与太郎文庫
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2000年10月28日(土)  名刺ヘシ折り事件 ~ 知事のメール・アドレス ~

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001028
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Web Library;ヤッシーの名刺
http://fcoco.exblog.jp/i14/
 田中康夫知事の講演 20050416 日刊周南新聞社
 
── 局長「知事ねぇ、これ自分の部下と同んなじなんですからねぇ。
会社でいうと(あなたは)社長ですよね。社員に名刺を渡す会社は倒産
する会社ですよ」
知事「私は、まぁ私のEメールアドレスも書いてありますから・・」
局長「ああ、そういう意味で・・」
知事「社員に名刺を渡す会社は、倒産する会社になるのですか?」
局長「そういう会社は、倒産する会社ですね」
知事「なぜでしょうか?」
局長「自分の部下であるにもかかわらず、社長である自分を知らない社
員しかいないということですから」
知事「そうでしょうか?」
局長「そういうことです」
知事「じゃぁ、まぁ、私は私なりのということで、どうぞ、お受け取り
ください」
局長「これは(と言いながら、メールアドレスの所で折り曲げながら)、
ないことにさせていただいてよろしいですよね(折った名刺をしごく)」
知事「もちろん結構でございます。あなたのお考えですから」
http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/mmurase/janome/jyanome3.htm
 「長野県庁、知事名刺折り曲げ事件」を考える
 


 田中 康夫 長野県知事 19560412 長野 /作家“ヤッシー”新党日本代表
 藤井 世高 企業局長  19410904 長野 /20020329 定年退職(189人の代表挨拶)(ときたか)
http://tonighit.blog89.fc2.com/blog-entry-78.html

 
 むかし与太郎にも、よく似た経験がある。
 販促用ノベルティのサンプルを、全国の系列各社に郵送したところ、
さっそく電話がかかってきた。
 
「送られてきたサンプルの件ですが」「はい、ありがとうございます」
「うちでは必要ないので、捨ててもいいですかね」
「それはまぁ、結構でございますが……」
 
 約百社に送って、一社の担当者だけが、わざわざこういう電話をかけ
てきたので、こちらの担当者は、鼻っ柱をヘシ折られてしまった。
 縁もゆかりもないダイレクト・メールを届けたわけではない。
 
 別の数社からは、折返しファックスで注文書が戻っているのである。
 もし、この商品が数十社に迎えられていたら、あわてて捨てた担当者
は上司に叱られたにちがいない。
 
(20101025)
 


2000年10月14日(土)  胡弓、忘れ得べき ~ 朱 鎔基の傾国 ~

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001014
 
>>
 
── 質問者(女性) はい、大阪外国語大学で中国語を勉強しており
ます、ゴフクと申します。中国の方々は歌を歌うのが大変好きだという
風に思うのですけれども、みなさん心の中に、それぞれ自分の定番の好
きな歌というのを持っていられると思うんですけれども、朱鎔基総理の
中で、もっとも好きな歌というのはどんな歌なのでしょうか。もしよろ
しかったら少し歌ってみていただけないでしょうか。
 
朱首相 私は一番好きな曲というのは中国の国歌です。歌えというなら、
みなさんどうぞご起立ください。まぁ、やめときましょう。
 
筑紫 胡弓は一応用意はしてありますけど、胡弓の名士でもいらっしゃ
るんですね。
 
朱首相 ええ、そうですね。
 
筑紫 お弾きになりますか。ほんとによろしいですか。
 
朱首相 もしも、弾けというなら、あちらの女性に歌ってもらいましょ
うか。(胡弓を持って)京劇お好きでない方には非常に聞きづらい曲だ
と思いますけどね。でも、要求ですからちょっとみっともないとこ見せ
ましょう。
 
(演奏があって)
 
筑紫 どうもありがとう。それではほんとに、あのこれはプログラムの
中に予定してなかったんですけれども本当にありがとうござました。
http://www.tbs.co.jp/zhu/jp/theme04_04.html
── 《筑紫哲也スペシャル 20001008-1014 TBS》
 
 朱 鎔基 首相 19281028 China /中華人民共和国総理“中国のゴルバチョフ”
 
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>>
 
 異色、SEXYクラシック軍団登場 ~ 英の8人組「プラネッツ」 ~
 
 深いスリット入りスカートや、ノーブラへそ出しルックの女性、男性
はスキンヘッドやパンクヘアにタンクトップ。そんな衣装でフルートや
オーボエを演奏し、業界に衝撃を与えた英の8人組クラシックバンド
「プラネッツ」が先ごろ初来日した=写真。容姿ばかりか、今年2月の
デビュー後、英クラシカルチャート12週連続1位の実力派だ。
 
 「クラシックなのに、まるで70年代のパンクロックバンド『セック
スピストルズ』か、女性ロックバンド『ランナウエイズ』…」
 
 卓越した演奏テクニックと色気に、来日ライブの観客も息をのんだ。
ベテランバンド「ディープパープル」のツアーに同行したこともあり、
ドイツやイタリアでも人気が上昇中という。
 
 メンバー(別項)は、英国王立音楽学校卒業生ら「音楽学士」ぞろい。
ロンドン・フィルの首席奏者を父に持つメンバーもいるが、ビジュアル
系クラシックを開拓したマイク・バット氏プロデュースの下、「クラシ
ックの最終進化形」ともいわれる。
 
 「クラシックは、誕生した当時の人にとっては前衛的なものだった。
私たちが今の時代を反映した演出をするのはむしろ自然」とメンバーの
ベン・パグスリーはいう。
 
 7月26日に日本で発売したファーストアルバム「クラシカル・グラ
フィティ」(東芝EMI)も、バッハやドビュッシーに加え、バット氏
の曲など19曲を収録、オリジナリティー発揮だ。
 
 さて、話題の衣装について女性のベザリー・エイカーズは、「男性に
注目されるのはうれしい。きわどい格好で、クラシックをとっつきにく
いと思っていた人が興味を持ってくれれば」とか。
 
 もっと興味を持ちたくなった!?
 
 【メンバー】ルース・ミラー(23)=フルート、ベン・パグスリー
(21)、アンネ・キャサリン・シルマー(25)=ギター、ラク=ホ
ン・フィ(26)=チェロ、ジョナサン・ヒル(29)=バイオリン、
マイケル・クルック(23)=パーカッション、ビバリー・ジョーンズ
(25)=コントラバス、ベザリー・エイカーズ(23)=オーボエ
 
ZAKZAK 2002/08/19
http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_08/g2002081906.html
 
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── 高見 順《故旧忘れ得べき 1935》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E9%A0%86

作成日: 2005/09/22


2000年10月10日(火)  ポール先生、さようなら ~ I was busy ~

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
 
 ◆ I was busy
 
── 幸福な家庭はみな一様に似通っているが、不幸な家庭はいずれも
とりどりに不幸である。オブローンスキイの家庭は、ひどくごたついた。
                      ── トルストイ/
原 久一郎・訳《アンナ・カレーニナ 19691030 新潮社》P005
 
 この長編の唐突な警句は、別の訳では「オブローンスキイの家庭は、
まるでめちゃくちゃだった」ではじまります。私の家庭はともかくも、
あたらしい商売は、わずか数ヶ月で、すでに「めちゃくちゃだった」の
です。あたかも真夏の《熱いトタン屋根の猫(*)》のように、のたう
ちまわっていた私に、亀田弘行君から電話がかかってきました。
 
