刑法奇行
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2002年04月30日(火) リスクとクスリ

 標題は、「上から読んでも下から読んでも」である(横書きだと、「左横から読んでも右横から読んでも」となる・・・アンメルツ状態か)。犯社学会のシンポのテーマが「リスク社会」で、「リスク社会における刑罰」を担当せよ、と魔女大のH井先生の強要である。何冊か本をそろえた。ベックやギデンスなどである。しんどいなー。しかし、パラパラ読んでみると、ヤコブスの考えに連なってきてうれしくなってきた。ヤコブスはやはりすごい。リスク社会を念頭に置いた刑法・刑罰論だ。もともと、社会学を基礎とする刑法論を展開してきたから当然のことではある。根底に何かがあることが大事である。
 リスクの研究は面白い。リスクと危険は違うだろう。地震は危険だが、それに備えて頑丈な家に住み続けるのはリスクであり、雨に降られ濡れるのは危険だが、傘があるのに持っていかないため濡れるのはリスクである。傘があるためリスクから逃れられず、自由を奪われる・・・これは面白い発想だ。危険を避けるためにリスクを背負う・・・これはこの奇行の基本的思想ではないか・・・思想なんてあるの?。陽水の「傘がない」は、リスクを背負わず、危険に身をまかす、絶対的青春論である。あれは時代を変えた、パラダイム転換の歌である。
 薬害エイズもリスク社会問題である(ここでクスリにつながるわけである)。過失犯論上の解釈問題のみならず、刑罰論が根底にどっかと横たわっている。学会が楽しみだが、南山大で難産なテーマである。わが研究室のO部君にもがんばってもらいたい。
 やっと、日中刑事法シンポの原稿を書き上げた。今年は、「共犯と組織犯罪」がテーマで、私の短刀、否、担当は間接正犯である。ペラ80枚も書いてしまった。武漢の三峡下りが楽しみだ。ライン下りとは趣がまったく違うだろう。ドイツにいたとき、ライン上りもした。
 この連休も仕事の山だ。これに追われなくなるのはいつの日か。「おわれてみたのーはいつのひーか」

ジャーニー to Risikogesellschaft und Selbstgefaehrdung


2002年04月28日(日) フランクの公式

 この奇行も1週間に1回というペースになりそうだ。「1週間のご無沙汰でした。」という、「歌のアルバム」玉置宏状態である。先週は、西原研究室仲間の3人にあった。水曜日は、犯社学会の仕事で、酷学院大に行き、A大の髭倉さんに会った。彼は、この奇行を知らなかった。結構登場していることを言っても、関心を示さなかった。おそらく、瞬間的に寝ていたのかもしれない。久しぶりに「へぎそば」を食べた。これはうまかったが、渋谷はどうも好きになれない町だ。年老いたのかもしれないが、若いときから好きでなかった。昔、駅のまわりで迷子になったことのトラウマかもしれない。しかし、若者がこんなところでブラブラしていることがなぜか腹立たしい。「あしたのジョー」は何処へ行ったのか。高校時代、Z会の投書欄で「あさってのジョー」と書いたことを思い出した。
 金曜日は、東洋の魔女大の知り合い関係の集まりで、M藤君に会った。カラオケで、彼は、例によって、上条、尾崎(豊ではない)とお腹から声を張り上げ、絶好調であった。カラオケもマイクも彼には不要である。「ドアをお閉め下さい。」という注意書きもまったく予防効果はない。ドアを開けている状態と同じだからだ。私は、大塚博堂で迫った。「めぐりあい紡いで」とか「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」である。考えてみれば、「卒業」のホフマンに普通はなれないのが当然である。だから感動の映画なのである。ほとんどの中学教師が金八であることが実際ないのと同じである。金八ばかりだとこりゃまた疲れるなー(アンチテーゼである)。
 土曜日は、酷土大のSTの会会長に会った。彼は、この奇行を知っているが、自分がしばしば登場していることを恐れるあまり、見たくないと言っていた。フランクの公式によれば、「見れるけど欲しない」から、中止犯である。しかし、欲しないことがサイコ並の恐怖から由来すれば、それは「見れない」ことに転化する。それはもはや見ることができないのでる。まさに、この公式の無内容さが露呈する。彼は、見たいけど見ることができないのであろう。とすれば、障害未遂である。
 このフランクの公式から、S仙人の結婚問題を考えると、彼は結婚願望があることは確かであり、しかし、結婚できないのであるから、障害未遂である。おそらく、生涯未遂、否、生涯予備、否、生涯犯意で終わることだろう。もっとも、結婚=幸福などという等号はまったく否定されているのが通説・判例だから、意思形成で打ち止めでもいいだろう。ただ、不能犯でないことだけを祈るばかりである。

