると「それは元気な人が寝たきりにならない為の勉強会は熱心だけど 隣の困っている人を助ける…と言う所までは行かない元気な人の会なのよ」という事だった。
なるほど、そういう事かと思った。
実はその方が 先日疲労で寝込んでしまい、ご家族は仕事に出られて 薬を飲むために立ち上がる事も出来ない状況だったらしい。
似た様な話を昨年も耳にしたし…。
一昨年、私も肺炎になった。その時娘が助けてくれたけれど、いつも家族が助けられるとは限らない。

老人世代が増えるこれからは ご近所で助け合う事が必要になってくるだろう。
ちょっとづつ 助け合えるように積み上げていく事しか出来ないねぇ〜という事になった。



2004年03月14日(日) ホワイトデイ

バレンタインデイの日に母と同じフロアのみんなにチョコとおせんべいを入れてプレゼントした。
そのお返しに…と昨日 職員から声をかけられた。
入所者の一人の発案でホットケーキを作ってくださるという事だった。

オフ日としては、とても都合の良い日で 夫は仕事 娘は出張で家の片付けには都合が良かった。
でも、利用者さんがやる気を出しているのだから…と施設を優先させた。

ホットケーキからクレープに変更されていたけれど…。
下準備は職員がなさり、焼くのを男性陣が受け持った。
二人とも片麻痺があるのだけれど…上手に焼いてくれフルーツと生クリームをはさんでくれた。
焼いている時の表情が何とも言え無かった。
出かけて良かった。
男性陣が人数分焼いてもクレープの種が残っていたので女性にも焼いてもらった。勿論職員の許可を得た。
母も焼いた。でも、プレートに手を置かないかとひやひやした。
母と同じ年の方にも焼いてもらおうとした。焼き始めた時「こんな人にさせて危ないでしょ」と入所者の一人に怒られた。
確かに、その感覚は正しい。そういう感覚を持ち合わせている人も入所者にはいる。
それでも、注意深く焼いてもらった。
始めは嫌そうだったのに、お玉で掬ってプレートに種を落とした時の笑顔は何ともいえない症状だった。順に他の方にもチャレンジしてもらった。

一口食べて手をつけない人がいた。
ひょっとしたら…と思い「お味噌かお醤油ありませんか?」職員に聞いてみた。「佃煮海苔ならあるんだけれど…」と言うので「上出来」とクレープに佃煮海苔を塗ってクルクルとまいてあげた。
すると食べ始めた。
きっと塩辛い味を求めていたのだろう。

他の人にも海苔クレープは好評だった。

施設に付いた時 母の後ろからそっと近づいて頬擦りをした。
「誰だぁ〜××(私の名前)かぁ〜」と聞いてきた。
昨日に続き私の名を口に出来た。すごいねぇ〜。
それでも、帰る頃に「私は誰?」と聞くと「判ってるよぉ〜」「だから、名前?」と聞くと「○○ちゃん(いとこの名)」とニコニコして言っていた。
どうやら、顔が見えないほうがちゃんと判るみたい。
母は、私の顔は○○ちゃんと設定し直しているようである。
こればかりは、設定し直しは難しいのだろうなぁ〜。


2004年03月13日(土) リハ効果?


 ついさっきまで、知り合いと電話で話していた。
娘は仙台出張でお泊り。夫は仕事で忙しく…そんな訳ですっかりの長電話となってしまった。
彼女は お母様を引き取る準備を進めていて 容態が安定したら引き取る予定だった。
でも、この1月にお母様は亡くなられたという事だった。
お母様は、直前まで知り合いの家に住む事を夢見ていらしたそうである。
度々、6時間以上の時間をかけて看病に向かわれていたのだった。
彼女の思いがお母様に届いていたのだから良かったと思う。

昨日、別の友人にメールを送った時訃報を知った。
その友人は、今 一時的にお母様と過ごしている。
桜の咲く頃には故郷に戻られると伺っていたので、ご無沙汰を詫びながらメールしたのだった。こちらでの生活を気に入られていらっしゃると伺いほっとした。でも、暖かくなったら故郷に戻られるそうである。
お母様は故郷にあるお墓が気になるそうである。
お元気なお母様なのだけれど…子供にしてみれば気がかりだろうと思った。

離れて暮らすという事での対処は様々である。
親には親の、子供には子供の気持ちがある。
希望が合致してれば 良いのだけれど…そうそううまく行く事はない。
みんな 折り合えるところで折り合っているんだなぁ〜。

病とはいえ、母の事を見ていられることは幸せだと思う。

今日、母は「土曜日で××(私の名)来るかしら?」と職員に聞いたそうである。3ヶ月に1度位は、私の名前を思い出すようである。
それでも私と会うと「○○ちゃん」となってしまうのだけれど…。
また、職員の話で「2+2は?」と聞かれたら「にしち じゅうし」と答えたそうである。「出来るんですよね。すごいです」と言われた。
良い弾みがついていたのか?

