与太郎文庫
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/19930708 筒井康隆氏の覚書について 高橋 哲郎 筒井康隆氏の『無人警察』が掲載された角川書店発行高等学校教科書 「国語I」の使用中止と同教科書からの問題小説の削除を日本てんかん 協会が要求したことに対し、角川書店は八月五日付にて回答書を送って きましたが、それには著者筒井氏の「覚書」が付されていました。 一、覚書において筒井氏は問題小説の執筆にあたって、大阪大学附属病 院の精神・神経科を訪れて調査し、小説と同時期に発表したという『精 神病院ルポ』を付記しています。 それは、氏の『乱調人間大研究』(「暗黒世界のオデッセイ」所収/ 新潮文庫)の一節なのですが、その前後にもてんかんをもつ人々につい て論じた部分があり、覚書では何故か省略されています。少々長いです が引用しますと、 「こういった分裂質タイプ中のパラノイドと同じくらい危険で、しかも、 日本ではきわめて多い精神異常に癲癇がある。この二つが、「危険な乱 調人間」の双璧であろう。 癲癇は、読者諸氏も知人の中に必ずひとりはその存在を認めておられ ることであろう。ぼくの小学校時代に堀という友人がいたが、これが癲 癇だった。学校の廊下で仰向けにぶっ倒れていたのを記憶している。そ の後聞いた話では、可哀想に橋から落ちて溺死したそうである。 癲癇がなぜ危険かというと、周囲の人間も本人も、彼が癲癇であるこ とを知らないという場合がしばしばあるからである。前述の堀という子 のように発作があれば誰にだって病気であることを知ることができるの だが、脳から異常波を出していながらも、まだ一度も発作を起こしたこ とのない人もいる。中には自分が癲癇であることを知っていながら、そ れを隠しているやつまでいる。こういう連中が、しばしば他人の生命を 預かる職業に就いたりするのだから危険なのだ。」 (イタリック部は高橋) とあって、例のルポが始まるのです。また、ルポの後には、 「こんなに癲癇が多いのでは交通事故が日常茶飯事になっても当然であ る。(八行略) 他人に迷惑をかける乱調人間は、これはもうはっきり 精神異常であって、人院の必要があるわけだから、精神科医におまかせ することにし、以後は触れないことにしよう。」 (イタリック部は高橋) とあります。 また、「乱調人間」とは、「一般社会に棲息している『少しおかしい』 人間」のことである。(同書二一三ページ)(イタリック部は高橋) これらの文章を見れば、作者のてんかんに対する見方は明らかです。 筒井氏は、「この作品(『無人警察』)において、てんかんをもつ人 を差別する意図はなかった」と述べていますが、同時期にこの小説のた めの調査を基礎に作ったという別の作品で、てんかんについてこれだけ ひどいことを書いている作者が、てんかんを差別する意図はなかったと いわれても、それを信じろという方が無理なことです。 貴殿の覚書はまず第一に、てんかんをもつ人々を侮辱している部分は こっそり隠し、真ん中だけを載せているという点で、恐ろしくアンフェ アな文章です。 第二に、内容的にまったくの独断と想像でものをいっていることです。 私は、五十年近くをてんかんと共に生きてきましたが、精神異常など といわれたことは一度もありません(注1)。このルポが書かれた一九 六後年当時でも、てんかんと精神異常を混同していた精神科医がいたと したら、それはもぐりの精神科医だといっても過言ではありません。 てんかんが多いから交通事故が日常茶飯事になるとは、何を証拠にい っているのでありましようか。てんかんをもつ人々は、全人口の一パー セント弱、しかも、その多くは未成年者です。不法に免許を取得してい る本人がいるとしても、運転者全体の中に占める割合はごく僅かです。 それが交通事故が日常茶飯化する要因だというのは、あまりにも独断と 誇張に過ぎるというべきです。しかも、日本てんかん学会の最近の調査 では、てんかんをもつ人々の事故率は健常者よりも低いという数字さえ あるのです。この本の二三七ページにあります、 脳に外傷があるやつや、癲癇持ちが酔っ払った場合も危険である。も うろうとしたままで夢中で暴れまわって、しかもあとでは何も覚えてい ない。 