ジャーニー to 地上の星(中島みゆき2000)


2002年04月22日(月) パラ(ダイム・サイト・ダイス)

 昨日、芳林堂で関西のR大のI塚さんに偶然会った。ご家族は馬場で単身赴任である。うちの長男と彼の長女が戸3小で同学年だった。彼は個性溢れる刑事政策学者である。パラダイム転換者である。新たな視点を常に追求している。旧態依然の学者とはまったく異なる。
 修復的司法もパラダイム転換として主張する論者も多い。しかし、私は、修復的司法はパラサイト司法であると考えている。つまり、刑事司法にぴったりくっつく、小判鮫のような司法である。刑事司法あっての修復的司法なのである。「あなたなしでは生きていけない」というテレサ・テンの世界である。「ウイズアウト・ユー」とくると、最近ではマライア・キャリーか。極道での「お前がいなければ駄目なんじゃ」という、かたせ梨乃のヒモか・・・。
 いずれにせよ、アンチテーゼとして意味がある。これでは生温いという批判もあろうが、すべてが修復的司法になったら、こりゃまた「住みにくい世界」となろう。すべてが「刑事司法」が住みにくいのと同じである。こういう例は枚挙にいとまがない。アンチテーゼとして重要なのであり、それが中心になったら疲れるだろうなというものは多いのである。たとえば、4人で食事をし、全員が親父ギャグを言っていたら地獄である。その中の1人が言うから、和むのである(寒いから暖房が必要な場合もある)。だから、G代K事法のI藤さんとT中さんは、私とK大のI田さんと「牧舎でイート」だから疲労困憊なのである(4人中3人がギャク好きである)。
 『刑訴の争点』の3犯(版)が出た。10年ぶりの改訂だが、時代の激しい流れが看取できる。「被害者」という言葉がこれほど多く出てくることを10年前に誰が想像したであろうか。M尾先生の「刑事訴訟の課題」には泣ける。素晴らしいパラダイム学者である。常に大きな枠組みで捉えられる学者である。末尾に、修復的司法が出てくる。
 「知」というものにこだわっているか否かが重要である。「知」と無関係の学者がいかに多いか・・・そういう人を学者とはいわないが。「知」(痴ではない)への欲求だけは死ぬまで持続させたい(持続する志)。
 ともかく、パラダイム転換を目指しつつも、転換されたら「こまっちゃうなー」だから、所詮、パラサイトの身であり、そういう状態が美しいのであるから、その世界はパラダイスになるというわけである。やっと、標題に辿りついた。パラダイム転換が必ずしもパラダイスにならないのである。
 おまけ=W大は馬鹿駄大学、それではK大は?、とI田さんに聞いたら、「低脳未熟大学」だそうである。共通点は、どちらも「阿呆学部」であることか・・・。

