母のタイムスリップ日記
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2003年11月30日(日) ちょっと息抜きメッセンジャー


 昨日と今日、メッセンジャーで息抜き。
と言っても知らない人ではない。
娘の友人の妹さん。家にも泊まりに来た事がある顔馴染み…。
まだ、19歳の筈。(間違って無いといいけれど…)
PCに興味が出て、お姉のPCで名前もお姉のままメッセンジャーを使う。
だから、本物かどうか確認作業が先になる。

実は、家でも、娘が私になりきって呼びかける時がある。(笑)
お互いに、了承してのなり代わりではあるのだが…。

その友人は、打ち込みの速さで判断するようになった。
私も、打ち込みの速さで 大体判断できる。

やはり、PC慣れしている人は打ち込みが早い。

今は、妹さんより私の方が打ち込み早いけれど…そのうち追い越されるだろう…。若い人の吸収力にはかなわない。

娘の友人は、我が家のPCのインストラクターみたいな存在である。
頼りになる。
でも、娘からきつく言い渡されている。「安易に人を頼るな」と。
 
暫くは 伯母はんの息抜きの相手をしてくれるであろう…。


2003年11月29日(土) 今日もお絵かき


このところ、打ち間違いが目立っている。
直そうとは思うが 面倒が先にたってしまって…。
読んで下さる方、ごめんなさい。

 リハの始まる前までに、葉つき赤カブを書いてもらった。
今日も、いい調子で書けた。
時間が 足りなくて仕上がりまでは出来ていないが、全体の配分などかなり良いバランスである。
捉える事が出来るんだと、嬉しくなる。

昨日の付けたしだが…
生協の配達のごぼうを出して「なあに?」と聞くと…。
「えーと、冬のもので、土の中で、にんじんみたいに削ぎ切りする…なんていったけなぁ〜」という表現である。
分かっているんだな。でも固有名詞がでてこないのだな…と感じた。

今日のリハは、先週と打って変わりうとうと寝入っていた。
やはり、傷の治りや、注射の恐怖が消えてきたのだろう…。
職員の話だと夜間傷の所に手をやっていると言う。
「ボタンつきのシャツを着用させてください」と言っているのだが、ボタンかけをしなかったらしい。そういわれても、お願いしてあるのだから…。
「宜しくお願いします」と言うしかなかった。

施設のクリスマスが予定されたそうである。
丁度活動の日で、準備の手伝いが出来ない。前日にも準備するという事だったので その時にお手伝いさせていただきますと申し出た。

やはり追い込まれる前に、家の事 ぼちぼち始めておかないとなぁ〜。


2003年11月28日(金) 絵手紙


 母の固有名詞が出なくなったのは もう数年前から始まっている。
けれど、今ほど頻度が高くなかった。

今日、家にいる時に長男から送られて来た「りんご」への礼状を母に書いてもらおうと思った。りんごを出して絵手紙にするつもりだった。
りんごをテーブルにおいて「これなあーに?」と聞くと「んーと。ここまで出ているけれど…」と言葉が出ない。「り・・」というと「りんご」と言えた。
どの位分かってるのだろう…という興味もでて6種類の果物をテーブルに並べてみた。
みかん、バナナ、りんご、ゆず、ラフランス、柿
ちゃんと、言えたのはバナナだけ。
一度全部確認作業をして、2種類くらい並べると何とか思い出して言えた。
種類が多くなると、似ている(みかん、ゆず)等に関らず言えなくなった。

以前は「分からない」「忘れてしまった」という事に気が付くと母は、とても不穏になり哀しそうな表情になった。
だから「忘れた」という事に気が付かないように配慮してきた。
でも今の母は、思い出すのもゲーム感覚で楽しめている。
「当たったぁ〜。外れたぁ〜」とニコニコであった。
忘れても辛くならない母を見ることは、嬉しくもあるけれど・・・・・・!

他にもある。
トイレに誘導しようと声をかけると…
「ちょっと、今 済ませてしまったみたいだなぁ〜」今の今まで向き合って過ごしていたのだが…。
「でも行ってみよう」と誘うと…
「うちのおしっこは、早すぎて、間に合わないんだなぁ〜」と笑った。
この会話で二人トイレで大笑い。
母も自分の表現のおかしさに気が付いているのだ。

母が辛く無いなら OKだ。あとは、こちらが受け止めるしかないだろう。

長男への礼状は、仕上がった。
一般的な「うまい」という視点では判断できないけれど…。
いつもながら、母の物を見つめる視点がすごいと感じた。
りんごを上の方から フカンで捉えているのだ。
このよさ、長男に分かってもらえるかな…?


2003年11月27日(木) いるんだね〜そんなヘルパーさん

 昨日、介護仲間とお話をして心強く感じた事がある。
ご主人のショート帰りに入念にボディーチェックして下さり、おかしいと感じるとショート先に申し入れして下さるのだそうだ。
先日もそういう事があったそうである。
施設から謝りが入ったそうである。
苦情に対してきちんと調べて謝罪出来る施設側の姿勢も嬉しい。
「お尻荒れ」だってちゃんと言ってくれるみたいだった…。
そんな ヘルパーさんいるんだぁ〜と嬉しかった。

施設という所は、入所者が多いので仕方の無い側面がある事十分承知している。
それでも、やはり いろいろ有ると「あれっ」と感じてしまう。

実は、在宅時ショート利用の時は、私も軽くボディーチェックをしていた。
気になっても申し入れを入れる事はしなかった。そう多くは無いけれど、ケアマネさんを通してやんわりとお願いする事もあった。
ボディーチェックは、信頼しない事でなく、早めの処置が大事だからしていた。「仕方ない事」と基本的には考えていた。

託するという事で「仕方ない」と思い「痴呆だから使用が無い」と思う事もあった。
実際、今でも言えない人も多くいるのだろうと想像している。
でも、やっぱり
見て頂いた事は、深く感謝しつつ 言葉を発せ無い利用者の変わりに申し入れるべき事は伝えて行くのが本当だろうと思う。
真の代行者とは 言えないだろう。

簡単では 無い。うまく伝わればいいけれど、下手をすると単なる苦情、因縁付けになってしまいそう…。

今も、母のの事で、ちょっとした事を話すと過剰に反応されたり、人によっては「やなやつ」と思われたなと感じる時がある。
感謝の言葉を伝えつつ、伝えるべき事はきちんと伝えて行かなければ…と心する日々である。

活動後 コチャ、コチャと用が出来、母の所に行かなかった。
気になるので 電話で様子を聞き 悪い方に変化せず、比較的落ち着いているとの事だった。
「悪いなぁ」と思いつつ…。
こういうところが、お気楽介護をしている私の姿である。


2003年11月26日(水) そうなったら いいのになぁ〜


 雑用が溜まっている。
少しずつ片付けている。昨日は、戴きっぱなしのお便りにようやく返事が書けた。お世話になった方にも今日、やっとはがきが書けた。
今日も、家の用事が有るのだが、午前中は新聞読みながらコーヒータイム。
TBSラジオの「誰かと何処かで」が耳に入ってきた。
「言葉で治す医師」と言う話にタイムリーだなと耳を傾けた。
ラジオによれば…。
昨年辺りより「言葉の重要性」に目をむける傾向にあるそうである。
言葉だけで無く、音楽療法なども同じ領域らしいのだ。
医師の中にはフォークを愛する人、落語を愛する人、クリスチャンの医師、お坊さんの医師…等がいてそういう特技を持つ医師たちが連携をとり始めていると言う。
医師としてはきちんと診察をして他の場面では、特技で患者と向き合うのだそうだ。おかしかったのは、麻酔する医師が 患者に麻酔が聞くまでフォークを歌ってあげるとか…落語を聞かせるとか…。麻酔が効き始めて途中までしか聞けないけれど安心していられる…のだそうだ。
特技と言っても…と思ったら、かなりレベルの高い特技なのだそうだ。
診察の時は医師。特技の披露の時はまた別の関係で…と使い分けするってきっと尊厳を保つ関係が保てそうな気がする。
いいなぁ〜。早く広まって欲しいなぁ〜。
介護の現場でも、言葉使いが大切と認識され、一部で 研修も始まっているらしい。
「言葉」ってほんとに大切な物だと思う。

修行の足りない私は、毒気を吐いてしまうけれど…コツコツ積み重ねるしか無いかぁ〜。

この所 ずっと 友人が落ち込んでいた。夫婦のお天気模様の変化である。
「負けるが勝ちよ」とメッセージを送った。
それなのに…。昨夜 夫は大荒れ…。いやはや、大変だった。
友人より、自分の方が危ういみたいだ。キャーッ!

