与太郎文庫
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2001年11月26日(月)  ペン電子文芸館 〜 電子ライブラリー 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20011126
 
── 日本ペンクラブ電子文藝館を発信する
 
 日本ペンクラブ会長 日本ペンクラブ電子文藝館長(初代) 梅原 猛
 
── 日本ペンクラブは国際的な文筆家団体である。国際ペン憲章は、
「藝術作品は、汎く人類の相続財産であり、あらゆる場合に、特に戦時
において、国家的あるいは政治的な激情によって損われることなく保た
れねばならない」とし、また「文藝著作物は、国民的な源に由来するも
のであるとしても、国境のないものであり、政治的なあるいは国際的な
紛糾にかかわりなく諸国間で共有する価値あるものたるべきである」と
も宣言している。核実験に反対し、環境問題や人権問題につよく提議し、
言論表現の自由を護ろうと闘うのも、その基盤には、会員の文学・文藝
の「ちから」がなくてはならない。「ペンのちから」を信じ愛して、世
界の平和と言論表現の自由のために尽くしたい。
 
 今、日本ペンクラブは「ペンの日」を期して、ここに独自の「電子文
藝館」を開設し、島崎藤村初代会長以来、あまた物故会員の優作を、ま
た、二千人に及ぼうとする現会員の自愛・自薦の作品ないし発言、加え
て簡明な筆者紹介を、努めて網羅展観する事業を通じて、国内外に、
メッセージを発信する。大きな支持を得たい。
 
 20011126 ペンの日
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
 日本ペンクラブ:電子文藝館
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20080625
 沐読 〜 浴槽の読書 〜
 
(20080628)
 


2001年11月23日(金)  門庭再訪 〜 本宮 啓 先生との対話 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20011123
 
 ミスター・同中 〜 一万三千人の一人 〜
 
 異郷にあっても、京都出身者や同志社の卒業生に出会うことはある。
「学校はどちらですか?」「同志社です」
 しかし、これだけで心を許すわけにはいかない。地方から同志社大学
にあつまる人口は多すぎて、同志社高校だけの卒業生は少なすぎる。
「モトミヤ先生を知ってますか?」
「知ってる」と答えた者だけが同志社中学出身の、純正「同志社Man」
であり、讃美歌やキャンプ・ソング、さらに聖書の一節をおぼえている
はずである。
(十六年前に唯一人、キャノン販売の岡山営業所・原田君に出会った)
 すべての新入生は、先生の、いくぶんめずらしい苗字はともかくも、
ハムレット役者のような風貌と髪型、ハーメルンの笛吹き男さながらに
ヴァイオリンを弾く姿に、鮮烈な印象を抱いたのである。
 すべての卒業生は本宮先生を忘れることはないが、いまも先生に記憶
される生徒は、選ばれたことを誇りとすべきである。
 在職四十余年、教え子の総数一万三千人。
 幸運な教え子のひとりが、四十五年ぶりに先生の門を叩く。
「門を叩きなさい。そうすれば開かれる」 ── 《マタイ伝 7-13》
 口語訳《新約聖書》をはじめて朗読されたのも、本宮先生だった。
 
 中学生新聞のアンケートで、本宮先生の好物は「酒のみの好むような、
酒の肴のようなもの」ということだった(旧い友人は、この種の記憶を
摩訶不思議だというが、ほかにどんな記憶がまさっているのだろうか)。
 そのころ、内藤季雄先生に教わった《徒然草》に「来客は迷惑だが、
物くるる者はよし」というくだりがある。決して試験問題に出ることの
ない一節だが、当時の与太郎がいちばん気に入った部分でもある。
 与太郎自身は、もらった経験にとぼしいせいか、礼を言うのが苦手で、
そもそも受けとるべき立場にないので、ともすれば値ぶみしてしまう。
 世の先生は、すべからく受けとる立場にあり、教え子は、在学中には
つつしむとしても、卒業後に贈るべきである(しかし、数十年も無音で、
いまごろ思いついて贈るのも、礼にかなっているわけではないが)。
 ありふれた菓子折や、しおたれた特産物のごときは趣向がない。考え
すぎて手の込んだものも興をそぐ。いささか意外で、しゃれた手土産は
ないものか。欲をいうなら、数日たてば忘れられてしまうものがよい。
 たどりついたアイデアは、初対面であろうはずの奥様に、花束を差し
あげることだった。はたして喜んでいただけるか。
 
