ジョージ北峰の日記
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秋の夕暮れ あたりは既に暗く、ビルから明かりが漏れ始める。しかしなお薄青色が残る空に、薄い赤色を帯びた夕焼け雲が、黒い段だら模様を描き、高く張り付くように西の方に移動していく。 残照に輝く雲が余剰の光を吐き出かのように高層ビルを照らし始める。 暗くなりかけたビルの谷間に、反射した窓が青白く浮かぶ。
まるで深海に棲む大イカが集団で下界を見下ろしているようだ。
息をのむ光景に、道行く人は、思わずカメラを向ける。 夕暮れが私に、強い憧憬や畏怖心、時には懐かしさを思い起こさせる。 何故だろう?
人が思わず、カメラを向けるのも、私と同じ気持ちを共有していたからだろうか。
地球に、否、宇宙に生命が何時、如何して誕生したのか、いまだ謎のままだ。
現代は科学の進歩によって、何もかも分かってしまったように思っているが・・・・・。
だが生命の誕生については?
これまで人間が発見・発明してきたどんな科学法則・技術をもってしても、(ウイルスやバクテリアのような)小さな生命さえ、創出することが出来ない。
何時か生命を科学的に誕生させる時が来るだろうか?
何十億年前、地球か宇宙の何処かに生命が 誕生したことだけは確かだ。
しかし、それが何時、何処で・・・、いわんや誕生のメカニズムとなれば謎のままだ。
人がそんな知恵を獲得する日が来るだろうか(何十億年先に)? (ひょっとして、何十億年前に、誰かが生命を創りだいたことは考えられないか?)
何れにしろ、近い将来は人力で生命を誕生させることは絶望的とさえ言わざるをえないだろう。
実は、この絶望感こそが、私の夕焼け雲に対する憧憬や畏怖心をいだかせたことに関係があるのかもしれない。
夕焼け雲に「懐かしさ」を憶えるのは、何故だろう?
懐かしい父母や兄弟、あるいは故郷の景色とか自分の誕生などを思い起こす感覚に不思議によく似ている。
動物の子が親に安心して甘えられるのは、自分を生んでくれた親だからだ。 しかし意識もはっきりしない子が如何して自分の親を知るのだろう? 肉食動物が、如何して自分の子を食べてしまわないのだろう(勿論例外はあるが)。 それは遺伝的にDNAが決定しているのだろうか。
つまり親は子の、子は親の同一性を遺伝的に(無意識的にDNA)で認識し合っているからだろうか。
この論法を敷衍していくと、私のDNAも「自然の呼び声」を憶えているに違いない。
つまり、私のDNAは何十億年か前に自然の中で誕生したのだ。
生命の誕生は科学的には、謎に包まれた儘だが、直観的に私のDNAが、私が何処で生まれたか教えてくれたのだ。
私のDNAは、私の意志とは無関係に自然の命ずる儘に生き、何時の日か自然に帰る日を待っているのだ。
そして、今夕の夕焼け雲が、私に「DNAの意志」を呼び覚ませてくれたのだ。
DNA! DNAこそが意志の根源なのだ。
何時だったか忘れたが、子供のころ、近くの山に登った時、頂から西の方角に、突然燃えるような夕焼け雲が山の稜線を際立たせた。 山は薄紫に浮き、まるで墨絵のように見える。 名知らぬ鳥が、陽光を浴び、励まし合うように寄り添って飛んでいく。 又ある時は、 激しい夕立が通り過ぎると、垂れ込める雲の向こうに青空が、そしてその彼方に山並みが、まるで息を吹き返したかのように薄緑にくっきり浮かぶ。 山の端に近く低く垂れさがる夏雲は、沈みゆく陽光を精一杯吸い込んで、赤く黒くそして金色に輝く。 そして止めの雷が遠くとどろく。 DNAよ! お前の意思を私に伝えてくれ 私はお前の意思を大切にしてきたかどうか 教えてくれ
宗教、哲学、物理学、数学などのあらゆる分野で、世界の偉人たちが深い関心を寄せた言葉に「空」、「無」、「無限」がある。 何故だろう?
