母のタイムスリップ日記
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2002年10月31日(木) ヘルパーさん。


 今日は、ボランティアの日。
訪ねるお宅の近くにMさんの家がある。
Mさんは、お父様とご主人の介護をなさっている。
お二人の介護は相当に大変と思うが、いつも優しく冷静に介護なさっている。
頭が下がる思いだ。
「今日、寄ってみよう」と思っていたのだが、訪問先でいろいろもたついた。
明日から、忙しくなる事を思い買出しの方に走ってしまった。
信号が変わるので走り出そうとした時、肩をポンと叩かれた。
「ん?」と振り返るとMさんだった。ちょっと悲しそうな表情だったので「お変わりない?」と尋ねたら、「相変わらず」と言う返事。
「今日お訪ねしようと思ったんだけど・・・。」と言うと「父が大変なのよ。」という事だった。
お父様のリハのためヘルパーさんを頼まれたというので「良かったわね」と言うと「それがね、散歩に連れ出して 途中父が動かなくなってね。時間オーバーになるって帰られたのよ。近所の人がたまたま通ってヘルパーさん困っていらっしゃるって知らせてくれたのよ」と言われた。
お互い時間に追われる身なので数分で別れたが・・・。「えーーっ」と思った。
今日の私も、帰リ近くに急に用を頼まれて時間オーバーしそうになったけど
それでも何とか時間内に収めた。
時間内にきちんと決められた仕事をこなすのがヘルパーの基本である筈。
そういえば、先日、ヘルパー経験の長い知り合いが「最近の人って、わざわざ
遠い所まで買い物に行くのよ。考えられる?」と言っていた。
「たまたま会って、『訪問日なのにどうした?』と聞いたのよ。そしたら、
『買い物を頼まれた』というから『もっと近いとこあるでしょ。利用者さん
の身になってよね』って言ったわよ』と話していたなあ。
10年ほど前、地域の担当だった保健婦さんが「この地域のヘルパーさんは介護意識が高いですよ」と褒めていたけどどうなってしまったのだろう。
介保で、大量にヘルパーさんが集まって質が低下してると言う話は本当なのだろうか?

確かに、家政婦さん代わりに思っている利用者さんもいるけど。
時間との戦いではあるけれど。情に流されて余分な事まで手伝ったりもあるけど。だから、大変なんだけど。

人気のあるヘルパーさんているんだよね。
母を在宅に戻す時はヘルパーさんの手を借りようと思っている私。
これは、やはり情報集めと準備は早めにしておく必要があると思った。

Mさんに「お手伝いに行くよ」と言ったら「あなたも忙しいのだし、私も今
シッチャカメッチャカだから もう少し後でね」と言う返事だった。
しっかり為さっておられるから大丈夫とは思うけど心配だ。





2002年10月30日(水) たかがおやつ。されどおやつ。


 今日の施設は今日のお天気のように穏やかだった。
みな、落ち着いて過していた。
母は、一人ベランダに出て景色を眺めていた。
きっと、故郷に思いを馳せていたのだろう。
それでも、曇った顔をしてなくてほっとした。

ホールで、皆と指相撲をした。
働き続けたその手は、母と手と異なり力強かった。
するリするリと小技が利き、母とする時とは違い逞しかった。
季節柄、稲刈りの話を振って見た。
「干した稲穂を脱穀する時のタイミングってどこでわかるの?」
それは、指で触ってみるんだよ。
今は違うのだろうけど、そうやって、感覚を研ぎ澄まして来たのだろう。
すごいなあ。と思った。
それから、刈り入れの時は、知り合いの所へ手伝いにいくとかお互い助け合って仕事をしてきた話を聞かせてもらった。
 
その後おやつ。
入所の時に「おやつは出ません。個人で食べてください。」と説明を受けたが
今も、おやつは続いている。
ほんの僅かだが皆のお楽しみだ。
今日は、皆に干菓子を持って入ったので少しずつ分けてもらった。
口に入れれば溶けてしまうので嚥下の人も楽しめるだろうと思った。
皆、甘い物が大好きだ。
介護士さんとも話したが、甘みを感じる力って最後まで残るようだった。
お楽しみタイムを終えて、今日もまた 散歩に出た。
爪も伸びていたので、公園で爪きりをした。
雲ひとつない空を見上げていたら、飛行機雲があった。
視界から消えるまで、座ったまま二人で見つめた。
風が出てきたので施設へと戻った。
今日の母は、「秋の空。」と言い。「季節は秋。」と言った。
まぐれかな?


2002年10月29日(火) 今日の格闘。


 娘が朝刊が配達される時間に帰宅。
その娘を起こすのが厄介な仕事。
「×時に起こして」というのだが、起きやしない。
それは、そうだろうと思う。
どうせ起きられないのだから、もっと遅く起こしてと言えばいいのに、
彼女の良心がそうさせないのだ。
起こすこっちも、寝てないと思うと可哀想で気合も入らない。
今日もそんな朝の風景だった。
予定より一時間半遅れでようやく起きた。
今度は、食事。
眠りが足りないのだから食欲だって在る訳がない。
でも、母親としては、何か詰め込んでおきたい。
温かい物、口に入れやすい物を準備する。
娘は、少しだけ食べて「あーっ」と溜息をついて会社へとむかった。
成人した娘の世話なんて過保護もいいとこだが・・・。
かなり過酷な勤務体系なので仕方ないと思っている。流行らないけど、
企業戦士みたいなものだ。それも、サービス残業。

娘の出た後、次の格闘。
我が家に無用に近い大きな木がある。
実のならない「やまもも」と「しいのき」。
常緑なので落葉はないが、新旧の葉の入れ替わりがある。
だから、この時期、剪定する。
梯子をかけて、ぱっちんぱっちんやっていると、ご近所さんがかわるがわる
「気をつけてね」と声を掛けてきた。
きっと、はらはらして見ているのだろう。
屋根に背を当てて、作業を続けた。
気がつくと、もうとうにお昼を過ぎていた。

一休みと思っていたら、おむかいの奥さんが出てきた。
ちょっと立ち話。
どうやら、お向かいの娘さんも娘と同じ頃の帰宅だったらしい。
同じ年齢の方で今年二年目。
そういえば、今朝、娘より少し後に出勤して行った。
最近の会社は雇用機会均等法のせいか、こういう残業が女子にもある。
昔では考えられない。

そして、今日娘は帰れないかもしれないと連絡してきた。あーあっ。


2002年10月28日(月) 抜けた歯のゆくえ。


冷え込んだ今朝、母は何を着ているだろうかと気になった。
おそらく、木造の我が家より鉄筋の施設のほうが気温の変化は影響が少ないだろうから大丈夫とは思ったが・・・。
夏物はある程度かたずけたが、まだ 薄手のブラウスなどがありそれを着て
いないだろうか・・・?と思った。

出かけると、散歩の為エレベーターから降りてきた母達と鉢合わせとなった。
今日は、月一の通院をしようと思っていたので出かけてしまう前で良かった。
みると、他の人はちゃんと外履きを履いているのに母の足元はスリッパ。
「えーっ」でも、ブレザーを羽織っていたので外出準備にはなっていたのだ。
皆と「さよなら。いってらっしゃい。」と別れた。