言葉は、相変わらずで言ってる事がチンプンカンプン状態だ。
聞き取る方も出来なくて…。
テーブルに仕込んだビーズを口に運んだりする。
「それ、食べ物で無いよ」と言っても「?」とやめる気配も無い。
言葉が通じないのである。
「それは、砂よ」と言ったらようやくビーズを置いて元に戻していた。
通じる言葉、通じない言葉が出て来ているような気がする。
怒ったり、悲しんだり…そういう思いはもう卒業している。

この所、意識度が高いような気がする。
今グーパーリハに力を入れている。これが有効なのかな?

リハを受けながら療法士さんとそんな話となった。
施設に送って行っても「あなた、黙って外に出ては嫌だからね」と釘を刺されるこのごろである。
帰ると言わなくとも予測できる風である。
戻った時も判るようである。
先月から ずっと続いている。まさか病の好転でも…と笑ったけれど…。
何処かでそんな気がしている。
今日もリハを受けながら気持ち良さそうに寝入った。

療法士さんが近くの特養に出かけたそうである。
以前行った特養より ずっと質が上だと感じたそうである。
私も両方知っているけれど…同じ受け止め方である。
施設情報は、やはり感じ方が同じである。
介護に向く目が重要であろう。


2004年03月12日(金) 参ったなぁ〜


 利用者さん訪問。
今日は散歩の予定だった。
でも、ご家族に対しての不満をたっぷり聞くことに…。
気持ちは良くわかる。
母も通って来た道で、すれ違う心は何処にだってある。
他人事に言ってるけれど、私自身も通って来た道である。
違うのは、私には余力がある。意地も張れる。
利用者さんや母の方が世話をかけるようになるのが早いのだ。
いや、母はもう世話になる生活だけれど…。

老いを受け容れる事、思うようにして貰えなくとも 託さなければならない屈辱感。これは、相当辛いだろう。
おそらく、この先私自身も直面する筈である。
老いて行く先のお勉強は あちこちにある。

それにしても、こればかりは「良い」「悪い」では分けられない。
どっちにも譲りきれない思いがあるだろう。

3.40分 ひたすら聞き役に徹した。
話し終えて「ちょっと落ち着いて来ました。今日が訪問日で良かった」と言われた。「嫌な事は右から左に流していかないと…身体に良くないですよ」とだけコメント。「我が家も同様です」とも。

夕方、その我が家の問題が…。
介護は割り切っているから 良いのだけれど…最後の借金。
これで、父が母のために残したものの殆どが弟達につぎ込まれる。
我が家は持ち出しこそあれ 1銭たりとも貰ってない。
ほんとに父の意思を生かしているか?
父は母の面倒をかけるからとお金を纏めたのだろう。
私にではなく、遺産も分けてないのに 母を託すので 夫に向けて準備したのだと思ったりもする。

いろいろ腑に落ちない事はあるけれど…考えても仕方ない。
無かった物と考えて、今 母と生活できる喜びを享受して行こう。

11月から毎月返済できる予定と言っていたけれど…。
先の事はあくまで予定である。期待せずに…そして母の身体がとりあえず健康であるように…と祈るしかない。

お口直し
自治体の運営する菜園を申し込んでいた。
今日、抽選結果が届いた。
家から歩いて直ぐの所の菜園が利用できる事になった。賃料が年14400円。
以前はこんなに高くなかったなぁ〜。
母がGHに入所する年に借りる時は近くが外れて遠い所を借りた。
昨年は、母の脳出血で申し込みどころではなかった。
今回は、近くの菜園だ。
さ、何を育てようかな?ちょっと楽しみ…。



2004年03月11日(木) 不用意な一言に猛反省


 母を連れて ひとつ手前のバス停で降りた。
裏道に入り込み 「市」に寄って行く時だった。
母が「ほら 待ってくれている」と言った。私は、凸凹道で母が転ばないように…と足元ばかりを見ていた。
裏道は細く母と二人並んでしまうと通りすぎる事も出来ないのである。

顔を上げると自転車を降りて待ってくれている人がいた。
軽く会釈して顔をみると知っている人にとてもよく似た人だった。
若し知っている人なら「やあ、久しぶり。お母さんも元気そうで…」笑顔いっぱいで声をかけて下さる筈。でも その人に笑顔は無い。
少し太ってるかな?違う人かな?と思ったけれど…。
「こんにちは」と声をかけてみた。
「奥様 お元気ですか?」と続けて聞いた。
その方は、とても不機嫌そうに「何言ってんだ。家のは昨年暮れから入院していて食べ物だって食べられないんだ。介護を始めて14年だよ」と言われた。「俺の体調も良くなくて、医者に通っていて…。好きなパチンコだって出来ないんだ。今は うちの奴の 入院先に行って食事のさせ方を練習しているんだ。もう、食べ物でなくて液体をねっ」