 ポール・グリーシー先生の帰国歓迎会をかねた、ESS同窓会の案内
でした。もともと私はESSのOBではありませんが、同窓会名簿には
掲載されているらしいのです。そこで、なかば冗談のつもりで、X嬢も
出席するかどうかたずねてみると、謹厳なる防災学者は、いったん電話
を切って調査してくれました。
「彼女の出席は、予知できない」
「わかった。君の厚意を尊重して、出席しよう」
 電話のあと、ぼくは父にいいました。
「父さん、ちかいうち父子で昼酒でも呑もや」
「おまえ、商売たいへんやのに、どないした?」
「ええんや、ひさしぶりに気ばらしや」
 こうして、庭園料亭・楠荘に電話で予約しました。
(中学同窓生で地歴部《旅のしおり》の編集スタッフでもある笠原信夫
君が若主人をつとめています)
「えろう早い時間帯やな」
「父子、水いらずや。そのあとESSの同窓会に直行する」
「あいかわらずやな、君は。中学のときから忙がしそうやった」
 その日、若主人が出迎えてくれました。
「おこしやす、お父さん。ボクは(今日の)阿波君がうらやましい。離
れを用意しましたよって、どうぞごゆっくり」
 彼が手を打つと、三味線をかかえた仲居があらわれ、ときならぬ宴会
がはじまってしまいました。やむなく私も、はじめて父の前で唄います。
“♪ 雨は降る降る 人馬は煙る 馬上ゆたかに美少年”
 西南の役の敗北をうたった漢詩調の民謡《田原坂》です。
「まだまだ、一人前やないな」
 座敷あそびの大先輩が、放蕩息子にあたえた最後の授業でした。
 料亭が用意してくれたハイヤーで老父をデパートに送りとどけたあと、
昼酒のせいで紅顔となった車上の美少年は、ESSの同窓会に駆けつけ
ます。
(同志社高校ESS同窓会 19720813 京都大学学生会館)
 
────────────────────────────────
 
── 明治一〇年二月十五日、西郷隆盛を擁して決起した鹿児島私学校
の生徒らいわゆる西郷軍は東西二方面から破竹の勢いで北上した/その
一部は三月二〇日北から迫る政府軍を田原坂に迎え撃った/折りからの
大雨をついて両軍は終日力戦したが、ついに西郷軍は大敗して退いた。
── 《三六五日事典 今日はどんな日か 19681215 社会思想社》P83
 
── Taylor,Elizabeth 主演《熱いトタン屋根の猫 195812‥ America》
── 《屋根の上のバイオリン弾き 197112‥ America》
 Fiddler on the Roof (つまらぬ人々のたとえ)
 
 
 ◆ Later
 
 卒業後十四年ぶりに再会したポール先生は、同席する日本人の誰より
も美しい日本語を話されていました。
 また英語であいさつしなければなるまい、と覚悟をきめていたところ、
みんな日本語で近況報告などしています(なんだ、ほんとは皆も英語は
面倒だったんだ)、ぼくの番がやってきました。
「私は、ポール先生にはほとんど教わることがなかった。宿題もせず、
今日とおなじく遅刻の常習者だった。しかし諸君、いまや私は英語教室
のオーナーなのである」
 どうもESSの連中は真面目すぎて、ジョークが通じない。たんなる
自慢話ととられたものか、隣席の猿橋庄太郎先生が
「きみの英語教室というのは、プライマリーかね?」
 あいかわらず意地悪なセンセイです(私が“primary”という英単語を
知ってるかどうか、試してみたにちがいない)。
「まあ、そんなところです」
(なに、帰ってウチの先生に聞けばいい。そもそも、初歩的でない英語
教室など存在しない、経営的に成りたたないのである)ウチの先生こと
門脇邦夫君は、田村忠彦君の紹介で、二年前インタビュアーをしていた
私の協力者として、米・英・露・仏・独、それぞれに気難しいインテリ
紳士たちとの対談を、すべて通訳・手配してくれたのです(ついでに、
彼の経営する英語教室の分室をわたしの店内に設けたのです)。
 なにしろ彼は、ロシア語のテキスト一冊で、シベリア鉄道を乗りつい
でモスクワにたどりついた勇者です。
「絶望してはいけません。どんな断片的な記憶でも、イザという時には 
役にたつものです」
 語学の達人は、つねづね語っています(そうだ、絶望してはいけない)。
── 《英対話 ~ 門脇邦夫とその意見 ~ 19710901 Awa Library Report》参照
 
 みんなで、ポール先生を京都駅まで見送ることになり、私も高田先生
と話しながら同行しました。プラット・ホームで、ポール先生に話しか
けられました(私に対して、はじめて完璧な日本語で)。
「君の英語教室で、わたしに出来ることがあれば言いなさい」
 先生の美しい日本語の社交辞令に対して、私もありきたりの感謝のこ
とばで応じました。うまいジョークも思いつかなかったのです。
 ポール先生をのせた夜汽車が、線路のかなたへ消えたあと、高田先生
を誘って、行きつけの酒場に案内しました。
「センセイ、もしボクが英語に堪能だったら、インタビュアーでなく、
トランスレーターになってたでしょうよ」
「そやな、そらそや」
 高田先生は、むかしとおなじように優しい。授業中に眠りこけたボク
を起こすため、みんなに歌をうたわせたほどです。
♪ “ Oh my darling, Oh my darling, Oh my darling, Clementain.”
 
────────────────────────────────
 
── primary 1 本来の、根本の 2 最初の、原始的な 3 首位の、主
要な 4 初歩の、初等の  ── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》
‥‥ pay-later 1985 ごろから普及しはじめた複合造語。支払延滞人
ないし多重債務者などを指す。語法上、すこし無理があるらしく、各種
新語辞典では、いまのところ掲載をためらっている。
‥‥ 《愛しのクレメンタイン》誤=フォスター作詞作曲→《雪山讃歌》
 
 
「あのころ(授業中の)君は、まるで仏さんみたいな顔しとったね」
「その節は(居眠りばかりして)申しわけありませんでした」
「ところで、阿波くん。きみは顔がひろいらしいね」
「それほどでも、ありませんけど。何か?」
「実はね、明日から二三日のあいだ、家族旅行をするんやけど、どこか
車をタダで預かってくれる所はないやろか」
「なるほど、どこがいいかな」
 私は一計を案じ、先生の車を銀行の駐車場に運びました。
 すでに深夜にもかかわらず、守衛が、私にあいさつします。
「いらっしゃいませ」
「すまんが、この方の車を数日入れて置きたいんだが」
「どうぞ、あちらへ」
「ありがとう」
「きみ、たいしたもんやな。一流銀行の本店で、VIPかいな」
 先生は、目を丸くしていました。ありようは、私はVIPどころか、
しばしば閉店後に駆けつける常連、つまり厄介な“pay-later”だった
のです。この手紙もまた“later's letter”でしょうか。
 
 ◆ Callback
 
 それから五十五日後の夜、数人の関係者をまえに、私は最後の決断を
下しました。
「やむを得ない、これまでや」このとき階下で、電話のベルが鳴ります。
「だれか代りに出て、私は留守や言うて、用件だけ聞いてくれんか」
 私の代理人は、しばらくして戻ってきました。
「グリ何とかいう人やった。英語教室のことで、何か協力できることは
ないか、いつでも連絡してくれ、言うてはった」
 おもわず私は、天井を見あげてしまいました。
「ポール・グリーシー先生や、高校時代の英語の先生や。すると、あの
ときの言葉は、社交辞令やなかったんや」
 ポール先生、いまこそ私は、感謝と尊敬をこめて、お返事します。
 先生の教え子のなかで、とくに横綱の称号までいただいた劣等生は、
商人としても失脚し、もはや英語教室もなくしました。私は、先生から
ほとんど学ぶことがなかったと思っていたのですが、このときはじめて
人生に優しい感情が実在することを教わりました。
 ミスター・オネスト、ポール先生、さようなら。
 
 ◆ Post Script
 
 失われた日々をたずねて“老いたるアキレス”は、いまもいそがしい
のです。この手紙は、あまりに長すぎるので投函すべきか迷っています。
(もしお手もとに届いたとしても、ご返事にはおよびません)
 失われざる敬意とともに your failuring student (199806‥ < 20001018)
 
────────────────────────────────
 
 あなたの不肖の教え子より(誤=your failling student)の意。
(英語辞書で見つけた英文書簡の慣用句。わざと間違えて綴ったものか)
 
── その長い過去の時間は、それがもはや過ぎ去ったときに長かった
のであろうか。それとも、なお現存したときに長かったのであろうか。
                  ── Augustinus,Aurelius/
服部 英次郎・訳《告白(下)19761216 岩波文庫》P115
 
(20061120)
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
 ポール先生、さようなら ~ 続・教え子の消息 ~
 