居室で洗面等をしていてふと母の口元に眼が行った。
下の歯に一本だけ残っていた歯がなくなっていた。
かなりグラグラとしていたのできっとようやく抜けたのだろう。
怖がる母だったので、歯科医と相談の上自然に抜けるまで待とうという事になっていた。これで、下の歯はなくなった。これから、歯科医に予約をいれて
入れ歯を直さなくてはならない。
しかし、その歯は何処に行ってしまったかな?
噛む事にかなり神経質な母だから飲み込むことはないと思うけど、さっと見た
限りでは見当たらなかった。歯を飲み込む事は良くあるとはきいているのだが
母もそうだったのかな?
一応、職員に歯が抜けた事を報告した。
どうも、気が付いてなかったみたいだった。

それから通院。
「歩いているからしっかりしてるね。」と罹り付けの医師は言った。
高齢の患者さんがいるが、その方達と比較してそう感じているようだった。
歩いている事だけが良い訳でもないだろうとは思うが 確かに意識の切り替え
はされるだろうと思う。
血圧も高めではあるが変動の範囲内という事でお薬を頂いて帰路。

「お腹が空いた」というので、お店に寄ってお茶。
今日も、テーブルの砂糖が気になるようで手に取り出した。
キャラメルのように包んであるのでお菓子と思ったみたいだった。
ケーキセットにしたが、ケーキが案外大きくて 遅めのおやつで夕食に影響
しそうだった。初めてのお店なので予測がつかなかった。
ちょっと、失敗。
夕暮れになり、急いでタクシーを飛ばして戻った。
着いて間もなく夕食の支度が始り、慌ててケーキを食べたばかりである事を
職員に報告した。「後にしましょうか?」と言ってくれたが面倒をかけるので
「皆と一緒で」とお願いした。遅めのおやつの事も詫びた。

我が家に向かう頃には 日が暮れて、自転車のライトも点灯。
上り坂は少しきつかった。



 


2002年10月27日(日) 物忘れフォーラムの記事を読んで。


 平均睡眠3から5時間。ちょっと眠り足りない日々。
そのせいか、日記を付ける頃は眠くクラクラ状態。
そのため、書き間違いが目立つ。だから、反省の日々。
90歳を超えた日野原先生も同じくらいの睡眠時間と
知ったが、この違いは何だろう?
そして、あの穏やかさ。見習って行きたいな。

さて本題。
今日の朝日新聞に「物忘れフォーラム」の事が掲載された。
行って見たかったけど行けなかったので隅からすみまで読んだ。
「そう。そうなんだよ。そうなんだよね。」と一人頷いた。
そのひとつ。成年後見両制度。
これは、痴呆になった一人暮らしの人に必要な制度だ。
介護保険利契約の時に立ち会って貰えるのだが、これがあまり
利用されてないらしい。
金銭管理などでは利用者も増えていると言うが・・・。
お金がないから関係ない等と思っては間違いで、年金を担保に
取られて取り返しのつかないことになる事も在るのでそうも
言っておられない。
でもね、利用料が高い。弁護士さんに頼むともっと高いと言う。
それにしても、ねえ。私は利用したいと思ってもむりかな?
痴呆の人でも一人暮らしを続けられるように早くなって欲しい。
介保は そういう事も配慮されていた筈なのに・・・。

私達の子世代は、私達を背負っていかなくてはならない。
その人達からポツポツ不安が生まれているのも事実。
そして、これからの社会はきっと、一人暮らしが増える。
介護から逃げるという意味でなく「家」がそうなりつつあるのだ。
個人の考え方がそうなりつつある。
いい傾向だなんて思わないし そうあって欲しくないのだが、
きっと一人暮らしは増えていくだろう。
介護する家族がいても 今のサービスでは困る事が多いのに
一人だったらもっと大変。
周囲の理解を得て、共存できる生活基盤の整備が必要だなあ。

あらためて、そう思った。



2002年10月26日(土) 心淋しいお別れ。


 93歳の知り合いが亡くなられた。
とても明るいおばあさんだった。
母は、どちらかというと鬱的なのだが、その方は底抜けに明るかった。
この夏、貧血が強くなり、検査をしたら直腸がんで他にも転移したらしく
肺も真っ白だったそうだ。
手術せずに、輸血などで対応していらしたそうだ。
ご家族は、この一ヶ月看病と親戚の人の対応に追われる日々の様子だった。
ご家族は、とても大切にでも冷静に介護を続けられた。
何歳であっても、人との永久の別れは悲しい。
 ご近所なので、時々 介護の情報交換等もできていたし お互い 娘で
親を呼び寄せている事もあり 共通する話題もあった。

経過をいろいろ聞かせていただいた。
頭のどこかで、母の終末期の事も考えている自分がいた。
でも、この調子だとまだ大丈夫と思っている。

その後で、母のところに行った。
今日は、私の他にも面会者がいた。少し賑やかだった。
母と散歩に出た折、ドラックストアの看板をよんでいた。
「××ドラック」ってなんだろう。 「ドラックよ」
「ふーん。トラックねえ。」「ちがう。トラック」
「小さなトラックねえ」「・・・・・」
「薬局。ドラック。」「あーーー。わかったよ。ドラックね」
今日は、かなり耳が遠くて 会話もなかなかだった。


2002年10月25日(金) 訪問看護。


 介保が始まった今、訪問看護を受ける事ってどうなっているのだろう。
私は、一時訪問看護を利用させていただいた事があった。
介保が始る前の事だ。

 私の住む町で、訪問看護の利用が少なく存続の危機になりかけた。
公式の情報は、耳にしてないが、罹り付けの医師の言葉でわかった。
「どうかね。訪問看護を利用してみては。少しお金がかかるけど。」
利用料金は、言うほど高くなかった。
折角のサービスが廃止されたら困ると思った。
利用者が増えれば続けて行くということだった。
丁度、母が鬱状態で梃子でも動かないと言う時でもあったので、
「渡りに船」であった。

早速利用開始にした。
散歩に連れ出す事なんて 今の訪問看護ではしているのだろうか?
あの頃は、して貰えた。ナースステーションが家の近くという事もあり
そこまで母を連れて行き手作業などもさせて貰った。
母は、まだ いろいろの事が出来 季節の飾りなども進んでしていた。
だから、ナースステーションの飾りなども手伝っていたようで役に立てた
喜びで満たされていた。
訪問して、血圧を計測し体温を測り散歩。
戻って 再度 血圧を計測。
散歩後は、確実に血圧が下がっていた。
出る時は、大変な思いをした。「歩いても我慢できなかったら戻ってきてね」
と励ましながら見送った。戻ってくると、すっかり気分が変わっていた。
その変わり様に 看護士さんも驚いていた。
私が、無理しても散歩に連れ出す意味を理解してもらえた。
 爪の切り方もその時に学んだ。
大人の爪を切る事はあの時至難だった。素人の私には怖いことだった。
手の方は母が自分で切っていたが、問題は足だった。
目の前で切っているのでコツがのみこめた。
そのおかげで、今では不安を与えずに切って上げられるようになった。

プライベートな話もちょっとしたり出来、私も息抜きできた。
あの頃、介護に追われて「何も出来ない」とうつうつとしていたから。
医師との連携もあり 安心できた。
良い方たちとのめぐり合いで、母だけでなく介護者の私にも安らぎを
齎してくれた。
今、ナースステーションにその人達はいない。



2002年10月24日(木) 小さな事だけど。


 何のとりえもない介護だけの日記。
 介護と言えるほどの話もない。
 こんな日記に訪問して下さった方が2000を超えました。
 こういう場合「やったー」とかと書き込むようだと
 最近 気が付きました。
 訪問くださった皆様 ありがとうございます。
 そして これからも この拙い日記を訪問して頂けましたら
 幸せです。