ジャーニー to パラパラ





2002年04月21日(日) アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリー

 予想通り、授業開始で忙しく、奇行も休みがちとなってしまった。800人の授業を2つもっているのは何ともしんどいが、それなりに快感もある。前にも言ったが、自分が講義で楽しむことが基本である。1年の刑総はまだ皆緊張しているのか、あるいは真面目なのか、シーンと静まり返って聞いているから、かえって疲れる。それをほぐす策が、「携帯を鳴らした学生はその場で射殺する」というセリフである。ドット笑う。「私は、死刑廃止論だが、私刑賛成論である。」と。その他にも多数あるが、小出しにしておこう。2年の刑各は、既に私を知っているから、和みを感じる。今年は、両講義とも後の質問が多い。中には、鋭い質問もあって元気づけられる。1年生で、教科書の先をどんどん読んでいて、「保障人説が分からないのですが。」とくる。これには驚愕である。まだ2回目である。「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」というCMを思い出した。こんなに真面目だと、あまりギャグをいうと叱られるかもしれない。しかし、自然発生的に出てくるからしょうがない。「ベッカリーアは、パン屋さんではない」というのも言ってしまった。
 三田の刑法Ⅲは、マニアックにやれるから面白い。I田さんもそれでいいとのことだった。この間は、構成要件についてだらだら喋った。思わず言おうと思ったが言わなかったセリフは、「構成要件とはじめてネーミングしたのはとても背の低い人でした。その名も、Klein。」。受けたのは、今月号の「書斎の窓」に出てた、A田さんの「目的的行為論序説」の紹介の借用である。戦後、目的的行為論の導入者は、平場安治、平野龍一、福田平で、「三平」といわれたということである。「さんたいら」と言ったそうだが、私は「さんぺい」と言ってしまった。ドット笑った。林家三平のことかと思ったら、息子によると、「さんぺーです」(三瓶)という面白い人がいるとのことだ。これは、以前の「あたり前田の・・・」と同じで、錯誤である。異なる構成要件間の錯誤か。笑ったということを結果とすれば、因果関係の錯誤か。「結果とは何か」は依然として難しい。体系的地位、結果概念の内実、被害(PTSDなど)との違いなど・・・・。学会ワークが楽しみであるが、M原君も大変な任務を課されたものだ。何せ、土曜日に徹底的に飲むわけにはいかないからだ。
 今日の収穫は、いろいろあるが、N村春夫先生によると、カリフォルニア州で昨年1月から「アイム・ソーリー法」が施行されたことを聞いた。交通事故賠償で、アイム・ソーリーというと責任を認めた証拠になるというのをやめ、その言葉を証拠にしないことにすると証拠法で定めた。謝罪するという自然な感情を大事にしましょうと法律で決めることがアメリカらしいかもしれない。「すいません。すいません。」とよくいう日本人をけなす人もいるが。これで、人と人とが和むことも否定できない。こういう日本的あるいはアジア的なるものをことごとく拒否し、すべて欧米化だーという意見も疲れる。「すいません」という言葉を使用せよとか、使用するなとか、なぜ画一的にしたがるのか。使用したい人が使えばいい。多元化社会を唱える人が、欧米化であるべきとか、日本は日本だとか一元化の主張をしていることが不思議である。
 私は、枕詞として、あるいは、注意喚起機能として、ときどき使っているように思う。例の回転寿司でも、突然、「アワビお願いします。」というよりも、一生懸命働いている板さんに、「すいません」とこちらに注意を向けた後に注文した方が効果的なのである。エレベーターでも、突然「降ります」ではなく、「すいません」といえばそれで分かる。しかし、その時、相手が「何かしましたでしょうか。」と聞いたらどうしたものか。おそらく、欧米では、そういう会話になるのだろう。「あうん」だけでは、おそらくこれからはやっていけないだろう。適度な国際化が丁度いいかもしれない。しかし、西原研究室3大頑固人との会話は、欧米人との会話と同じだろう。「すいません」「何が」というパターンである。
 この新しい日記帳は字数に限界がないのであろうか。もうやめておこう。
標題は、確か昔のひげ剃りのCMだと思うが、正確なところは完全に失念した。おそらく知っているのは、A大の髭倉さんだろう。もっとも、彼は、髭を剃らないから、今度合宿で寝ているときに全部剃ってしまおうか。暴行と傷害の区別の実証的研究である。しかし、研究会中に寝て、夜は寝ない動物だから、その機会は無さそうだ。クリームソーダ。