午後、用足しに外出。
介護仲間とパッタリ出合った。とても、気になっていたので嬉しかった。
90に手が届く奥様で、95になるご主人を在宅で介護をなされていらっしゃるのである。
出かけるたびに「洗濯物」で元気さを推し量っていた。秋初めから洗濯物が出て無いのでとても気になっていたのだった。
母を連れてデイを訪ねた時、ご主人には出会っていたのだけれど。
「今年は、4.5回手術を重ねられたと言われた。
いろいろお話を伺いながら、わが身の心配りの足りなさに恥じ入った。
ご苦労を思い、何とか方法が無いかと考えた。
できっこないと承知で役所に電話した。
ご主人の介護保険は目いっぱい使われしまっているので、奥様が介護保険利用してご主人の介護の部分を奥様の代わりとヘルパー利用できないか…と。
やっぱり、駄目だった。でも、特例があると分かった。
介護保険の枠を超える場合の特例があるというのだ。誰にでも与えられる特例では無いとの事だった。
でも、十分対象になりそうとの事で、役所とケアマネさんの間で話し合いを持ってみる…と言ってくれた。良かったぁ〜。

少しでも、介護が楽に出来れば…と思う。
すごい 頑張りやさんだから…。
お手本になる方だから…。


2003年11月25日(火) 嬉しい便り


 アメリカで介護の現場で仕事している人のニュース。
施設内で職員の巡回後転倒骨折した場合、職員は、家族に対してI am sory
とは言わないそうである。転倒の事実のみ伝えるそうだ。
これは、日本でも そうなりつつ有るように感じる。
でも、同列に考えていけないだろう。
責任と言う面においては、保険などでの保障がアメリカではしっかりしてある。事故は、保険でしっかり補償されるのである。
そこが、訴訟社会のお国柄だろう。
もうひとつ。
これは、日本でもやっているのだろうか?
ベット等でおやつや食事を摂る時にテーブルが必要だが…。
ビーズクッションを板につけてテーブルにするそうである。
これは、アイデアだと思った。家でも出来そう。
ビーズクッションならでこぼこしていても安定した形に落ち着いてくれるだろう。
これは、この先のために頭の隅に留めておこうと思った。

 昨日、今日とホームページ開設のメールが続いた。
新規、移転開設とそれぞれ違うのだけれど…。
介護仲間のホームページに早速お邪魔させて貰った。
介護を前面に出しては いないけれど…それもいいなぁ〜。気持ちが分かるような気がする。
訪問して、心癒された。

 母の通院。
火傷の傷も峠を越えた感じである。
罹り付け医は母の手を取り「○ーちゃん」と踊りながら診察室に入った。
「おーっ。良くなったね。娘の愛の力だ…」と笑っていた。
いや、そうではなく、罹り付け医のおかげなのです。
代わって、まだ4日目です。
心が晴れてくるのが分かる。
昨夜、夫とも話したが医師の技量って「見立て」もポイントではあるけれど「寄り添ってくれる心」が大きな鍵になるね…と。
病の友人も、今 医師の支えに励まされている。
病院嫌い、医者嫌いの彼女が通っているのだから…不思議である。


2003年11月24日(月) そう、そうなんだよぉ〜


 今朝の朝日新聞のオピニオンのページに「痴呆患者の心の声を聞け」と題して論説委が書いていた。
そこを読んで思わず頷いた。
そこには、例の小澤勲教授の言葉も載っていた。
最後のみ抜粋すると
「痴呆の人たちは、たとえ離せなくとも伝えたがっている。言葉が自由に話せるときは使ってなかった表現力を引き出し、本人が重荷に感じていることを誰かが代わって引き受けるような介護が普及すれば 痴呆をめぐる状況が大きく変わる可能性がある」日本でも痴呆当事者の声をもっと施策に反映させようと動きもあるらしい。

母の介護に関りながら、ずっと感じてきたことである。
今だって色々の発見が有る。痴呆という病の認識が違うのじゃないか…と思われる事が多々出てきている。
分からないのじゃない。分かっていても言えなくなって来ている…。心の中にはいっぱいの思いが詰まっている…と感じるのである。

そこの部分が見えるだけに、昨日は施設に戻せなくなった。
施設に向けては「面倒をお掛けするので…」と言ったけれど…。
そういう事では無い。
今、治療のための薬服用も微妙に影響して足元がふらつく。いや、薬だけのせいにはしないけれど…。勿論、足の浮腫みもかなり強く出ている。これも、薬が影響していると見ている。
便の緩みも同じである。
夜間、一人でどうしてよいか分からなくなるのが見える。

「お母様の訴えが、お腹なのか手なのか聞いてもよく掴みきれなかったようです」と職員から言われた。
でも、私にはそこは判る。(母の事も施設の事も)
手も痛いし、お腹も痛い、歯も痛い、お尻も痛い、足も痛い…。でも、それを訴える事は不可能で ただ「痛い」としか表現できない。
訴えは、傍にいれば分かる。また、動作を見ていれば 分かる。おかしな仕草をした時に直ぐ聞けば 母は、話せる。
それを、総合的に見ていけば 見えてくる。
でも、施設には そこまではかなりの努力をしないと見えて来ないのも事実である。

だから、昨日は帰せなくなってしまったのである。
夜間、一人立ち上がる事もしないで不安になる母が容易に想像できた。
病人が慮ってベルを押さないのも辛いけれど、訴えたくても訴える手段すら思い浮かばない状況…である。

昨夜は、私に油断があった。
午前零時に最終のトイレで十分量の排尿があったので 安心して寝入ってしまった。「おかちゃん」の声が幾度か聞こえて「手が痛いのだろう」と うとうとしながら 手をそっと繋いでいた。
それでも一向に止まらないのでトイレに誘導。見るとパンツから溢れるほどの尿量だった。全部着替えたのが2時。そこで、また安心して寝入るとまた「おかちゃん」が…。「まさかね」と思いながら再度トイレへ…。また溢れる寸前の尿が…。パンツを替えて再度眠ったのが5時…。
その後、母は熟睡。でも、こちらは、夫を送り出さなければならなかった。

不思議な事に起きている時間よりも尿量が多いように感じた。
今、尿量を多くする薬を服用しているけれど、昨日は泊めるつもりでなかったので薬は服用して無いのだ。

それでも8時前には母を起こした。
気になっていた足の浮腫みを一番先にみた。大分良くなっており足の痛みの訴えも消えていた。それでも、血圧は190あった。深呼吸をさせて数回測っているうちに180まで下がったけれどやはり高い。家の血圧計のせいもあるかも知れないが…。
朝食を済ませて再び塗り絵に挑戦。今朝は、久々に調子よく綺麗に色分けしながら楽しそうに塗っていた。
昨夜の赤一色の塗り絵とは大違いである。
近隣を早足で小一時間散歩。足の痛みは無いようであった。
そうやって、昼食過ぎまで家で過ごし、おやつ前に施設に送っていった。

付記ながら、やけどの痛みの訴え、痛がる事は夜間一度も無かった。
前日は、痛み止めを服用させたと言っていた。
おそらく、前日の痛みは 腹痛だったのだろうなぁ〜。

ついでに、やけどの処置もやったけれど「少し痛い」とは言ったけれど嫌がったりする事はなかった。
これは、想像だけれど…母が「痛いからやだ」と言ったのは手の甲を使っての抗生剤の注射のせいだろうと思う。幾度もの失敗した跡で母の手の甲と手首は真っ青なのだ。私の得ている情報では手の甲への注射はかなり痛い物と言うから…。

そんなこんなで家でのショートは、母の様子を知る良い機会になった。
そして、汲み取ってもらえる安心を得ている母を見ていて 自分の勝手さを改めて反省…。「ごめんね」というしか無いのだ。



2003年11月23日(日) 我が家でのデイ後ショート


 昨夜は姪が我が家にお泊り。
留学を終えて 久々に帰国の姪。遅くまでいろいろ話した。
早朝、娘と二人で夫の田舎に発って行った。

その後、母の通院のためGHに迎えに出向いた。
午前中のみ診療なのだ。やけどの手当てを済ませて我が家にきた。
昼食は、我が家で夫と3人で摂った。しっかり、食欲もあり安心。
でも、食後から様子が落ち着かない。
幸い夫は仕事で出かけたのでゆっくり母の様子を見ていた。
どうやら、便が緩いらしい。お腹は痛むしトイレに行けば少し便が付着している。お尻が荒れると思うのでせっせとトイレで行きませるのだが…。
少ししか出ない。下痢止めを使う程でないし…。
3時ごろ入浴させた。腕にはラップを巻いて…。でもお腹の調子は悪いし腕は気になるしで洗髪は避けた。
入浴して少し落ち着いたけれどやっぱり時折少し出るみたいで…。
お尻を拭いて薬を塗布。今度は、しっかり痛がった。
便が緩いとどうしてもお尻が荒れてしまう。

腕は痛いしお腹の調子は良くないしで 歌も絵も書き方も意欲は有るけれど続かない。付きっきりの状態となる。でも、夕食のしたくもしなければならない。いつものごとく、椅子をキッチンの傍に持ってきて座らせて歌って仕事をした。
今日は、泊まる予定ではなかったが、此の儘返すには忍びなく予定を変更。
GHに自宅に富ませる旨 依頼した。
夕食を囲む頃には 落ち着いてきて帰宅した夫と共に夕食。
母は、しっかり夕食も食べた。