 介護の道は、平坦でない。
他所様から どう見えているかは判らないないが、私の介護の道も例外では
なかった。それでも、ここまでの境地に至るまでは、いろいろな方々に支えて戴いたからに他ならないと思う。
 
ここ数日 ショート等について触れたが・・・。
ぼやきを口にしてみると何とかなる事が在るのだ。
これまで「こうあってほしいな」と思った事がユックリズムではあるが、実現
してきたからだ。ほんの小さな事だけど繋がっていると思えて安心できた。
強く激しく訴えた訳ではない。ぼんやりとそして確実に訴えた。

ひとつは、「こんな時どうやるのだろう」と思っていた時「家族の会があればいいのに」と思った。そんな時保健婦さんと支援センターの人が我が家に訪問してくれた。介保導入前の話。
その時に「家族の会が欲しい」と言ってみた。数年後に会ができた。

もひとつは、家族の会の日にデイのない家族は参加したくても出来なかった。
「デイのない人達も参加させたいなあ」と言ったら施設職員のボランティアと他のボランティアの人が交代で見守りして下さる様になりなった。

最後は、「デイに時間延長があればいいなあ。」と言ったらそうなった。
でも、これは、大分時間がかかった。介保が始る前から言い続けてきた。
実現したのは、そういう声が利用者から沢山上がったからに他ならないのだ。
残念ながら、このサービスは母がホーム入所となり利用できてないのだが。

耳を傾け、実現に向けて動いてくださった方々には本当に感謝している。
私は、ラッキーなのかもしれない。(楽天家なのかもしれないが)

明日あたり、訪問看護の事に触れてみたい。





 


 


2002年10月23日(水) ショート(3)


 在宅で過す人のために「デイと同じようにショートにもプログラムを
組んで欲しい。」とお願いしました。

デイサービスは、レクレーション、手先の仕事、歌、カルタ、ゲーム、
散歩など実に細々としたプログラムがある。
強制ではないが、流れで好きな事に参加できる。
利用者は、個々に差はあるものの、それなりに楽しめる。
作品を持ち帰れば、それを軸に話をしたり、様子が想像できる。
ショートとなるとそうは行かない。
(ショートの生活は昨日触れたので・・・。)
施設職員の負担が増えるだけになるかもしれない。
プログラムを組んでも、不穏さは変わらない事もあるかもしれない。
それでも、尚 そう望みたい。
出来る限り通常に近い形でショート利用が出来るようになれば・・・。

素人考えではあるが、そう望む家族は意外に多い。

ある人は施設に預けたら、お任せするしかない。と思うかもしれない。
そういう声も家族の会の中にもあった。
私自身も自分の我儘な思いだと考えて 目をつぶってきた。

けれど、介護保険導入は 在宅介護に重心を据えて行く筈だったのだ。」
その辺を整備してみると、施設入所は減って行くかもしれない。

そんな事を話した。
同席した施設の職員の方は熱心に身耳を傾けてくれた。
行政、精神科医、保健所の保健婦さんは、しっかりと受け止めてくれた。

会が終った時 保健婦さんが、「実は、親が老々介護で、初回のショート
で挫折してしまったばかりで よく分かりました。」と話しかけてくれた。

施設側と利用家族の希望を摺り合わせて お互い 無理のない方向に改良
出来ればいいなあと思っている。
痴呆の人を介護している共通の基盤があるのだからきっと出来ると思う。

今度は重度の人のショートも考えなくては・・・。

**********  ********

今日は、玄関をはいると、童謡が流れていた。
小さなテーブルを囲み みんなでおやつを食べていた。
私は、母とHさんの間に座って話した。
ふと気が付いたのだが、みんな、歌の歌詞の意味を捉えてうたっていた。
音楽療法って心を落ち着かせるだけでなく、考えるというリハ的要素もある
のかもしれないと感じた。
母の表情が固かった。職員は、さっきまで踊っていたから疲れたかしら・・。
と言っていた。
居室は、明らかに帰り支度の後、パンツに少しの便。きっと、腹痛もあったかな? 案の定、「家に帰りたいのだけど・・・」が始った。
支度して、散歩に出た。外にでたら、「帰るの言葉は無くなった。」
軽い「帰りたい」だったのかな? 


2002年10月22日(火) 昨日の続き(ショート)


在宅介護を続けていると「ショートステイ」を利用すると言う機会が出る。
ショートステイとは、一時的に一日から10日程 施設にお泊り
する事である。
その間、家族は休息したり、結婚式、法事、旅行等に出かけたり出来る。
デイの時間ではそれらをこなす事は出来ない。
そのショートの利用率が上がっている。だから、なかなか利用できないのが
現実。急な用ができても直ぐの利用は難しい。
ちょっと前まで「どんな理由でのご利用ですか?」と聞かれた。
初回利用は、避けられない用だったので正当性もあったが、「休息」という理由の時は多少の躊躇いを覚えた。
今では、家族の休息のためのショート利用を勧めてもらえるので楽になった。
介護保険導入の前の事だけど、そう遠い過去の話ではない。

ショートは、施設の入居者と共に生活するのが今の所多い。

母の初回のショートは大変なものだった。母の痴呆が軽いという事もあった。
「利用するに当たり本人に説明して置いてください。」といわれ説明した。
それこそ、ドキドキもの。
「家が留守になるから」と言えば「私は一人で留守番できる」と言う。
「この間 ・・・・あったでしょう。」といっても「大丈夫」の一点張り。
「何かあったら困るでしょう」「警察に行けば良いから」
こんな押し問答が続いた。
「今回だけは私の我儘聞いて」と頼み込み 渋々の利用だった。
けれど、ショートに入ってしまえば「どうして此処にいなければならないのか」「財布を盗んだと言われた。」「お腹が痛い。」と相当不穏になった。
散々、迷惑をかけて2泊3日のショートを終えた。
でも、それでは、終らなかった。
家に戻っても不穏は続いた。
「財布見つかっただろうか?」「私は盗んでない」「警察が着たらどうしよう」そういう怯えからの不安が 一ヶ月も続いたのだった。
いくら、きちんと説明しても直ぐ忘れる。それでも、こびり付いた苦い経験は
記憶に残っていてアフターフォローが大変だった。昼夜関係なかった。
もう2度とショートは利用できないと思った。
施設の対応が悪かった訳ではない。いろいろ努力してくださったのだ。

初めてのショートは、急激な環境変化。個の生活から集団の生活。そして、
一日の生活の流れの違い。そんな事が混乱を加速させるのだ。

そういう事があって、ショートの再利用は暫くの時を経てからとなった。
痴呆の進行と共に休息も必要となり再利用を始めた。

利用の形もデイからショートに移りデイを利用して帰宅となって、大分混乱
も少なくなった。痴呆の進行で楽に利用できるようになった。
それでも、ショート利用時に面会に行くと「帰りたい」と言われた。
ショートはデイのような作業プログラムがない。だから、所在無げになってしまう事が多い。デイで音楽療法や、行事のあるときはデイに移動させてもらえたりもするが・・・。

私はその事に気がついていたが、施設の都合もあるだろうと割り切るように
してきた。
でも、先日 あるウェブでショートの事がかなりの話題になり現実に困っている人の多さに驚いた。そして、此れは、声にする事と思った。

そんな訳で、家族の会でお願いをしてみたのだった。
今日も、長くなった。
前置きが長くてごめんなさい。
でも、介護を経験してない人、またショートを利用してない人に説明が必要だと思いまして・・・。
家族の会の事はまたあした。