 門扉につながれて大きな犬が寝そべっている。すでに門番をリタイヤ
したとみえて、見知らぬ訪問者にも関心を示さない。昔なかった乗用車、
池に十数匹の鯉が泳いでいるほか、建物の風情はあのころと変らない。
(ここでもし、ハローウィーンの仮装みたいに、詰襟の学生服であらわ
れたら、先生ご夫妻はビックリされるだろうな)
────────────────────────────────
── ハーメルンの市民は/子供たちの失踪の日を起点にして年月を数
えていたという。/市参事会堂には次のような文字が刻まれている。
 キリスト生誕後の一二八四年に/ハーメルンの町から連れ去られた
 それは当市生まれの一三〇人の子供たち/笛吹き男に導かれ、
コッペンで消え失せた (グリム《ドイツ伝説集》より)
── 阿部 謹也《ハーメルンの笛吹き男 19881201 ちくま文庫》P020-021
 
 
 弓ひく少国民 〜 知らなかった話 〜
 
── 先生は、いつごろヴァイオリンを手にされたんですか?
本宮 一中に入ったころでね。
── 当時の優等生は、一中(京都第一中等学校、当時5年制、のちの
洛北高校)から、三高(第三高等学校)を経て、京大(京都帝国大学)
にすすむのがエリート・コースだったんでしょう。同志社中学の卒業生
ではなかったんですね。
本宮 そうやね。ぼくが一中に合格したために、かわりに江崎玲於奈が
落っこちたなんていわれたことがあるよ。
(江崎氏は、同志社中学に入ってノーベル賞をとったので、このときに
本宮先生が一中を落っこちていれば、ひょっとしてノーベル賞は、本宮
先生の手に落ちたかもしれないのである。このジョークは、一中同期生
だれもが共有できないところに要注意)
── お父さまも、ヴァイオリンを弾かれたんですか?
本宮 父(弥兵衛)は、もともと音楽には縁がなかった。同志社神学部
で宗教心理学を教えるかたわら、水泳部の初代部長だった。
 
(客間の写真額のひとつに、25メートル・プール建立の顕彰碑がある。
1925(長男=啓、誕生)年に同響(同志社大学交響楽団)が結成された
ので、たのまれて初代部長に就任されたらしい。
 当時の借家は、戦後の法改正で、借家人が買取ることになったものの、
本宮教授は手許不如意である。これを知った水泳部のOBたちが一大事
とばかり、みんなが金を出し合った。体育会系ならではの美談である。
 また、戦後しばしば上京されたのは、あるいは教育基本法改正のため
の会議だったか? (「幻の有賀勅語」P000参照)
 
── お父さまは宮城県ご出身とすると、お母さまが京都の方ですか?
本宮 いや、母も東北の岩手出身でね。
── 先生が中学のころ、すでに軍国主義たけなわですから、尺八なら
ともかく、ヴァイオリンなど非国民でしょう。ご近所の手前もあるし、
ご両親は反対されなかったんですか。
本宮 いいや、誰も反対せなんだよ。
── そうとう進歩的なご家庭ですね、ぼくの両親など、戦後10年も
たっているのに、西洋音楽を理解できなかったというのに。
本宮 ヴァイオリンなんかやってると、ヒマそうに見えるらしくてね。
サッカー部が創設されて、メンバー足らんからいうて引っぱりこまれ、
やっているうちに面白くなった。ある年、ボート部のメンバーが負傷し
たので、代りに(ピンチヒッターとして)三ヵ月後の優勝戦に出場して
くれという。とても無理やから断わると、連日連夜誘いに来て、最後に
ムリヤリ合宿に連れていかれた。これにはまいったなぁ。基本ができて
いないのに猛練習させられて、さすがにヘバッた。しかし、このときの
経験が、海軍で大いに役立った。
────────────────────────────────
── 江崎 玲於奈 えさき・れおな 1925(大正14)3.12 (大阪) 
茨城県科学技術振興財団理事長。ノーベル物理学賞受賞者。文化勲章受
賞者。日本学士院会員、物理学。東大理 〒305-0032 つくば市竹園2-
20-3 つくば 国際会議場、茨城県科学技術振興財団(0298-61-1200)
── 《分野別人名録 20010301 読売新聞社》P384
 
本宮 啓・編《京一中サッカー部創部六十年誌 1999》
本宮 啓・編《同響70年誌 1995》 〜 貞方 敏郎・編《同響50年誌 1975》
本宮 啓・編《同志社中高管弦楽史 200・》執筆中
 
「pinch hitter」は、日本特有の野球用語。漕ぎ手=rower ;
I stood in for him as a member of rower.
 