ジャーニー to 総理(掃除)大臣


2002年04月14日(日) 新訂『刑法奇行』

 完離任さんの英断(地下鉄)により、何と新訂版となった。恐る恐る書き込んでいる。
 昨日は、例のゼーア翻訳ワーキングであった。9号館6階の共同資料室(中野先生との想い出の部屋)で、N村先生、M川君、K澤君、Y野さん、N部さん、M崎君、K林君らと、カメのようなスピード翻訳だ。N村先生と私の都合で早めに切り上げ、例の早稲田グッズ兼カフェ125に行った。その後、成文堂に行くと、Uカツさん、H酋長のT子さん、そして、私の3・4年ゼミのN道君、新3年の女の子(名前をまだ覚えていないが)などが2階にいて、ワイワイである。もちろん、T店長やH前屋さんもいた。しばらくすると、T大のM藤君が自転車で登場である。ワイワイの2乗となる。外にでると、O川助手登場である。偶然とはいえ、人が人を呼ぶ・・・人人ぴっちゃんである。
カフェ125によって、あのスポットが活気づいていることは確かだ。成文堂の2階でお茶やコーヒーを飲む機会も減るかもしれない。ひょっとすると、私が毎日のように2階でたむろすことのダイヴァージョンかもしれない。
ともかく、成文堂がわれらのコミュニティの基盤であることは、nach wie vor 変わらないことである。やはり、T店長の人となりの帰結だと思う。ミスター巨人ならぬ、ミスターかすがいである。ある人は人寄せパンダと揶揄するかもしれない。私もときどき言われる。外見上は、T店長の方がパンダに似ているだろう。そういえば、新早稲田キャラの大熊も、O総長に何となく似ている。刑法学者もかつては、泉二新「熊」とか、草野「豹」一郎とか、大場茂「馬」とか、「熊」倉武とかいたなー。さらに、辰や龍もいるのである。亀もいた。まさに、zoo、zooか。
まあ、いずれにせよ、成文堂そしてカフェ125周辺に群れていることは否定できない。M澤批判のように、群れたがるメダカかもしれないが、やはりこの群には言いようのない至福を感じるからどうしようもない。ぎすぎすした社会の中で最後に残された楽園かもしれない。この楽園が怠惰や退廃に至らぬよう気をつけなければ・・・。
教科書も書いていないのに、刑法奇行の新訂版が出てしまうなんて・・・・、クリープのないコーヒー、否、コーヒーのないクリープかもしれない。

ジャーニー to Lehrbuch des Strafrechts



2002年04月11日(木) 慶早戦と早慶戦

今日から授業開始だ。といっても、非常勤の慶應と東洋である。今年の慶應は、三田の刑法Ⅲという、恐れ多い授業である。N原、N野先生がかつて担当し、それ以前は、F田のペーさん、そしてずっとIさんである。
慶應は、院時代から週1回合同演習に参加していた。たしか、Iさんはまだ助手だった。M澤、N谷、K藤、Y富、そして、院生のA部、G藤女史などなど・・・。みんな輪(和?)になっていた時代か?
教員室で、N山Z房先生にお会いした。刑法演習を昨年から担当されている。今日はガイダンスだから早く終わりましょうと互いに笑ったが、1時間ほどやって教員室に戻ってもN山先生は不存在で、ちょっと本を読んで12時頃になってもまだであり、やはりまじめさが私と決定的に違うことを再認識した。早速、M藤君に電話して、東洋で昼飯を一緒に食べることにした。
刑法Ⅲは、まだ登録前だからかもしれないが、100人程度でアットホームな感じだった。キャンパスも落ち着いている。
これに対して、わが早稲田はどうだ。明日からの授業。おそらく、終電間近の新宿の歌舞伎町であろう。人による渋滞である。今日も、成文堂の2階は混雑きわまりなかった。他人とぶつかり合いながら生きていく早稲田らしいかもしれない。
そういえば、成文堂のとなり(大隈会館入口横)に早稲田グッズの店兼コーヒーショップができた。昨日、早速入って大熊のマスコット人形を買い、コーヒーも飲んだが、快適であった。最近のコーヒーショップ顔負けである。外にもテーブルがあり、外国風である。
大熊を娘にプレゼントとしてあげたが、ほとんど反応はなく、「これなーに」である。かみさんは、早稲田らしくダサイという。慶應はミッキーよ、という。「なんでこうなるの」と欽ちゃんの番組を思い出した。慶應と早稲田の違い・・・。ミッキーと大熊の違いか。大熊はふくちゃんの後のマスコットである。
125周年まであと5年か。ロースクールが2004年、新8号館が2005年、これから、激動期かもしれない。Iさんは、ロースクールの建物を既存の建物を壊して建てるしかなく、火をつけて燃やそう・・・、これがほんとの「放火大学院」と言っていたが、このギャクはいい。私は、常日頃、ロースクールよりハイスクールが基本的に好きであると言っている。
そういえば、昔のLaw Schoolという雑誌は面白かった。あのまま、今日まで続いていれば、先見の明の雑誌だったかもしれない。