2002年10月21日(月) 今日の出来事。

 
 今朝、思い立って 87才になる知り合いに電話をした。
家を建て替えられて、落ち着かれた頃だろうと思ったからだ。
93歳になるご主人を、早々に老健から引き取り在宅介護に戻られた
という事だった。デイの利用も始めているらしかった。
 その方と話をしていて、その記憶力には脱帽だった。
まだまだ若い私は、言われれば、「アーそういう人居たね」と
ようやく思い出すのに、その方は、名前と状況ときちんと覚えて
居られたのだった。考えさせられた。

 今日は、月一回の家族の会。
今日は、この所会で話題に上った権利擁護の話が中心だった。
いわゆる、一人暮らしの方の日常的金銭管理サービスの事。
これも、ある程度知っておかないと、自分の時に困ってしまう。
私は、ひとつ、課題を抱えて参加した。その事に関しては、
あした詳しく書く事に・・・。

 会が少し長引き、母の所どうしようと迷ったが、無理して
向った。
FさんとI氏が声を荒げていた。お天気のせいかなと思った。
Fさんに話しかけても「うるさいね。さっさと仕事しな」と
相手にしてもらえない。
何回か話してるうちに「私はお腹が空いているの」と言った。
どれくらい?と聞くと「腹と背中がくっつくほど」と言った。
母におやつを持ってきていて、施設のおやつも済んだ様なので
Fさん母を居室に呼びおやつを半分に分けて食べて貰った。
「おいしい」「どこでかったの?」と二人は食べた。
コーラも3つに分けて飲んだ。
お腹が落ち着くとFさんは穏やかになった。

 夕方の景色を眺めていたら、母が虹を見つけた。
早々とホールのカーテンを閉めていたのでカーテンを開けて、
みんなに「虹だよ」と声を掛けた。
すると、みんなが窓辺に寄ってきて「虹だ」と暫く眺めていた。
虹の認識ができて、見る為に窓辺まで動けることが出来るって
いいなあ。と思った。





2002年10月20日(日) 介護の本質。


 痴呆症の介護の本質って何だろうか?
母の為、と言い聞かせながら、実は自分の都合で母に接していたりする。
その事に気が付くと、落ち込んでしまう自分に出会う。

でも、100パーセント母に向いてしまう事はできない。
ある時、夫の兄に言われた事がある。「お母さんの為には、あなたが、
故郷に戻り、一緒に暮らす事が一番いいのだよ。」と。

母の為に一番でも、私の一番ではないし、家族の一番でもない。

わからなく成り掛けている母を助けていく事は必要だしそうしてあげたい。

其の狭間で揺れる自分。

そういう時期が長かった。

今でも、解決していないが、それでも 大分気持ちの整理が出来てきた。
これも、きっと 母を施設へ委ねたからだと思う。
 
母の気持ちに 100パーセント寄り添ってあげる事は出来ないが、自分の気持ちの120パーセントを母に使って上げよう。施設にお願いしてあるののだから
それぐらいの事は簡単な事。
と思いながら、自分を守っている自分も存在しているのだ。

自分と母の間の満足できる生活には、絶妙なバランスが、常に求められている。これが、私の介護の本質かな?


 


 


2002年10月19日(土) ここは、ト トイレですよ。

「早く来られなかったの?」と母は涙目だった。
二日続きでお休みしている事が何処かで判っているのだと感じた。
たった2日なのに、あの一時帰国の人達と同じように肩を抱き頭を
なでるのだ。一日置きに面会をしている事等記憶されてないのだが
感覚で感じるのだろう。

歯を磨く時は、顔も洗う。
在宅時は、立ち会えば出来ていたが、入所以来そう言う動作が消えて
いたが、今日は、関連動作となった。これは、嬉しかった。
施設側も、立ち会ってくれる事が増えてきているお陰だ。

今日は、久々にバスに乗った。
相変わらず、キョトキョトしていた。
それから、電車に乗った。「××行き」と母は読んだ。
ひとつ用を足し、また、電車で戻った。
通路で、写真展をしていた。それを、ゆっくり眺めた。
途中、お茶してまた歩き出し、お店の中を見て回っていたら
「トイレに行きたい」というので、トイレに行く。
ここは、身障者用トイレがあるので、そこを使った。
二人で入るので、広さがないと困るのだ。
用を足し、「手を洗ってね」と声を掛けたのに、顔を洗った!!
慌てて、タオルを取り出して拭いた。
別に汚い事をしたわけではないのだが、普通いない事をすると
こんな風に慌ててしまう。



監視する訳でなく、手出しする訳でなく、声がけしながら、
見守っていく事は簡単なようで以外に難しい。
本人のプライドを傷付けないよう配慮していく事も意外に
大変。

そうそう、施設に帰って「何処に行ってきたかな?」と聞いたら
少し考え、「駅に行ったね。写真をみたかなあ?」と母は言った。
驚いた。こんな事、久しぶりだ。






 


2002年10月18日(金) 机上の空論。

 季節の変わり目は、なぜか疲れる。
今日は、そんな一日だった。
考え事をしている内に日が暮れてしまった様な
気がする。
 介護の現場は、急速な変化をしている。
デイの形も、ショートのベットも増えている。
利用者のニーズに応えての変化だろうと思う。

 在宅にしても、施設入所にしても、何れ誰かの
お世話を受ける事になるだろう。
よく、子供たちに同じ苦労は掛けたくないと聞くが
そういう人は、施設入所を選ぶのだろうか?
だとしたら、どういった施設を選ぶのだろうか?
 
 今の施設での生活で満足するのだろうか?
それより、施設の現状を知っているのだろうか?
施設利用は痴呆者だけではないが、痴呆になり
施設に入るとどうなるかわかっているのだろうか?
子供以外の人に介護してもらう時、その人達の
労働条件をしっているのだろうか?

 介護は、昔からあった。
介護家族に目を向けて貰える様になったのは、最近
の事だ。
人の寿命が延び介護の時間も長くなった。
これから先、老人の人口が増えるのだ。
一人が受け持つ老人は、増えるばかりだろう。

核家族となり、老いて行く姿を看る機会は少なくなり
そうした人々に 老いを託して行けるのだろうか?

だんだん支離滅裂となっていく。
けして、悲観論者ではない。
割りに、楽観主義なのだが、期待が湧いて来ない。
 
「戦いすんで日が暮れて」じゃなくて、
「考えすぎて日が暮れた」    おそまつ。



 





2002年10月17日(木) シャコバサボテン。


数日前、シャコバサボテンを母の部屋に届けた。
在宅の時も、室内の観葉植物や花を気にかけて手入れをしてくれていた。
今まで、様子を見てきたが、散歩でも植物にかなりの興味を示すので
置いて上げようと思ったのだった。
 水遣りが出来るか、上手にできるかと心配だった。
水遣りの足りない所は、面会の時見てみようと思った。水をやりすぎてしまって、パニックになるのが心配だったので、深い鉢カバーにした。
植木鉢より大きい物だ。これなら、水が溢れる事もない。
 昨日、様子を見たとき、やはり、かなりの量の水が底に溜まっていた。
溢れなくてよかった。そして、管理できるという事もわかり、ホッとした。

 ここ数日、北朝鮮より帰国した方々のニュースをみている。
手放しで喜べない重たい思いがあり、素直に「良かった」と思えなかった。
でも今日、故郷に戻られた方々の表情を見て、初めて「よかった」と思った。
映像を見ているだけで、涙が溢れてしまった。それにしても、重たい現実だ。
 故郷の景色、人々、言葉が 何よりも慰めになるのだろうと思った。
事情は、全く異なるが、どうしても母の事とダブってしまう。
「故郷に住めたら良いのに・・・。」と思った。



2002年10月16日(水) 判ってきた?