という文章も、てんかんをもつ人々をひどく中傷している点では前に 劣らないものです。こんなことは、絶対にありえないことです。てんか んであるということと酒乱であることは、医学的には何の関係もありま せん(注2)。 「精神異常であって、入院の必要がある」ということが、ルポの結論 として出ていることからわかるように、『無人警察』における「発作を おこさないのに病院に収容する」という問題の箇所は偶然の産物ではな く、「事前にチェックできるのは、未来社会の設定だから」という覚書 の説明も単なる言い訳に過ぎないことは明らかです。 第三に、「てんかんが危険なのは自分がてんかんであることを知らな い場合があるから」ということや、しかも「それは発作があれば、誰に でもわかるが、一度も発作をおこしたことがない人もいる」からだ。 「てんかんであることを知っていて隠しているやつがいる」というに至 っては、てんかんに対する差別に凝り固まった言葉だとしかいいようが ありません。発作がなければてんかんでないことを知らないのは当たり 前ですし、発作をおこしたこともないのに危険だとはどういうことなの でしょうか。一度も発作をおこしたことがなければ、「てんかんでない」 はずです。 また、てんかんであることを隠している人間を「やつ」呼ばわりし、 非難する理由は何なのでしょうか。てんかんをもつ人々にもプライバシ ーはあります。てんかんであることを、他人に告げる告げないは、相互 の信用関係を基盤に自由な意志に基づいて行うべきことであり、筒井氏 のような予断と偏見をもつものに告げる必要はどこにもありません。 また、隠しているといっても、その多くは隠そうとして隠しているの ではなく、生活のためや環境に強いられて、そうしているだけなのです。 私のように、てんかんをもつ本人であることを名のることができるのは、 隠さなくても良いだけの環境と社会的立場があるからで、現在の日本で は数少ない幸せな人間なのです。日本てんかん協会の運動の大きな目的 の一つは、すべての仲間が胸を張って生きられる社会を作ることなので す。 二、この小説が書かれたときから約三十年になりますが、その当時とて んかんを取り巻く情勢は大きく変わっています。てんかん医療そのもの が飛躍的に発展し、複数の国立のてんかんセンターを中心にてんかん医 療のネットワーク化も進み、てんかん医療の条件は過去には見られない ほど整えられています。その中で、てんかんは治る病気へと変わり、最 近の精神保健法改正を機会に政府もてんかんを一般疾病(医療)として 扱う方向に変わろうとしています。 筒井氏は「状況が改善されたとは聞いていない」といっていますが、 何が改善されていないというのでしょうか。昭和四十五年の自動車の所 帯別保有率が二二・一パーセントであったのに対し、平成四年には七八 ・六パーセントになっています。しかし、交通事故死亡発生率は昭和四 十五年の人口十万人当たり二〇・五から平成四年には一一・八に減少し ているのです(注3)。その中で、もしてんかんをもつ人々に関しての み、改善がないとすると、交通事故のほとんど全部がてんかんをもつ人 々がおこしたものということになりかねませんが、そんなことがあり得 るでしようか。 社会におけるモータリゼーションの進展と、大衆交通機関の合理化と 統廃合の進む地方の都市農村では自動車は必須の交通手段であり、生活 の道具となっています。そうした中で、てんかんをもつ人々の免許取得 に関しても、「長年発作を見ない場合は、道路交通法にいうてんかん病 者に該当しない」という判決も出され、府県によっては公安委員会の扱 いにも変化が現れています。日本てんかん学会の調査では、てんかんを もつ人々の免許取得はその約四十八パーセント、そしてその三十九パー セントが実際に運転していること、その事故率は健常者に比べて低いこ とが報告されています。日本てんかん学会ではこうした調査に基づき三 年間発作をみていない本人に対して、免許取得を認めるよう提案を行っ ています。 「事故当時意識を失っていた」という新聞記事があるとして、それが てんかんだと勝手に推論し、それが新聞記事に出ないのは「てんかん差 別の糾弾」が激しくなったからだと根も葉もないことを並べるに至って は、これが社会的に評価を受けている作家の発言かと、その品位を疑い たくなる言葉です。 