あ〜悪い聞き方をしてしまったと猛反省である。
良い状態でない事は想像できた筈である。
母と同じデイに通っていて、病は母より進行していたのである。
母がGHに入所する頃には、老健に入所なさったのだった。

とても前向きに奥様を介護なさっており、10メートルの道のりを30分ほどの時間を掛けながらお散歩なさっていた。いつも笑顔で「いいね。お母さん歩けるのだもの…」と言われていた。
「何が大変って、食事の支度だよ」とも言われていた。
奥様と一緒でない夕方にお会いすると「家のを寝かせたからちょっと休息でパチンコに行く」と言ったりもしていた。
デイの送迎もその人を優先にして一番遅く迎えに行って、一番早く送って行く体制になった。
娘や嫁が週末には来てくれる。それが楽しみ…とも言っておられたのに…。

長い介護、加齢で疲れていらっしゃるのだろう。
以前のような笑顔は最後まで見られなかった。
それでも、立ち話でお話を伺っていたら「悪いね。話聞いてもらって…有難う」と言われた。
「いえ。な〜んも。ご自身の体大事にしてくださいね」と言ったら「そうだね。俺が病気になったら困るもんね」と言われた。

60は超えている方である。
出会った時には 奥様は言葉も話せなくなっていて…トイレにだって行けなくて…それでもめげることなく介護なさっていたのに…。
確か精神内科通院→精神科と通院なさっていると言われていた。
介護ストレスなんだろうなぁ〜。
これから在宅に戻すって言っていたなぁ〜。大丈夫だろうか?

若い人が子育てしながらの介護も大変だけれど…加齢と共に重い介護…その大変さは若い人とは比べ物にならないだろう…。自分の老いも見つめていかなければならないのだろう…。
こういう方々を救う方法は無いのだろうか?

母は、立ち話の間 黙って話を聞いていた。
何か感じるところがあったのだろうか?

母を迎えに行った時「さっき転倒したんです。頭を打ったようで…。打ち所チェックしましたがこぶとかの外傷は無かったです。転ぶ時もワンクッション置いたようでした。血圧が少し高かったです」と言われた。
母は、転倒はあまりしない。転ぶときも用心深くそして反射神経が割りにある方である。
「薬のせいかな?脳出血じゃないか?」と思った。
でも、手を動かしたりしても特に異常も無いので外に連れ出した。

桜のつぼみを見るとかなり膨らんでいて「わぁ〜。緑色になっているね」と驚いていた。
「お花見 何処でしようかしら?」と聞くと場所はふるさとだった。そして「早く場所を取らなくてはねぇ〜」と言った。
気持ちは「桜咲く」に移っているのだろう。

さて、ほんとに何処でお花見しようかな?



2004年03月10日(水) ようやく…


 昨日、施設の職員に薬の種類が変わった事を伝えた。
その時「これは何のお薬ですか」と母に聞かれると言われた。
「血圧の薬よ」と言うと「私血圧なんて高くありません」と言われたとの事だった。
こういう事は、在宅の時にもあった。
母は、本来 薬に頼るタイプで医師とは切っても切れない状態だった。
そんな母だったのに、病が進むに連れて薬に対して疑問を抱くようになっているなんて…。
母は 医師や薬に頼りきっていた頃の事なんて覚えていないのだろうか?
そんなをふと考えた。
いや、若しかすると「薬に安易に頼らない方が良いよ」と私が言った事を覚えているのだろうか?

今日、ようやく味噌を仕込んだ。
作りながら、こんなに剥きに味噌仕込みをしている自分って何なのだろうと思った。美味しいお味噌は、友人や義姉達から貰えるのだ。
義姉たちは、地域の人たちとグループで作るのだ。
友人は一人で仕込む。

私が味噌を仕込み始めたのは 友人や義姉達が毎年作っているので刺激を受けた事と母と共に出来る仕事かも知れないと思ったからだった。
豆を煮るのは、私の仕事として豆をつぶすのは母との作業にしたのだった。
今では、一人でやっている。

豆を煮る日は 外出が出来ない。
今日も 昨夜から水に浸していた豆を朝から煮ていた。
簡単にするなら、煮豆を使ってもできるのだが…。
この豆が 指でつぶれる位まで柔らく煮て行くのだ。

今日は、この時間が苦痛だった。
家事をしながら鍋の見守りをしているのに、昨日の医師の「往診しない」が頭から離れないのである。
往診以外では 頼りになる医師なのに…。
母も信頼しているのに…。
私に母の看取りを全て引き受けられないからだなぁ〜と思ってしまうのである。在宅に戻って、母の看取りをして万が一の時に救急に頼る場面で蘇生術を施す場面を想像するといたたまれなくなってしまうのである。
そんな自分を「情けないなぁ〜」と思ってしまって…。

近所で往診してくれる医師も知っている。
踏み切るのか…。暫くは、こんな事を考えてブルーになるのだろう。
仕方ないね。

夕食後、ようやく豆をつぶし麹と塩を混ぜ、味噌仕込みは終了。
機械を使わず ひたすら手仕事で…。
今年は、どんな味噌に仕上がるのだろう?