食後、塗り絵を出した。気持ちよく塗り始めた。
けれど、赤一色。
時折 夫がきて「うまいね」と言うと「何だかね…はっきりしなくてね」とおかしいという事を自覚していた。
それでも1時間半は集中してやっていた。その隙に…と布団を敷きに2階に上がって戻ると母は、立ち上がっていた。
トイレに行きたいのだ。時間的に分かった。
「トイレ行こう」と誘うと「あんたは、丁寧にやってくれなくとも良い」とやんわり尻拭きを拒否された。先に母に紙を渡して「自分で拭いて」といった。その後立ち上がった隙にこちらが後ろを拭いた。
非常事態だから、だまし討ちも止むを得ないだろう。
直洗面所に行き歯磨き。そして服を着たまま浴室に入り洗髪。ドライヤーで乾かした。
それから、半身浴。と言っても腰湯である。
お尻を洗って、足を暖め薬を塗布。これで、ようやく就寝である。

GHでは、7時半頃には布団に入るけれど、今日は9時半まで起きていて貰った。
布団に入ると直ぐに眠りに入った。

日記を書きながら、いつもならラジオに耳を傾けるのだけれど、何時起きるとも分からないので音は全くなしである。

娘は姪と夫の実家にお泊り。夫の友人の奥様にお茶をたてて頂きご馳走になったと電話があった。
全く、皆 いい人ばかりで…。きっと存分にリラックスしているだろう。
私もそのうち行きたいなぁ〜。
「ところで、家の庭の花持って行って…お墓行ったのぉ〜」と聞くと「未だぁ」「花がしおれてしまうよ…」「大丈夫、さっき見たらぴんとしていた」

あーーーーー。そういう話じゃなくて…。


2003年11月22日(土) 難しいなぁ〜。


母の表情は浮かない。
リハを受けている時も心地よさそうでない。
作業療法士さんも「今日は、厳しい顔してますね」と言われた。
療法士さんと「やけど」の事を話していたら…。
母も多少理解していたようだった。聞き出そうとしてみるけれどぼんやりとした言葉での話しなのでこちらが想像を働かすしかない。
難しいなぁ〜。

リハを終えて通院。
その頃になると今度は一気に辛い事不安を訴える言葉が並んだ。

入浴できないせいか、お尻が荒れている。
そっと拭いてもとても痛がるほど荒れている。
「ごめんねぇ〜。ごめんねぇ〜」と謝ると「いや、痛いのは私が悪いのだから…私の方こそごめんなさい」としきりに謝り返されてしまった。

「自分が分からなくなってるから 私が悪いんだ…」
「もう、おかちゃんの所に帰りますから…ごめんなさい」
椅子に座っても、急に立ち上がり「歩けるかなぁ〜。歩けるよ。もう、何処も悪い所ないよ」
「すっかり、お世話になってしまったね〜。有難う…」
なんて言われると「私 何をしているんだか?」と思ってしまう。

母にも私にも少し辛い時かな…。


2003年11月21日(金) 人それぞれですが…

 
 今日、母と施設長と3人で罹り付け医に通院した。
母のやけどの治りがちょっと…。
施設内の医師に治療しては戴いているのだが…。
どうも、母が「痛いの嫌」というようである。

母は、確かに痛がりではあるのだが、治療に際して厳として拒否したのは、一度だけ。勿論即刻、医師から治療終了宣言を受けた。
他には、ない。
勿論、こちらも痴呆である事は 最初に医師に伝えてOKを得ている。
母に合う医師を選ぶのは 介護者である私の役目だろうと心得ている。

今回は、施設内でのやけどなのでお任せしていた。
でも 少し心配になり「家で見たほうがいいのではないでしょうか?」と聞いてみた。「もう少し様子を見ましょう」との事だった。
職員が忙しい時間や夜間 一人の時に包帯を解くとも言っていたので気になっていた。家に連れてきた時には、そんなそぶりは一度も無かった。

また、ブラウスがきついから圧迫されて…といわれたけれど母の持ち物に圧迫するような物はない。メッシュの包帯の方がむしろ圧迫度が高い。それだって私自身の腕につけて確かめてみた上なのでメッシュの包帯の圧迫度も強い物でなかった。

昨夜、施設から電話があり「通院についてご希望ありますか?」と聞かれたのでいろいろ迷った挙句 罹り付け医が妥当と思ったので伝えた。
そして今日の通院となった。

職員も診察に立ち会ってくれた。
母は少し痛がったけれど腕を引っ込めたりはしなかったし嫌がる事も無かった。その様子をつぶさに見て診察室を出た職員が「何故、施設入所後もここに通院されているか 分かりました」と言われた。
そうなのである。
施設の医師とは タイプが全く異なるのである。
痴呆で有ればこその配慮が成されている。「痴呆だから分かるまい。通じまい」と風ではない。「痛いよなぁ〜」と受け止めてもくれる。
勿論、顔も名前もしっかり覚えていてくれる。

良かったぁ〜。職員の方にも違いが分かってもらえて…。
夫だって、娘だって、この医師にお世話になっている。
小さな開業内科医だけれど、軽い外科の処置も安心して任せられる。
痴呆の進行も気になるけれど、結局の所 対処は適切な介護だけだろうと思う。
これは、人によって考え方の相違があるので私個人の考えという事にはなるのだが…。

分からない事、行き詰まる事、いろんな場面が多々あるけれど、こんな風に周囲の専門の方たちに恵まれているからこそ ここまで介護できているのだと今日も感じた。

これから、毎日 治療に通う。


2003年11月20日(木) 若し…だったら


 おそらく、私の落ち込みは「若し…だったら」という繰言なのだろう。
それに嵌ってしまい抜け切れなくなってしまったのだと思う。
ようやく、最悪な状態から抜け出せそうな気配。。。。

冷静に書けるまで あと一息だと思う。

今日の訪問で利用者さんが ミドルステイ利用のため12月、1月は活動がお休み出来そうだ。
今日のような冷え込みは見ているだけで動きが悪くなっているのが分かる。
麻痺の経験がないから 何とも言えないが…。
多少の痛みがあっても恐れずに動かした方が良いと思うけれど…動かしにくそうな利用者さんを見ていると言えなくなってしまう。
自分の家族だったら、強く言うだろうし、励ましもするだろう。

昨年は、利用者さんも介護側も大変な思いをした。
一人暮らしの冬…。特に夜間は、警備会社が飛んできてくれるにしても不安だろう。
それを思えばミドルも止むを得ないかとも思う。

でも、ほんとの所 頑張って動いて在宅がいいだろうと思う。


2003年11月19日(水) へらへら母ちゃま…


 昨日は 疲れてzzzzだった。

今日は、母を美容院に連れて行った。
美容院は、すっかり「バリ風」
大きな椰子が2本。鉢はバリ風の布に包まれていて…。
音楽も南国情緒の物になっていて…。

この美容院の開店した頃は、閑古鳥が無く状態だった。
「大丈夫かな?」と心配するほどだった。
でも客の私からみれば待つ事なく丁寧に仕上げて貰えるし腕も良い、第一下手な週刊誌を置いてない。音楽の趣味もなかなかで音量も程よい。
値段も馬鹿高くない。
うってつけの美容院であった。
数年を経る内にだんだん混み出してきて…。拘りを持つ人の美容院へと地元に定着した。

で、なぜ「バリ風」か?
オーナーは、(おそらく今30歳半ば過ぎ位かな?)将来的にお店は人に任せてバリで優雅に暮らしたいそうな。
美容院の職人さんと家族を連れてバリに何回か出かけている。
つい最近もバリに行ってきたばかりみたい。だから、更にバリ風に拍車がかかっているみたいだ。

ちょっと見は、よれよれのTシャツにボロボロのGパンを着用。
けど、これがなかなか お高い物らしい。
お店の家具?もかなり凝っている。
高級ジープに乗っている。
美容院って儲かるのかな?
でも、あの車買えるほど 儲かっているとは思えないし…。
家がお金持ちかな?なんて下世話なことを考えてしまう。

今では 指名制になってしまったけれど、開店当初から行き続けている客には指名しなくともオーナー自ら 手をかけてくれる。

母は、途中からお世話になったけれど、でもやっぱりオーナーが手をかけてくれる。
今日は、カットだけだったけれど…。

綺麗に仕上がって美容院を出たところで「何処行ったっけ?」といつものように尋ねると…。
「美容院だよ」
おーーーーっ。今日はちゃんと覚えていたよ。良かったぁ〜。

すみません。少し落ち込んでいるので、へらへら調の日記にして気持ちを高めています。気に障ったらごめんなさい。


2003年11月18日(火) 張りきっては見たけれど…


いや、少し張り切りすぎて 疲れました。
日記は、明日 更新します。


2003年11月17日(月) 異食について聞く


 きょうは、書き置きたい事がたくさんあるのだが…。
異食に絞る。
母に異食か?と思われる事が続いていた。
けれど、周囲に例が少ないので今日こそ…と思ってある会に出かけた。