いつも通利の散歩。
施設が見える公園のベンチに腰を下ろした。
「たのしい?」「たのしい。」
「淋しくない。」「淋しくないよ。」
入所時、「ここは、何もせず ぼーっとしていて
つまらない」と訴えた母とは明らかに違う。
「ここから、家がみえる?」と聞かれた。
私は、耳を疑った。「家?」
取り敢えず、「ほら、あそこよ。」と施設を指した。
「あーあそこね。」と母は言った。
刺激しても悪いかなと思い深く尋ね返す事はしなかった。
でも、こういう会話は、初めてだった。
やはり、施設を受け容れ始めているのかな?
それとも、痴呆が加速したのかな?
痴呆の加速なら、他に珍現象も伴うのだろうと思うが
今に処、そういう事はないようだ。

 職員の中にも、温かい眼差しで接する人が増えた。
これが、「情が移る」という事なのかな?
施設内も、穏やかな日々が増えてきた。
F氏もHさんも 私の顔を覚えてくれたみたいだ。
Hさんは、「今度来る時 歌の本持ってきてね」といった。
F氏は、「ちょっと、傍に来て。」と言い、傍に行き「夏も
近ずく八十八夜・・・。」と手遊びをしたら、笑顔が戻り、
穏やかになった。

 私のいる時間等、僅かなのだが、皆の表情が、以前と比べ
明らかに違ってきている。
時間の流れは、皆の上に平等に流れているなぁと思った。


2002年10月15日(火) 「あーあっ」情けなや!


 接続がうまくいかなかった。
夜、七転八倒。一人では どうにもならず、サポートセンターへTEL.
繋がらない。
 夜が開け、再度 サポートセンターへ。
どうやら、アクセスポイントの変更の為らしかった。
新しい、番号を聞き手続きして ようやく OK.
 そういえば、封書がきていた。アクセスポイントの変更と書いてあった。
だいぶ前のことだが・・・。
よく、読まなかった自分が悪い。そして、アクセスポイントが、どういうもので在るのかも判らないほどの自分の事も、情けない。
 ネットに繋がらない事は、さほどの事もないのだが、「何故繋がらないのか」が判らない事が、一番ショックだった。
 こんな者でも、PCに触れているのが問題かな?


2002年10月14日(月) おみやげ。

 今日は、個々の部屋を職員とお掃除している時間にぶつかった。
これは、初めて。そういえば、一昨日は、ホールを職員がお掃除していた。
今まで、そうーっと お掃除していたけど、今度は、「手伝います」と声を掛けるべきかな?
 母と散歩に出る時、Hさんが「いってらしゃい。お土産 買って来てよね」
と言った。
 こんな事も初めて。
いつもなら、そーっと出て行くのだが…。今日は、Hさんに「いってきまあす」と挨拶した。
散歩は、いつものコース。今日は、途中で、烏瓜をみつけた。赤く色付いた
烏瓜だった。人の屋敷内なので、「どうしよう」と思ったら 丁度庭先で
草取りをしている人がいたので、「すみません。ひとつ 烏瓜 分けてもらえませんか?」と尋ねてみた。その人は、「もう、色が付いていた?」と言いながら、3個わけてくれた。
 Hさんへのお土産は、此れにしようかなと思ったが、皆で見たほうが良いと思い、コンビ二で、チョコレートを買った。10粒あるのを確認し、外側だけチョコの物を選んだ。チョコも、食べ過ぎると興奮するので…。
 施設に戻り、許可を得て皆にチョコを配った。
たった、一粒のチョコだけど、多少の変化はあったかな?
Hさんは、土産をねだった事など忘れていたが、「久しぶりのチョコだ」と言い、喜んでくれた。良かった。
 Hさんは、時々 不穏な言動をするが、掃除機という単語がつかえる。
母は、「ほうき」が欲しいと言うが掃除機とは言わない。
やはり、人 それぞれだなあ…。とあらためて感じた。
 烏瓜は、間違えて口にしてもいけないので、飾り籠に入れて貰った。


2002年10月13日(日) 歌って、踊って。


昨日の事。
皆がホールにいる時、F氏が不穏な言動を繰り返していた。
 おそらく、誰かと話をしたいのだろうと思った。
少し、話かけてみた。訳が判らない言葉が返って来るが、「うん、うん。」
と調子を合わせた。笑顔が少し戻った。「歌でもうたおうね。何が得意かな」
と聞くと、職員が「東京音頭」と言ったので歌ってみた。F氏は、少しずつ
うたいはじめた。」ついでに、踊ったりもした。(上手ではないが)
 すると、他の入居者も、俄然 興味を示した。
そんな訳で、職員と私とで、おそるおそる踊ってみた。
 盆踊りの歌なので、ついでに、炭坑節。「ああだ。こうだ。」と皆が
乗り出した所で、職員が、それぞれに出身地を聞き、ご当地の民謡を歌った。
O氏に出身地を聞いたが、言語不明瞭でなかなか聞き取れなかった。
「私は、OOだけど、O氏は?」とゆっくり尋ねると、「OO]とはっきり
答えられた。「判った」とそこの民謡を歌い始めると、涙もろいO氏は、また
ぽろぽろと涙を零した。でも、みんな 手拍子を打ち、声を合わせて歌った。
 民謡なら、みんなに合わせられるなあ・・・。
きっと、踊りだって、得意な人もいるし、好きな人もいるだろうな・・・。
 歌詞を忘れたって、皆の声で繋げて、手拍子があれば自然盛り上がる。

 数日前、母と散歩をしている時に後ろから、母の名前を呼ぶ声が聞こえた。
こんな事は、滅多にないので振り返ると、退所したOさんと娘さんだった。
「今、家の中を 毎日 二人で整理しながら片付けている」と話してくれた。
今日は、施設下の割烹に食事に来たと言っていた。
 ここまで来なくとも、いっぱいあるのに・・・。
Oさんは、我が家から徒歩5分位の所なのだ。
 きっと、懐かしい気持ちになり わざわざ ここまで来たのだろうなあ。
深い話は しなかったが・・・。
 ちょっと、聞いて見たいこともあるのだが・・・。
その内、その辺で出会う事を期待しつつ 別れた。
 


2002年10月12日(土) 柿食べたの?胡桃も?えっ!


秋晴れの気持ちよいお天気だった。
母は、絵を描いていた。
先日、柿を書いて見たら良いかなと思い鉛筆とお絵かき帳を渡しておいた。
職員の人が、預けておいた色鉛筆を出してくれたようだった。
 見事、柿が描けていた。居室に戻ったら、色紙(前のデイサービスで
誕生日にくれた寄せ書きの色紙)の裏側にも、柿の絵が描いてあった。
その脇に・・・。なんと、「おいしそうな、みかん」と母の字で書いてあった。「・・・・・。」
きっと、柿が、目の前になくなり、描いた絵を見ながら描いたのだろう。
色紙に描かせて見るのも良いかもしれないと思った。
 題材を探しておこうと思った。
引き出しを空けたら、食べかけの柿が、紙に包んであった。
 皮を剥いてないので、きっと、題材として母に持たせてくれたのだろう。母は、それを、空腹で食べたのだろうな・・・。
そして、胡桃も箱から出てきた。その内の1個が、割ってあり、実をつついた
跡があった。あんな堅い殻、どうやって割ったのだろう。
 誰かに聞こうと思ったが、怖くて聞けなかった。
やはり、目の届かないので、判らない事が多い。