2004年03月09日(火) ご近所さん


 母を連れてのバスの中、ご近所の方と隣合わせに座る事になった。
顔は知っているけれど…何処にお住まいなのかはわからない。
でも、昨年のクリスマスイブには、教会でお会いした。
クリスチャンかどうかはわからない。何せあの1回だけしかお会いしてない。
あの時「え〜近所にもいるんだぁ〜」と驚いたのだから。
年は80近いかなぁ〜。いや、もっとお若いかも…。
男性である。

その方が「お母様、おいくつになられますか?」と聞いてきた。
「3月で満88歳です」と言うと「××さんのお宅が90超えてておられるから」と言われた。時折お見かけする北隣2件先のおばあちゃまの事だった。
「足が少し悪いくらいで他に悪い所は無いんでしょ」と言われた。
ちょっと言葉に詰まったが「いえ、ちょっと…」と頭を指した。
「ほぉ〜っ」と言う顔をなさり「良く看て居られるから…わかりませんねぇ〜」と言われた。

ここに住みだして5年経過している。その内3年はほぼ毎日近所を歩き回っていた。買い物だって毎日出かけていた。
声も大きいし…会話から想像して「痴呆」とわかるだろうと思っていたけれど気が付かない人も居られるのだなぁ〜。

「致命的に悪いと言う所は無いのですけれど…」と言うと「ご様子からみて90まではお元気に過ごされるでしょう」と言われた。
確かに見た感じからは、2年くらい軽く生き延びられそうだと私も感じていた。「そうですね。何事も無ければ…そうなるでしょうね」と言うと「ある年齢の山を越えると次の山までは大丈夫なものですよ」と言われた。

先輩のお話を「そういうものなんだな」と興味深く伺った。

「最近 ボランティアで公園のお掃除するメンバーが減りましてね」と言われた。公園掃除が行われているのは知っていたけれど…どのあたりの人がなさっているか知らなかった。回覧でも何もお知らせが無いので…。
一時は20名を越えていたそうである。今では6.7名くらいだとか。

ふと思った。地域の介護環境を整えるって考えていたけれど…私は町全体では考えることはあっても 地域に向かって何もしていないのだ。
介護に忙しくても地域に溶け込む努力って必要かも…自ら飛び込んでいく事が必要なのだなぁ〜と自覚した。
おそらく、頭のどこかで「年寄りじゃない」って思っていたのだろう。
次世代に繋がっていかないなら…世代を超えて仲間入りして行く事も必要だろう。

家でゆっくりおやつを食べたあと、通院した。
先日の健康診断の結果を戴いた。 
「すれすれの数値では在るけれど…こんなところだろう」という結果だった。血圧が高めなので薬を替えるという事だった。
でも昨年脳出血後 血管が弱くなっているから…とやめていた薬が復活した。大丈夫なのかと少し不安である。
ついでに医師に「往診ってして貰えるのか」と聞いたら やってないという事だった。医師の主義主張があるようだった。
医師として魅力があるし、頼りがいがあるのだけれど…往診が無いとしたら…在宅に戻って急変したらたちまち困ってしまいそうである。
やはり、罹り付け医を替える方向で動くしかないのかな?
でもなぁ〜。
何事が起きても、怯まないで居られるだろうか?その覚悟が出来るなら、変える必要も無いのだろう。
また 暫く考えなければならない事が増えたなぁ〜。


2004年03月08日(月) 筑紫の坊やが…


 先日の施設に出した介護サービス計画書及びその評価家族篇。
これが職員の方の理解を得たようである。

排泄に関して食事語の排泄導入すると成功率が高いと思うと書いた。
それに沿って職員もやってみた結果 やはり良かったそうである。
トイレでの成功率が上がった分 トレパンの減り方が少なくなったとの事だった。
「母だけを見て居る訳ではないので無理の無いようで良いですから…」と伝えた。

GHに入所して来月で3年目に入るのだが、ようやく視点がかみ合ってきたかなと思ったりしている。

今日の母は少し寂しかったのかも知れない。
でも 同じフロアの方とソファーに並んで座っていた。
隣の方が「これ、あんたの本?」「何処で買ったの?」と聞いてきた。
母は、それに答えていたが…理解して貰えたのか…?
返事になってなくても、奇妙に会話が成り立ってしまうのがこの病の特徴でもある。初期の内は、そうも行かないのだが…進行と共にそんな風になる。

夕暮れ時 散歩に出た。
公園でお菓子を食べたのだが…暫くたってもそれを覚えていた。
これが、不思議である。
お店や家で食べたりしても「食べた」と言う事実が記憶から消えてしまうのに…公園で食べると記憶される事が多いのである。
何で何だろうな?