2000年10月09日(月)  ポール先生、さようなら ~ Super ~

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
 
 ◆ Super
 
 文芸部の送別会で、ぼくは後輩たちにメッセージを遺しました。
“オレにホレるような女に、オレはホレられたくない。オレの入れるよ
うな大学に、オレは入りたくなかった!”
 それにしても、なぜ優秀な同期生は、申しあわせたように京都大学へ
行ってしまうのか? しかるに中西宏君はどうして行かなかったのか?
 後輩のなかでも群をぬく俊英だった中西宏君に、担任の先生が、
「きみは、どの大学にすすむのか」
とただすので、彼は胸をはって、先生をタシナメたそうです。
「同志社のセンセが、そんなこと言うたらイカン」
「へぇ、なんでや?」
「ボクは同志社が気に入ったから、同志社に来たんです。ダイガクも、
同志社にキメてます」
「そうか、それはスマんナ」
と、先生が礼を言ったかどうかはわかりませんが。かくて彼は、生っ粋
の同志社ボーイとして初の(?)新入生総代の名誉を奪還したのです。
 卒業後、その報告をきいて「さすが、スーパーマン!」と内心喝采し
ました。なにしろ彼は、小山素麿君から数えて四代目・同志社中学新聞
部長でもあったのです。
(しかし二代目が、落第したのはいかにもまずかったかな?)
 三代目新聞部長・北川禎三君については、ほとんど記憶がない。中西
君の印象が強いのは、卒業後に明治屋の前で出会ったとき、彼が大声で
“センパーイ”と声をかけてくれたこと、その翌年には文芸部に入って、
ふたたび後輩となったからでしょう。
 彼の自慢話をはじめるとキリがないので、ほんの一例をあげましょう。
 大学卒業後、NCR(日本金銭登録機)のセールマンとなって、たち
まち新人賞をとります。その記念品とは、米国ナントカ大学の図書館の
蔵書一式(!?)。「そんなもん貰うて、どこに置くんや?」ときくと、
「マイクロ・フィルムに顕微鏡がついてるんですワ」
 そして、社内いちばんの高給とりになったので「居心地わるいから」
退職、踊り子にホレたがフラレる(!)。
 
 最後に会ったころには、彼は結婚して(たぶん父親の後継者として)
スーパー・マーケット(?)を経営していたようです。
 もし今でも続けているとすれば「人類史にとって損失ではないか」と、
竹内君への手紙に、追記しました。
 
 ◆ Post
 
 私の不出来自慢で、教育者としての先生の評価をそこねてはいけない
ので、卒業後に東京で国際的貢献をはたしたエピソードを。
 夜の東京中央郵便局で、用をすませて隣をみると、韓国人老夫婦が涙
をうかべて局員にたのみごとをしています。
 身内が死んだので、祖国に電報を打ちたいが、先方には日本語を読め
る者がいない。ハングル語はもとより漢字でも電報は打てない。じっと
様子をうかがいながら、私は画期的なアイデアを思いつきました。
「よろしい、ボクに任せなさい。まずお父さん、あなたが言いたいこと
を韓国語でボクに言いなさい」老人の顔がパッと輝く。
「なにその、ボクは韓国語はできません」、老人の顔がパッと紅らむ。
「よろしいか、ボクが同じ発音を繰りかえす。大体の意味が通じるよう
なら、ウンという」
「!!!?」
「そのまま、ボクがローマ字に書きうつす。局員さん、それなら電報を
打てますね」
「ウン? はい!」
 
 ◆ Reunion
 
 みんなが三十歳になったころ、あいついで三度の同窓会が設けられま
した。中学高校時代に一度でも机をならべた同窓生に呼びかけ、ナイト
クラブ・ベラミで再会する私設同窓会という趣旨で、来賓の先生がたを
ふくめて百人におよぶ盛況となりました。
 このときの記録は《同窓会始末 19710115-0415》にまとめましたが、
私の役割は、当日の受付・司会を担当する前に、ひとりで延五百数十人
の案内状の宛名を書くことでした。
 その結果、受付にあらわれた出席者ひとりひとりに対して、ほとんど
間髪を入れず、フルネームで応答することができました。十三年以上も
前の、ほとんど口を利いたことのない相手、しかも年齢や容姿の変化に
かかわらず、満点ちかい正解率は自慢してよいでしょう。
 これにくらべると、わたしが中学高校の七年間でおぼえた英単語は、
当時の推定で約一千語にすぎません。
 国立大学の受験に約三千語必要ならば、漢字の名前(平均四文字五百
組、わたしの同期生はその三倍)を記憶する能力があれば、とるにたら
ないはずです。
 しかるに、この記憶能力は、なぜか学業において機能しませんでした。
 
 ヒトの記憶は、右脳における画像認識“アナログ記憶”によるとされ、
左脳では論理思考を操作するといわれます。一般的に、歴史年号や電話
番号(無関連な数字の羅列)などの記憶能力が高い人たちの、数字認識
“デジタル記憶”は、論理思考にも適しています。すくなくとも日常の
判断はすみやかで、ぐずぐずと迷うことがない。たぶん彼らは数字以外
にも“デジタル記憶”を応用できるらしいのです。
 いっぽう、相互関連などの周辺情報とあわせて、数字そのものまでも
“アナログ記憶”する人々が居ないはずはない。個人的に小規模な調査
をしたところ、私と長男以外には該当者が存在しないのです。そこで、
これを“数の風景”と名づけましたが、余分な情報が多すぎるために、
実用面での効率が悪いのは当然でしょうか。
 
 受付にあらわれた女性が「あのう、……ですが」と名乗るまえに、
「××〇子さんですね!」と旧姓で呼びかけることができます。
 亀田弘行君も一目で思い出しました。このとき彼が名刺をくれたので、
みると「京都大学工学部教授」とあります。
「助教授」のまちがいではないかと再確認したくらいで、これは大変な
ものだと思いました。如才なく
「たいしたもんだ、いつ昇格したんだ?」とでもいうべきところ、適当
な言葉をさがしているうちに、つぎつぎに来場者があらわれ、それきり
になりました(彼としては、私の反応が物足りなかったでしょう)。
 プログラムがはじまり、私がマイクをもって先生がたに順にスピーチ
をお願いしたあと、雇っておいた女性アナウンサーが、欠席者の祝電や
返信はがきのメッセージを読みあげます。
 これには、あらかじめ私のメッセージを混ぜてありました。というの
も司会の役割とは別に、私の個人的な見解をひとこと言っておきたかっ
たのです。それも、皮肉たっぷりに。
「順境にあるヤツはがんばれ,逆境にあるヤツはザマア見ろ!」
 百人もの宴会で、こういうきわどい表現は良識を欠くものだ、と眉を
ひそめる立場もありましょうが、(私の意図は)むしろ逆境にある同窓
生は、出席者のなかにも欠席者のなかにも居るはずだ、三十歳になって
苦労している仲間を、胸のうちで励まそうではないか、というところに
あったのです(Diogenis Laretii《Periandros》 参照)。
 
 六十才になって、あの日の印象を思いだすと、事業で成功していると
みえた者は、すべて二代目ばかりで、あたらしい事業をはじめた者など
いなかったのです。かくいう私も、父のわずかな資産をもとに、いわば
家屋敷を投じて、それなりに緊迫感をもっていたのです。
 独力による勝者を賞賛して拍手をおくるために集まったのなら、亀田
君はうってつけの第一人者でした。しかしそのあと、われもわれもと他
の者の自慢話がつづいたら、とても虚しいパーティになったでしょうね。
 