空(くう)とは何だろう。字義通りには「からっぽ」、数字で表せば「0、ゼロ」つまり「何もないこと」ということだろう。 しかし、「空」にはもっと奥の深い意味があるように思える。
般若心経にも「色即是空、空即是色」書かれている。 つまり、我々が目で見ている世界が「空」と言うのだ。 少し信じがたいが「空」は何もないという事ではないらしい。
「空」は仏教的世界観の本質を一言で表現する哲学的概念なのだ。
「空」と言う言葉の裏には、単に物質存在の有無を表すだけではなく、世界(宇宙)の起源に関わる、重要な意味が含まれているらしい。
現代の宇宙進化論では、世界の始めには物質は存在せず(空で)、ビッグ バンで多様な物質(素粒子)が一挙に出現したという。
つまり「空」とは現代科学においても、宇宙創生の元(もと)となる実 体ある概念なのだ。
しかし、科学がまだ発達していなかった時代、紀元前5世紀頃、既にこ のような概念が姿を現していることは驚嘆に値する。
仏教と言えば、世界を知る手段が「修行と悟り」に集約されるのだろう が、紀元前に、こんな簡単な方法「修行」を介して「空」の概念に到達出来 たのだろうか?
宇宙進化論の「世界の始源」と仏教でいう「空」とは同じ概念を共有し ているのだろうか?
「空」とよく似た言葉に「無」がある。 生死をかけた決闘、生命も失いかねない危険な局面に立った時「勝ち負けに こだわるな」「無の境地になれ」とか「無念無想になれ」とかよく言われ る。無の境地になれば自分の真の力が発揮できると言うのだ。
何故だろう? 無の境地になれば宇宙が自分に無限のエネルギーを与えてくれるということなのだろうか?
「無」という言葉も「空」に似ているが、 中国哲学、殊に道家の思想では、「無」とは人間の感覚を超えた実在で、宇宙の始原であり人間行為の規範的根源であるという。
聖人は無為、無知、自然の徳をもつという。つまり、聖人は元(もと)から、「無」の摂理を知り、人としての徳をもつというのだ。
「無」は現代科学の宇宙進化論でいう「宇宙の始源」と同義語ととらえ ても間違いなさそうだ。そして聖人こそ「無」を知る人と言うのだ。 勿論ここで使われている聖人は我々が思う「聖人」とは同じではないのだろ う。
いずれにしても東洋哲学では「空」も「無」もゼロを意味する単純な言 葉ではなく、宇宙のあり方、そのものをさす「概念」を持つらしいのだ。 私は「無」と「空」には何か違いがあるように思う。
それは、前者が人とはかかわりなく物理(客観的)世界のあり方を説明しているのに対し、後者は、人が「無」の世界を自分の力(修行)で知る形而上学的宇宙を指しているように思えるのだ。 前者が人間の考え方の有無に関わらず、宇宙存在の根源を表す言葉なのに対し、後者は修行を介して人間が知りうる観念的、根源的「無の世界」を表す言葉ではないかと思うのだ。
「空」も「無」も無限の宇宙とか無限のエネルギーなど「無限」との関係で語られることが多い。
「空」や「無」を考える上で、どうしても押さえておくべき言葉に「無 限」がある。
「無限」は昔から多くの哲学者、数学者、物理学者に興味を持たれた言 葉だ。 辞書によれば、単純に「無限」は、有限の逆、際限がないこととされてい る。
しかし「無限」という言葉には、時間的にも空間的にも、人間では計り 知れない大きな空間や、想像をはるかに超える巨大なエネルギーを感じさせ る「何か」がある。
「無限」について少し考えてみる。
例えば、某哲学者によると「世界」は時間的・空間的に「無限」だと言 う。 現代宇宙進化論によると宇宙は無限に拡張し続けていると言う。 「無限」という言葉には果てしなく大きな広がりが含まれているのだ。
無限に「果てしがない」という意味が含まれているなら、宇宙が無限に 拡張するという言葉には少し違和感を覚える。 宇宙が無限なら拡張する必要はないと思うからだ。 つまり、無限は拡張する必要がないから無限なのではないのか。 「宇宙が広がる」と言うと「無限の宇宙」にも何処かに線が引かれているような印象を受ける・・・・・・つまり有界な。
