スタンドから眺める木漏れ日
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朝日新聞の1面コラム 『天声人語』を書き写すようになって、丸5年が経った。 同じく1面の『折々のことば』を名刺カードに書き写すというスタイルも、 今年に入ってようやく定着した。
なぜ、こんなに人の書いたものばかり書き写しているのか。 そもそも、天声人語を書き写し始めたきっかけは東日本大震災だった。
未曾有の災害から1年が経ったころ、『あの日の新聞』はどういうふうに 伝えていたのか気になるようになった。 しかし、あまりに深刻な内容ゆえに大きく扱われた記事を読むのは 心身に支障をきたしそうでためらわれた。
そして、思い出したのが同じ文字数で異なる話題が日々綴られている天声人語だった。 書籍化されている過去の天声人語から『あの日』の(正確にはその翌日)のものを探して読んだ。そして、その頃から発売され話題となっていた『天声人語書き写しノート』を購入して書き写した。
ただ文章を目で追って読むのと書き写しながら読むのとでは、 頭の中への入り具合がまったく違う。 目で追っている場合は、文章が記憶に留まっていることは多くない。 書き写しながらだと、文章は1つの映像として残る。 ゆえに、何行目あたりにどんな文章を書いたのか印象に残っていることが多いのだ。
それからの私は、『その日の天声人語』を書き写すようになった。 自分が興味を持った分野が話題のときもあればそうでない日もある。 でも、取り上げられた話題にかかわらず毎日書き写すことで 自分が知らなかった世界が開けるような気がした。
そして、それは『折々のことば』にも通じていた。 書き写しながら、人の言葉に耳を傾ける。 それはつまり、人の心に向き合うということにつながっている。 そして、それを踏まえて自分の言葉で発信したときには 自らの心と向き合っているということだということに気がついた。
私はなぜ、人の言葉を書き写し続けるのか? その答えは、己と向き合う前段階であるにではないか。 細菌、そんな結論にたどりついた。
そろそろ、自らの言葉で想いを伝えなければ… そう思いながら、やはり今日も人の言葉を書き写す。 いつもと違うのは、本日開かれたパーティーで 2人のライター&ブロガーに触発されて こんな文章を真夜中に書いていることくらいか。
自分の言葉で、その日そのときの想いを継続して綴っていける人間になりたい。 そんな伝え手としての想いを強くしながら、今はその安住の地を探しているところだ。
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