そこには、支援センターの方も見えるし、保健士、医師も同席する。
ここなら、何かがつかめると思っていた。

異食はなぜ起きるか?ずっと続くのか?何にもかも食べるようになってしまうのか?ほんとに飲み込んでしまうようになるのか?空腹から始まるのか?その辺に聞くことを定めて出かけた。
よく、パズルを食べるという事は介護者から聞いていた。ある方は、石鹸を食べるとも聞いていた。
母の場合、一定してない。

保健士は、物の認識が出来なくなって行くのかな?という事だった。
支援センターの方は、人によってまちまちの症状ではある。何もかも食べるという場面には会ってない。施設で異食が始まったら、できる限り傍に物を置かない。という事だった。
でも、職員共にいたとしてもポケットからさっとペンを抜き取って口にしたりはあるし。片手で誘導している時もう片方の手で石鹸を掴んで口に運ぶこともあったという。
別の方は、飲み込みはしてないけれど落ちていたマジックテープを拾って口に入れてしゃぶっている事が有った。同じようにエビフライの尻尾を何時までもしゃぶっていたという事もあったそうである。
現場では、こういう事がおきていたという事だった。
でも、何れも飲み込むと言うのは、稀のように感じた。
空腹感からくるという認識は無かった。

医師の話としては、文献を思い出しながらではあるけれどと前置きした上で。
・分からなくなって入れる場合。
・脳臭が落ちて起きる
 (この場合臭いが分からなくなるので味も感じなくなるのかも…)
・食行動の変化
 (大量に食べたり、極端に食欲が落ちたりする)
の場合異食が起き易いという事だった。
気をつけるのは、金属片等を飲み込んで内臓を傷つける事だが、今まであまり死に至るような症例は聞かないそうである。
でも、油断は禁物だそうである。

で、こういう症状は、痴呆末期に起き易いという事だった。
介護者は「すわっ」と驚いたが、別に寝たきりになったり、死に近くなるという事ではなくて、痴呆症状としての末期の物であるという事だった。
で、大体、言葉が出なくなる頃に並行して始まる事が多いとも話されていた。

大体こんな所だ。
お腹が空くからという事に限定は出来ないようであった。
個々に微妙に違うし、異食が一気に全て物に広がるという事でもなくて今まで通りゆっくりと進行していく物らしい。

母の事、そういう意味でもう少し様子を見ながら対処して行こうと思った。

注・この事に関しては、個々に専門の方によくお聞きになってください。
  おおむねの話ですので、個別によって違ってきていると思います。


2003年11月16日(日) 出来ないなりに分かってるんだな


 昨日、風呂の湯加減を見る時 母の傍を離れた。
その隙に母は、自分で立とうとしていた。
湯飲みを台所に運ぼうとしたのだった。
戻った時「あーびっくりした。立てなくなったと思った」と言った。
おそらく何回かチャレンジして立ち上がったのだろう。
いや、今は基本的には一人で立ち上がれるのだけれど…。
椅子の高さによっては 立ち上がるとき苦労するという程度である。

脳出血時(今年2月)母は、自分で立ち上がることは出来なくなっていた。
筋力はあっても、立ち上がれなかったのである。
今の母が、その時の事を覚えているかは 分からない。

今日の言葉で 立ち上がれなくなる事を「怖い」と思っているんだなと理解できた。
一人で動く事、動ける事 今はその事だけでも感謝しなければならないと肝に銘じた。
母だってきっとそうだろう。動けるという事は 母の喜びでもある筈だ。

もうひとつ。
昨日も「おかちゃん」と言う呼びかけに返事しなかった時の母の反応だ。
実は、夜 母を送っていった時の事。
布団を敷きパジャマに着替えた母は、直ぐに布団に入った。
母を見守りながら 脱いだ物を纏めて周囲を整理したりしていた。
眠りに付いたかに見えた母は、実は眠って居らず「おかちゃん」と何回も呼んだ。その度に返事をしていたのだが、ちょっとごみを捨てに部屋の外に出た戻ると「おかちゃん」と呼んでいた。「はーい」と返事すると「いるんだね。良かった」と言った。
母は、「おかちゃん」と呼びながら私の存在を確認しているのだなと感じた。そんな事が分かると離れがたくなり 軽い鼾を立てるまで 母の傍を離れがたかった。

トイレに行っても時折 分からなくなる。
声をかけると「有難うございます」と言う。

絵を描いても「うまく描けない」事に気が付く。
下手に褒めると、逆に落ち込むので加減が難しい。

「分からなくなった」「忘れてしまった事」「出来なくなった事」「出来なくなりそうな事」全てそれなりに母は、自覚出来ている。
でも、今の母に失った能力に対しての悲しみは、強くないようである。
それだけが、救いだと思う。



2003年11月15日(土) 我が家でのデイ


 午前中に母を迎えに出向いた。
家に向か途中 臨時の売り場で年賀状をようやく調達。
局員の方がポスト型の貯金箱をくれた。
母の絵の素材になるぞぉ〜とありがたく戴いた。

家について直ぐスケッチブックを出してきて母にチャレンジしてもらう。
頭の部分は、とてもうまい具合に描けたので「いいぞ、これなら以前のタッチだ」と思った。けれど、ポストのお腹の部分にペンが動かなくなった。
頭の部分を消しゴムで消して訂正を入れる。
それでも、完全集中は、4.50分はあった。
結局、時間切れで中断。
昼食後折り紙に挑戦。
細かい作業、長い集中があった後なので切り替えが出来ない。
折り紙を渡すと細かく屏風のように折り始めた。
「こりゃ、いかんぞ」と思い途中までは折った物を渡した。
そこからは、綺麗なコースターを折る事が出来た。
この所、折る力が復活していて初めから一人でコースターを折れるようになっていたのだ。
ここまで出来れば上等だよ。

リハを受けた後、其の儘ホットカーペットの上で転寝をした。
寒いといけないので綿毛布と羽毛の肌がけをかけた。でも「寒い。足が冷たい」と言う。更に羽毛の肌がけをけてようやく治まった。
施設では、毛布と羽毛の肌がけで寝ているが、寝始めや明け方寒くないのだろうか…と気になった。

暫くして目覚めたので、今度は、里芋の蔓の皮むきをしてもらう。
テーブルに新聞を広げて手袋をはめて貰った。
芋の蔓を渡すと何をしてよいのか分からずに撫でているだけだった。
蔓の端の方を少し剥いて渡すとそこからはスムースに作業ができた。
剥き終えた順から一本一本ヒモで留めてて行く。
その間に夕食の準備をした。母に背を向けての仕事になる。
「おかちゃん」と呼ばれるたびに返事を返していたが少し忙しくなり母の声も小さくなったので返事しないでいた。
すると「返事が無いなあ…」と呟く声が…。慌てて「いるよぉ〜」と返事すると「いいんだ。ご馳走作ってるから忙しいんだね」といたわりの言葉が返って来た。

夕食は、相変わらず目いっぱい食べていた。食事が終えても未だ食べたそうだったのでトマトと柿を剥いて渡した。それもぺろりと食べた。
不思議な事に「ご飯のお代わりは?」と聞くといつも「いらないよ」と言う。それでもこうやっておかずの追加はちゃんと食べる。

その後入浴。
やけどがあるので注意深く進めた。
最初に包帯の上をラップで包む。その上をネット包帯でカバーした。
それでも濡れない様に細心の注意を払った。
洗髪も体洗いも軽めにして置いた。
今日は、屈みこんでいる時に久々に少し粗相が…。でも、脱衣室にはティッシュとビニール袋を準備しているので慌てる事はせずに済んだ。
急ぎ頭を乾かして 施設へと向かった。今日は、娘がいたのでタクシーを使わずに済み助かる。
冬は湯冷めしてはいけないので どうしても車の移動が多くなる。

こんな風で 我が家でのデイ 終了。
母にしたら盛りだくさんの一日だったと思う。
「かえるぅ〜」とか夕方のそわそわも無く まるでいつも家で過ごしているかのようにゆったりと過ごしていた。


2003年11月14日(金) ちょっと痛いね


 母の所に出かけて、やけどの跡をみた。
赤ちゃんの手のひらより大きさで皮がむけていて痛々しかった。
「ひりひりして痛いの」と言う母だが「何がどうした」は全く覚えていない。その上、洋服を着込んでしまったら見えないので なぜ痛いのかが分からない様子だった。
こりゃ、直りかけの時は、痒がって触れて傷の直りが悪くなるかも…と思う。
伸縮の包帯をしていたが、服の脱ぎ着で包帯が外れて傷が丸見えとなる。
これじゃ困ると思ったので薬局に出かけてネットの包帯を購入した。