 はたして二次会・三次会と流れるあいま、某君が私に小声で
「すまんが一万円貸してくれんか?」とささやきます。
 そうだ、これも現実なのだと私は感慨をふかめたのです。後日、もち
ろん彼は返してくれました。
《同窓会始末 19710115-0415》を送ったあと、ひとりの女性から礼状が
届きました。
「あのあと井上正雄さんを訪ねて、同窓会がどんなに楽しかったか、お
話をしてまいりました」
 ヘッセ《郷愁》に描かれたボピーとおなじ病気の井上君は、中学時代
の宗教部でどんなにか親しかったのに、半年もつづけた早朝祈祷会や、
ときには若王子山頂の校祖墓前に彼も挑戦し、街の安食堂で笑いあった
仲間だったのに、高校に進むと、文芸部・ホザナコーラス・器楽部など
彼の不得手なグループばかりに加わって、たちまち疎遠になりました。
 そして高校二年のころ、ひさしぶりに彼が訪ねてきた日、あるいは、
卒業後とつぜん彼が訪れたときには不在で、くりかえし彼の心を傷つけ
たまま絶えてしまったのです。
 彼女は、しかし井上君のことを思いだして、あるいは私にかわって、
彼をはげましてくれたのです。
 商売だの仕事だのを口実に、毎夜のように酒場にかよっている自分の
俗物ぶりを、彼女が知るはずもないが、もはや少年のこころを失った私
をたしなめるように、あるいはそれ以上に失わないよう伝えてくれたの
ではないでしょうか?
 わたしの人生において、彼女は知の女神にあたります。美の女神は、
わずか二度しか会っていませんが、ヴァイオリニスト・巌本真理女史の
厳しい芸術家としての姿でした。愛の女神は、亡き母であるはずですが、
彼女はあまりに厳格すぎたので、二人の息子の母に譲ることにします。
 
 ◆ Stag
 
 私にとって最後の同窓会は小規模なもので、案内状もつくらず十数人
に電話連絡しました。なぜか女人禁制です。招待する先生も、現職教諭
ではまずかろうということで退職されていた二人の先生が選ばれました。
 そんな趣向とは知らずに、三十歳をすぎた俗物紳士の秘密パーティに
招かれたのは、同志社大学人文研究所教授に栄進された杉井六郎先生と、
外車販売の日光社・営業部長に転向された高田幹也(茂)先生でした。
 高校生が、教壇の机にヘビの死骸(杉井先生の回想 P066 参照)を入
れた箱をおいて先生をおどろかせるような、悪ふざけのつもりでした。
 しかるに両先生は、なかなかの粋人であり、悠然として、われわれの
演目をたのしまれたらしい。
 杉井先生に格別の敬意を抱いていた私は、さすがに赤面して
「恥ずかしくって顔もあげられません」というと、先生は
「なに、君たちはもう立派なおとなに成長したんだ」と笑ってくださっ
たのです。
 おなじ言葉を、高校三年のときに(進級・進学について特別に呼びだ
された)私の父も聞いています。
「お父さん、いろいろご心配でしょうが、彼を一人前の紳士として接し
てやっていただきたい」
 一人息子の将来に暗然としていた父は、すっかり感動して帰り、
「あの先生はエライもんや」と母にも語っています。
 
 私に関して最後となった職員会議の席上、担任の杉井先生の発言を、
わたしは次のように空想しています。
「ただいまは数学・物理の先生から、彼の成績が進級・卒業に値しない
水準にあることを、きわめて具体的かつ客観的にご説明いただき、担任
として本人以上に恐縮した次第であります。もとより私の日本史におい
ても、いわんや各教科の先生がたにおかれても、同様のご意見がうかが
われましょう。しかしながら、いわば同志社の建学の精神を想起するに、
わたくしは新島襄先生のことばに、いまあらためて、胸うたれるもので
あります。“徹頭徹尾、生徒を愛すべし”もとよりわたくしは同志社で
教育を受けた者にあらずして、本校の末席につらなるという身にあまる
光栄とともに、つねづねこの言葉によって自らを律しております。この
言葉にひかれて、わたくしは本校の教員を志願し、お許しを得て以来、
ようやく最初の卒業生を送り出すときを迎えたのであります」
 
 おそらくこのような名調子で、修辞学の達人は列席者ひとりひとりの
心を平らげたのではないか、と思います。
「すなわち、かくのごとく卒業をひかえた生徒は、ことごとくわたくし
のかけがえのない生徒たちであります。かなうならば、いつまでも彼ら
とともに学び、彼らとともにありたいと願うのが切実なる心情でありま
す。優秀な生徒からは学びつづけ、優秀ならざるものには教えつづけた
いと願うものであります。さりとて彼らにも彼らの人生があり、未来も
あります。わたくしの手をはなれて飛躍する可能性は無限であります。
されば諸先生がた、わたくしの手のなかにある鳩たちを、一羽たりとも
余さず、はるかなる大空にむけて、解きはなつことに御賛同ねがいたい
のであります」
 そのあと、街で出会った先生に、愚かなハトはこう訴えています。
「センセイ、ボクは卒業できないと、入学試験に合格しても意味がない」
「アワや、という状況だったが、安心しろ。受験勉強にはげみたまえ」
(♪ 仰ゲバ尊シ我ガ師ノ恩)。
 かくて期末試験を免除されて、「特急ハト」に乗ったボクは、東京に
向って飛びたつことができました。
 人生にわずかな希望を取りもどして、一時帰郷した青年が、破れ寺に
間借りしておられた先生をたずねると、
「君たちが、どんなにエラクなったとしても、わたしも、君たちの教師
として、いつまでも負けないぞ」
 そして万巻の書籍を収めたミカン箱のすきまから、ウィスキーを抜き
だして、私のための祝杯を注がれたのです。
 
 杉井先生の来賓祝辞は、録音テープのほか日記(1978ca)にメモあり。
左頁下段の印刷書簡 (Let'19670815 消印)には華麗なるダンディズムが
あふれている(P66参照)。同志社大学人文研究所教授、エール大学客員
教授、のちに京都女子大学名誉教授。下記の資料により消息を知る。
── 《日本執筆者事典 19670920 日外アソシエーツ》著者番号
── 杉井 六郎・監修《蘇峰書物随筆・全十巻 1993 ゆまに書房》
 
────────────────────────────────
 
──  [ 米口語 ] STAG PARTY. go stag 女性の同伴なしで行く。/
Stagger よろめく。千鳥足で歩く。 ── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》
 
── 暑中お見舞申しあげます このたび 私事 8月13日から19日まで
Ann Arbor で開かれる International Congress of Orientalists に出
席し、その後 Princeton大学、Yale大学でそれぞれ半歳ずつ研究のため、
渡米いたすことになりました。アメリカでは幕末明治以降の在日宣教師
報告の調査、研究を予定しています。 昭和42年8月4日  杉井 六郎
──  East Asian Studies 70 Whasington Road Princeton University Princeton N.J.08540 U.S.A.
 


2000年10月08日(日)  ポール先生、さようなら ~ too Long ~

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
 
 ◆ too Long
 
 ふだん口を利く機会のない亀田弘行君が、笑いながら話しかけてきま
した。
「きみ、クラシック好きやろ」
「まあな」
「輸入LP盤、聴きに来いひんか」
「どこへ?」
 あろうことか彼もまた、ESSの隠れセールスマンだったのです。
 当時のボクは、通学路周辺の名曲喫茶にあるすべてのレコードなら、
針をおろした瞬間に、演奏者まで名指しできるほど精通していたので、
あたらしい盤が聴けるなら、どこへでも出かけたにちがいありません。
「ESSか。また何かしゃべるんやろ?」
「いやいや、レコード聴くだけや」
 行ってみると、メンデルスゾーンの協奏曲が鳴りはじめる。
「誰や、ハイフェッツかな?」
 さっそく亀田君が、ジャケット数枚を持ってきてくれました。そして
そのまま、ボクのそばから離れようとしないのです。ジャケット裏面の
真っ黒な英文活字をにらみつけ、ボクは荒野の試練にさらされたのです。
そのボクを、じっと見張っている亀田君との我慢くらべは、数時間にも
およびました。ほんとうのところ、ボクはジャケットはもとより、音楽
も亀田君の存在も、眼中にないほど固まっていたのです。
 なぜなら、その席にX嬢が現われたからです。数ヶ月まえに、彼女に
あててはがきを出していたことは誰にも知られたくないが、この数ヶ月
もの間、ひそかに彼女からの返信を待っていたのです。
 その数日後、もういちど彼女にあてて(メンデルスゾーンの華麗なる
ロマンチシズムに関する意見書を)投函しましたが、かれこれ四十数年
を過ぎてなお、いまだに返信はありません。当時の、文芸部誌《山脈》
第十四号の表紙では、彼女が着ていたセーターの色を再現しています。
その色は、以後の作品にあらわれることのない、わたしのエヴァ・グリ
ーンとなりました。
 このころひそかに、高校オーケストラの構想も熟していました。
 ゴリとバンバ(吉田 肇 &馬場久雄)とともに“三銃士”、有賀誠一
をダルタニアンになぞらえ、わがシンフォニエッタ発祥の歴史をつづる
音楽自伝として、一挺のチェロの運命をたどる《双竜外伝》、草稿断片
《天才少年少女伝》などがあります(いずれも未完成ですが)。
 