いずれにせよ、早と慶でがんばらねば。かつて、西原先生は、他の大学には負けてもいいが、慶應だけには負けてはならぬ、と言っていたが、このウイットには泣ける。
東洋も正門からスロープが完成し、川が流れ、登り切ると井上円了の銅像がある。昨年まで、中庭にあったからご自分で歩いてきたのだろう。やはり妖怪の研究家らしい。
それぞれの大学が生き延びるためにいろいろやっている。みなが幸せになる方法はないものか。そしてまた、どのチームも勝つわけにはいかないのか。ロッテに勝たせてやらねば・・・。

ジャーニー to ジャイアンツ愛(ただし、原を除く)


2002年04月06日(土) ラーメンI蘭

今朝、六本木の人気ラーメン店「I蘭」がテレビで紹介されていた。その瞬間、奇行に寄稿しようと思った。というのは、カウンターに一人一人の間に遮蔽措置が執られており、前方ものれんが掛かり、店の人とも顔を合わさず、ボタンで注文できるシステムなのである。
 これはトンデモナイ店である。孤独は山になく、町にあるという言葉を思い出した。他人とのコミュニケートを一切否定する店である。他の客がわさわさいて、店の人のつくっている姿を見て、できれば会話があって、明示あるいは黙示の意思疎通が形成される。これが、社会である。他人に見られないことが利点だとシャーシャーと言っていたOLもいた。自分が他人に見られ、自分も他人を見るというのが社会の前提である。ひょっとすると、一方的に、他人を見ることはいいというのなら、それは、公園に出没するのぞき魔である。あるいは、自分だけを見ていたいということなら、わが家のウサギの眼前に鏡を置くことと同じである。

 Personになるためには、自己の行動と他人の行動とを相互検証していくことが必要である。あるいは、ラーメンそれ自体に集中したいのかもしれない。しかし、みんなで「うまいねー」と一時的なコミュニティが形成できないものか。早稲田松竹も廃館らしい。ビデオがあるからか。しかし、映画は見知らぬ他人と感情を一時的にせよ、共有することが素晴らしいのである。ニューシネを見よ。

 もっとも、同じ感情というと、ナチ時代を彷彿するからいけない。バラバラであっていい。しかし、自分はまったく感動しなくとも他人が感動して涙している姿を見ることが重要である。「目で見る何とか教材」というシリーズがあるが、まさに、「目で見る社会」である。

 私は、あまりおいしくなくても、コミュニケートできる店に行く。早稲田周辺では、もちろん、フレンドや牧舎、やぶきや早稲田軒、たかはしなど。「毎度」という言葉が好きである。東洋大では、正門前の「ケルン」という喫茶店である。ときどき手作りのケーキも他の客に内緒ででてくる。週1回の非常勤もケルンに行くのが主となっている。
 そこでの世間話が重要である。丸山真男も「政治学は近所のおばさんとの会話の中にもある」といっていた。まあ、M川君のいうように、単なる寂しがりやだけなのかも知れないが・・・。

 爆発的に喋る、S大に移ったS君によれば、1日に喋る量が各自決まっているそうである。彼は、あまり喋らなかった日は、布団に入って一人で喋りまくったり、歌ったりするそうである。これに対して、S仙人(R大所属・・・念のため)は、この量が極端に少ない。1日一言「定食下さい」だけである。もっとも、研究会や私といるときは結構喋る。しかし、その後ドット疲れて、ボーとしている。何か小動物的であるが、彼は実は「ネアカ」である。一人で人生を享受している感がある。宮沢賢治も彼には負けるかもしれない。

 ともかく、「人間と社会の真っ只中で刑法学の旅がはじまる」のである。どこかで読んだような・・・(別冊法セミ『法学部でいこう!』参照)。
来週から授業だ。今度は夏休みを期待するしかない。