ぐるりと回って 施設近くの空き地で筑紫を探した。
母に「あるかしらね?探してみよう」と言ったのだけれど、母は捜しきれなかった。私の目でようやく小指半分ほどの筑紫2本を見つけた。
まだ、小さいので摘み取るのも可哀想だったけれど…施設の人へのお土産に1本だけ摘んだ。
♪春が来た 春が来た何処に来た…♪


2004年03月07日(日) 一人で無理なら…


 毎日訪問させて頂くホームページが 幾つかある。
その中に野田氏のホームページがある。
彼がお母様のリハビリとして取り入れて居られるのがスーパーの袋たたみがある。彼は、複数の袋を準備なされてお母様にたたんでもらっている様である。
母もGHに入る前まで、毎日やってくれた。
母の場合は 買い物の荷物を出すと直ぐに自分からたたんでくれていた。
洗濯物をたたむ時のように かなり丁寧な仕事振りだった。
私など忙しいとちゃちゃっと考えもなしに片付けて居たのだ。
おかげで、袋は小さく纏まってがさにならずに助かっていた。

先日、スーパーの袋に荷物を入れて行った。
思い立って「これたたんで貰えるかなぁ〜」と頼んだ。
以前と同じように空気を抜いて、両端を畳み込んだ。ここまでは、しっかり出来たのだが…。その先、1センチ巾位にたてに折り そこから屏風を折るように折って行くのだった。あまりに細くて、うまくたためなくなり、開いてはたたみを繰り返すばかりだった。
以前なら、こうなるとだんだん苛立ち、落ち込んで行った母だ。
今は、繰り返し同じ事をしている事に気が付かない。いや、気が付いているのかもしれないが…その事で苛付いたりしなくなった。

当たり前に出来ていた事が出来なくなっていくのは充分承知しているけれど
それでも こんな風な様子を見ると「う〜ん」と考えさせられる。
前なら「何やってるのよぉ〜」と言ったりもしたけれど、何も言えない。

それでも思う。
これを繰り返しやってみたら…。母一人でなく一緒の作業を繰り返したら…きっと出来るようになるのではないかと思う。
何年か前、普段あまり使わない部分の脳を使うと活性化するという話を聞いた事がある。グーパーリハと合わせて見たら、多少は良い方に変化するかも知れない。

今日のお月様はとっても大きくて…綺麗だった。満月かな?
後で新聞で確かめてみよう。
そういえば、啓蟄も過ぎてしまった。
それなのに雪が舞ったりで…寒い。
一度暖かさを覚えてしまった身には堪える寒さである。


2004年03月06日(土) 漬物を炒める


 この冬、故郷からお漬物を戴く事が続いた。
美味しく食べさせて貰っているものの 未だ残っている。
季節が移り気温が上がってくると味も微妙に変化してくる。
夫の故郷の友人からは桶で戴いた。
早く食べなければ…と思ってもなかなか減らない。

かくして 故郷の流儀に従って炒め煮にしている日々である。
先日もグツグツ煮ている時に娘の友人からメッセンジャーが入った。
「漬物煮てるんだよ」というと彼女の故郷でもやるという事だった。
「食べる?」と聞くと「美味しそうだな」と言うので昨日送った。
さっき「届いたよ」と連絡が入った。

故郷の春は漬物を煮る事で感じていたような気さえする。
煮ている時は ものすごい匂いが充満する。
子供の頃は こ匂いがとても貧乏くさく感じた物である。
その料理とは…
古くなった漬物を水で洗ってザクザクに切る。
それをたっぷりの水で煮る。沸騰したら一度お湯を捨てる。
良く絞ったら、お鍋で赤唐辛子と共に軽く炒める。
そこに水で戻した打ち豆を入れてヒタヒタの水を入れて煮るのである。
一度茹でたので、塩分が抜けている。
最後にお醤油で程よく味を付けるのである。
故郷では、酒かすを入れたり、短冊に切ったこんにゃくも入れたりする。
漬物は、ちょっと違うけれど 高菜のようなものである。