 近くの公園で、幼稚園の運動会があるようだった。
そちらにも、連れて行きたかったが、今日は、町に出た。
 「何処かにつれていきたいけど・・・。」と夫に言ったら、「連休は混んで
いるから・・。駅前で、お祭りがあるから、其処にでかけたら・・・。」と
言われたのだった。
 「人がいっぱいいるねえ。」と母は驚いていた。
少し ゆっくりとお店をみてまわった。
「足が痛い」と訴えたので、「もどろうか?」と声を掛けるのだが、「大丈夫見ている方が楽しいから・・」と言う。
幾度か、座った。立ち上がり、それからの一歩が とてもつらそう。でも、
歩いている方が良いと言う。
 散々見て周り、日暮れ近くに戻った。
途中で、おやつタイムでお店に入った。そこに、奥入瀬渓流らしき絵があり、
母は、じっと 眺めていた。この水は、あっちにも、こっちにも、跳ねて
描いてあるところがいいねえ」と言った。「ふーむなるほど。相変わらず
観察力は、鋭いな・・。」


2002年10月11日(金) どうした事だろう。


 昨日、散歩している時「毎日楽しい?」と久しぶりに尋ねて見た。
「楽しいよ。」と言う言葉が返ってきた。
更に「帰りたい?」と尋ねたら、「いや、ここもいいよ。故郷でなくとも
いいかなと思うよ。」と言う言葉が返って来た。
思わず母の顔を見た。悲しそうな顔でなくいつもと変わらぬ表情だった。
 そういえば、「おかちゃん」と言う言葉も最近耳にしてない。

いとこの名前ばかりだ。いとこ=私 なので、母の頼り処が私に変わった
のだろうか?
今まで、在宅時も含めて こういう事は言った事がないのだ。

 母がどういう経過を辿ってそういう心境になったのか判らない。
でも、きっと ここでの生活の中で何かを学んだのだろうと思った。

 母が、自分の親のことを忘れてしまったとは思えない。
きっと、また、「帰りたいなあ」「おかちゃん」と言う日も訪れるだろう。
 
 それでも、何かが変わりつつある。

 昨日の、地元の人との交流で思い出した事。
それは、施設に対する家族評価の事だ。
評価の項目に、地元の人との交流ということもあった。
きっと、昨日のような事を指して交流というのだろうか?
 だとすると、あまり 散歩に出ないので なかなか 難しいかもしれない。

 また、ケース会議でフロアに誰も職員がいなくなった事。
おそらく、散歩から戻るまでの一時間余 職員は来なかったと思う。
ケース会議の時は、何処でも こんな物なのだろうか?
 少なくとも、私の経験する限り、安全のための職員は配置した筈だ。
そこに、参加できない人は、議題に沿った意見を書面で提出したし、
会議録を後で読んだと思う。そして、全体の流れの統一を作ったと思う。
 施設の種類によって、違うのかなあ・・・。







2002年10月10日(木) 思いがけない収穫。


 「お母さん、昨夜はピクリともせずに眠ってました。」と夜勤明けの人が
教えてくれた。 と言う事は、その前は、不穏だったかな?と思った。
これは、猜疑心でなく、母のパターンだから・・・。
 職員は、ケース会議とかで全員別のフロアへ移動した。
と言う事は、このフロアには、入所者だけか・・・。
「私が残ろうかな?」と思ったが、母のための時間を選んでしまった。
 公園でスケッチしている人がいた。
じっと、こちらを見ているので、傍に行くと数日前会った人だった。
 母と「面白い木だねえ」と見ていたら、一緒に覗き込んだ人だった。
故郷を離れて、息子さんと住みだした事。デイ利用を始めたこと。等を
教えてくれたのだった。痴呆も無いように見える方だ。
雨が降り出し、話もそこそこに お別れしたのだった。
 この人は、きっと 「会えるだろう」と待っていらしたなと感じた。
「こんにちわ」と声を掛けた。その人も、にこにこと笑顔を返してくれた。
少し、お話して別れた。
 名前も住まいも お互いに知らない。でも、「存在」だけは、知っている
そんな関係かな・・・。

 更に歩くと、母と私で、どんぐりを拾う場所に差し掛かった。
立ち止まり、また木を見上げていると、そこの家の人が声を掛けてきた。
また少し話し込む。母は、傍らでにこにこ話を聞いていた。
 以前の母なら、「全く いつまで話しているの・・・。」と不機嫌に
なったものだが、この所 そう言う事が無くなった。
 その家の人が、「柿 持って行きなさいよ」と言った。
「すっかり、甘いから」とも言った。
「お言葉に甘えて・・・。」と言い、直ぐ傍のグループホームに住んでいて
フロアに7人いるので、7人分戴いても良いですかと尋ねた。
「あーあそこね。どうぞどうぞ。」と枝ごと折ってくれた。
お礼を言って、ホームに向かった。
母は、嬉しそうに「親切な人だね」と言った。でも、ちょっと歩いたら、
「買ったんだっけ?盗んだりしてないよね・・。」と言い出した。
「ほら 親切・・」と言いかけたら、「そうだったね。」と思い出した。

柿を持って、施設に戻ると、仲間は、「あーーっ」と柿に注目した。
テーブルに置くと、皆、触った。
「柿に白く粉が付いたようになると、おいしいんだよ。」この言葉は、
全員がそれぞれ口にした言葉だった。それには 驚いた。
実は、故郷の柿は殆ど渋柿なので、そういう知識はなかった。
 母が折り紙をしようと、絵を描こうと、殆ど関心を示さないのに柿には
みんな、興味を示して、それぞれの思い出に浸っている風だった。
 いい風景だったので、途中、胡桃を買ったのを思い出しそれも出してみた。
みんな、手に取り とても 懐かしそうだった。
 フロアは秋色となった。

 皆に食べてもらったのは、職員に了解を得てから。
でも、歯の無い人は、刻んでも かなり固かった様子だった。
故郷の渋抜きした柿なら食べられるなと思った。






2002年10月09日(水) TVを観て。

植木の刈り込みをした。
初夏と初秋の二回は恒例となっている。
 一度に全部は、とても出来ないので何回かに分ける。
今日が初日だった。三本しかしてないのに、背中と腕が痛い。
 曇りの天気は、ラッキーだった。

 NHK教育TVで「ゆうゆう」をみた。
遠距離介護だったから。過去に、経験したので 気になったのだ。
そこで、情報をキャッチ。
「NaLc」というNPO団体の存在。
ボランティア貯金と言う物。
 10年以上前 耳にしたが、出来ている事は知らなかった。
設立してから、8年も経過しているようだった。
番組では、ボランティアした活動を、故郷に住む親のために利用
していた。

 今の私は、ボランティアに頼らなくとも良いが、将来に向けて
有効かなと思った。
この組織が、これからもちゃんと存続して行くのなら、今の
ボランティア活動を、NPLCに替えるのも有りかなと思った。

 長らく返事の書き込みが出来なかったBBSですが、この度
使用できるようになりました。
あとは、私の腕次第のようです。
 元のホームページが出るようでしたら リロード(更新)を押して
から、ホームページを押すとBBSが出ると思います。
 宜しくお願いします。

 て言うか・・・。(若いふり)
返事の書き込みチャレンジしたけど、返事にならなかった。(笑)
やっぱり、娘の心配 的中です。



2002年10月08日(火) ボタンは、誰が付けるの?


