2002年07月20日(土) |
電車に揺られて・・・・ |
ちょいと用が合って、三重県の津まで行ってきた。
長い長い間、電車に揺られてた。
電車に長い時間乗るのって、嫌いじゃない。
その昔は、JRの一日鈍行乗り放題の「青春18きっぷ」というのを使って、
あっちこっちに出かけたものです。
もっとも遠いのが新潟と広島かな。東京には、それでしょっちゅう行っていた。
たのしかったなあ。と色んな事を思い出しながら、電車に揺られていた。
で、思いついたことを、たらたらとノートにメモしていた。
つぶやき1
電車に乗って、いろんな知らない人を眺めている。
ここにいる、すべての人を知らない。
人それぞれに、複雑な感情を抱え、大きな荷物を抱え、
苦悩を抱えて、生きている。
せめて、この車両に乗り合わせた人だけでも、
今日一日、幸せに生きられますように。
些細な日常の中に存在する、うれしい事を発見することができますように。
ひとりの人が、幸せであるという事は、ほんとうにすばらしい。
そこからは、やさしさが、ひろがっていく。
でも、幸せって、なんだろうかと思ってしまう。
世界中の人と、幸せをわかちあえればいいのになあ。
つぶやき2
ネガティヴな感情っていうのは、
過去に縛られ呪縛されたこころから生じている。
ネガティヴをポジティブにきりかえるためには?。
まずは、こころを切り替えることだけど、
本当の意味でいえばね、こころを切り替えるだけでは出来ないんだ。
ものごとをネガティヴに捉えてしまう、
その根源を手繰り寄せてつきとめなければ、変容は訪れない。
こころを苦しめるものは、なんだろう。
深くこころに降り立って、その苦しみを抜き去ろう。
どちらにしても、すべては過ぎ去った時の物語だ。
未来を歩くためには、過去のわだかまりを清算して、
現在の胸のつかえをとらなければならない。
つぶやき3
いっぱいいっぱい抱え込んで
できないことだらけで
だから広がっていかないんだよぉ
こころも 仕事も いっぱいいっぱい
そんな荷物を ひとにぶつける
そうじゃないよぉ
荷物を持たせ合うんじゃなくって
お互いが
「相手の荷物を持ってあげたい」
「手伝いたい!」
そう思える間柄を
こころの信頼を創らないといけないんだよぉ
それも、愛
それって、こころの問題
いろんな人と想いをわかちあっていくためには
抱え込んじゃいけない
どんどん手放していく
いさぎよさが必要なんだって そう思う
こだわりをすてて、抱えている荷物をおろしていくんだ
つぶやき4
こころの贅肉を削ぎ落とす
新しい刺激を心臓に送り、血流を激しくして
血管にヘバリツイタ、精神のヘドロを洗い流す
精神の血脈をサラサラにしなければ
こころだって動脈硬化、
ヘドロのつまった血管がいつの日か心筋梗塞をおこす
ムダな荷物を捨てるのだ
ココロの中に溜まっている、カコのヘドロを
ヨクボウとダキョウとシュウチャクとカンチガイのアイを
贅肉を削ぎ落とし、無駄なものをすべて手放す
荷物が軽くなった時
そのときじゃないと出会えないものに
はじめて 出会うことが出来る
朝の散歩を昨日から復活した。
まあ復活といっても、その前に散歩をしていたのは、たったの一週間だけど。
朝早く起きて歩くということは、私にはとてもあっているみたいだ。
意識を内側に向けながら、そして自然を眺めながら歩くということは、それ自体が瞑想になりうる。
さまざまなインスピレーションや、忘れていた感覚が蘇ってきた。
散歩をしていた一週間は、食べ物にもとても気を使い、身体に悪いモノを一切取り入れていなかったので、こころも身体も冴えていた。
その恍惚感にも似た幸福感を忘れられずに、また朝夕の散歩をはじめた。
今朝は3時半に目がさめて、仕事をしたり、本を読んだ。
4時30分頃、だいぶ明るくなってきたので、出かける準備をした。
風が気持ちいい。
大きな橋のたもとにつく。国道沿いの道を歩いているとき、いつも思う。
この排気ガスをきれいにしてくれているのは、木々なんだなあ、と。
淀川の茶色く汚れた水を見ながら思う。
どうすれば、これほどまでに汚すことが出来るんだろうか、と。
別のところにも書いたけれど、沖縄で生まれ育った私の息子・天流川は、
汚れた川を見る度に、悲しそうな顔をする。
沖縄のきれいな海を想い出して、ため息をつく。
「どうしてこんなに汚しちゃったんだろう。
どうしたら、淀川の水をきれいにすることが出来るんだろう・・・、」
どぶ川を見て心を痛める王子さまは、そうつぶやく。
「淀川は汚いね、日本の海は汚いね。」
そのセリフをはきながら、この水を汚したのは自分じゃないと思い、
こんな風にしたのは誰なんだと怒っている自分がいる。