一体いかなる団体が、いつ、どこで、てんかんに関して事実を隠蔽す るような「糾弾」なるものをやったのか具体的に示していただきたい。 また、意識を失う疾患がどれだけあるのか。知った上で筒井氏は発言 されているのでしようか。もし、そうだとすると、なぜ「知らないふり までして」こんなことをいうのかお伺いしたいものです。 日本てんかん協会が「てんかんをもつ人々にも車の運転をさせようと いう運動をしている団体のように読み取れる」と、協会に対する誤解を 意識的に広めようとしていますが、声明文に添付して送付しました「て んかん制圧運動の基本理念」には、「社会一般の常識に基づいた活動」 が基本原則とはっきり書いてあります。発作による事故の心配や、本人 や他人の命に危険をもたらす可能性のある本人に対してまで、運転免許 取得を認めよなどとは、協会はいっていません。協会の要求は、裁判所 の判例にもあり、また、日本てんかん学会の提案にもあるように、長期 間発作がなく、運転中の発作による事故の心配がないものに対しては、 免許取得を法的に認知して欲しいということです。 それに対して、長年なくても、絶対発作がないといえるかという反対 論を聞くことがあります。しかし、それについては、その確率は非常に 小さく、健常者が偶然に事故をおこす確率とほとんど変わらないという 判断があるからこそ、裁判所の判例や学術団体からの提案が出されてい ることを、指摘しなければなりません。また、発作性疾患は、高血圧、 心臓疾患、ぜんそく等、てんかん以外にも数多くあり、それらの自動車 運転には何の法的規制もありません。ところが、一九八後年に東京都だ けで運転中に心臓発作で突然死した人数は七十六人に上っています。そ れに何といっても、交通死亡事故原因の圧倒的多数は、本人の暴走で、 交通死亡事故全体の四十四パーセントに上ります。したがって、いま、 私たちの要求が社会に大問題を引きおこすかのように非難することは、 てんかんだけを特別視、差別する何ものでもないことを私は訴えます。 三、「教科書として使用した場合、てんかんをもつ高校生や近親者にて んかんをもつ人々がいる高校生が存在するとき、どのような思いで授業 に臨むことになるか考えて欲しい」という日本てんかん協会の指摘に対 し、筒井氏は「文学論で答えるしかない」といって、芸術形式からいっ て小説が人を傷付けるのはさけられないかのようにいっていますが、こ れについては、三つの問題を指摘させていただきます。 第一は、小説には多様な形式があり、「誰かを傷つけているという芸 術形式」だと断定する筒井氏の文学論はあまりにも一面的過ぎることで す。ただ、読者の心に切込み、葛藤させ、価値観をゆるがすことを、 「傷つける」というのであれば、文学にそうした一面のあることは否定 するものではありません。しかし、それが読者に文学的感動となって結 実し、精神の解放につながることができるのは、そこに真実があるから であり、デマや虚偽の事実ではそうはならないはずです。その点で、問 題小説は、明らかに事実をねじ曲げ虚像のてんかん像の上に作られたも ので、それが文学論たりうるのか疑問を呈さざるを得ません。 第二には、小説が書かれる過程や小説そのものの中で、人や自分を世 界の中で傷つけることと、その小説を教材として使うことによって、て んかんをもつ高校生が精神的に傷つけられることとはまったく異質な問 題なのに、それらが混同されています。高校生は社会的経験に乏しく、 もっとも心の傷つきやすい年代です。ブラックユーモアも程度によりけ りで、それを教室で教材として用いるときには慎重さが要求されること は当然のことです。 第三に、この覚書からは、心を傷つけるのは仕方がないといっている としか受け取れませんが、角川書店からの協会への回答書は傷つけるこ とはないと言っています。角川書店の言い分と作者の見解とは明らかに 食い違っています。 私の高校生時代は、てんかんに関する誤った学説が教科書にも掲載さ れていた時代でした。それを教室で聞き、傷ついた心で人生に悩み、自 分の将来にまで絶望しかけた私自身の苦い経験を、若い後輩たちがふた たび繰り返すことがあってはならないのです。 