 母の衣類の綻びは、私が繕う。
在宅の時は、母にやってもらった。
繕う事は、母が好んでしていたので、わざわざ、繕い物を取っておいた。
例えば、靴下。これは、殆どウェスにするのだが、母のために洗って、
残した。繕った靴下は、履いても縫った所が微妙に厚く靴を履くと痛い。
だから、再利用とはなかなか出来なかった。
 施設では、針や鋏等 自由には使えないので私が持ち帰り繕う事になる。
母を連れてきた時は、母に針箱を渡して、好きなようにやって貰う。
 
 こんな風に 家族が補助できる人ばかりが入所している訳ではない。
Hさんは、時々 ボタンがひとつしか付いていないブラウスを着ている。
始めは、ボタンを掛けるのが面倒なのだろうと思っていた。
でも、あまりに そういう場面が多いので「ちゃんと掛けよう。」と声をかけて、補助しようとしたら、なんと、ボタンがひとつしか付いてなかった。
「直ぐ取れてしまうのですよ・・。」と職員がいっていたが、しっかりと
付いているのだってある。
 それでは、Hさんが、ボタンのない事が判らないのかといえば、そうでもなかった。今日、ブラウスに合うボタンを我が家のボタン箱から持参した。
「今日ボタン持って来たよ。」と声をかけたら、「ありがとう。」と言う
返事が返ってきた。
 少し、会話してみたが、やはり、意識の何処かで、ボタンが無い事、私と
ボタンの話をした事が記憶されているなと感じた。
 残念ながら、持参したボタンは、ちょっと小さかった。「もう一度探して
くるね。」と言ったら、「ありがとう。頼むね。」と言っていた。
 そのやり取りを、前の時とは違う職員が、聞いていて、「ごめんなさい。
こちらで、準備します。」と言った。
 
 さて、こういう場合 本当は誰がやればよいのだろうか?

今日、散歩に出たら、Yさんも職員と散歩していた。
私と母を見つけたYさんは、大きく手を振り、「あなたのお母さん?」と聞いてきた。「そうです。」と言うと二人は「初めまして・・。」と挨拶交わした
職員と私は 顔を見合わせたが、違うとは言わないで見守った。
 暫く話し込んでいる内に、Yさんは、母が、同じ施設にいて、何回もあっている事思い出した。でも、さっきの間違いは、覚えていないのだ。
 母は、と言えば そういう事には、頓着せずに話の流れのままに 会話に
加わっていた。外から見たら、お年寄りが仲良く話しているように見える筈。
 でも、会話は完全にすれ違っている。Fさんの認識度は高い。母の5年前位
かもしれない。
 でも、その場で会話できる事は まだ 幸せだと感じている。
急に雨が降り出し、施設に戻った。
 私と母は、傘を差して、また 外に出た。
足が少し痛いと言いながら、歩きたいとも言うので暫く歩き続けた。

 散歩より戻り、編み物をしてもらう。
編み上げた襟巻きの周りをピコット編みで仕上げていたので、その続きを
して貰った。


2002年10月07日(月) 友人がやってきた。

 昨夜、北海道から、友人がやってきて 我が家に一泊した。
彼女とは、20数年来の付き合いだ。
こちらに住んでいたが 都合で北海道に転居。
以来20年近く手紙をやり取りしたり、尋ねて来て貰ったり、娘を預けたり
の仲。
 彼女は、痴呆の祖母の面倒を見たり、ヘルパーの資格を取得したりした。
今は、老健で調理師さんをしている。
 パンを焼く腕は、プロに近い。
パン屋を出して・・・。とお願いもしている。
 
 そんな彼女と、久々に会った。
日記に書けない悩みもある。手紙に書ききれないこともある。
お互い、いろいろと話をした。
 私のボランティアの事、施設の事、彼女の職場の事、親戚の事、子供の事
夫の事。まあまあ、あるある、話は途切れることなく続いた。
 結局の所、人の優しさ 思いやり と言う事で話は収まって行く。
そして、老いて行く先の話にもなる。
やはり、彼女も足が大切と言っていた。
 そのため、毎日 足を鍛錬していると言う。
階段を使い、足をあげるのだそうだ。
足が、上がりにくくなると転倒の危険が出てくるので、意識して足を上げるようにしていると言う。 彼女も、心臓疾患がある。
心肺機能を保持する事も大切なのだ。
おかしくなってからでは間に合わない事も彼女も見てきて知っている。
だから、今のうちから 鍛錬している。
 お互いに介護しているからこそ知りえた事と思ってもいる。

 介護は、辛い現実もあるけれど、介護を通して学べる事もあるのだという
事で一致した。

 帰路 飛行場まで送っていった。

そんな訳で、母の所の面会は、しなかった。数年に一度のことだから、許して
貰おう。




2002年10月06日(日) 夜の散歩。


 昨日、くたびれ果てた娘が、日中 コンコンと眠り、夕方、目を覚ました。
おばあちゃんの所に行くと意気込んではいたが、寝てしまったのだ。
無理をする事は無いと思っていたので、起こさなかった。
 
 それでも、起き出した後、少し散歩しようと誘った。
周りは、もう、真っ暗。
母が居た時は、この近辺を毎日散歩したが、今は、一人歩くのも変と思い
歩いてなかった。
母が来た時に歩こうと思っていたが、入浴させると疲れてしまい散歩所では
なくなった。
 それでも、気になっている所もあり 夜、娘と散歩に出た。

ここに来てから、母と夜散歩は無かった。夜 出る時は、母画不穏になり
落ち着いてもらう為、母の後ろから ただただ 付いて行くしかなかった。
だから、闇に耳を澄ますなども無かった。

 でも、昨日 初めて、蝙蝠の鳴く声を聞いた。
始めは、遠くで猫が鳴いているのかと思ったが・・・。
それは、空の上から聞こえてくるのだった。
 蝙蝠だろうと二人で思った。
でも、自信が無い。夫に後で聞くと、やっぱり 蝙蝠だった。
 故郷の家も、今の住まいも、川と山が近くにあり、蝙蝠はみかけた。
でも、鳴く声を聞いたのは初めてだった。
 母と一緒の時何故気がつかなかったのだろう・・・。
やっぱり、心が、かりかりしていたのだろうな・・・。





2002年10月05日(土) 刺激のある生活。


今朝の朝日新聞の投書欄に施設に関連する物が二件掲載されていた。
 一件は、施設内の怪我の訳を知り合いが尋ねたが「親族以外には何も
答えられない」と対応され、市に申請し立ち入り調査をしてもらった。
怪我の原因は、一応判ったが、その後、精神科の病院に入院措置と
なった。と言う内容。
 二件目は、ホームでのはさみ使用を断られた。と言う内容。
二件とも、「そうなんだよ。」と一人頷いてしまった。

 一つ目の方は、詳しく状況がわからないとコメントできないが、
二つ目の事は、私も実際に経験している事なのだ。
母の手作業で、はさみを使う事は良くある。折り紙を切ったり、糸を
切ったりである。
在宅でも、問題なく使っていた。
 「何がおきるか判らないから・・。」と言われた。
「幼稚園児が使うような鋏でも駄目ですか?」と更に交渉してみたが
「ポケットタイプの裁縫セットの鋏ぐらいなら・・・。」と言う事だった。
それでも、無い依りましと思い持って行ったが、職員の預かりとなった。
「意味無いじゃん」と思ったのだった。

