ジョージ北峰の日記
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「私はT君のことを、いつもすごいと思ってきたの。普通の子と違って、お兄さんから哲学のことを聞いて、勉強のこととか、人はどう生きるべきかとか、将来哲学者になりたいとか、難しいことばかり真剣に考えていたから。それにお兄さんの金魚の話は特に面白かった。金魚と人間の気持ちが通じ合えるってすごいことじゃない。犬や猫とならわかるけど---あれからT君は自分でも出来るようになった?」N子は突然話題を変えて、明るい声で話し始めました。
つられて「色々試みたけど、どうしても出来ないんだ。兄に聞いても、お前には気合いが足らん。もっと強い精神力を養わなければと、言うばかりだよ。自分はまだ子供だから兄のようには出来ないことが多いから----それに何か変わったことをしようとすると母が止めるんだ。そんな暇があったら勉強をしなさい----とね。兄までが、勉強に集中する能力ができたら、兄の言ってきたことは自然に分かるというだけなんだ」
「そう。だったらこれからもまだまだ頑張らなきゃあね」と言ってN子は可笑しそうに、口元を手で覆いながら笑うのでした。 それからN子はポケットから、チョコレートを取り出すと、半分に割り「食べる?」と何気なく差し出したのです。 勿論、当時チョコレートは子供にとってこの上もない貴重品だったのですが、「いらない」そっけなく答えてしまったのです。と、即座に「何故?チョコレートが嫌いなの」とN子。 嫌いなわけがありません。しかし何故か意固地に「いらない。N子が自分で食べればいい」と、言葉になって出てしまうのです。心の中では随分後悔していたのですが、どうしても「ありがとう」と言えなかったのです。
やっとN子に会えた喜び、にもかかわらずもう二度と会えないかもしれない突然の引越し話に私はショックを受けていたのだと思います。 N子が私に優しくすればするほど、私の心の扉は一層硬く閉ざされていくのでした。 N子は根負けしたのか「もう私は帰らなければ叱られる。此処にチョコを置いていくから食べてね」と言い残すと「ジュン、帰ろう」と、少し暗くなりかけた坂道を足早に降りていきました。犬は嬉しそうに尻尾を左右に振り、時折振り返りながら笹の間をすり抜けるように走り降りて行くのでした。 N子が帰らなければいけないのは分かっていましたが、あまりあっさり帰っていくのが不思議で“何故そんなに簡単に帰れるの”と心の中で叫んでいました。
N子は、山の登り口のところで立ち止まると振り返り、「頑張ってね」という風に、強く手を振ってから、足早に戻って行きました。 辺りは薄暗く、鳥の声も聞こえなくなって、枯れかけた笹が風に貧相に揺れているのに気付きました。私は、しばし呆然としていましたが、気を取り直しN子のくれた青い玉を胸のポケットに入れると、体が暖かくなったような気がするのでした。 もう一度山頂へ向かおうと歩き出しましたが、やはりN子のチョコが気懸かりで、戻って岩の上においてあったチョコを拾い上げると、包みの中から小さな紙切れが出てきて「T君のことがいつまでも好きです」としっかりした字で書いてありました。
突然涙が溢れてきました。 強い衝動に駆られて、夢中で山頂に駆け上がっていきました。
その涙は、人と別れることの寂しさか、恋心の芽生えだったのだろう、 と長い間、思ってきました。
しかし、本当は、N子のくれた“青いダイヤ”の持つ意味、“厳しい人生の旅立ちを励ましてくれる心”に、感動していたのだと思います。
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