 
 海行かば 〜 最初の授業 〜
 
── 一中を出て、同志社大学に進まれた。そして学徒動員ですね。
本宮 母は法学部に行かせたかったらしいが、結局いちばん苦手だった
英文科に入ってね。もっぱら同響でヴァイオリンを弾いていた。やはり
オーケストラは楽しくてしょうがない。そんななかで、海軍に入った。
── 終戦の日は、どこにおられたんですか。
本宮 呉の軍港にいた。八月六日朝、朝礼で訓示していたら、とつぜん
ピカーッと光るものを感じた。何だろうと思っていると、十数秒のちに
ドドーンという(いままで聞いたこともない)大音響なんだ。いそいで
防空壕に向かっていると、監視兵が絶叫している。みると巨大なキノコ
雲が盛り上がっていて、そのあとから大爆風が襲ってきた。光速と音速、
そして爆震の順に伝わってきたらしい。想像もしないことがつぎつぎに
起こったので、みんなポカンとして思考停止してしまった。
── 爆心から、どれくらい離れていたんですか。
本宮 約30キロ東南でね。さっそく救援に向かうことになって、翌朝
汽車で広島に到着した。市内の入口あたりで、とんでもない事態である
ことがわかった。焼死体の中で泣き叫ぶ生存者に「助けてくれ」といわ
れても、どうにもならない人数なんだ。そのまま街中に進んでいくと、
もっとひどい光景がつづいている。現地兵もおなじ状況だった。
── 救援隊の二次被爆もたいへんだったそうですね。
本宮 ぼくは、三ヵ月あまり下痢と腹痛ですんだが、仲間の多くは被爆
手帳を申請して後遺症に苦しんだらしい。もちろん亡くなった者もいる。
── 人類史上だれも見たことのない地獄絵を直視されたんですね。
本宮 たとえば、むこうに和服の娘さんが歩いている。きれいな人やな
と思ってながめていたら、ふとこちらをふりむいた。それまで左半面し
か見えなかった顔の、右半面が見えた。その半分が生々しいケロイド状
で、ひとつの顔が二つに塗りわけられたようになっている。被爆の直後
だから、それはひどいものだった。
── ぼくは、先生の自己紹介をかねた最初の授業をおぼえています。
「先生は長島愛生園にも慰問に行った。でもこの通りピンピンしてる」
 当時まだ、ライ患者収容所と称されていた施設のことは、中学生でも
知っていましたが、このとき先生は、宗教的な訓話をされたのではない。
しかし、現実を直視して、たじろがない態度が重要なのだと感じました。
本宮 うーん、あれは同響の演奏旅行やったかな。
(三年間にわたって、もっとも多く先生に接していた中学生は、先生の
怒った顔を見たことがない。いかなる時もクールだった先生の原体験を、
いまはじめて聴いた)
 
── 先生は、いつでも面白そうに話を聞いてくれる。聞きおわると、
かならず一言コメントしてくれる。しかし注意しないと皮肉たっぷりの
揶揄的表現を聞きのがす。
── 《Day was Day 20001231 Awa Library》P048《サンピツ 〜 同中三筆 〜》
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 被爆地での二次被害については、父子猫(江戸家 猫八の訃報)参照。
 