────────────────────────────────
 
── 【虚日】何事もない日。ひまな日。【虚実】①無いことと有るこ
とと。空虚と充実と。②うそとまことと。③防備の有るのと無いのと。
種々の策略を用いること。→【虚々実々】(「虚実」を強めていう語。
「虚」は備えのすき、「実」は備えのかたいさま)互いに敵の虚を攻撃
し、実を避けて、計略や秘術の限りをつくして相戦うさま。【虚実皮膜】
(近松門左衛門の語)芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実
と虚構との中間に芸術の真実があるとする論。
── 新村 出・編《広辞苑 19711118 岩波書店》P0584
── 虚虚実実の〔抜け目のない〕shrewd,astute;〔たくみな〕clever
 
── 荒木 一雄・編《ブライト和英辞典 19890120 小学館》P338
 虚々実々、ここではパロディ風に「虚々日々 Day was Day 」と転用。
 
 
 ◆ Who was Who
 
 亀田弘行君とは、それほど親しいわけではなかったのですが、回想を
たどるなかで、しばしば重要な役割で出現します。
 中学二年のころ、級友たちのうわさによれば、彼の父(生徒名簿では、
保護者・亀田得治)が、国会議事堂で灰皿を投げつけたというのです。
 かくも血気さかんな野党政治家(吉田内閣時代の社会党議員)を父に
もちながら、おとなしい彼(この親亀にして子亀)が、なぜ地震学者に
なったのか。わたしは“地震ハイザラ火事オヤジ”と連想していました。
 これを書きながら(念のため確認すべく)私のハードディスクにある
約70,000行のファイル《生没総譜》を検索したところ見あたりません。
つまり、一般的な人名辞典に掲載されていない場合は、引退後ひさしく
健在であることも考えられます。そこで衆議院事務局に問いあわせると、
中学時代の情報が誤っていたことが判明しました。
 なんと彼の父は、灰皿を投げつけられた方だったのです!
 亀田 得治 衆議院議員 19120814 大阪 19940314 81 /社会党/弘行の父
 
 篠田 弘作 衆議院議員 18990727 富山 19811111 82 /自民党
── (しのだ・こうさく)9歳で樺太に移り開墾に失敗、商店の小僧
など職を転々として上京、1927(昭2)年早大卒。『朝日新聞』記者、国策
パルプ理事を経て、49年の総選挙で北海道4区から当選(自由党)。以後
当選11回。直情径行で武勇伝が多く、53年衆議院予算委員会で灰皿を野
党議員に投げつけ、野党議員負傷の乱闘事件を起した。
── 《朝日人物事典 19901210 朝日新聞社》P792
 
 
 ◆ Professors
 
 ひとくちに私の同期生、といっても(小学校・高校で留年しています
ので)前後三学年にわたります。
 三十歳にして京都大学防災研究所教授となった亀田弘行君は、のちに
阪神大震災後ほどなく、NHKの公開シンポジウムに登場しています。
「防災コストは、被災金額に反比例する」という趣旨の発言でしたが、
ライフライン工学では、あたりまえのことも理論化するのでしょうか。
 彼を同期生のなかの一番星とすれば、一年上の本命星に脳神経外科学
の小山素麿君がいます。彼はESSには無縁でしたが、同志社中学新聞
部長、ホサナコーラス(バス)、そして、われらが枯木コーラスでは、
初代にして最後のコンダクターの栄誉を手にしています。このときの、
私の奇妙なアレンジならびにテノール独唱のおかげで、すっかり赤恥を
かいた結果、勉学一途の決心をしたらしいのです。
 よほどはなばなしい臨床成果をあげたとみえ、五十歳を待たず、私の
紳士録に登場しています(脚注=ホーム・ページ「名医が語る」より)。
 名門校の条件は、すぐれた卒業生を輩出することですが、実態は有力
者の子息子女が参集することにあり、同志社中学・高校も、総理大臣の
孫、自治・法務大臣の長男・次男、俳優・学者・実業家など多士済々、
もちろん二代目すべてが紳士淑女録に登場するわけではありません。
 実業界の後継者では、立石電機・立石義雄、十字屋楽器店・田中義雄
の二人が堂々の常連です(それぞれオムロン、Jeugia と改称)。
 また、子役時代から二枚目だった加藤雅彦は、中学を出て早稲田実業
にすすみましたが、父・沢村国太郎の仕事の都合だったのでしょうか。
 なお、最近のテレビ番組で、津川雅彦は昭和13年十二月二十一日生れ
と自称していましたが、この現象は昭和二十三年の民法改正以前には、
医師または助産婦の出生証明書を要しなかったため、届出の六ヶ月前、
任意の日付を選ぶことができたのです。したがって、私自身の誕生日も、
戸籍上は一月二十日ですが、実際の出生は前年十二月某日(ひとつの、
可能性としては旧暦十二月下弦?)だったらしく、くわしい事情や本来
の日付は分らないままです。
 すこし余談になりますが、おなじ防災研究所の大先輩にあたるひとり、
角屋 睦 教授は、わたしの小学校時代の恩師・芝山マツ先生の令妹婿に
あたります。教授の外国旅行に際して、写真機材を一括購入されること
になって紹介されました。その研究室における滞在時間数は、学内でも
評判の記録的伝説だったそうですが、のちに酒場で出会った後輩教授の
証言では、さらに尾鰭がついて「あれでよくも子供が生まれたものだ」
などと象牙の塔にふさわしくない軽輩もいたそうです。
 おなじ建物の研究室で、いま亀田君も机に向っているのでしょうか。
 当時わたしはNHKの契約カメラマンとして、オリジナル企画である
《保津川の一日》の構想について助言をもとめています。さらにまた、
研究室助手の渡辺少年が(カメラマン志望だったので)転職して、私の
アシスタントになりましたが、どちらも半年ほどで挫折しています。
 
────────────────────────────────
 
── 角屋 睦 (研究代表者) /昭和58年7月山陰豪雨災害、京都大学防
災研究所年報、第27号A、1984,pp.45-50
── http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/photo/misumi/misumi.html
── 昭和60年度日本気象学会秋季大会シンポジウム「都市化と災害」
の報告 2 角屋 睦 33 91―94 (3)
── http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/TENKI/index/subject/index4-1.html
 
──(脊髄腫瘍は)年間十万人に一人余りですから、滋賀県だけを対象
にしていると私のする仕事はほとんどありませんが、日本各地から患者
さんを紹介してもらいますので、年間三十人余りの方を手術しています。
これには脊髄血管奇形も含みます/「MRIといういい機械があるから
撮りましょう」と言われたら逃げればいいのです/私の師匠の、スイス
の教授は、打腱器、18金製の安全ピン、それにレントゲン写真だけで
診察されて、正確な手術をされていました。MRIを私も使うことがあ
りますが/百万人に一台で十分な機械なのです。ところが日本では、三
万人に一台、ところによると一万人に一台というところもあります。/
病気は、医師と患者が一緒になってお互いの信頼関係のなかで治してい
くものです。 ── 小山 素麿《名医が語る健康と医療のはなし》
── http://www.health-net.co.jp/meii/koyama.html
 
 
 ◆ Retire
 
 そのころ、NHKの新米プロデューサーだったのが竹内 康 君でした。
彼が文芸部の後輩として山脈十五号に寄せた哲学的論考《無情について
1958》は、つよく私の心をとらえ、のち追随して《日常について 1964》
を書いています。かつて、シンフォニエッタ初代コンサートマスターを
(しぶしぶながら)つとめてくれた彼との友情は、卒業後もつづいて、
とりわけ酒場において最高潮に達しました。
 京都放送局長に栄進したことを知り、二十五年ぶりの電話で、
「君は学者になるべきじゃなかったか?」というと、
「学者なんかいっぱい居るからね」、しからば手紙で、
「学者が多いわけではない、大学教授が多すぎるのだ」。
 つまり、彼のようなセンスと博識をそなえた、はたまた世俗に通じた
人文学者を、わたしは待望していたのです。
 彼の人生双六における“アガリ”はいつの日か、しかしまさかNHK
会長にはなるまいな(理事だって大変にちがいない)、などと老いたる
アキレスは、ひとりつぶやいています。
 
