与太郎文庫
DiaryINDEXpastwill


2000年05月27日(土)  関ケ原四百年 〜 宇喜多家と矢野家 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20000527
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↓Edita for text ↑Index 000000=19020102〜99991231
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐
↓=Non-display><↑=Non-display
└┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘
 
 宇喜多 秀家   中納言 1572‥‥ 備前 八丈島 16551217 83 /元亀 3.‥‥〜明暦 1.1120
 矢野 五右衛門重昌 郷士 15‥‥‥ 岐阜 白樫  16‥‥‥ ? /
 
── 宇喜多秀家公匿居の地
 
 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ケ原合戦に敗れた宇喜多中納言
秀家公(備前岡山城五十七万四千石)は、進藤三左衛門外数名の家来と
共に池田郡粕川谷(春日村)へ落ちのぴた。九月十七日、白樫村の郷士
矢野五右衛門重昌主従と中山村で出会う。
 重昌は秀家公を容貌気高く名ある大将と思い、痛ましい有様に功名心
より武士道に恥じないよう身命をかけて匿まうことを決心した。進藤三
左衛門は重昌を信じ「これなるお方は備前中納言秀家公である」と名乗
った。重昌は家来に秀家公を背負わせ白樫村へ帰り、東軍の探索厳しい
中、屋敷内の土室に匿まい懇ろに介抱した。
 十月二十九日夜、重昌主従は秀家公を病人に見せかけて「あんだ」に
乗せ白樫を出発し、数か所の関所も無事通過し、十一月二日に大坂備前
屋敷へ着き妻豪姫と再会した。
 慶長六年五月、秀家公は島津義弘公を頼り薩摩国(鹿児島県)へ渡り、
島津公の計らいにより牛根(垂水市)の豪族平野家に二年三か月潜居し
た。
 慶長八年、島津・前田両藩主は、徳川家康公に秀家公の助命を嘆願し
許されて九能山(静岡県)に移され二年間幽閉された。
 慶長十一年、秀家公主従十三人は八丈島へ流される。明暦元年(一六
五五)十一月二十日、八十三才で没した。
 矢野家は平成十二年五月、関ケ原合戦四百年記念として秀家公並びに
矢野家先祖の追悼大法会を営み記念碑を建立。
 
── 小川 治・編《宇喜多秀家と矢野家 20000527 揖斐川町》
 
(20090712)
 


与太郎 |MAILHomePage

My追加