ジョージ北峰の日記
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2017年02月22日(水) いじめと哲学

 “いじめ”の問題が世間を騒がせ始めて久しい。 “いじめ”は何時の時代もあったので“いじめ”自体を100%なくすことは、不可能だろう。
にもかかわらず 今、何故“いじめ”が問題なのか?
“いじめ”の質が以前とはかなり違ってきたこと、さらに最近の子供の“いじめ”に大人が対応しきれなくなってきたことにもあるだろう。

  昔も、子供の“いじめ”はあったが、ほとんど問題にされることはなかった。しかし最近、子供にしては想像を超える金銭の授受や、大人顔負けの陰湿な暴行事件が頻発している。
グループから抜け出ようとした子供が「暴行死」される事件さえ起こった。

  子供の“いじめ”に節度がなくなりつつあるのは驚きだが、さらに問題なのは“事件を起こす子供に罪悪感が欠如していることだ。

  こんな事件が起こるとは、つい最近まで誰も、想像していなかったに違いない。事件のたびに、責任者が会見で、頭を下げ「事件の究明」と「対策」を約束し謝罪するばかりだ。
  つい最近、150万円ものお金を、被害者の子供が脅し取られる事件があった。金銭問題は“いじめ”として扱うことにはそぐわないと某教育委員会の判断があった。加害者の子供は、“いじめ”ではなく被害者の子供からの“(奢り)おごり“だと思っていたというのだ。
   こんな子供の言い訳を大人がそのまま鵜呑みにすること自体が異常と言わざるを得ない。親が子供にお小遣いとして渡す額はたかだか数千円の範囲だろう。
   親にお金がないからというより、むしろ子供にお金の価値を教える教育上の目的があるからだ。
   こんな当たり前の道理すら分からない程、教育現場の判断が狂ってしまっている(親の財布から1万円を盗んで平気な子供がいるかどうか想像してみれば直ぐ分かることだが)。

“いじめ”や“喧嘩”は昔からあったが、その大半は子供の事件としては想定内で、ほとんどの場合子供同士で上手く解決していた。
子供の喧嘩に大人が口出すと“大人げない”とむしろ馬鹿にされた。



  それにしても、現在頻発している“いじめ”の問題に、解決の道はあるのだろうか?
  それほど簡単なことではないように思える。

  警察もこの手の犯罪に如何すればよいのか迷っているようだ。

   私は、この問題を、法律や制度で解決することは難しいと考えている。
制度や法律は、やはり場当たり的なものにすぎないからだ。

   現代の子供と昔とでは何かが違っているのだろうか?との疑問もあるが、本質的には何も変わっていないと思う。

ヘッセの小説「デミアン」に“いじめ”に苦しむ少年の姿が描かれている。
傍から見ていると親や先生に相談すれば簡単に済みそうだが、それが出来ない少年の心理が見事に描写されている。
“いじめ”にあった主人公の少年はこの世から「消えてしまいたい」とさえ考える。
主人公は、彼の問題は親や先生に相談したくても、どうして出来ない少年ながらの理由があり、悩むのだ。  
この少年の悩みに気付き助けたのは親でも先生でもなく、年長組の少年「デミアン」だった。
彼はまるでスーパーマンのように颯爽(さっそう)と現れ、訳もなく解決してしまうのだ。
この話から想像できることは、
子供社会の“いじめ”は大人では解決できず、子供同士で解決する方が最も効果的なのではないかということだ。

現代の日本の子供社会には、「デミアン」のように賢くて、強くて、正義感にあふれた子供が存在しなくなっているのだ。

如何してそうなのか?
いろいろあるだろうが、最も大きな問題は、日本の子供社会が縦割りに分断化されつつあることだろう。

今は、昔のようにいろいろな子供が集まって一緒に遊ぶ姿が見られなくなった。
テレビやコンピューターが普及していなかった時代、子供は一人で遊ばずに、学校から帰ってくると夕食までのわずかな時間、近所の子供が「石蹴り」「縄跳び」「かくれんぼ」などの遊びに夢中になっていた。