「やけどがあるので入浴しませんから…」と言われた。
ぬれない工夫をして 家なら入るなあ。
でも、ここは家じゃないので仕方ないかぁ〜。
皮がめくれてずれていた。
皮を傷口の方に乗せているほうが痛くないし直りも早いと思うのだが…。

明日、リハのため家に連れて来るのでその時入浴させることにした。
その為に、薬局で傷を保護する物を買った。

今日の母は、久々に明るかった。
おそらく、やけどでの手当てで声がけが多くなっているからだろうと思う。
散歩に出ても元気いっぱい歩いた。
落ち葉をわざわざ踏んで見たけれど 母は「カチャカチャと音がしないよ。湿っているかな?」と言ったけれど母の耳に届かないだけだ。

忙しい一日だったので今日はここまで。あー疲れたよぉ〜。


2003年11月13日(木) 知らない歌は歌えない…


 母が病となってから知った歌がある。
今でこそ 一緒に歌うけれど…最初は歌えなかった。
覚えようという気にもならなかった。
そんな事をしなくとも母と一緒に歌える歌はあったというのもある。
でも、きっと そんな理由ではなくて どっかで「そんな歌…」と言う思いがあったのだと思う。

デイの職員が「お母さん フルで歌えるから教えてもらっているの。
これを全部歌えるってすごいのよ。他の人も引きずられて歌いだすのよ。おかげで送迎のバスの中が和やかになるのよ」と言われた。
それでも 未だ何処かで「ふーん」と思っていた。

中学時代の担任が歌が好きでありとあらゆる歌をプリントして配った。
HRには必ずそれを広げて皆で歌った。
時にハモる事も要求されるので家でも歌っていたのだ。
その時に母の知っている歌があるとハモって来たのだった。
一緒に歌うつもりが無くとも 自然にそうなってしまうのだった。
だから、母と共に歌える歌はたくさんあった。

でも、だんだんに母のレパートリーが減ってきていた。
「分からない」という事が多くなった。
その辺りになって職員のなさっている事の意味が少しずつ理解できるようになってきた。「忘れないように配慮する事」また「過去を引き出してあげる事」が大切なのだなぁ〜と。
最初は、とても恥ずかしかった。
でも、母の生き生きとする表情を見ると 求められている事を感じるようになった。

以来、母と歌うのが当たり前になってしまった。
外を歩いていて人とすれ違う時だって もう なんでもない。

不思議な物で そうなると通りすがりの人は「ほほえましい」と見ていてくれるようになった。

介護を続けていると こんな風な事がいっぱい出てくる。
「自分も楽しい」と思える方が 効果は上がる。
以心伝心みたいなものだろうか?

今日、施設から電話が入った。
受話器を取って施設からだと分かった時 午前中 活動で留守にしている間にまた 何か異変が起きたのか?とひやっとした。
「○○さん(母の名)…」と言われた時は、緊張がピークとなった。
ま、ちょっとした事故だったのでホッとしたのだけれど。
「お茶を入れた時に腕にやけどをしました。水ぶくれとなったので医師からの指示を受けて軟膏を塗って包帯をしています。すみませんでした。」という事だった。
「お茶のお湯で水ぶくれですか?」と聞くと「いや、お手伝いをして貰っている時の事です」と言われたので「作業中だったのですからそれは、仕方ない事です」と伝えた。

作業中の事故は、避けるべきだけれど だからと言って 何もさせないで貰いたくは無い。家にいてもそういう事は起きる。元気な私だって起きる事である。
だから そういう事で職員を責めるつもりは全く無い。
気を使って電話してきたんだろうな…。
やけども見てみないと分からないけれど…。
お風呂に入れる時は、ちょっと騒ぎなるなあ…。
あれは、沁みるからなぁ〜。痛いのが嫌いな母だから…。
ま、仕方ないね。


2003年11月12日(水) あら〜っららら…


 母は、部屋で厳しい顔をしていた。
職員と共に入ったのだが、笑顔ひとつ見せない。
職員が部屋を出た途端「帰るはぁ〜。○○(ふるさと)に帰るんだぁ〜あんたも行ける?」と今日も涙。
漫画なら 部屋中に「おかちゃん」の吹き出しが満タンに成ってしまう程である。その度に「はい」と返事を返した。肩を抱いたら母のほうが私を強くしがみついてきた。何か不安なことがあるのだろう。
落ち着いてくるまでに30分近い時間を要した。

落ち着いてくると「何か食べたいな…」と言う。持ち合わせのお菓子と飲み物を上げるとあっという間に食べてしまった。
着替えをして玄関に向かう頃には 「何処に行くの?」と聞くのだった。
「えっ。何処に行きたんだっけ?」と聞き返しても もう 全く思い出せない。
玄関を出ると「何か 良い物買ってくれる?」と言う。「いいよぉ。何が欲しいの?」と聞くと「楽しみだなぁ〜」だそうだ。
ひとつひとつの場面が子供のようだけれど 子供とは違う。

家に向かう途中で「練りきり」を買いバスに乗った。
母にそれを持たせて一つ離れて椅子に座った。
バスが動き出す前から「カサカサ…」と袋を動かす音がした。母だろうなと想像していた。が、暫くすると「カチャカチャ」と音が変わった。
「まさか…」と母の所に行くと袋の封を外し練りきりのパックのテープを外す所だった。あら〜っららら…である。
「荷物持たせてごめんね。有難う。私が持つね」と荷物を受け取った。
やっぱり、離れて座るとこういう事が起きるんだよね。気をつけなきゃ。

昼食は、我が家の特大ロールキャベツを「おいしい」と食べていた。
てんこ盛りのご飯。具沢山の味噌汁。茹で豆。菊のおひたし。豆腐。果物。
食べ終えた母に練りきりを出したら「今は入らない…」と。
満腹感は健在みたいだ。

食後はお散歩。
張り切って歩いたけれど途中水道管の工事で通せんぼ。
いつもより短めだった。それでも空を見上げて「もっこりとした雲やすーっとスジのような雲といろいろあって綺麗だね」と言っていた。
観察はよくできるようである。

洗髪して帰路に。
バスを待っている間、バス停前で両膝を深く曲げたり伸ばしたり、膝を交互に高く上げたりと準備体操をした。バスのステップを踏みあがるためだ。
こんな事 人がいたら なかなか出来ないのだが…。でも大通り沿いなので夕方の交通ラッシュで運転する人からは見える筈で きっと「?」なんだろうな…。ちょっと恥ずかしいんだけれど…。


 


2003年11月11日(火) 数年しゃべらなかったけれど…


 以前にも触れた事があるかも知れない。
痴呆の家族を介護なさって居られる方が
「もう、会話がなくなって数年です。話さないんですよ。表情も変わりません。私は ただ エンシアを与えるだけです。それが世話になった御礼です。つとめです」と淡々と話された。
一瞬 掛ける言葉が浮かばなかった。
「大変ですね。でも声は届いていると思いますよ」と言うのがやっと。
その事だけは、確信があったから。
一年近く経った頃「『有難う』と言葉を発しました」と言われた。
それ以来 「意味不明の言葉が多いけれど煩い程に言葉を言うようになりました」と教えてくださった。

痴呆症の場合、本人がどうしてそうするかが正確に捉えきれない。
「能力が落ちた」と受け止めるのが自然なのだろう…。
でも そういった話を伺うと萎える心に励みを与えてもらえる。

介護をしていると思いもかけない奇行に振り回され疲労困憊の状態になったり、絶望の淵に追い込まれる事がある。
でも、こちらが理解できない所で何かを理解していると思うと介護をおろそかには出来ないと心が引き締まる。

今も萎えそうになると その話を思い出して心の緩みを支えて貰っている。
頑張りすぎず 手を抜かない…。

昨日の母は少し意識度が高かった。
いつも通り母の言葉の流れからの想像なのだけれど…。
久々に長男の名前を口にした。勿論息子と言う意識はあるようだった。
それは、外の景色を眺めている時だった。
「あそこは、○○のいる所だ。何時になったら帰ってくるのだろう。全くしょうがないんだなぁ〜。ほら 白い服を着た人が待っているでしょう」
母の視線の先を見るとマンションのベランダに白いタオルのような物が干してあった。
目が悪くなったかなとも思うけれど新聞や本はめがねなしでちゃんと読めるのでそういう事も無いのだろう。
風景に心象を取り込むのだろうか?
息子に会いたいのかな?この間は次男の名前を言っていたなぁ〜。

この所面会に行かなかった翌日 テーブルを見るのだが、作業をした形跡がない。
「ここは、何もしないでテレビの前にいるんだよ」と不満げに言う母に久しぶりに出会った。
丁度 楽譜を持っていったので母に渡すと「これこれ」と言って張り切って歌いだした。
楽譜があればいつも歌いだすわけではない。置きっぱなしにしていたり、同じ物を出すと全く興味を示さないのである。少し歌って直ぐ止めてしまう。
この辺りは、当たり前の感覚だなぁ。
忘れている筈なのに…不思議な感覚である。