“老いたるアキレス”とは、ゼノンの詭弁「アキレウスと亀」から思い
ついた、いわば自嘲的造語です。
 あるとき何気なくNHK市民講座を観ていると、京都大学名誉教授・
森 毅 という数学者の解説では、この話をきいた賢人が「こんな詭弁に
つきあっていること自体、馬鹿げている」といって立ち去った、という
のが結論です。
 引退した学者とはいえ(その手は無いんじゃないか)せめて、素人に
興味のもてる説明を期待していたので、がっかりしました。あらためて
素人むきの通俗書や百科事典を読んでみても、納得できるものがない。
 そこで「距離もしくは時間が無限ならば、この詭弁が成立する」こと
に気づいたのですが、はたして、このような説明だけでよいものか。
 手稿《走れアキレス! 1987ca 》や《アキレスみたび 19931103 》で
図解したりするうち、そもそも疑問を抱いていた「時間とはなにか」を
自分なりの手法で説明してみよう、と決心したのです。
 まず、生没年月日(人が存在する期間)に異説・誤植が多いことから、
歴史上(あるいは伝承上)の人物には、ところどころ空白の期間がある
のではないか? ついで無限に連続すると信じられている歳月も、古代
から現代の暦法につながる確証はあるのか?
 たしかに、ひとりで考えることは能率がわるく、ほとんど役に立たな
いばかりか、しばしば幼稚で必然性にとぼしいのです。しかしこれまで、
ほんとうに自分ひとりで考えたのは少年時代だけで、おおくは専門家や
他人の意見に依存していたのではないか、と思いあたります。
 五十歳をすぎて、引退すべきか迷っていたころでした。
 
── 子曰加我数年五十以学易可以無大過牟 ──《論語・述而篇一六》
 
 セネカは、世俗との訣別について(くりかえし)説いています。ぜひ
定年退職を迎えんとする畏友・後輩たちに伝えたい、深遠な考察です。
── 君が若年のころから、学問研究のあらゆる修行で勉強してきたこ
とは、巨大な量の穀物が君の良好な管理に委ねられるためではなかった
のだ。君は何かもっと偉大で、もっと崇高なものを自分に約束したはず
である。    (食料長官パウリヌスに宛てた書簡)── セネカ/
茂手木 元蔵・訳《人生の短さについて 19801117 岩波文庫》P052
“老いたるアキレス”も、竹内君への手紙を“一口噺”で結びました。
「ロ-マの哲人セネカは、常々後輩に引退をすすめ、みずからも隠棲を
図ったが、おくれて切腹した。早くセネカ!」
 
────────────────────────────────
 
── 最愛の友セレヌス君、私にはかく言うアテノドルスが、余りにも
多く時世に身を屈し、余りにも速やかに退去したように思われる。私と
ても、時によっては後退すべきであることを否定するわけではないが、
しかし徐々に一歩一歩と、また軍旗も損なわれず軍隊の威信も損なわれ
ることなく後退すべきである。敵側に一層よく威厳を示し、一層安全で
あるのは、武器をもったまま降伏する者たちである。 ── セネカ/
茂手木 元蔵・訳《人生の短さについて 19801117 岩波文庫》P078
 
── 順境にあるときには適度を守り、逆境のなかでは思慮深くあるこ 
と。友人たちに対しては、彼らが順境にある場合にも逆境にある場合に
も、いつも同じ者として接すること。約束したことは何であれ守ること。
秘密はもらさぬこと。過ちを犯した者だけでなく、犯そうとしている者
をも懲らしめること。この人が護衛兵をおいた最初の人であり、またそ
の支配体制を僭主制に変えた最初の人である。
加来 彰俊・訳《ギリシア哲学者列伝(上) 19950715 岩波文庫》P090
 


2000年10月07日(土)  ポール先生、さようなら ~ 続・教え子の消息 ~

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007

 
── チップス先生さようなら“Goodbye,Mr.Chips”ピーター・オトゥ
ール主演のドラマチック・ミュージカルで舞台はカンカン帽を制帽とす
るイギリス南部の学園。融通のきかない教師の人柄と生徒たちの交流を、
それなりの人間性で描いた好編。(昭和四四・一二・二○)
── 田中 純一郎《日本映画発達史Ⅴ 19760710 中公文庫》P188
 
 ◆ Let's letter
 
 わたしの成長に、かけがえのない関心をいただいた“三人の先生”を、
結婚披露宴にお招きしてから、やがて三十三年目にならんとしています。
 その筆頭は、小児結核で休学していた九才の少年を迎えてくださった
金谷昭良先生でした。その後も二十年間にわたって、作文や絵画、孔版
から読書におよぶ、あらゆる技術・技法の基礎を、文字どおり手をとる
ように教わったのです。もちろん、手紙の書きかたも。
 
「教え子の消息」の初稿は、高校一年の夏休み課題(国語・岡谷 清子
教諭)による《愚作自叙伝 1955 》の終章です。岡谷先生の採点は A゜
でしたが、将来もっと本格的な自叙伝を書くため、少年期にありがちな
思いあがりから、早計な決断のもとに破り棄ててしまいました。
 あらましの内容は、音楽に傾斜しはじめたころの経過を述べ、九州民
謡《五木の子守唄》から黒人霊歌におよび、とくに虐げられた人々への
共感を論じています。
 この情熱は、まもなく西欧古典音楽に発展して、ついには高校オーケ
ストラの実現にいたるのですが、くわしい経過は、この《虚々日々》の
他に別稿《双龍外伝》、家伝《伊甲遍路》に分散しています。
 実は、このときの宛名に想定していたのは、小学校五・六年の担任・
芝山マツ先生でした。
 その続編を、芝山先生ではなく、むしろ敬して遠ざかっていたポール
先生に宛てて書くことにしたのは、諸先生・友人ほか、少数の読者にも
通じるような、文学的趣向として選んだものです。
「ポール先生、さようなら」というタイトルは、映画になったヒルトン
原作の邦題《チップス先生さようなら》から転用しています。
 芝山先生には礼法をさずかったというべきでしょう。かけがえのない
生涯の友人たちが待ち受けていた同志社中学・高校で、さまざまな友情
を得るための作法をまなんだと信じています。かつての友情は、いまも
記憶のなかにあり、年を経るごとに節度ある敬意に変化しています。
 
 少年から青年にいたる危機的な一年間、杉井六郎先生との遭遇により、
ダンディズムというものが、決断のときの正装となることを知りました。
そして杉井先生の配慮によって、私は現実の世界へ送り出されたのです。
 金谷先生の技法、芝山先生の礼法についで、杉井先生の処法と呼ぶべ
きでしょうか。かくいう“三師の恩”については、個々に、あるいは、
概して語り尽せるものではありません。
 
 この手紙は、とくに感謝をささげたい諸先生への献辞をかねた教え子
の消息であるとともに、青春をわかちあった友人たちに宛てた回想記の
一部であり、二人の息子に対するわたし自身の記念誌の序文です。
 
 わたしの母は、満六十才で亡くなりましたが、おなじ年齢に達して、
わたしの人生を母に語るとすれば、どんな形式がふさわしいかと考える
に、母は(老人になる前に亡くなったので)一人息子の人生をどのよう
に予想していたのか見当がつかないのです。父は、満六十七才を目前に
亡くなったので、それなりの無常感を抱いていたと思います。
 
 ◆ Dear Mr.Paul
 
 ようやく六十才を迎えるわたしが老人と呼ばれるなら、わたしよりも
年長の先生がたは、一切の面倒なことから解放され、すでに引退されて
久しいことでしょう。
 ともに老人となれば、ときおり手紙を書くことや、思いがけない手紙
をひろい読みする楽しみが残されており、さらに都合のよいことには、
返事をしたためるなどという、世俗の義務からも解放されています。
 儀礼的に永年の無沙汰をわびたり、愚痴めいた苦労話やあらぬ自慢話
もつまらないので、なにか目あたらしい形式の手紙をと書きすすむうち、
無用の注釈や引用をとりまぜた、長々しい手紙になってしまいました。
 その結果、同年輩の友人たちも老眼鏡なしには読めないほどの、新聞
の株式欄なみの文字になってしまいましたが、すべてお目通しいただか
なくても、パラパラとめくって下さればよいのです。
 