四、筒井氏はまた、小説は書かれた時から、時代後れになる運命をもつ ものであると述ベた上で、自分は他の作家のように、時代遅れになった 記述を書き換えることはしない。それは小説は時代の産物であり、歴史 の記録、歴史的証言でもあるからだ、と述べています。しかし、歴史的 記録としての小説であれば、資料館に保存されているだけでよいのであ って、生きた時代に読まれるための小説とは別なものであります。小説 を時代に合わせて書き換えることは、歴史の書き換えではありません。 事実、この『無人警察』自身、角川文庫『にぎやかな未来』に収められ ているものと、『国語I』の教科書に収録されたものとでは一〇〇カ所 近く、表現や表記上の訂正や修正がなされています。ほとんどが小さい ところですが、それでも書き換えには違いありません。そして、小さい ところだからこそ、筒井氏の哲学からは書き換える意味がわかりません し、検定のためだとしたら、権力には弱く、障害者団体にはことさらに 肩肘を張って見せる筒井氏の文学論は、なんと色あせて見えることでし ようか。 その他、筒井氏の覚書には問題にしたいところがないわけではありま せんが、日本てんかん協会の「角川書店の回答書への反論」の中でも論 じられていることなので、ひとまずペンを置くことにいたします。 ──────────────────────────────── 注一、これは私の経験を述べているだけで、精神障害者を差別するもの ではありません。私自身、現在、精神障害者団体の役員として、その運 動発展に微力ながら参加している人間であります。 注二、昭和六十二年〜平成三年の四年間に、なんらかの犯罪に関わった とされ検挙されたてんかんをもつ人々は、六十九人に過ぎない。同時期 の検挙者総数が七九十万人であるから、一〇万分の一にもあたらない。 注三、総務庁編「交通安全白書」、警察庁「警察白書」 ──────────────────────────────── 高橋哲郎(一九三二年十二月十一日生まれ):中学の時てんかんの初 回の発作、以後約五十年をてんかんと共に生きて、現在、社団法人日本 てんかん協会会長 /龍谷大学理工学部教授、京都大学教育学部講師 (科学教育、授業科学) 著書/『講座、現代の高校教育3 教科と授業』(草木文化) 『教育の原理と展開』(あゆみ書房) 『教師のための科学史教育入門』(新生出版) 『授業技術講座2 授業を改善する』(ぎょうせい) 『子どもの発達と環境教育』(法政出版) その他、 ──────────────────────────────── この文は、筒井康隆氏の「覚書」(噂の眞相・九月号掲載)に反論す るために、同誌への掲載を求めて執筆されたものです。 社団法人日本てんかん協会機関誌「波」第17巻10号 1993年10月号 原文での下線は表示の制限のために本ページではイタリックで表示し てあります。Last Updated Dec.8.98 ── http://www.synapse.ne.jp/jepnet/KOKUGO/hanron2.html
──────────────────────────────── 与太郎の高校二年D組の司級(担任)。この論議の当事者であること は46年後になって知った。ホームページそのまま転記するにあたって、 数ヶ所の誤植を修正したが、イタリック装飾は転記されない。できれば 本文・原文を参照されたい。(Day'20021215) ◆ 大学を出たばかりで学級担任になったのは、当時、生徒定員が急増し たため、中学時代にくらべて二割、ちょうど一学級多いのである。 「まず、英語や数学で1点増すのは無理やが、東洋史で3点増やせば、 平均点は確実に上がる。これで何とか進級できませんか」 「お前、長いこと考えて、そんなことしか思いつかんのか」 卒業後まもなく、赤ん坊を抱いているテッちゃんに出会ったときも、 在学中とおなじく、ほとんど口を利いてくれなかった。 なお、渡辺慶子《精神病者に関する狂言白書 19561012 山脈12号》が 弱者に対する差別表現ありと、あわや二度目の発禁事件になりかけた。 〜 続・テっちゃんのホームルーム 〜 〜 続・テっちゃんのスイートホーム(いまも気になること) 〜
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