夫の故郷でも似た様な事をしていた。
野沢菜に似たものである。
でも夫の故郷では、煮たりはせずに雑魚等と炒めるのであった。
それも美味しい。

料理している時は、ほんとにすごい匂いだけれど…食べると美味しい。
これは 何処の家でもやっていた。

母には故郷の漬物があるうちに葉っぱの方を使って作ってあげた。
口慣れしているので「美味しい」と言っていた。

聞いた所では、沢庵も同じようにするそうである。

さて、今日の母は…。
施設に入ると職員が「便秘していて、ポロっと少量しか排便が無いのです」と言った。母は、「あんた、何処に行っていたの?」と顔を見るなり泣きべそ状態だった。肩を抱くと職員の前で顔をうずめてきた。
きっと今もお腹が痛いのだろうと察せられた。
「帰るの」と言う。「じゃ、一緒に行こう」と着替えをして家に向かった。
今日は珍しく家にいる娘の送り迎え付である。
家に付く頃には腹痛も改善されていた。
そこで、お茶を飲んで貰った。

リハの始まる前、少しストレッチを試みたが体がだるいらしく横になった。
横になった途端 鼾をかいて寝てしまった。
程なくして療法士さんが見えた。
リハの間も殆ど寝ていた。浮腫みが何時に無く強く出ていて驚いた。
そういえば、排尿も無かったなぁ〜。
散歩は確実に足りてない。と言うのも母のコートをクリーニングに出してしまったら急に冷え込んできて…。春物のコートでの散歩は寒かろうと思って控えていたのだった。
少し足を高くしたりリハを受けているうちにむくみは多少改善された。
リハが済んで、トマトとりんごとジュースを食べてもらった。
「トイレ」と立ち上がったのでトイレでいきんで貰った。

初回は30分。ごろんと硬い物が出た。お尻を拭くと肛門付近が未だ硬かった。中に未だありそうで…でも母は頑張る気力も無くしかけていた。
仕方ないので肛門付近にワセリンを塗布。
これでするりと出れば良い。
予定通りの事となって1件落着。お手打ちであった。
トータルで40分近くトイレで過ごした。

いきみ方を思い出してもらうまでがこの所大変である。放っていたら出来ない。付きっ切りである。

それでも、すっきりしたらしいので良かった。
それから、手遊びをした。
今日も風が冷たいので 散歩は避けた。
 
そうそう、言葉のおかしさも有った。
母を部屋に一人にする時は ガスストーブを消す。
戻ったら付けるようにしているのだが…。消えたストーブを点火した時の事
「消えた?」「あっ、起きたねぇ〜」と言うのである。
「付いた」と言う言葉が出てこないのであった。
また、ジュースを入れたグラスとトマトを入れたガラスの器がテーブルに載っているのをじ〜っと見比べてから、
「ほら、大きくなった」と言っていた。「?」と思い「何が大きくなったの?」と聞くと「これが、大きくなった」と言ってまたしげしげとコップと器を見比べていた。
これも、大きさを言おうとしたのであろうと思う。

こんな風で母の言葉はそのものを言うのでなくて似た様な言葉を使いながら表現する事が富に多くなってきている。
これじゃ、周囲の者が余程注意しないと通じないだろうと感じる。

母の水分摂取が増えると途端、排尿も増える。
この作用は、正直である。
施設に戻って再度浮腫みをチェックしてみると 大分浮腫みが取れていたのでほっとした。排尿1回のみ間に合わずに失敗したが、排便が出来たので良い事にした。


2004年03月05日(金) 開花予想は 当たるか?


 今日、利用者さんと桜のつぼみの様子をみた。
「昨年と比較して、つぼみは固いような気がするね」という事で一致した。
今年20日が予想日だったけれど…。
もっと 後に延びるような気がする。

利用者さんとお買い物に出かけた。
暫くぶりのデパートでの買い物のようで…「探し物が買えた」と喜んで居られた。

実際の所、今までお一人でデパートを歩かれていらした筈で、売り場など判ると思うのだが…。売り場の階がうろ覚えになっているようだった。
「案内人がいるから助かる…」としきりに言われた。
大したこともしてないのに…こんなに感謝されてしまって 何だか変な気持ちになってしまった。

.........
ほんとは、他の事を書いていたのだけれど…纏まらなかった。
全部消して、別の題で書き直した。
2時間かけても纏まらなかったのは…「介護者」についてである。
これは、もう少し時間をかけて纏める事にした。(はぁ〜っ)











2004年03月04日(木) ツボに嵌ったみたい。


 バス停の前でタクシーが止まって乗客が降りた。
母は、私をタクシーの前に引っぱって行った。
「仕方ないなあ」と思いながらタクシーに乗り込んだ。
今日は、バス待ちの時間がいつもより長かった。
通過する乗用車を「あれっ」「これっ」と何回も聞いてきた。
「バスは大きいよ」と言うと貨物トラックをみて「これっ」と聞いてくる。
それ位待っていたのだから…「ま、いいかぁ〜」と思った。

タクシーの中では、目に入る景色にあれこれ呟いていた。
信号停止の時前に車が2.3台止まっていた。
と、母は「アッ!あの車…なぁんだ運転手さんいたんだぁ〜。見えなかったよぉ〜」と独り言を言った。
それまで黙って母の話を聞いていた運転手さんが「くくっ」と笑った。
私も笑ってしまった。「良かったね。運転手さんいなかったら 大変だものねぇ〜」とみんなで笑った。