私も、加害者のくせに。地球を汚している人間のひとりだというのに。
この汚れきった水を、美しい水に戻すことをあきらめている自分がいる。
彼のつぶやきで、いつも私は引き戻される。
この水を汚しているのは、私のこころだ。
きれいにすることをあきらめた私たちが、この水をここまで汚したんだ。
ほんとうにどうすれば、この汚れきった水をきれいに出来るんだろう。
人のこころの汚濁を取り除くにはどうすればいいのだろうか。
それでも、朝日を浴びる川面や、夕陽の映える川面は、キラキラと輝いてとても美しい。
この水がきれいだったのは、どれくらい前のことなんだろう。
そんなことを想像しようとしても、想像することさえもできない自分がいた。
私の貧困な想像力では、遥か遠い昔の、この川が自然のままに流れていた姿を思い浮かべることさえ出来なかった。
森になりたい。
風に吹かれて、太陽に灼かれ、コンクリートで塗り固められた大地を歩くたびに、そう思う。
かつては美しかった、その川を見るたびに、森になりたいと、そう想う。
二酸化炭素を吸い込んで、きれいな酸素を吐き出している木々。
その根元では、あらゆる生命がいきいきと暮らしている。
その葉先には、鳥たちが遊び、歌い踊る。
人として生きながら、木になりたい。
そんなことを思うのは、生への冒涜だろうか。
排気ガスやスモッグで汚れた空気を胸一杯に吸い込んで、
この肺で美しく濾過し、せめてシンプルな二酸化炭素にして吐き出したい。
この社会が生みだした汚辱にまみれた複雑に入り組んだ感情を飲み込んで、シンプルなものにして世界に還元したい。
怒りや恨みや苦しみや悲しみを、深く深く肺の奥、こころの奥まで取り込んで、
次にそれを吐き出すときには、愛や慈しみや優しさとして、この空気の中に送り出したい。
やさしくてつよい木のような、森のような、
そんな人間になれればいいのに。
2002年07月12日(金) |
矛盾の上に咲く花を 根っこの奥から抜きましょう |
カミングアウトします。
ほんとの私は、とんでもないヤツ。結構。 マジで。
うちの姉は、私のこのサイトを見て、「あんたじゃなーい」という(笑)。
このサイトのファン(が、そもそもいるのかは疑問やけれど)は、
生の私とあっても、違和感があると思う。
生きること、言葉で話すこと、文字で表現すること、
どうしてもちょっとづつさ、違いが出ちゃう。
でも、どれも、私。どの自分もちゃんと好きでいたいなあと思う。
今は、まだ全部を好きではいられないから。
足元をちゃんと見つめながら、それでいて大きな世界も見つめていたい。
天と大地の両方のバランスが取れてこそ、ほんとのかっこいい人間になれると思うから。
かっこいいものはかっこいい。好きなものは好き。
ちゃんと、素直に好きなものを認めて生きていきたい。
私はすごくカッコつけたがる人で、「自分」というものをワクにはめてる。
それから外れているものは、あんまり認めないか、好きでも公言しないで生きてきた。
でも、そんな私の生き方が一番カッコ悪い。
だから、もっともっとさらけ出そうと思うのさ。
沖縄の若きインディーズバンド「Mongol800」が好きだ。
へへ。 決して若いフリではない。
2枚目の「MESSAGE」はほんとにすばらしいアルバム。
まあ、知らない人はいないでしょうってなくらい有名なアーティストだね。
モンパチとは何度か仕事で一緒になったんだけど、ファンなのはやっぱり隠しといた(笑)
「矛盾の上に咲く花」という曲がある。
すばらしい歌。ほんとうにいい歌。
歌詞を紹介しようと思ったけれど、この曲はメロディーにのってこそ、伝わるのだとおもう。
だから、ここでは紹介しない。
私の胸を鷲掴みにする「矛盾の上に咲く花」
興味のある人は、CD屋に走ってケロ。
最近、ミスチルもいいなあと思う。デビュー前は、なんじゃこりゃ?って思っていたんだけれどね。
最新アルバムの「甦生」、ほんとうに名曲。
叶いもしない夢を見るのはもうやめにすることにしたんだから
今度はこのさえない現実を 夢みたいに塗り替えればいいさ
そう思うんだ かえていくんだ きっとできるんだ
<甦生>
青いって言われたって、夢見がち!なんて言われたってさ、
夢を見なければ、現実を動かしてはいけない。
理想がなければ、実現できない。
だから、私は、こういう言葉にはっとする。
そして、こういう曲を若い人たちが聞いているってことに希望を抱いている。
アーティストは、その胸の中に存在する抑えきれない想いを、カタチにする。
それが、文字として出てくれば作家、音楽として出てくれば音楽家、絵として出てくれば絵描き。
でも、私は思う。
いわゆるアートと呼ばれている表現をしている人だけがアーティストなのではないんだって。