こちらは、生活に追われているので いつもいつも母の事だけ考えてはいられない。わが身を施設に向かわせるだけの時だって多くなる。

たった3枚の楽譜に活力を見出す母をみると「もっと頑張れよ。楽してるんだから…」と自分にはっぱをかけずに居られなくなってしまう。


2003年11月10日(月) 人間出来てないなぁ〜


 GHに出向くとソファーに座っている母が「おいでおいで」をした。
向かい側に座っている入所者さんが声を出して笑った。
隣に座ると母がいきなり「あんた、毎日ここに来ないと駄目だよ」と言う。
昨日 訪問していないなんて覚えてない筈なのに…。
「怒っているの?」と聞くと「いや」と言っていたけれど ちょっと険しい顔をしていた。暫く隣に座っていると母は、テレビの画面に見入っていた。
「あんな 大きな口をあけていたら 吸い込まれるみたいで行儀悪いねぇ〜」とCMをみて言っていた。
お説教調の母みたいである。

職員から「お出かけですか?」と聞かれたので「近場でも歩こうと思って」と返事をして間もなく体温計がテーブルに並べられた。
「接種ですか?」と聞くと「そうだ」と言う。
「直ぐですか?」と聞くと「そうだ」と言う
「散歩どころじゃないんじゃない?」と言う言葉を飲み込み「体温測ったほうが良いでしょうか?」と聞くと「そうですね」と言う返事だった。

居室に入り乾布摩擦をして下着ぐらい替えようと思った。
カーディガンを脱ぐと男物のトレーナーを着ていた。
急ぎロッカーから下着と服を取り出そうとしたらAさんのブラウスが入っていた。シャツを出すとFさんの名が書いてある下着だった。
集団生活から仕方ないのだろうけれど少しうんざり。
責任者に「違って入ってました」と差し出すと「あら、Aさんのブラウスじゃない」と言った。そう、私にだってAさんのだって分かるのに…。
職員には 分からないのだろうか?
下着などは似ているものが多いので名前の見落としがあれば迷子も仕方ないと思うけれど…。
毎日 一人一人の事をどれくらい意識してもらえるのだろう…。
職員みんながそうでは ないのだけれど…。
勤務状況を聞いて「誰?」と問い詰めるのは簡単だけれどそうする事に意味を見出せないけれど…。

予防接種が1回でよくなってから何年経つのだろう。
ワクチンが足りないと騒ぎになって以来1回出よいワクチンになったのだなぁ。2度の接種は体調が狂う事の多い高齢者にはなかなか大変だった。

医師が回ってきて接種してくれた。
罹り付け医ではないので仕方の無い事なのかも知れないけれど…。
医師は母に向けて一言も発しない。職員とは話すのだけれど…恥ずかしがり屋さんなのかな?もう一年半もいるんだけれどなぁ〜。
罹り付け医は1回通院しただけで名前で呼んでくれたけれど…。
注射を終えて母が「有難うございました」とお礼を言ったのに言葉を返したのは職員だった。「いつもちゃんとお礼を言うのねぇ〜」

予防接種の済んだ人からおやつを貰っていた。
接種前から「ラーメンと焼きそばどっちがいい?」と職員が聞いていた。
でも、母に聞く事はなかった。私が散歩に行くと言ったからだろうと思った。でも、接種が終えても母にはおやつだと呼びに来なかった。
母は気が付かないからいいけれど…。
カップ麺の焼きそばとラーメンのおやつだった。今日は少し冷えているからかな?
「麺がかたーいっ」と入所者が言っていた。
「歯ごたえがあっていいでしょ」との職員が声が聞こえた。
そういう問題か?歯が無くて刻み食の人なんだけれど…。
細かすぎるかなぁ〜。
でも、「食べる」って施設の唯一の楽しみじゃないのかなぁ〜。

施設に託している身。自分で出来ないから託している訳で…望みすぎはいけないかな?
やっぱり、私という人間が出来てないと言う証拠だろうな。
達観できればいいのだけれど…。
あー、今日の日記 恥じ入るばかりである。



2003年11月09日(日) 困る事


 歩道を歩いていると困る事がある。
通り沿いの歩道との段差を車が入りやすいように歩道を削って緩やかなスロープにしてある。車には都合が良いけれど歩く者にとって不都合である。
私でも転びそうになる時があるのだから、高齢の母はもっと大変である。
車道と歩道の段差をなくしてガードレールだけにしたら不都合があるのだろうか?
歩道のブロック(点字ブロックではなく)も古くなってくると凸凹が出て危ないんだけど…。

 施設入所したせいばかりとは言えないのだろうが…。
母の足が弱って来ている。
この所 バスに乗るためステップを上がる時両足揃って上がり終えたと思った途端 両膝がカクンとしてしまい前に倒れそうになる。
危ないので、私が先に上がって母の手を引いて上げるようにしている。
ノンステップバスだと未だ余裕があるから大丈夫なのだけれど…。
ノンステップバスばかりではない。先日のニュースでノンステップバスの導入が進んでいないと言うのだった。

 家の周りは、坂が多い。
年寄りにとって坂が多いのは困ると言うけれど…。
ある意味で程よいリハビリになる。
家は、寝室が2階である。
母は、毎日階段を上り降りしていた。
散歩も買い物も 毎日 階段を使っていた。
大変な事なのだけれど階段の前に立つと母は「さ、頑張るぞーっ」と気合を入れて上り降りしていた。
そして、休まずに上り終えると「ふーっ」とため息を付いていた。
これは足の筋力をキープするのにも良いけれど、目標を達成するという意味でも良かったのだろうと思う。
今の生活は、例え 家に戻る事が有っても限られた時間での移動になるので階段利用はなかなか出来ないでいる…。
昨日、母のリハをして戴きながらこの辺の環境が足のためには良い環境だと言われていた。
高齢者は、小さな段差では躓き易いけれど大きな段差では比較的躓かないと聞いている。

 もうひとつ。
それは、異食。
魚の骨はちゃんと出せる。先日も焼き団子を食べた時硬い所はおかしいと言わんばかりに取り出していた。
だから、食べておかしな物は口にしても出すだろうと思っている。
でも、昨日職員から「消しゴムを食べたようだ」と報告があった。
異食って全ての物を食べるわけではないのだろうけれど…。
その場に居合わせていれば防げるのだろう。
また、お腹の空腹感をある程度満たして上げれば 防げないのだろうか?
今までに無かった新たな変化にどう対処して行こうか…と思う。
食べられては困るからと全てのものを見えなくして行く事は簡単だけれど…
もう少し他のやり方を探って見たいなぁ〜。

と最近の困った事をあげてみた。

日記を書きながら ラジオの選挙速報に耳を傾けている。
自民党にブレーキがかかりそうと言う。
それにしても低い投票率だった。
何がそうさせるのだろうか?
政治と毎日の生活は 確かに離れているけれど…。
「こんな筈では…」と嘆く前にまず「投票」しなくちゃいけないだろう。
自分たちで選び出していく事、それが先に来なくちゃいけないのじゃないのかなぁ。


2003年11月08日(土) 娘なんだけれど…


 明日は、投票日。
投票先を決めた。「平和ボケ」「女だから」と言う声が聞こえてきそうだ。
政策に納得してる訳でない。一票が虚しく消えていくだろう事も想像できる。
でも、やっぱり 動かせない基本に従う事にした。
いつもは電話攻勢に「ハイ」と返事するけれど今回だけは「基本に従い投票します」と返事した。

母の所に出向く。
居室から「おかちゃん」と母の呟く声が聞こえた。
私の顔を見て「えーん」と泣いた。
母は、言葉通り「母親」を求めているのだが、娘の私を母と重ねて捉えているのが分かる。
娘と認識出来る日は、ほんとに少ない。

「今すぐ帰りたい」「家に連れて行って」「もうここは嫌だぁ」と母は泣きじゃくる。
「私一人では何処にも行けない…」と。
「ハイ。帰りましょう」と返事した。
「一緒に帰るんでしょ」と言う一方で「あなたはここに泊まるの?」とも聞いて来る。
支離滅裂な話だけれど、おそらく外に出たいのだろう。

職員が「昼食、副菜は食べたけれど主食は一口のみ食べて 後は自分で片付けてました」と言った。「それに鼻水が出ています」とも言われた。
「泣いていたからではないでしょうか?」と言うと「くしゃみをしてました」と言う。「様子見てみます」と伝えた。

この所、母のいるフロアが 何となく 入所者同士ギクシャクしているように感じる。
新しく入所された方がいる。
痴呆と言うより麻痺による入所のようである。
この辺りに ギクシャクとする理由がありそうに感じるし 母の不安もその影響かも知れない。
でも、これは仕方ない事であろう。