 私の在学中、ポール先生の日本語は、私の英語と同程度でしたから、
ほとんど語りあうことがなかったのは、まことに残念でした。しかし、
ほんとうのボクは、無口な生徒ではありません!。むしろ、日本語での
手紙を書きはじめると、どこまでも饒舌なので、しばしば投函する時を
逸してしまうこともあり、ワープロからパソコンの容量が増すほどに、
日記や書簡草稿のファイルが、さまざまの日付で散らばっています。
(この手紙は、約半年間 [1998062. < 19990120] の草稿によります)
 
 かつて卒業後十四年ぶりに再会した先生は、同席する日本人の誰より
も美しい日本語を話されていました。
 いまでは英語のにがてな教え子からの手紙も(奥様の手助けなしに)
読んでいただけるかと思いますが、わたし自身の回想をつづっただけの
ものですから、ばくぜんと眺めていただければよいのです。
 再会の、さらに数十日後(昭和四十七年十月七日)夜、私の不在中に
お電話くださったことを、ご記憶でしょうか。そのあと、コールバック
せずに今日まで無礼のまま、うちすぎてしまいました。
 わたしの生涯で、もっとも美しいエピソードの数々を、ようやく語る
にあたって、ほとんど語りあうことができなかったポール先生からも、
これほどおおくの感銘をさずかったのですから、ほかの諸先生から与え
られたことへの感謝は、とても語り尽せないのです。できれば、今後は
数人の先生にあてて、それぞれふさわしいテーマのもとに書きつづけた
いと思います。
 
 ◆ Trick
 
 昭和三十年の秋、高校一年の私は、最初の自叙伝を書きあげたのち、
ひとつの決心を捨て、もうひとつの決心をしていました。
 最初の決心は首位をあらそう成績に達することでしたが、次の決心は、
これを放棄して音楽に専念することでした。
 まず教科書を持ってこないこと、あたらしい教科書は買わずに楽譜を
あつめることにしました。なるべく授業中は睡眠にあて、体育の時間は
体力消耗するので、一計を案じてニセの健康診断書を手に入れました。
つまり、通りがかりの医院で「国立大学の受験勉強に専念したいので、
ドコカ悪いことにしてくれませんか」というと、初対面にもかかわらず、
初老の医師が「そうか、ロクマクあたりにしておこうか」と、気やすく
書いてくれたのです。いまでは信じられない話ですが、この診断書一枚
で、卒業にいたるまでの体育の時間は「見学」と称して免除され、もっ
ぱら器楽部の部室でチェロの練習にはげみました。
(新聞部・文芸部の後輩・中西宏君は、ラジオでサン=サーンス《白鳥》
が流れるたびに、私のことを思いだすといいます。チェロや、とりわけ
オーケストラに関しては、あまりにも膨大な草稿が眠っていますので、
この手紙では、なるべく他の記憶を回想するつもりです)
 うまいことに、もっとも恐れられていた体育の、星野光司先生が退職
され、大学をでたばかりの新米先生が、だまって見逃してくれたのです。
(♪ 仰ゲバ尊シ我ガ師ノ恩)。
 
 ◆ Guest
 
 どことなく落ちつかない気分のある日、ESS(英語部)の誰かに、
声をかけられました。
「こんど来た英会話の先生は、マサチューセッツ工科大学を出た秀才で、
グリークラブで歌うてはったらしい」
「本場のグリークラブか」
「そうや。歓迎会やるから、君も来いひんか」
「オレ、ESSなんか入らんゾ」
「歓迎会だけ、ちょっとのぞいてみたらどうや」
 いま思えば、この勧誘方法はESS伝統の営業方針らしく、しばしば
パーティやレコード・コンサートの名目で人集めがおこなわれ、いつの
まにか本人も知らないうちに私の名はOB名簿に載せられたようです。
 いかなる事情であれ、はじめて日本にやってきたアメリカ青年には、
すべて熱心な語学使徒にみえたでしょう。それと同時に、うわさにきく
名門大学出身の、青い目のハンサムな秀才に、女生徒たちがうっとりと
してしまったのも当然です。
 みんなが歓迎の辞を述べることになり、この私にも順番がきたのです
(あレレ、ハナシがちがうやないか?)。
 
 ◆ Nobody
 
 まったく不用意でしたが、とっさに当時流行語となっていたアメリカ
の新兵器「オネスト・ジョン」を思い出し、
「ボクが見るところ、とても親切な優しい先生である」
 どうか授業ではお手やわらかに、と結ぶつもりがつづかない。
 私の英語は国語にくらべて、われながら見劣りするもので、はたして
先生の反応は不得要領でした。先生のそばでは上級生が、ヒソヒソ注釈
しているが、オチがあるとは知らないから、おそらく話はそれている。
 みっともないので途中で打ちきり、得意分野に変更しました。
「それでは黒人霊歌を歌います。《Nobody Knows The Trouble I've Seen》」
 おせっかいな上級生が、またもやヒソヒソ補足する。花の女生徒たち
はもっぱら先生の顔ばかり見ている。こんどは先生が、上級生に尋ねて
いるのが見える。「何だって?」「ニグロ・ソングです」「Oh !?」
 この瞬間ボクは、先生が本場のグリークラブ出身であることを思いだ
したのです(シマッタ!)。おさない少年の声は乱れはじめ、さいごは
消え入らんばかりとなりました。(♪ Oh yes Lord !)。
 
 日本語で“アガル”というのは、実は多様な心理的症状で、最初から
“アガッテル”ケースがふつうで“後アガり”はめずらしい。森田正馬
“森田療法”参照。京都語では(北に向って)上る、(南に)下る、と
いう。一般用例では、双六ゲームの終着、ひいては女性の閉経(卑猥語
に類す)、隠語としては料理職人が店を退めること、などです。
 
 *
 九州では、炭坑に入るとき「クダル」、出るときに「アガル」という。
── 「あがる」というのは、人間のすばらしい習性だ。恐怖をのりこ
えて人前に出ることができる。(20011225)アンソニー・クイン」
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19260919
 
────────────────────────────────
 
── Massachusetts Institute of Technology  アメリカ、マサチュ
ーセッツ州ケンブリッジにある私立大学。1861年創立。物理学を基礎と
した工業教育と充実した一般教養、経済学の研究で有名。略称MIT.
── Honest John 地対地攻撃用のアメリカ陸軍のロケット。射程距離
30km 。誘導はしないが、核弾頭の装備も可能。
── 《新世紀百科辞典 19781005 学習研究社》
 
── glee 歓喜 (joy) : in high ~ = full of ~ 上機嫌で
Glee club 合唱団、グリークラブ。【楽】(正しくは無伴奏の)3部
またはそれ以上の合唱曲。
── LP【商標】エルピー(演奏時間を増加した毎分 33 1/3 回転の
レコードについていう)【 < long-playing 】
── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》
 
 ◆ Trio
 
 先生の授業は、たしかに親切で優雅でしたが、学期のおわりには私の
勉強方針もバレてしまいました。
「最近おぼえたニホンゴ、それは“ヨコズネ”デス」
「なんや、相撲のことやで」と生徒たちが笑っていると、
「KINOSHITAサン“セキワケ”、ARIGAサン“オオゼキ”、
AWAサン“ヨコズネ”デス」
「なんで、AWAが横綱やねん?」誰かがいぶかる声に、
「いつも宿題してこなかった“ヨコズネ”デス」教室がざわめいて、
「おい阿波、なんか言えよ」「マイッタ!」
 この順位は、アイウエオやアルファベット順でなく、われら三人組、
別名“枯木コーラス”の終末をも予言していたのです(別項参照)。
 以後たちまち悔いあらためた木下聖治は、かつての私が目指していた
首位あらそいに復帰、有賀誠一もそれなりに善戦しましたが、残る一人
は、最後まで“横綱”を張りつづけました。
 この噺は、前任のM.L.ビアマン教諭、あるいは後任のリチャード・
デボール先生であったかもしれません。しばしば歴史的伝説は、勝者の
功に帰せられます。
 
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── 先生が生徒に与える宿題は実に多い。そのために子供たちは夜十
時、十一時までも、机に向かって宿題をやるような例が多い。/宿題が
どれほど子供の力となるか、/毎日学校へ子供を集め訓練している以上、
その上に宿題を出す必要はない。(“宿題は廃すべし”P48-50)
── 私が子供たちにヴァイオリンの指導をする時、音楽の宿題を与え
た上に、もう一つの宿題を与えることがあります。それは音楽の宿題で
はなく、「お客さまの下駄をキチンと揃えること、これをなるべく誰に
も見つからぬようにやること」「お父さまの靴をキレイに磨くこと」
「お庭を掃除すること」などであります。(“行動で育てる”P225)
── 鈴木 鎮一《全集 第1巻“能力の発見” 19890401 研秀出版社》
 
 
 ◆ I'm busy !
 