数学で、無限と言うと、集合論で有限集合と無限集合がある。 100までの自然数の総数(量)は、偶数や奇数の総数(量)はそれぞれ50で 自然数の1/2倍である。
しかしそれぞれを無限に迄拡張した無限集合を考えると自然数も奇数、 偶数もそれぞれの集合の大きさは同じだと言う。
なるほど自然数、奇数、偶数を独立した無限集合だと考えると、その理由は分かるが、ほんの少し疑問に思うのは自然数を「ある無限の範囲内」で考えると、その内部を構成する奇数と偶数は無限集合ではあるが、それらの集合は1/2とは言えないのか。
つまり偶数・奇数の集合は「自然数集合」内に含まれる部分集合で、それぞれが「自然数集合」内に含まれている限り、その大きさは1/2の無限集合である、と言えば、それは誤り・・・・・それは「無限」と言う言葉の何処かに「有界」を意識してしまっているのだろうか。
数学の無限小の問題を考えると、「変数xの値が限りなく0に近づくと き、yの値もまた0に近づく」と言う表現は正しくないらしい。例えば0.11 と0.10の間にはやはり無限の数字があるので0.11から連続的に0.10に到達し ようとすると無限の距離を歩かなければならない。
無限の距離を飛びこして次の数字に移ることは出来ない。 つまり「近づく」と言う言葉に、数学的な意味での「連続」を否定するニュ アンスが含まれているのだ。
無限には「連続的で巨大な広がり」といったイメージがあるが、数学の 「無限」には大きさ(サイズ)は必ずしも関係ないのだ。
時間にも連続的で無限というイメージがある。 時間は連続的に経過しているというが、「数学での連続」のように、aとb の時間の間に無限に経過する概念はないのだろうか。 もし無限連続の時間があれば、年を取らずに済むことになるかもしれな い。つまり1歳から2歳の間に無限に経過する時間があれば永遠に2歳になら ずに済むのではないか。
経験的に言えることは、年を取るということは、時間aと時間bの間には無限 に連続する時間はないのだろう。
つまり、数学の連続には無限小の概念があるが、同じ連続と言っても時間 の連続には無限小の概念はないのだ。 (しかし、厳密にはそれで正しいのだろうか?) 「無限」にもいろいろあるということなのか。
私が考える「無限」も「空」や「無」と同じで、その周辺は曖昧模糊、霧 の中を見ているようで、何かすっきりしない感が残る。
無限は「空」や「無」の概念に包含されるのか?それとも逆か? つまり「空」や「無」は「無限」を包含し「無限」は「空」や「無」を包含する、イコールの関係か?など・・・・・ あまり考えない方が良いのかもしれない。
人が「空」「無」「無限」に心を引き付けられるのは何故だろう。
武芸や芸術の達人達はそれぞれ立場が違っても「無」に至る厳しい修行があって、ある意味「悟り」の境地に達するのだろうか。
仏陀は想像を絶する修行を通して「悟り」を開いたと言われている。 仏陀にとって「悟り」とはどんな世界だったのだろう?それは「無」の境地 を知ることだったのだろうか?
「無」の境地に達した偉人達の偉業を見て、誰もが「無」の境地を知りたい と思うのも尤もなことだと思う。
しかし「空」や「無」を論理的知ることはどうも無理のようだ。
ここは、紀元前5世紀頃に立ち返って、(科学的な方法ではなく)修行 を介して不連続性に突然「悟り」を開く方が早いように思える(本当に早道 かどうかは分からないが)。
それにしても、今、私にとって何故「空」や「無」が問題なのか?
単に「無」や「空」の世界」が哲学的に謎めいた世界だからか?
否、それは・・・・・年を重ね、若い頃、抱いていた夢や希望が露のよ うに消え、今では、何が夢で何が希望か分からず混乱した儘(まま)、新し い道を探し・・・・・やっと見つけた究極の対象が「空」や「無」の世界 だった?・・・・・のか
本当は極楽浄土への(心の旅の)入口なのかもしれない。
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