低学年の子供は要領よく、宿題を高学年の子供に教えてもらうことさえ出来た。子供の集団には、スポーツの得意な子、勉強のよくできる子がそろっていて、それなりの社会が成立していたのだ。子供はこんな集団で遊ぶ中で、お互い同士の付き合い方や人間関係のあり方を自然に学んでいった。

“いじめ”もあった が、それを解決する仕組みもあった。喧嘩に強く、腕白な子供に限って、弱い子を“いじめる”ことはなかった。
むしろ裁判官「デミアン」の役割を果たしていたように思う。
 
 今は、ほとんどの子供たちは学校が終わると、それぞれ別々に学習塾に通うか習い事に忙しい。

学習塾に通う子、何らかのスポーツ塾に通う子、踊り、音楽を習う子等が親付でそれぞれ別の社会(グループ)に別れて行動している。グループを超えて子供達が相互に話したり遊んだりする機会が少なくなっているのだ。

この子供社会のグループ化(分断化)が、時代の流れ(科学技術の進歩)とともに急速に進んできいるのだ。

この傾向は、残念ながら今後進むことがあっても(科学技術の進歩と同様)元に戻ることはないだろう。

現代では、トップアスリートを目指したり、有名大学へ進学するには幼少期から、半端じゃない努力を長期にわたって継続する方が有利だと分かっているからだ。
いろいろな分野で天才の作り方を研究する施設に通う子すらあるそうだ。

時代の流れ(科学技術の進歩)が、子供社会のあり方を根本的に変えつつあるのだ。





子供社会の“いじめ”も、子供社会の目に見えない“分断化”が急速に進みつつあることに原因があるように見える。

では、如何すればよいのか?
ヒントは、制度や法律ではなく、昔アメりカの精神医学者A.カーディナー等が言った「基本的パーソナリティー構造」にあるのではないか。

それは、ある社会で「共通の育児としつけ」に従って育てられた成員は、その共通の幼児体験によってパーソナリティーの中に共通の構造を保つようになるというのだ。つまり、ある安定な社会構造の構築には、育児としつけにおける「母子関係」「家族関係」「衣食住の様式」「男女間のあり方」が重要な役割を果たしていると言うのだ。

これは、当たり前のように聞こえるが、現代、急速に進む社会構造の変化に伴って、子供たちに共通の基本的パーソナリティー構造が失われつつあると言えるのではないか。

これが現代のいじめの最も根本にある問題ではないのか。

で、如何すれば子供たちにこの基本的パーソナリティー構造を取り戻すことが可能だろうか。
 
少し大胆な提案をしてみよう。

この問題の解決策は、法律や制度にあるのではなく、むしろ幼稚園や小学校など子供の教育現場にあるのではないか。



幼少期や学童期の公の学校教育では、勉学、スポーツ、芸術といった特化した能力の育成(それはそれで大切だが)よりも、むしろ、人格形成にかかわる倫理学、論理学や哲学に関わる教育が必要ではないだろうか。

これまで学校教育で、重要だった学業は、情報社会の進歩によってわざわざ学校でなくてもどこででも自分で学ぶことが可能になっているからだ。

今、日本では「道徳」を必須科目にする動きがあるそうだ。
「道徳」もある意味では倫理学や哲学のカテゴリーに含まれるが、「道徳」と言うと子供の行動に大人が口出しして、昔ながらの伝統的な考え方を押し付けるだけの、一方向的な響きがある。

権力側が子供の行動を監視・規制するための手段のようにしか聞こえない(そうではないかも知れないが)。現代ではもっと進んでグローバルな考え方を子供時代に養う必要があるのではないか。

つまり今後の、学童教育の基本は、グローバル化しつつある社会構造に対応できる能力を養うこと、つまり人権、自由、民主主義を基礎にした「人間として自分はどう生きるべきか」といった内容を仲間と議論しながら論理的に考える力を身に着けさせることではないだろうか。

子供たちが、自由に論理的に「倫理」や「哲学」について考える能力を培(つちか)うのだ。
科目の名称も「道徳」というより「哲学」とした方が学ぶ子供に大きなモチベーションが与えるに違いない。

つまり古代ギリシャの教育法の復活だ。

“いじめ” (子供社会の分断化)問題の解決は、大袈裟に言えば学校の教育あり方を、今、根本的に考え直すことにあるのではないだろうか。


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