家に着いて 母は しきりに時計を見ていた。時刻を読むのだけれど…。
これがまたおかしい。
秒針が長針に見えてしまうようで「あっ。2時。いや、3時」と忙しかった。「よーく見てよ」と言っても無理だった。
時計は確実に読めると思っていたけれど…だんだん危うくなってきている事を知った。ちょっと、焦る自分がいた。

「どれ、家に帰ろうかな」と言うので「お家で誰が待っているの?」と聞いてみる。「おかちゃん。でも心配しないよ」と言う。
「子供は?」と聞くと「居ない」と言う。
「じゃ、何人生んだの?」と言葉を変えて質問してみると指を折って3人と言う。「子供の名前は?」時とまた指を折ってみて中指だけ隠して「あれっ、名前何処かにいちゃった…」と答えにもならない言葉が返ってきた。

袋たたみをお願いしていたのだが…途中で嫌になってしまったらしく「隣の人 嫌になったぁ〜」と言う。「隣って この人?」と私を指すと「違うこの人」と母自身を指した。
「何をするのも嫌だなぁ〜」と言うので「それじゃ、ぼやぁ〜んとしているぅ〜」と言うと「クックッ」と笑って「何もしないでぼやぁ〜んとしているのもやだなぁ〜」と言って顔を覆いながらまた「クックックッ」と笑った。
そして「何だかねぇ。誰に似たんだかぁ〜」とまた「クックッ」と笑った。
余程、ツボに嵌ってしまったのだろうなぁ〜。

昼食は散らし寿司で…ジュースやらお茶やらしっかり水分摂取。
トイレも見事セーフ。
施設に送る時間が近くなった頃、夫が家に寄ったので ついでに送ってもらった。


2004年03月03日(水) ♪追いかけぇ〜て…♪


 今日は、桃の節句。
昔、母はお節句には散らし寿司を作ってくれた。
仕事をしていたせいも有るだろう。
しいたけ、人参、ピンクのでんぶ、錦糸玉子で酢飯の上を種類ごとに載せて
紅しょうが、のりを振りかけた簡素な物だった。緑の彩りは何を使っていたのか思い出せないが…。
大きな古い内裏雛が飾られて…。
お吸い物は、とろろ昆布だったような…。ハマグリなんて無かったなぁ〜。
不思議に幼い頃の思い出の中に母が台所に立って作っている姿が残ってない。
ガスなんて無い時代で、七輪で火をおこして調理した筈。
それに、換気扇なんて無いのだから…匂いは家の中に篭っている筈なのに…。調理の過程を思い出せないのは何故なんだろう…。
それでも、酢飯の上に具を載せるのを手伝っていたような記憶だけはおぼろげに残っている。
そして、テレビなんて物も無かった筈で…あの頃私は 何をしていたんだろう?いえ、幼稚園時代の話なので…。

5時半には 夕食が始まっていたし…。日の暮れる前には家に入っている筈なので…。兄弟で遊んでいたのかなぁ〜。

小学生になってからは、母が入退院を繰り返していたので その間母が居ればやっぱり散らし寿司だった。

それからは だんだん 料理が私の手に移って来てたからなぁ〜。

で、今日の我が家でも五目散らしで…。
実際は、十目散らしである。
かんぴょう、しいたけ、ごぼう、人参、あげ、海老、ホタテを材料別に煮る。アナゴを刻み、松の実を炒って、インゲンを茹で、錦糸玉子を作る。
酢飯を作り、材料の濃い色の方から順に混ぜて行く。
錦糸玉子とインゲンと紅しょうがと刻み海苔は色目として上に載せる。

最初作った頃は、アナゴや松の実は入れなかった。
外でご馳走になった時にいろいろの発見をして取り入れて来た。
アサリを煮て入れた事も有ったけれど…その内自然消滅だったなぁ〜。

それと、ハマグリのお吸い物…。

いつもなら、ケーキを作ったりもするのだけれど…みんな帰宅が遅いから 取りやめた。

これを、一人夕食で食べた。味気ないなぁ〜。
ま、いいかぁ〜。

夕方いや、夜かぁ〜。
ラジオに耳を傾けていたら、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」が耳に入った。♪追いかけぇ〜て 追いかけぇ〜て すがり付きたいのぉ あの人がぁ〜消えて行くぅ 雨の曲がり角ぉ〜♪
何だか 母と私の関係みたいに思えてきて…。
どっちが追いかけているか…私の場合 母を追いかけているような気がするんだけれど…。(笑)
深刻な気持ちではないでけれど…。
母の変化を追いかけていくのだけれど 追いつきそうになるとまた先に進んで行くみたいな…その内に消えていきそうな…そんな状態をふと連想してしまった。作詞家の人には 悪いけれど…。
何でもかんでも、介護に結び付けてしまうのは、私の悪癖だなぁ〜。(笑)