 通学路でふりかえると、ポール先生と木下聖治が談笑しながらやって
きます。木下が得意そうにボクに説明します。
「先生に、日本人の名前の由来を教えたげとるんや」
「ほう」
「たとえば、木下はアンダー・ツリーとかな」
「なんや、そんなことか」
 こころ優しい先生は、ボクの顔もたててくれます。
「ホワッツ・ミーン、AWA?」
「エーと…?」
 困っているボクに代って、親友の木下が答えてくれます。
「イッツ・ミーン、ジャパニーズ・ライス!」
「Oh !?」
(わが友よ、それはないぜ。“粟”やない“阿波”やがな)
 先生の手前、日本語であらそうわけにもいかないので、結局だまりこ
むことになります。
 こころ優しい先生は、ボクの表情をみて話題を転じてくれました。
「ミスターAWA、あれからESSに来ない、ホワイ?」
「エーと…、アイム・ビジー」
「Oh !?」
 これぞ先生とボクの間で成立した唯一の英会話でした(いかにも簡潔
で象徴的な回答ではありませんか)。おそらく当時のボクの答案用紙も、
かくのごとく簡潔だったはずです。


2000年10月01日(日)  望郷

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001001
 
 Let'20001009-1019            本宮 啓
 
 阿波君、本宮です覚えていますか。お久し振り。同中新聞部であんな
に活躍してた君が高校に上がって留年までしてシンホニエッタ作りに尽
くされたこと、私が同響再建に就職をふってまで同志社に居残ってしま
ったと思い合わせて、君に近親感を持っていたのに、中学卒業後、一度
もお合いもせず、電話やお便りするでなし、既に四十年以上たってしま
いましたね。どうしておられるのですか、御事情もお有りでしょうから
今日はそこまでお尋ね致しませんが、早速今日お便りした用件を申し上
げます。
 終戦直後同響再建と同時にジュニアシンホニーを作ってやっていた事
は御存知と思いますが、昭和四十九年にフル編成のオーケストラにし、
高校も同時に管弦楽部が出来、一体となって同志社ジュニアシンホニー
としてベートーベンチクルス完遂し大学なみのオケに発展した事はお聞
き及びかどうか知りませんが、今同志社中高の音楽クラブの歴史を書い
て居ます。ブラスバンド部にあきたらず、弦を加えてシンホニエッタを
作った君の情熱も大事な歴史の一ページとして記録に止めるべく、随分
と君を探しました。シンホニエッタの出たプログラム類は何とか集めま
したが全部かどうかは分りません。この歴史は私が傍目で見て書くだけ
では詰まらなく、是非当時の状況や君自身の理想や意気込み、御苦労な
どを書いてもらいたいと思います。これは君らの青春の歴史であると同
時に学校の大切な歴史でもあります。お手数ですが是非とも書いて下さ
い。
 京都に来られたら気楽にお話しに来てください。お電話なんべんして
も通じませんが、良ければ君の方からでもして下さい。
 お元気で頑張って下さい。シンホニエッタの事はきっと書いて下さい。
                         ではまた。
 十月九日
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 Day'20001014

 本宮先生より電話「わかわかしいバリトン」
 十月九日、(二十八年目の)偶然的な日付!
 お誕生日を聞く(1924-19250308 は誤りで、正しくは 19240320)。
 郵便の配達に行違いがあって、電話で担当者をしかる。
 シンフォニエッタ・メモリーズ
 メンバーズ・リスト(最新住所録)参考資料=ホザナコーラス名簿
 思い出の一曲/思い出すこと/気づいたこと(訂正すべき箇所)/
 ~ 続・音楽のすすめ ~(1958~1960)
 HP=同志社マンドリン・クラブ(詳史)/同響(表紙のみ)

 同窓会本部に電話して、リサーチ協同の記載(TEL)を削除すること。
 同志社同窓会本部ホームページの確認
 若林通夫の実家、ポール先生、森田昭典先生の消息を知ること。
 有賀誠一、木下聖治の所在確認のこと。
 馬場君にシンフォニエッタ・メンバー・リスト完成の協力を得ること。
 
■20001025 望郷 ~ 未投函草稿 ~
 
 若林通夫君の文章《カンヌより同響の皆様へ》は、同響七十周年定期
演奏会のプログラムから、馬場久雄君がコピーして送ってくれました。
彼はシンフォニエッタにおける最後の後輩として、1965年ころまで親交
がつづいたのですが、些細なことから疎遠となり、1969年に電話をかけ
たのを最後に、その翌年パリ留学のことも他からの情報で知りました。
 彼がファゴット奏者として、はたして本場ヨーロッパで通用するのか
心配でもあり、ダメならダメで、ケロリとして戻ってくればそれもよし、
と考えていました。京都市立音楽大学の卒業生に消息をたづねてもよく
わからないまま、馬場君と再会の折に「彼は、オレの態度を誤解したま
まらしい。ほんとにヨーロッパに居るのなら消息を知りたい」ともらし、
その後も気になるので、あらためて馬場君に電話したのです。
「彼が、うわさ通りヨーロッパのどこかのオーケストラで働いているの
なら、われわれの手で日本での演奏会を準備してやることはできないか」
 馬場君にとって、私のアイデアは、むかしとおなじ突飛なものらしく、
「他のメンバーに相談してみる」ということでした。
 私の構想では、NHK交響楽団もしくは京都市交響楽団にかけあって、
モーツァルト《バスーン協奏曲》および室内楽演奏会、さらには母校の
小学校から中学高校大学での講演などを設営するというもので、オール
同志社のバックアップによって、いずれも超満員にできるのではないか、
という壮大なスケジュールなのです。
 温厚篤実な馬場君は「あいかわらず、アワくんらしいな」と判断して、
(私をなだめるために)数年前のプログラムをコピーして送ってくれた
のです。
 電話の直後、プロ野球では野茂英雄がアメリカ大リーグに挑戦すると
いう大事件が勃発、われらがワカバヤシもヒーローなのだ、と再認識し
ました。
 そもそもの構想は、ジョークとして、シンフォニエッタ結成四十周年
を記念(いまも存続していれば)、延五百人に達しているであろう仲間
から一律に一万円づつ徴収し、NHK交響楽団もしくは京都市交響楽団
にかけあって特別公演を開催する。そのプログラムは、かつてわれわれ
が練習した曲目に限定して、ムリヤリ演奏させる。ついては、せっかく
の機会だから、せめてリハーサルの時だけ、オレが指揮したいがどうか。
しかし、これだとオレばっかりエェカッコして、君らの顔が立たないか
ら、要所々々で君らも演奏する。そして指揮者のボクが、プロの楽団を
こっぴどく叱りつけて、みんなで永年の溜飲を下げる。さしづめゴリが
実行委員会の代表、バンバが専務理事という役どころでどうか?
 ゴリもバンバも、その場では笑っていたのですが、まさか本気で考え
ていたとは気づかなかったらしいのです。私は、このアイデアは基本的
には大真面目なのです。さすがに自分で指揮することはないにしても、
おなじ同窓会をするなら、これくらいの規模は可能だと考えています。
(未完)
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 本宮先生への草稿《望郷 ~ 教え子の消息 ~ Day'20001025-1028 》
 最終的には、同窓会本部の協力をもとめて、最新の住所録になるよう
予定しています。


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