ほんとうのこころの叫びを、その人なりの表現をすることがアートなんだ。
数学で表現する人、野菜づくりや花づくりで表現する人、建築、土木、清掃、なんでもあるさ。
ほんとうに大切なのは、結果じゃなくて、カタチじゃなくて、なにを伝えたいか。なにを表現したいのか。
この世界に住む、すべての人が、そのこころの中の抑えきれない衝動を、
その人にあったカタチで表現するアーティストになれば、
世界はどんなに美しくなるだろう。
あなたは、なにを、どう、表現しますか?。
2002年07月10日(水) |
新月の祈り 7日京都無事終わりましたよぉ。 |
今日は新月だ。新月の日は断食をするととてもいい。
のだけれど・・・。
でも、今日の私は根性なし。自分の欲望に負けた。テヘッ。
だめねぇ。大きな目標がないと、気合いを入れられないんじゃぁ。
日常こそ、自分との大いなる闘いの連続なのに。
さて、7日京都での大イベントが無事に終わった。
インドから国防大臣がやってきて、壊れた武器を喜納昌吉に手渡した。
人を殺し、こころを傷つけ、涙を流させ、恨みや苦しみを魂に刻みつけてきた武器。
それを、楽器という平和を象徴するモニュメントに変容させるために、
パキスタンと一触即発状態であるにもかかわらず、
インドはこの平和イベントに賛同し、武器提供第一弾になってくれた。
フェルナンデス国防大臣はインド国内では、様々な批判を受けたという。
それも当然だ、これから戦争をしようかという国のそれも国防大臣が、
武器を放棄するかのような行動をしたのだから。
だけど、だからこそ、私はその国防大臣の勇気に敬服する。
日本の同じ立場にいる人が、それをする勇気があるだろうか。
私は、別になにを手伝ったわけでもなく、そこに参加して祈りを捧げただけだ。
このセレモニーのために、5日間の断食と、約一週間の節制生活を送った。
誰に頼まれたのでもなく、自分でそう思ったからやっただけ。
7日の「すべての人の心に花を」は、すごかった。
ひさびさに、魂の叫びを聞いた。
喜納昌吉が演奏をはじめた途端、国宝の知恩院の御影堂には、
やさしくそして力強い風が吹き抜けていった。
そして、数羽の鳥が負けじと歌いはじめた。
祈りながら、喜納昌吉の歌を聴いていた。
いつしか涙が頬を伝っていった。
感情とはまったく関係なく、水が流れていく。
この一週間かかえてきた、沖縄で8年間かけて培ってきた
いや多分生まれてくることを決めたときに抱えてきた想い、
その言葉に変換することさえ出来ない祈り。
それが通じたことを、私のこころが受け止めていた。
その風や、大きな存在とひとつになっているこころが
私の身体に、涙を流させていた。
セレモニーが終わったあと、しばらくの間ぼーっとして、
なにも話すことが出来なかった。思考が言語にならないのだ。
ただ、至福感だけが私の胸を満たしていた。
なんで、この日がそれほどまでに重要だと私が感じたのか、
それだけ集中して祈りに入っていったのか、
この一週間になにがあり、セレモニーの間になにが起こり、
終わってから、なにがどう変化したのか。
書きたいけれど、まだかけそうにない。あまりにも、とっぴすぎて(笑)。
ま、そのうちにね。
今日は新月、あのタイの夜から月がひとめぐり。
新月の日は、自分自身と語り合うには、とても良い日です。
こころを落ちつけて、深く呼吸をして、瞑想でも祈りでも何でも、やってみてね。
ほんとの自分と再会してください。
天は光 地は闇
すべての生命は その両方がなければ 生きてはいけない
自分の身体の中で 天と地を交わらせ 光と闇を融合する
人間は、虹なんだ。
空と大地に橋を架ける虹なんだよ
なぜ、人間が二足歩行なのか、知ってる?
それはね、空と大地を結ぶためなんだ。
両手を高く掲げて、両足は大地を踏みしめる。
避雷針が、雷の強烈なエネルギーを、
ただ一点に集結させて大地に注ぎ込むように
人の身体は、天地のエネルギーをその体の中で和合させて、天地を結ぶ。
ヒトの身体はね、瞬間瞬間に新しいエネルギーを生み出している。
ふたたび世界に放射させるために、天地からパワーを吸収している。
ぼくらは、地球のエネルギーの増幅体なんだ。
愛に生きていれば、そのエネルギーは愛として増幅される。
苦悩に生きていれば、そのエネルギーは苦悩として増幅される。
憎悪に、悲しみに、苦痛に、怨念に・・・・。
あなたのこころが世界を創り出している。
世界をかえようと思うのは簡単なこと。
あなたが、そのこころから世界へと放射するエネルギーを
愛にかえる。
ただ、それだけでいい。
だから、ぼくは言い続けようと思う。
まずはあなたが。
こころの底から、しあわせになってね。