2004年03月02日(火) 痴呆の介護って…


 家族会の日だった。
先日、お母様を亡くされた方の貴重なお話を聞かせて戴いた。
まだ、心が癒えるような状態ではないけれど「外に出なくては…」と足を運んで下さった。
彼女は 未だ ご自分を責めていらっしゃった。
でも、高齢の家族を抱える介護仲間としては 何時 同じ事が起きても不思議ではない事を身に沁みて感じているので 他人事に思えないのだった。
これからも、引き続き参加してくださるとの事で嬉しかった。
話されている時の表情をみて、何時の日か自分にもこんな日が来るのだと…感じた。

新しい介護仲間が加わった。
止むを得ない状況で「家族を精神病院に入院」という介護仲間だった。
彼女も、自分の介護のあり方を恥じて居られる様だった。
自分の親なのでその責めは、強かった。
でも参加者の中のお嫁さんの立場で介護なさって居られる方が 含みのあるお話をしてくださった。
つまり、介護環境を整えて 良い時期をみて在宅に戻す方法を取られたら…という事であった。

嫁と言う立場は、他人の家に入っているので苦労する事もあるけれど、夫に対しては「あんたの親でしょ」と言える強みがあると言う。
でも、娘の場合 そういう訳にも行かず、遠慮から 介護、家事、子育て…
全てを引き受けてしまう事が多くなってしまうから…と。
そんな言葉を 二人からかけて頂いた。

家族の会には、介護者が妻、夫、嫁、娘と様々な立場の人がいて 実に冷静にお話くださる。今日は、お嫁さん 大活躍の日だった。

精神病院の入院と言うプレッシャーはあるけれど…。
実際の所、家族自身が拒否せずにある程度の満足をしている所も見えると経験を通して語ってくれた。
他にも同じような方が居られるが…やはり危険回避(安全)と適度な広さは安心できると伺った事がある。

痴呆介護を全ての人が在宅で…は無理だろう。
自分にあった介護方法、手段で 出来る範囲の介護を選択していく…それでよいのだろうと思う。
特に家族がいる場合等、「あの人さえいなければ…」と思われてしまうのはやはり辛い。
程よい距離での介護も場合によっては必要だと思う。

会を終えて、これからの打ち合わせをした後で母の所に向かった。
もう、夕食の時間と判っていたけれど 顔だけ見ておきたかった。
夕食のテーブルの仲間に加えてもらって食事の会話を楽しませてもらった。
その後、母をトイレ誘導、歯磨きの見守りをして…。
施設を後にした。
短い面会で 自分の気持ちを治めるみたいな面会で母には悪かったのだけれど…。
明日は ひな祭り…。五目寿司を作ってお祝いしようっと。


2004年03月01日(月) 広がればいいなぁ〜

         今朝の朝日新聞の家庭欄より

         「マッパー」で介護の向上
       施設で観察、痴呆高齢者の尊厳チェック

   厚生労働省も着目して2月に国内で初めて 養成研修会を開いた。

 マッパーは施設の中で 特定のお年寄りを6時間以上続けて観察し、5分毎に「飲食」「ゲーム」「人の交流」等どんな行動をしたかを独自の記号でまた、それに伴う心理状態のよしあしを 数値で記録する。スタッフから自尊心を傷つけられる扱いを受けてないか 良いケアを受けたかなども記録する。
スタッフから自尊心を傷つけられる扱いを受けてないか良いケアを受けたかなどを気入して行く。
出来上がった報告に目を通すと「地図を読むように」ケアの質がわかる。
ねらいは、施設のランク付けでなく ケアの問題を認識して改善に役立ててもらう事。マッパーは思うように自己表現できない痴呆高齢者のいわば代弁者となる。

これを読んで「やったぁ〜」と感じた。

母を施設に託してみて そのあたりにいつも疑問が付きまとっていた。
言いたいけれど、文句や苦情に受け取られても困るし…といつも思ってきた。家族だとどうしても身内びいきと受け取られかねないのが難点だった。

マッパーの報告を生かせるかどうかは、職員の待遇にも関っていくので手放しで良くなるという保障はないのだけれど…。
でも 介護の質を高めるために何が必要かも 施設側も考えてくれればよいと思う。
厚生労働省の人も 質の良い介護をするために必要な基盤を考慮してくれれば更によいだろう。
また、これなら介護家族のいなくてもマッパーに助けて貰えそうな気がする。

残念なことは、現在マッパー自体は 無償なのだそうである。
そうなると マッパーのなり手も少ないかもしれない。

早くそういった
制度が定着し広がってくれる事を祈る。


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