少しずつ 落ち着いて来たので「出かけるよ」と言うと鏡をみて髪を梳かしていた。
外に出ると涙は消えた。
「あれっ。何処に行きたいんだっけ?」ととぼけて聞き返すと「何処でも良いよ」という事になっていた。こんな調子なんだよねぇ〜。

家に着き軽くご飯を出した。
普通に「おいしい」と食べた。フルーツも食べた。特に拒否は無かった。
勿論、涙もないし鼻水ひとつ出なかった。
あっ、誘導したら排便はあったけれど…。

リハも終えて、施設に戻った。
今度は「私 ここにいてもいいの?」と言う。
何か 母の中に拘りがある事だけは、分かるのだけれど…。
話にスジを通せないので…読みきれないでいる。
娘なんだけれど…分からない事はあるなぁ〜。


2003年11月07日(金) ちょっと涙

 先日、友人のお兄さんが亡くなられた。
友人からの知らせに急ぎお悔やみの言葉を添えて香典を送った。

ご両親の介護をしている間 お嫁さんとしっくり行かない時期が有った。
私の方は 拗れてしまったので 彼女にはうまく乗り切って欲しかった。
難しい事なので あれこれ言わないで来たけれど…。
時折、私の失敗を話してはいた。

お兄様が病となり お母様の介護に出向くようになり お嫁さんとの距離も縮まった。ある時を境に師弟関係にまでなった。

今日、お嫁さんからのお便りが添えられた香典返しが届いた。
面倒になっても悪いので香典は 友人の家に送ったのだが、彼女は実家のお母様に私の便りと共に持って行かれたようだった。
お嫁さんも見て下さり「お便りを貰ってしまってはいけないから、コピーとらせて…」と言われたそうだ。
「これから、家族みんなで力を合わせて生きていきます」と結んであった。
涙が出てしまった。
二人の歩み寄り…。
私には、未だ出来ていないのだ。偉いなあ…。

母を連れて菊祭りに出かけた。
在宅の頃、夫と三人でお休みの度に 水筒を持ち 2時間近く歩いて出かけていた場所である。
デイでも何回か出かけていたし、GHに入所してからだって出かけた。
今年の夏 出向いた時は「初めてくる所」と言っていた。
でも、今日は少し思い出せたようである。
入り口では「初めてだなぁ」と言っていたけれど、暫くすると「見た事有るね」と言い出した。
菊の花を見たら「前にもこうやってみたよ」と言った。
誰と何時、どの位等は全く思い出せないのだけれど…私に向かってそう言ったのだから「私と来た」と覚えているのだと思う事にした。
今日は、少し暑い陽気で汗が滲んでいた。
そこから、家に戻り入浴して貰った。
かなり疲れたようで少し転寝。
「すっかりお世話になってしまって…」と寝言を言っていた。
帰りたいモードの続く最近の母だから夢の中でふるさとに帰る夢でも見ていたのだろう。


2003年11月06日(木) 屋根裏で…タイムスリップ


 明日は不燃ごみの回収だから 屋根裏に上った。
ちょい置きの物が溜まっているから…。

ぱなっしのPC。もう、回収は電機屋さんかメーカーしか回収してくれない…
XPの入っていた箱。どうしよう…と悩んだけれど修理の時困るかなぁと取ってある。でも場所取るんだよねぇ。
見ただけで気が遠くなってくるけれど…やるしかない。
「気をつけよう。余計な事に目を向けない」と言い聞かせて始めたのだけれど…。本の間から母の日記と手紙が出てきた。
つい読んでしまった。
手紙は、ふるさとの居た時お世話になった医師に向けた物の下書きである。
そして、日記は こちらに来た頃の食事日記に少しの感想が書いてある。
両方とも「母に書いてみたら…」と勧めたのであった。

気乗りがしなくて「何を書けばよいのやら…」と考え考え書いた物である。
あの時は、変な文と思ったけれど…今はとても書けないし文字だって綺麗だった。

平成6年だった。
こっちに住みだして9年かぁ〜。
痴呆が始まってはいたけれど、まだ、入り口だった。
ちゃんと「こちらで暮らします」と書いてあった。
デイにも行かず一日中一緒で毎日 あちこち外出していた事やお手伝いしていた事が書いてある。
出かけて季節の移り変わりを見てくるのが楽しむのは 今も変わりない。

隅のほうに母の編み物、刺し子、解いた着物等みかんのダンボールに一箱有った。この何倍もの物をバザーに出していたのだ。
もう、ここまでの事は出来ないだろう。

9年と言う月日を考えれば ゆっくりとしているけれど、でも 対応に苦慮した事が山のようにあったなぁ。

全ての事を繋ぎ合わせた記憶にはならないけれど…何だか 腹を立ててばかりだったような…そんな場面しか浮かんで来ない。
介護の期間が短い儘 見送ってしまったらこんな気持ちなのかなと思った。
だとしたら、やはり 辛いかもしれない。

出来なくなった事を数えてみても始まらない。

母の記憶は、虫眼鏡で見ているかのようである。
レンズに入りきらないところは、全く見えない筈。
そのレンズの倍率もどんどん高くなって来ている。
でも 未だ見えているから…いい。

手紙や日記を処分する気になれなくて 母の作品と一緒に整理し直して収めた。そのうちカメラに収めてみよう。


2003年11月05日(水) いつかは 来るんだよね


 母は、机の上を整理していた。
近頃 見かけなくなっていたのだが…。
「何をしているのかなぁ〜」と聞くと「寝ようと思って…」と言う。
「誰が寝るの?」聞くと「寝ようと思うのだけれど寝られなくて…寝ないように…って」
そんな会話をした。
母の手元は、折りあげた箱に更に小さな箱を入れた物を 小さなサテン風のハンカチに包もうとしている。
ハンカチがつるつるとすべりうまく包みこめないので幾度もやり直しているのである。
話している事は 違っているように見えるけれど、きっと包み終えた時が寝た時となるのだろうなぁ〜。
納得出来るまでやっていた方が良いと思い、押入れの整理を始めた。

職員が、少し片付けてくれた様であるが、Tシャツや半そでパジャマがまだ、少し出ているので、夏物はしっかりしまいこみ冬物に入れ替えた。
母は、自分の仕事を続けているが、こちらの様子も時折みて「整理してくれているんだね。汚くしてるから…」と申し訳なさそうである。
前なら、自分の仕事を止めて手伝うの常だったのだけれど…。

作業しながら「おかちゃん」と繰り返し言うので 傍に行って肩を抱き頬擦りをしたら「有難う」と言う。「人恋しいのかな」と思い幾度も頬擦りをした。その度に「有難う」と言っていた。
これくらいしか、出来ないのだからなぁ。

その後外に出た。
「何処に行きたい?○○山?○○のお家?」と聞くと「家」というので家に向かった。

今日、毎日訪問していた方のホームページが突然閉じられていた。
ご挨拶のメッセージが書いてあった。
穏やかでお散歩の折の風景が綺麗で楽しみだったのだったのけれど、「上手に気分転換をなされていらっしゃるなぁ」と思っていたのだけれど…
介護に手がかかるようになってしまわれたのかなぁ…。
「今まで有難う」

私にも、何れ来るだろうのだろうなぁ…。
介護日誌の終わり方かぁ…。


2003年11月04日(火) 問題発言かなぁ〜

 初めにお断りです。
これから書くことは、あくまでも素人の私的な疑問です。正しいかどうかは判りません。
この事に関しての責任は負いかねます。
専門家にきちんとご相談ください。
あくまでも、母の場合です。

母の痴呆症は、間違いない。
現在の病名は「多発性脳梗塞とアルツハイマーの混合型痴呆」である。
でも、一番初めは「多発性脳梗塞による痴呆」との診断だった。
診断した医師は、それぞれ違っている。

途中から病が変化したのだろうか?
そういう事は、あるのだろうか?