 確かに、母は大丈夫でも、他の人は判らない。不穏なときもあるだろうと
思う。でもねえ、幼稚園児の使う鋏は、事故防止の為、先が丸いのですよ。

 あまり、言っても仕方が無いので 私は諦めた。
投書した人も施設側の指示に従ったようだ。
 少しの工夫で、改善されないかといつも、頭の隅の課題にしている。

 さて、今日も良い天気。
母と散歩をした。今日は、久々に1時間半 歩いた。
母の足は、外反母趾。歩くのは、痛い筈。「痛い?」「大丈夫?」と
繰り返し尋ねながら歩いた。
 道の段差は怖い。段差に近付くと「気をつけて」と声を掛ける。
なんとなく凸凹も、つまずきやすいので、声掛けする。
 今日の意識もはっきりしていて、「でかける」「店に入った」等きちんと
わかり、覚えていた。
 午前中 散歩をしたと職員は、言っていた。
お日様をしっかり浴び、刺激もあったから、意識がしっかりしていたのだと
感じた。
こういう、サイクルだといいのになあ。
そうできれば、皆の表情も変化に富んで来るのだろうな。
 いろいろの刺激って必要だなあ・・・。
きっと、職員の人は、疲れるのだろうけれど・・・。




 





2002年10月04日(金) たった一枚のドアなのに。


 入所したばかりの頃、玄関の所で帰ると大騒ぎをしていた母たち。
でも、今、騒ぐ人は いない。
「帰る意欲」「出る気力」をなくしてしまった訳でもないようだ。

 玄関を出るとエレベターホールである。
玄関とホールの間にガラスのドアがある。
初めの内は、ドアに二重に鍵があった。
面会に行く度、こちらがドアを開けてもらえるまで苦労した。
忙しいと、直ぐに反応して貰えなかった。
 利用する者としては、隠し事があるかなと詮索したなったものだ。
今は、そのドアが今は 開放されている。
流石に夜間は 開放とは行かないが・・・。

 今も、入所者が、外に出ようとする。
内履きから、外出用の靴に履き替える。でも、ホールに出て
エレベーターを待つ間に誰かに声を掛けられ、気持ちが他に移る。
エレベーターは、ロックされていて、自由には空かないから、まず乗り
込むことはない。
 鍵と違い、閉じ込められているという感覚が無いようだ。
勿論、そればかりでなく職員の配慮もあっての事だろうが・・・。

 阻止されていると言う感覚になると反発し、開放されているような
感覚だと、順応するような気がした。
在宅で同じようには出来ないのかもしれないが・・・。
 たった、一枚のドアを開いただけの事なのだが・・不思議だ。


2002年10月03日(木) つうーんと悲しい。


二日連続で面会したせいだろうか・・・。母の意識は冴えていた。
通院があるので、ボランティアにでかけたその足で施設に向かった。
少し暑いので、上だけ着替えて出た。
「何処行くの?」と聞かれて、「お医者さん」と返す。
「痛くないかな?」と聞かれ、「大丈夫!」と私。
早めに出たせいもあり、午後の診察の20分前に到着。
母は「暫く待つようだね」私「判るのか・・・?」と思う。
診察が始まり、母の番となった時も、「何処も心配ありませんか?」
と医師に尋ねていた。「大丈夫!」と医師。
 薬を戴き、外に出た。
「何処も 悪くなかったよね」と母。「そうそう、頭も良いし、顔も
また良いって」と言ったら「まったく」と言いながら笑っていた。
 施設に戻ろうと思ったが、時間に余裕があったのと、私の昼食が
未だでお腹がぺこぺこだったので、家に戻った。 
 「家は良いねえ。」と母は言った。「ドキリ」とした。
施設で暮らしているという認識がないのだから、漠然とした感覚で
言ったのだろうけれど・・・。
 家にいる間も、時計を気にする事も無く、「帰る」と言う事も無く
折り紙をしたり、おやつを食べたりまるで、ここに住んでいると言う
風にゆっくりしていた。
 そんな訳で、帰り支度がなかなか出来なかった。
「靴はいて・・・」と言ったら「出かけるのね」と言い玄関に出た。
そうして、施設に向かったが、「あなた、家を空けていいの?」と
幾度も聞いてきた。「大丈夫よ」と返事を返した物の、私の心は、
次第に重たくなっていった。
 施設に戻っても、私の姿を暫く追っていた。
編み物を出して、続きを編んでもらった。だんだんに編み物に集中し
私の事も気にならなくなったようなので、施設を後にした。
 帰りの足取りは重く、なんだか つうーんと悲しかった。
 


2002年10月02日(水) 今日はやけにトンチンカン。


今日、居室で暫く話をして、トイレに誘導したら、「私初めてここの
おトイレを使うの」と母が言った。
「どこか わかる?」と尋ねたら、「さあ?」と言う返事。
「行ってみれば判るかも。」と声を掛けて後ろから付いて行くと迷う事
なくトイレへ直行。
 汗をかいていたので,清拭。歯磨き等を済ませて散歩に出る為居室を
出た。 すると、「顔をあらったばかり・・・」等と言いながら、
「お早うございます」と皆に挨拶していた。
三時のおやつを、一緒に食べた後なのに・・・。
いつもなら、散歩に出る時は、「断って行かなくちゃ」と言うのに今日は
その言葉もなかった。
 外では、特に変わりも無く「コスモスの赤がきれいだねえ」と感嘆の声。
途中、入所者が散歩していた。「お久しぶりですね」と母が声をかけた。
相手も、ニコニコしていた。
 更に散歩を続け、稲穂が色付いているのをみて、「実りの時だねえ」と
言った。
 母は、観たままを言葉にするが、今の季節を言い当てる事は出来ない。
散歩を終えて、施設に戻ると、「お久しぶりです」と頭をさげた。
「自分の部屋 わかりますか?」問うと「さあ、判るかな・・。」と言い
間違う事なく居室にはいった。
 こういう事は、在宅していた時もあった。自分の部屋に入っても、
「そうそう、ここだった。懐かしいなあ。」と言ったり、「ここは、よく
覚えている」と言ったりした。
 毎日、過ごしている場所でも、久しぶりに来た様な感覚になる様なのだ。
「久しぶり」と声をかけられた看護婦さんが、「痴呆だから 判らない」と
反応しかけてから、「日々新鮮でいいねえ・・。」と言い直していた。
 私の方が 内心「むっ」としてしまった。
母が気が付かないのだし 気にする事でも無いのかも知れないが・・・。
 複雑な気持ちとなった。




2002年10月01日(火) ゆっくりと、少し急ぎながら考える。


台風が来ると言うので鉢植えを移動。重い鉢を其の侭にしていたら
帰宅した夫に注意された。
夫は、すごい台風を経験しているので注意深い。
 私はといえば・・・。
幼い頃、台風が来ると言うと母が、ハイになった。
着替え、懐中電灯、水、等準備させられ、翌日には片付けをさせられ、
その労力がとても無駄に感じていた。
その上、悲惨な台風も経験が無いので、私は 比較的のんびりや。
 全く対応しない訳ではなく、竿を取り込んだりもするし、災害の備え
もそれなりにはしているのだが・・・。
 母は、高層マンションに住んでいた時も「大水になる」と騒いだなあ。
今晩も、心配してるかな?
でも、だいぶ耳が遠くなったので、風の音も聞こえないから大丈夫かな。
*****
 それにしても・・・。

特養と、グループホームの選択。
  個室 対 四人部屋(仕切りは、ロッカーとカーテン)
  費用は、20万弱と7万円
  収容人数は、25人対100名。

これが、目に見えて決定的に違う事。
これから、介護の内容、情報公開度、等を比べていこう・・。
ゆっくりと、でも少し急ぎながら・・・。
 
  



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