ジョージ北峰の日記
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2013年03月22日(金) 青いダイヤ

  最近学校の教科に道徳教育を入れるという話題が出始めました。戦前の道徳教育を知っている人ならアレルギーを起こしそうな話です。
戦前の道徳教育を実際に経験した人の数は最近では加速度的に減少しています。 
 
  ところで戦前の道徳教育はあまり評判の良いものではありませんでした。道徳を教えること自体は間違っていなかったかも知れませんが、戦前の道徳教育はその目的が個人の考えを否定し、体制への服従を強制するものであったが為、ひとたび体制が誤った方向に進み始めりと、誰も止めることが出来ないという反省がありました。その結果、日本の敗戦と共に、新しい教育から道徳教育が削除されたのです。

  私は道徳教育を受けなかった日本人の一人ですが最近の子供や若者の引き起こす事件、大人社会の堕落と混乱を知るたびに“社会に生きていく上での最低限度のルールを教えるために、やはり道徳教育の導入もやむをえないのかな”と考えるようになりました(私の場合、そのような教育は両親、近所の人たち、兄弟・友達関係から自然に受けていたように思います)。
 
  しかし一方、夥(おびただ)しい量の情報が氾濫し,そのような情報を子供たちも自由に利用できるようになった現代、しかもこれまで一方的に情報を管理してきた大人社会の権威が失墜しつつある中で、子供達にだけ道徳教育を強いて、はたして効果があがるのだろうかと疑問に思ってしまいます。

  最近ではスポーツ界、教育界、政界あるいは一般社会でも、大人の世界でパワハラ、セクハラを含めて無責任・無節操な行動が目立ちます。これ等の情報も、テレビやスマートフォンを通して子供たちが簡単に知りうる時代になっているのです。
社会で範を示さなければならない大人の行動が子供にとって、もはや社会規範とはなりえない状況が現実にあるのです。

  しかも情報技術の進歩は大人と子供社会の権威関係を逆転しそうな勢いで進行しています。とりわけ、厳しく、緊張した社会関係や家族関係を和らげる緩衝材として機能し、また所謂(いわゆる)経験則に基づいた知恵として尊重されてきた老人の存在価値は薄れ、無用な存在として社会の隅に追いやられつつあります。老人はもはや社会とは無関係な単に厄介な介護と福祉の対象に成り下がろうとしています。

  先生も職業としては、困難な時代を迎えています。学問、知識の蓄積があまりにも進みすぎて、一人の人間がたった一つの学問でさえ一人で教えきれない状況になりつつあるのです。
  例えば医学分野に目を向けても、昔、内科医といえば、全身を診て治療していました。しかし、知識・技術が著しく進歩した現代では心臓内科、肝臓内科、腎臓内科など専門分化がどんどん進み、それぞれに専門医が存在し、それぞれがそれぞれの分野に限って診断・治療をおこうようになってきています。それと同時に、過去治療対象でなかった病気(例えば遺伝病など)が、治療可能な対象となってきました。 
医学が進歩すれば、病気の知識はどんどん増えてゆき、医学の専門分化ますます進行し、専門医の数も増えていきます。
 
  同じようなことが色々な分野でも進行しているのではないでしょうか?
教える側の先生も自分の扱える(教える)範囲を狭めざるを得ない状況が進行しつつあるのではないでしょうか。
これまで、知識を与える側として、維持されてきた先生の権威も、学問の進歩と情報技術の進歩が相俟(あいま)って徐々に失われつつあるというのが現状ではないでしょうか?
  さらに知識だけならコンピューターで十分だと考えている学生たちも増えているのです。

  このような状況下では、これまでのような知識偏重の教育を続けることは限界が来ているのではないでしょうか?
  教育は、知識だけなのでしょうか? 
  教育はコンピューターに依存しても良いのでしょうか(現代、それを肯定する意見もかなり多くなりつつあります)?

  確かにコンピューターは知識を与えてくれますが、人間としての生き方、考え方は教えてくれません。
生きていく知恵、考え方は本来人それぞれ固有で独創的であるべきはずで、誰もがコンピューターから得られる考え方にのみ依存するようになると、画一的な人間ばかりが増えていくか、又悪い情報に操られる人間が増加するだけかも知れません。またある意味で社会の進歩が止まってしまうかも知れません。コンピューターを介してのマインドコントロールの恐れも排除できません(戦前の道徳教育と同じ結果です)。

  とすれば子供の教育はどうあるべきでしょうか?
  まずは、これまでのような知識(勿論それを学ぶことも必要ですが)偏重型の教育ではなくて、コンピューターでは出来ない、もっと普遍的な判断力を養う、理性(何が真で、何が偽であるか判断できる能力)や豊かな感性を涵養(かんよう)する教育こそが求められるべきではないでしょうか?

  つまり自分は何を学ぶべきか、どう生きるべきかを自分で判断し解決する能力を伸ばす教育が必要になってくるのではないでしょうか。
例えば歴史の勉強でも、事実を知るのではなくて、事実から自分ならどんなことが考えられるのか(解答はひとつであるはずがありませんから)?を問う教育です。

  少し視点を変えてみます。
一度小学生に「どんな人になりたい?」と質問したことがありますが、どんな子供も「人から好かれたい、人から尊敬されたい」という気持ち、「社会に貢献したい」夢を共通に持ち合わせていました。しかし学齢があがるにつれてそんな気持ちが心の奥深くに潜(ひそ)んでゆくのです。
  幼少の子供たちは両親を深く尊敬している気持ちを「お父さん、お母さんが一番好き」と表現します。そんな言葉も学齢があがるにつれて消えていくのです。

  何故でしょうか?そのような気持ちや夢を大切にする教育は出来ないのでしょうか?


ジョージ北峰 |MAIL