 
 チクルス 〜 超絶!課外授業 〜
 
── 最初の授業で、もうひとつ印象的だったのは、戦争から帰ると、
まっさきに押入れからヴァイオリンを取り出して、弾いてみたら、キコ
キコ音が出たという。
本宮 これでまたオーケストラができる。大学は卒業してしまったが、
なんとか同響を再建したい。とりあえず、同志社本部にアキがあったの
で勤めることになり、しばらく《同志社タイムズ》を編集していた。
── ぼくらは、大学の新聞部出身かと思ってましたが。するとまだ、
先生ではなかったんですね。
本宮 そう、香里で同志社中学と高校を開校することになって、本部の
松永先生が校長となり、中学の宗教活動と音楽指導の西邨辰三郎先生も
出向されるので、後ガマに誰か居ないかと見わたすと、ぴったりの男が
居たわけで、いそいで文部省に教員の資格申請書を出すと、すぐに免状
をくれた。
── ここならもっと、オーケストラができる。
本宮 1948年、同響を再建して、ジュニア・シンフォニーも発足させた。
生徒会もこのころ自治会憲章をつくった。
── ぼくが入学したのは1952年度だから、メンバーが一巡したころ
でしたね。三年生の大西紹夫(ツグオ、と読む)君などが《クシコスの
郵便馬車》を弾いている。はじめて弦楽合奏をまぢかに聴いて、とても
魅力的だと思ったが、まさか自分にできるとは想像できなかった。
本宮 はじめのうちは、すでにヴァイオリンを習った子供ばかり集めて
やっていたが、三年ごとにメンバーが卒業していくので、うまくなった
ころには居なくなる。また、最初から初心者に教えても、すこし弾ける
ようになると卒業する。これではつまらないから、初心者が三年かかる
ところを半年くらいに短縮して、速成の手ほどきをやってみた。これが
意外にも効果があって、一年そこそこで立派に弾ける生徒もあらわれた。
── ぼくらの高校シンフォニエッタなど、それはヒドイもんでした。
高校に入ってから始めた者ばかりで、楽譜のよみかた、数え方もロクに
できないのが集まっていたんです。それはもうヘタクソ以前の水準です。
しかし、誰になんといわれようが、みんな楽しくてしょうがなかった。
本宮 1973年ごろ、とくに熱心な生徒が出てきたが、そのころは高校の
シンフォニエッタが休眠状態になっていたので、これを蘇生させ、中高
あわせた管弦楽団として演奏活動を継続したい、といいはじめた。当時、
高校の器楽部長が「こういうことは、高校が中心となるべきだ」などと
言うので、高校生が反撥して「そんなら高校器楽部に籍をおいたまま、
中学に出かけて活動する」と言ったらしい。それで器楽部長も折れて、
翌1974年に管楽器を一括購入して「同志社中高管弦楽団」が発足した。
それから毎年ベートーヴェン・チクルス「交響曲(全九曲)連続演奏」
に取りくんで、最後の「第九」では全同志社中高の合唱団が参加して、
盛大な演奏会になった。さらに翌1984年にはマーラー《第一交響曲》を
上げることができた。
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── Zyklus (ツィクルス) ギリシャ語で「環」を意味する言葉であ
り,連続演奏ということ。ある作曲家の多数の作品を,何回かの音楽会
曲目として計画的に演奏してゆく形式,あるいはある演奏家・演奏団体
が特定の目的をもって開催する連続演奏会など。
── http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~mikuni/hp/Muyou/Keyword.html
── tickle(s) くすぐる、むずむずさせる。
 
── 店村 眞積 たなむら・まずみ 1948(昭和23)8.31 (京都) 
ビオラ奏者、読売日本交響楽団ソリスト、桐朋学園講師、桐朋学園大中
退、フィレンツェ・ケルビーニ音楽院 〒215-0001 川崎市麻生区細山
5-8-4(044-955-3669)
── 《分野別人名録 20010301 読売新聞社》P426
 
 1956年秋、高校二年生の与太郎も、ようやくチェロを抱えて、バッハ
《管弦楽組曲ロ短調》に加わることができた。練習は、中学のチャペル
だけでなく、先生の自宅客間でも行われた。増田 忍・明 の姉弟を中心
に、同響からフルート独奏の伊藤氏、チェロの高田逸夫氏も参加した。
 翌1957年、高校シンフォニエッタ結成にあたって、あてにした中学生
は、ほとんど他の高校に進んでしまうのである。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550105
 同志社中学校新聞部新年会(小山邸)↓本宮 啓 先生卆寿祝賀会
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20140320
 
(20150701)
   
← Pho'1954ca Photo by Awa
→ 1978年04月22日(土) 同志社ジュニアシンフォニー定期演奏会
 


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