ジョージ北峰の日記
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2002年09月29日(日) しじみ蝶 ジェニー

 細い華奢な茎に
 可愛い、子供の手のような葉
 薄曇りに、小雨降る朝
 青い小さな花の蕾が一つ
 小庭の花壇に隠れて誕生した。

 昼には、美しい大型の花の下で
 可憐な花がひっそり咲いた。
 しばらくして、濃紫(こむらさき)のしじみ蝶が飛んできて、
 他の花には目もくれないで、その小さな花にとまった。
 手入れの行き届いた美しい花が咲き乱れる中で、
 蝶がどうしてその花を選ぶのか不思議だった。
 ユリのようだが小さく貧相に見えたからだ。
 しかし蝶は親しそうに飽きることなく、
 飛んだり離れたり小さい花と戯れ始めた。
 か細い茎をいたわるように。
 
 よくその花を観察すれば
 青空のように澄んだ深青色の花弁、黄色い花粉、
 清く美しい・・・花だった。
 この花が、バラのように大きかったなら、きっと世に知られた花に
 なっていたに違いなかった。
 しかし、それには残念ながら小さすぎた。
 翌日も蝶は飛んできた。
 花は蝶をジェニーと呼んだ。

 ジェニー
 あなたは凛々しく、なんて優しい蝶?
 周りには、あんなに美しい花がいっぱい咲いているのに?
 次の日も、ジェニーは飛んできた。風が吹くと
 さっと離れ、そしてまた優しくとまる、
 何かが近づくと何処ともなく飛び去る。
 しばらくすると又、帰ってくる。

 私の愛しい、ジェニー
 今にも死にそうだった私に
 勇気と希望を与えてくれたジェニー
 よそよそしく、冷たいジェニー
 でも本当は心優しいジェニー

 ある日不覚にも
 ジェニーは蜘蛛の巣にかかった。
 数日後には、糸にくるまれ死んでいた。

 その日からジェニーが帰ってくることはなかった。
 花は夜露にたれた。

 何処へ行ったのジェニー?
 帰って、そして柔らかい羽で、あの優しい歌を聞かせて。
 蜜でも花粉でも何でもあげる。
 花は心を込めて祈った。
 しかし・・・返事はなかった。

 秋深く、人は草花の枯れ果てた姿を見た。
 そして、その枯れ果てた茎に、小さな生命が
 宿っているのも。 



2002年09月17日(火) 政治と政治家-4 つづき・・JF ケネデイー

 しかし次の瞬間、事の重大さに気づいた。その時の皆の驚き、それこそ筆舌に尽くしがたい呆然自失の驚きであった。矢張り想像していた通りの悲劇が起こってしまった・・・すべての人が我と我が目を疑った。テレビは何度も同じシーンを再生して事態の検証をした。しかし、間違いなく何処からか飛んできた弾丸が大統領の頭に命中していたのである。もはや、生の望みの皆無であることを認めざるを得なかった。なんという無残、誰がこんな無法なことをしたのか!
 その時の人々の驚きと怒り、悔しさは、今でも生々しく思い出すことが出来る。若く、何かとてつもなく大きな事をしてくれそうな、そんな期待と夢を人々に与え続けた大統領の命、それはその瞬間に消失してしまった。
 誰に怒りをぶっつけたらいいのか分からない苛立ちのまま時間は経過していった。 それ以後、ケネデイー暗殺についてのドキュメンタリーや映画が何本も製作・発表された。しかしいまだにその真相は闇の中である。
 こんなに話題になった大統領、いや政治家はローマー帝国のユリウス シーザー以来知らない。ケネデイーこそ20世紀に実在した本当の政治家中の政治家だったと言えるだろう。
 ケネデイーのような有能な政治家が誕生する過程は、並々ならぬ厳しい教育、本人の才能と運、そして周囲の暖かい目等、色々な条件が重なって可能になったのだろうと思う。しかしなによりも本人の自覚と努力、そして周囲の人々が立派な政治家を育てようとする積極的な意思が必要だったのではと考える。
 彼にみる理想的な政治家像、それは人々に大きな夢を与えること、そして実現の道筋を語ること、人間として勇気があり、決断力があり、説得力があること、その上に人から無条件に愛される人柄があり、そしてその基礎に誠実さと知性があること。単に実務的に優秀なだけでは立派な政治家とは言えないだろう。
 現在の日本を省みるとき、いまだに世界に誇れる政治家の名を思い出すことが出来ない。最近、この国の政情を省みるとき、本当の近代国家と言える体制、三権分立が育っているのだろうか?と疑問さえ浮かぶ。
 どうすれば日本は本当の意味での近代国家に生まれ変わるのだろうか?
 例えば議員内閣制は日本の風土に染まると汚職を際限なく繰り返す制度になってしまう。この国では、むしろ行政府と立法府を別々選挙で選ぶ大統領制のほうが、たとえ一時的にお金がかかったとしても与党同士の馴れ合い政治を防ぐ上で有効な手段になるのではないだろうか。又、最近よく話題になる国家と地方の関係についても、地方分権の強化といった生ぬるい手段を考えるより、個性の異なった州(藩でもよい)からなる連邦国家制を考える人達(党)が出現してもよいのではないかと考える。農業州、工業州、ハイテク州など、それぞれ個人の人生観にしたがって住む州を変えることが出来る。勿論、税制も州ごとに異なる。そんな州からなる連邦国家日本!
 又裁判制度もプロの人達の手に任せるだけでなく国民自らが自分達で人を裁く、つまり自己が陪審責任を負う陪審員制度を学んだほうがよいのではないか、など。日本人の性格、経済規模に合った国家体制の再構築を真剣に考える政治家集団を育成する・・など、この国が政治的に成熟した国家として、よい政治家を世界に送り出すにはなお乗り越えなければならない何段階ものハードルあるように思う。しかしそのようなハードルが高いということは、まだまだ日本にもやらなければならない、山積みの試練があるということ、そういう意味ではやりがいのある夢いっぱいの国家といえるのではあるまいか。