ジャーニー to ジャイアンツ愛(想が尽きる)


2002年04月05日(金) 想い出づくりと歴史の重み

好きな女優の一人である田中裕子、そして確か森昌子ともう一人名前が出てこない(田中健の奥さんか?)の3人が主役だった「想い出づくり」というドラマが昔あった。
しかし、前に言ったように、想い出をつくるために生きているのではなく、結果として、事後的に振り返って想い出が存在するのである。もっとも、歴史の重みはやはり並大抵のものではない。
一昨日、文流でN村先生、H井先生、M川君らとこの点について若干議論した。「代名詞で語り合える仲」の重要性を私は説いた。「ほら、あの時のあれは面白かったね」というようにである。そういう人を大事にすべきである。これは歴史の重みである。恋人と喧嘩した場合、夫婦喧嘩した場合、その他、近しい人とすれ違いが生じた場合、「代名詞の仲」を基本に据えれば、よりが戻るのである(決定的破局はこの基本を超えるものである)。

先日、院入学式に出席した後(壇上で居眠りをしたので、帽子が落ちないか心配だったが)、娘のピアノ演奏会(グループ毎にやる、たいしたものではないが)を聞きに、中野ゼロホールに行った。親たちは夢中だ。我先にビデオ録りに突進する。その中に私の姿もあった。しかし、誰のためにビデオをとっているかというと、現時点では子供のために想い出づくりという感じだが、小学校高学年になれば、本人にとってうっとうしいビデオに変わる。事実、長男のビデオは全何巻あるか数え切れないが、本人はまったく関心がないのである。
親のためにあるかというとそうでもない。こちらもまったく見ない。とすると、そのときどきに親がビデオを撮っていた事実が重要なのかもしれない。後は野となれ山となれか。これはまさに、シジフォスの生き方ではないか。今ビデオを撮ることそれ自体に意味があるだけということである。

K崎弁護士も千晶姫のために付き添っていた。よく来るなーと思うと同時に、親とは悲しく美しい存在だとつくづく思う。
そういえば、テレビのコマーシャルで、「いつから親になったのだろう」と述懐するシーンがあった。自分が親に海に連れていってもらった情景と今、自分が子供を海に連れていっている情景とが構成要件的に符合するのである。身分犯だから、65条1項で違法は連帯する。そして、家族も連帯するというわけか。65条に家族愛を見た。
ジャイアンツ愛なのである。

ジャーニー to 3勝目


2002年04月02日(火) 日本語とはなんだ

また日本語ブームか。「声に出して読みたい・・・」とか「常識として知っておきたい・・・」とか「三色ボールペンで読む・・・」とかである。昨日3冊まとめて買った。
「常識として・・・」は結構面白い。普段何げなく使っている言葉の語源を明らかにしている。「箱入り娘」(どんな箱に入っている?)、「駆け落ちする」(歩いていっても駆け落ちか?)、「刺身」(切るのになぜ刺すか)などなどである。
とりわけ、「悩殺」は、20年前からよく使っている言葉だ。たとえば、叶姉妹が殺人を行った場合、悩殺の共同正犯である。ドイツの浴槽事件が想起される。
落語に、毒まんじゅうで人を殺すことを「暗殺」というのがあるが、毒まんじゅうを郵送して殺害する離隔犯の説明の際に使用可能である。
さらに、仕事をたくさんやらせて過労死に至らせることを「忙殺」、ギャグが受けない結果、ショック死してしまうことを「黙殺」・・・、まあネヴァーエンディングストーリーとなってしまう。

言葉に関心がありすぎることから、ギャグが生まれる。
しかし、はじめに言葉ありきではなく、業(Tat)ありきかもしれない。
金作先生はTatを所為と訳した。行為と結果を含む概念の訳としてうまいが、犯罪事実でもいいだろう。行為支配は実は所為支配なのである。S仙人の(決して日の目を見ない)修論はそうなっている。しかし、複数にすると、「諸所為」となってしまう。
諸所為と仕事がこなせるといいのだが・・・。

ジャーニー to Japanisch


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