この疑問がいつも頭の隅っこにこびりついている。

実際の所、母の病がどっちであっても母と向き合って介護させて貰うしかないのだから私の介護の仕方が変わる訳ではないのだが…。

大分前にある会で 保健士さんが精神科の医師に質問していたのを聞いた事がある。
「症状からアルツと思われるけれど診断は、脳血管系の痴呆と診断されたがどういうことでしょうか?」と質問していたのだ。
精神科医は「病名は その時の医師の判断によって決まります」というものだったと記憶している。
その時に「医師の判断によって病名が異なる事もあるのかなぁ」という印象を持った。

ちょっと前の会で、直接痴呆ではなくある病から痴呆になる…という事でMRIからの判断を正しく読みきれる医師は少ない…という話を医師から聞いた。

正しく診断できる医師の割合ってどのくらいなのだろう…。

母の場合、どちらの医師も画像をみて迷いなく病名を告げている。
「うーーーーん」

もうひとつ あったのだけれど 問題がありそうなので今日はやめて置く事にした。でも、気になっている事である。
それは、薬に関する事である。


2003年11月03日(月) 食べる事

 施設に母を託していながらも 少しだけ関り続けている主な事は、機能の維持と生活に花を添える事かなぁと思う。
生活に花を添えると言うのは、なかなか外出する機会もないのでいけない場所に連れ出す事。そしておいしい物を食べてもらう事等がある。

今日は、その食べる楽しみについて…。
戦争を乗り越えてきた母の世代の人は、食べる事に贅沢はあまりしなかった。
「何が食べたい?」と聞いてみると「お寿司」と言うくらいかなぁ〜。
じゃ、お寿司をたくさん食べるかって言うとそうでもない。口で言うほど食べない。
ステーキに野菜サラダの方がたっぷり食べたりする。

そう、弟に伝えたら 「ステーキやに連れて行ったけれど食べなかったよ」と言われた事がある。ステーキと言っても柔らかくないと食べられない。
ヒレのステーキなら今だってぺろりである。ヒレなんて滅多に食べられないけれどハンバーグステーキだったら大丈夫。それも和風に大根おろしなんてかけたら…そりゃ もう…。
要は料理名を口に出来なくなっているんじゃないかと思ったりする。

1日の昼、夕食は家で取った。2日の昼も。
母は、私たちと全く変わらない量を食べる。
「おいしい」と言う。
時に食べている途中で入れ歯を外して湯のみに入れてお掃除なんかしたり、お皿に入れ歯を載せて箸で付いている物を取り除いたりするけれど…。
それは、入れ歯がきっと合ってないからでこちらのミスだから「汚い」なんて言えない。傍にいたら気持ちよくないけれど…。

1日の夕食にかど(生のニシン)を焼いた。
かどは、母の好きな魚のひとつである。
残念な事にいつもお店に有るわけではない。数日前、市場の直送市があり新鮮なかどを手に入れた。ちょっと高めなので夕方まで待って値段が下がってから買った。一塩にして冷凍保存をしていたのだった。

食べる事は大好きな母だけれど、いかんせんゆっくりなので食べるいる内に冷めて来てしまう。それで、出来た順から食べ始めて貰う事にした。
秋刀魚より大きな魚を丸ごと一匹。はらわたも食べられる。
焼きたてをテーブルに載せると母は背の方から箸を付けた。
ちゃんと食べられるかなと気になったが骨を外し口に入ってしまったしまった小骨も上手にとって綺麗に食べていた。ご飯や味噌汁おひたし煮物などもころあいを見計らって運んだ。これらを全量食べきった。
いやいや食べたのではない。「おいしい」と目を輝かせて食べた。
施設の食事の倍近い量だろう。
満腹感がなくなってしまったかなと果物を勧めてみたら「もう お腹パンチクリン」と言っていたからその心配はないと思う。

年齢から考えても多い量かも知れない。
「何事も8分目が丁度良い」と言うけれど、毎日そうしてる訳でないし、楽しんで食べられたのだから…。もう、90近いのだし、完璧な食事って言うのも何処か味気ないだろう。
おいしいと思って食べられるうちは好きなように…と思う。

終末期になると食べたいと思っても 口すらに出来なくなる。
父が入院している時 病院の食事は食べなかった。「ラーメンが食べたい」と言われて 父の好きなお店に走り タッパーに入れて貰った。走ったのは一度だけではなかった。時に半量 時に数本しか食べられなかった。
そんな場面が頭に焼き付いている。
お店の日人が快く了解してくれたのはきっと、看取りの経験者なのだろう。

母は、未だ食べる事を味わえて楽しみも持っているのだから…食べるという事も大切にしてあげたいのである。


2003年11月02日(日) プロの味だ…


 友人二人から荷物が届いた。
母の通院のため留守にしている間に届いたので「不在票」が郵便受けに入っていた。

「こりゃっ!家に二人も居るのに何で受け取ってくれんのやぁ〜…」
娘は、明日のフリマの準備で家中に荷を広げているし…夫はゴロゴロとしている。
「チャイムが耳に入らぬのかぁーーーー」
と思ったが母も一緒なのでぐっと言葉を飲み込んだ。

荷は夕方 再配達してもらった。

北海道の友人からは、ヤーコンとパン。
ヤーコンは、道の駅で買って食べたとお便りがあり「ヤーコンとはコーンか?」と便りで聞くと数日前に「ヤーコン送るよ」と留守電が入っていたのだった。
ヤーコンについては、試食してから書くことにして…。
彼女の作るパンは、我が家では「プロ級」という定評がある。
おいしいと言われる何処のパン屋さんにも負けないおいしさである。
家人は「こっちで店を出せばいい」と言うほど。
自分の店を持ちたいと言う夢の娘は「おばちゃんのパンをお店におきたい」と言っているのだ。
今日も食パン、ぶどうパン、クロワッサン、フランスパン、バターロール等数種類が入っていた。開くとパンの香りがぷんと広がった。
夫は待ちきれずひとつつまんで満足げ。
明日の朝食が楽しみ。

ふるさとの友人からは「菊の花」である。箱を開けると菊の香りがパーッと広がった。これを花びらだけに散らしてお浸しにすると甘くてシャキシャキとしておいしいのである。
お義母さまと育て上げられた物である。
嬉しいのは これも育て上げた大根も入っていた。
大根おろしと菊のお浸しは 今の季節最高!

二人の友人からの届け物に、疲れ気味の体、落ち込み気味の心にエネルギーが吹き込まれた。
さ、明日から 気持ちを切り替えて行こうっと。


2003年11月01日(土) 以前ならきっと…。


 母は居室で「えーん」と泣いていた。
久しぶりに声を出して泣いている所をみた。

トイレをチェックするとピンポン玉より小さい「物」が浮かんでいた。
きっと、お腹が痛いのだろう。聞いてもどうして泣いているのか母自身がわからないのである。「泣かない。もう泣かない」と言っていたが暫くはグスグスとしていた。

2日ほど面会に行かなかったので部屋に掃除機をかけて、トイレ掃除、部屋の整理を済ませた。
それから、家に向かった。
移動中も表情が固かった。でも、母の傍にいる時間が長くなるにつれて変わっていった。
家に付く頃には、いつもの表情になっていた。

家で編み物を勧めて見た。けれど、今日の母は編みきれない。帽子の作り目をして二目程編みこんで渡してみても、続けて同じ編み方が出来ずに 鎖編みをして尻尾みたいになってしまう。数回繰り返してみたけれどやっぱり出来なかった。
時に机に突っ伏してしまう。
トイレタイムを取ってトイレに行くと排尿時にまたおまけがコロン。
いきんでみても出ないのに…排尿の度にコロンと落ちた。
きっと便秘気味でお腹の感じがおかしいのだろう…と想像できた。

こういう日は、何をやっても駄目な日であった。
在宅の頃は、お手上げの日であったろう。
「お腹が痛いので返ります」「お医者さんに連れて行ってください」これの繰り返しで一日中腹痛を訴えられていた日に相当するのだろうな。

今の母は、痛みや調子の悪さを表現できないから…見た目にはおとなしいのである。また、感じ方も鈍くなってきるみたいである。
この痛みから更に悪くなる…という考える事が出来ないのである。
以前の母はこういう痛みにとても神経質になっていた。
だから、痛みを増幅させていた。

こういう日は、母と正面からぶつかる事が多かった。
「病気ではないのだから…医者に言っても仕方ないんだよ」
と言えるうちは未だ良くて「あのね…」と母が口を開いた途端「わかってるよ。お腹痛いんでしょ」とそっけない返事。
「散歩行く?」「行きたくない」と繰り返して…。
「お医者さんに電話したら動いた方が方がいいってよ」「痛いから動きたくない」
「都合の良い時だけ医者に行くって何なの?動いた方がいいって言ってたのよ」と過激になって行くのだった。

「まずい」と感じてだんまりを決め込むと(母の傍は離れないが)今度は「帰ります」と玄関に行くのだった。

「こりゃしめた。外にいけるぞ」と思うと「荷物が…」となった。
部屋に戻って荷物を詰めて…。
面倒だなぁと思うと「さっきニュースで言っていたけれど電車が止まっているんだって」と出て行くのをとめようとする。
すると「交番に行って宿を探してもらうから いいよ」と言う母だった。
「じゃ、ご飯を食べてからにしたら…」というと「お腹が痛いから食べたくない」と元に戻ってしまうのだった。

最悪なパターンとなる日なのだった。

でも、今は「ご飯食べよう」と言えば「うん」と言っておいしそうに食べてくれ話をしているうちに気が紛れてしまう。
「散歩に出よう」と言えば「うん」といって外に出る。
今日も近くをくねくねと歩き回った。とても早足で歩けた。
近所の方が子供さんと散歩されたけれど母のほうが3倍以上の距離を同じ時間で歩く。ご近所さんもびっくりなさっていた。

夕食も家で食べて入浴して施設に戻った。
私が家に着いたのは9時近かった。
今日の細かい所は、また明日の日記で…。


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