2002年09月01日(日) 政治と政治家-3 つづき・・JFケネディー

 それでも、レーニンによる帝政ロシアの打倒、毛沢東は帝政清朝の打倒と抗日運動における成功、新しい国家を建設、労働者の組織化と労働運動の意義を明らかにしたと言う意味において彼等は英雄だったと思う。しかし、共産主義の労働者による一党独裁は、その理念は善であったとしても、もし指導者がイデオロギーによるファシズムを望んだら、その理念は簡単に踏みにじられてしまう可能性が絶えずあった。現実にソ連のスターリン、カンボジアのポルポト政権時代人々の大量虐殺が行なわれている。彼等は恐怖政治を行なったのである。
 共産主義における問題点は資本家=悪、労働者=善、と言った古い勧善懲悪的な考え方が根本にある点ではないだろうか(レーニンの時代は確かにその通りだったかもしれないが)。社会を善悪に分けて考える点は極めて分かりやすい。しかしそれを実行する政治家が、同じ人間のすることであることを忘れるととんでもない誤りを犯すことになる。労働者階級出身の政治家も権力を手に入れると、やはりただの権力者であって、その政治は旧態然とした権力闘争の繰り返しにすぎないと指摘されていたのである。さらに、一党独裁の政権である為、信仰、言論、恐怖からの自由は完全に奪われうる。さらに経済運用が破綻し欠乏の自由さえ奪われてもそれを批判することが許されない。何故ならそれはすべて自分達が犯した失敗になるからである。権力者は労働者全体であるとの理論により指導者を階級間の敵と批判出来ない構図があるからである。
 結局、政治の良し悪しは組織の問題よりもそれを運用する政治家によるところが大きい(特に共産主義において)のではあるまいか。だが、此処では政治体制の善し悪しを議論するつもりは無い。
 どんな人間が政治家として理想像たりうるか?と言う命題を問いたいのである。
 私の知っている時代に限って言えば、政治家を志す人も、そうでない人もケネディーに憧れた人たちが多かったと思う。
 JFケネディーの父はアイルランド系移民で経済的には大成功を収めていたが、さらにアメリカ社会で名誉をも獲得すべく、子供達に大統領を目指す教育をしたと言われている。4人兄弟の中、長男が最も大統領にふさわしいとされていたが、戦争で失った。JFケネディーは次男であった。アメリカの名門ハーバード大学を優秀な成績で卒業したと言われている。当時、彼の才能については多数のエピソードがあるが中でも彼の読書の速さ、理解力のすごさについてはしばしば話題になった。私も刺激を受けて1年間で200冊の本を読破すべく挑戦した。大変苦しい挑戦であった。(しかし今、少なからず自分の自信の一部になっていると思うが。)
 彼は、大学卒業後、太平洋戦争で魚雷艇にのっていた。将来アメリカの大統領を目指そうと言う若者が、最も危険な最前線で戦争に参加していたのである。当時のエピソードとして、日本のゼロ戦 撃墜王 坂井 三郎氏の攻撃を受け、命からがら戦場を脱出した話は有名である。
 父は、自分の子供を大統領にしたいからといって、彼等の安全を敢えて求めようとはしなかった。自分の息子が本当にアメリカ大統領にふさわしい勇気を示すかどうか知りたかったのだろうか・・ライオンが子供を谷に突き落とし、王者としてふさわしいかどうか、子供の能力を確かめると言われる、あの厳しい教育を試みたのだろうか。勇気ある判断と言うべきか、あるいは又冷徹な人だったと言うべきか・・現代、多くの人々が失ってしまった(偉大な人物を育てるため避けて通れない大いなる賭け)本当の意味での親心があったと言えるのだろうか。それは兎も角、息子JFケネディーもまた祖国の為に戦うことに躊躇い(ためらい)は無かったと言われている。
 ケネディーが42歳でアメリカの大統領に就任した時、若すぎるのではないか、とその政治的手腕に懸念を表明する人達が多かった。しかし、そのような懸念に対する彼の答えは、さらに人々を驚かせるものだった。側近にプロの政治家ではなく大学時代の恩師や仲間を登用したのである。当時、アメリカでも一般人を政治家に登用することは珍しいことだった。賛否両論が高まるなか、まだ若かった私にも何か新しいことが起こりそうな予感に夢が膨らんだことを今でも記憶している。
 日本大使には日本のよき理解者ハーバード大学教授ライシャワー博士が任命された。当時、米ソの冷戦構造の中、日韓、日中、日ソの関係が極めて険悪かつ日本の政情が不安定だった時代に、博士婦人が日本人であったことに加え、風貌から受ける印象の良さもあって、博士は日本の不安を一掃してしまう、そんな信頼感を漂わせる人物だった。
 一時が万事、ケネディーの推し進める政策は憎らしいほど斬新で人々の心を見通す気配りに満ちていた。恐らく、他の国の人々にとっても同じような印象を受けたのではないだろうか。あの有名なキューバ危機に際して、ソ連のフルシチョフが手を引いたのもケネディーの人柄に負うところが大だったのではと考える。それが証拠にフルシチョフも、その後ケネディーとは大変厚い、友情に近い信頼関係を築いている。
 当時アメリカは原子力兵器ではソ連を圧倒していたがミサイル、人工衛星と言った宇宙開発ではかなり遅れをとっていた。その事についても、ケネディーはアポロ政策、即ちアメリカは近い将来、月に人を送ると計画を発表、アメリカの宇宙開発意欲に刺激を与える一方、世界の人々には大きな夢の実現を約束した。また、若い人達には、国が何をしてくれるかではなく、君達が国に何を出来るかを考えるべきと自覚を促した。
 若い勇気あるケネディーでなければ決して思いつかないような大胆、且つ細心の政治を次々に発表、人々の心を魅了していった。
 ケネディー政権最後になった、ダラスでのパレードの日、彼はようやく世界の人々から尊敬を集め政治家として頂点を極めようとしていた。その日は当地での不穏な動きを既に察知していた側近、地元の警察は大統領にオープンカーでのパレードを取りやめるように懇請していた。しかし大統領は拒否した。アメリカの大統領として脅しにはひるまないと人々に示したかったのだろうか・・又 死を恐れていてはアメリカの大統領は勤まらないと強い気持ち示したかったのだろうか。(昔から偉大な政治家、指導者は自らの生を賭して、信念を遂行、目的の実現の為、死をも恐れ無い勇気を示しえた人たちではなかったか。)
 彼だからこそ下した拒否の決断だったと信ている。
 人気の大統領のパレードとあって沿道には多数の観衆が歓迎、出迎えの拍手を送っていた。大統領も手をあげ観衆に、笑顔で答えている最中だった。突然、彼の頭から血がほとばしりジャックリーンの膝に崩れ落ちたのである。テレビで見た私達には少なくともそう見えた。一瞬何が起こったのか人々は理解できなかった。
     つづく


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