与太郎文庫
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1992年02月29日(土)  閏二月三十日その後

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920229
 
 わが国に暦法が輸入され、実施された年代については諸説あるが、か
りに推古天皇元年とすれば、太陽暦採用までの一二八〇年間に存在した
「二月三十日」の総数は、六九二回(うち八回は閏月)におよぶ。
 
 芭蕉忌(十月十二日)は、元禄七年の日付を現行暦に転用した例で、
西暦では一六九四年十一月二十八日(日曜日)である。その弟子・榎本
其角の命日「二月三十日」を現行のグレゴリオ暦で供養するには、いく
つかの方法が考えられる。
 ひとつは、宝永四年すなわち西暦一七〇七年四月二日(土曜日)に変
更する。
 あるいは、二十八日の翌ー日とみなして三月二日とすれば、閏年には
二十九日の翌日にあたる三月一日でなければならない。旧暦そのものに
固執して「二月大の月」を待つには、数年ごとの断絶がある。
 出典があいまいな例で、大久保彦左衛門とともに二十九・三十日とす
る異説もあるが、彦左衛門の場合は寛永十六年二月一日を通説とする。
西暦は一六三九年三月五日(土曜日)異説ならば四月二日・三日(土・
日曜日)にあたる。
 其角忌が注目されないのは、失われた日付の処遇がめんどうなことと、
直前の利休忌が一因かもしれない。
 天正十九年二月二十八日の切腹は、あまりに有名だが、裏千家と武者
小路千家は、詳月命日の法要よりも大規模な茶会を「利休忌」として一
ヵ月後の三月二十八日(表千家では前日二十七日)に開催する。その日
が、旧暦の二月二十八日に一致するのは最近では一九八七年(表千家は
一九九五年)である。
 京の冬が遠来の客人には寒すぎるという主催者の配慮らしいが、天正
十九年には閏一月があったために、二月は第三の月にあたると解釈した
のではないか。
 逆に、暑すぎて一カ月早めた例もある。
 芥川龍之介が自殺したのは、昭和二年七月二十四日だが、汗っかきの
菊池寛あたりが申しあわせて、一周忌を六月にすませてしまったところ、
招待されなかったファンが続ーと七月につめかけて、今日の盛大な「河
童忌」に発展したという。
 利休切腹の日は、西暦では一五九一年四月二十一日(日曜日)、茶道
の海外普及をめざすには、この日付も活用してはどうか。
 紀元節(いまの建国記念日)も、もともと諸外国に向けて制定された
気配がある。
 神武天皇の即位した日付が特定できないために、辛酉年元日を強調し
た結果、そのまま新暦に転嫁しても、一月一日では平凡すぎて趣向がな
い。そこで、グレゴリオ暦の紀元前六百六十年二月十一日(土曜日)に
置き換えてみたのではないか。
 建国の史実やエピソードをもたない日本が《辛酉革命予言説》を援用
し、すでに中国が棄却したのちまで依存するのは、あきらかに面妖であ
る。十年一日のごとき左右の俗論に歴史家が背を向けるのは当然だが、
近代諸国の例と比較検討すべきではないか。
 むしろ、民間伝承が成立しなかった歴史的背景にこそ、わが国の面目
を誇るべきかもしれないのである。
 
 暗雲の発端として、因縁めいて語るには、「養和元年閏大二月四日」
がふさわしい。
 病床の高倉天皇が、三才の皇子に譲位した翌年、二十一才で崩御した
のは治承五年一月二十一日(異説では十四日)である。
 翌ー月の閏二月四日には、岳父の平清盛も病没して後白河法皇の院政
が再開された。
 四才の幼帝とその母(平徳子・建礼門院)のために元号を養和とあら
ためたのは、七月十四日(安徳天皇の異母弟で、つぎの後鳥羽天皇満一
才の誕生日)である。年初改元ではあるが、翌年五月二十七日に「寿永」
となるため、実質期間は五ヵ月半にすぎない。
 数えて八才(満六才四ヵ月半)の安徳天皇は、元暦二年(文治元年)
三月二十四日、平家一門とともに檀ノ浦に消えた。
 のち承久の乱で出家する後鳥羽法皇は、暦仁二年二月二十二日に崩御
したが、この日は安徳天皇践祚の翌日にあたっており、
いずれも大の月である。
 グレゴリオ暦の二月が二十八日でおわり、閏二十九日をもつのは、古
代ローマの名残りである。十カ月からなる《ロムルス暦》では最後の二
ヵ月を数えなかったといわれ、行政上の都合から紆余曲折を経て、現在
の一月と二月が加わった。
 ローマの師走は二月であり、新春に備えて借金を精算し、一年の日数
を調整する時期として閏月(のちに閏日)が挿入された。
 欧米の表記では「一九九二年二月三十日を 30th.Feb.`92 とあらわし、
第二月という認識がない。September 〜 December も七から十番目に由
来するため「二四六九士」のような序列が成立しない。近年の日本では、
1992.2.30 が普及したが、コンピューターには暦法を併記した19920217J
も簡便である。
 グレゴリオ暦以外の現行暦で、第二の月が三十日以上の例は、《ネパ
ール暦》三十二日0614、《インド暦》《イラン暦》は三十一日(いずれ
も 0520 )まである。
 三十日でおわる暦には、エジプト暦を継承する《エチオピア暦》1110、
その亜流で古代ペルシア暦から分離した《パーシ暦》1024、他に《ヒン
ズー暦》など。《ユダヤ暦》では曜日調整のため二十九日または、三十
日の年(たとえば 19921106 )がある。
 日本の文献では、もっぱら二十九日とする《イスラム暦》も、イラン
イスラム共和国大使館の対照式カレンダー(モスタザファン財団・版)
では各月に差があり、ヘジラ紀元一四一二年二月は三十日 19910811
である。
 暦注にあるマホメットの命日ヘジラ紀元十年二月二十八日 6320525J
(月曜日)は従来の通説 0608Jよりも二週間前に置かれ、不詳とされる
誕生日(異説 0123?)も、ヘジラ紀元前五十三年三月十七日 5710429J
(水曜日)と明記されていて、太陰暦の行年は満六十三才、太陽暦では
満六十二才である。置閏法も、明治初期の《三正綜覧》には、現在の通
説と異なる年代がある。                (19911023)
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>>
 
 幼帝安徳天皇を奉じて婦女子を守りつつ寒峰の山裾を通り大枝の平家
の館にたどりついたのが寿永三年の大晦日であった。一説には、その時
幼帝を擁した婦女子の数は三十数名といわれる。しかし、大晦日といえ
ば今の二月初旬か中旬である/きびしい条件が重なったこの地は、生ま
て以来苦労を知らずに育った幼帝の健康をたちまちうばい、ついにおさ
なきお命をうばってしまったのである。
/「粗谷紀行」の中にも、「文治二年正月朔日天皇崩じ給う。これを栗
枝渡という所に葬し奉り、帰空梁天大禅門と法号し奉る。後の世よりし
て其の地に社を建て、いつき祭り是を八幡宮と申し、八幡宮は応神天皇
を祀り、安徳天皇を相伝にいはいまつる。」と書かれている。
 
── 園尾 正夫《秘境 祖谷街道をゆく 197901.. 阿波文庫8》P100 \740
 
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1992年02月20日(木)  Islam 14120816/Iran 13701201

 
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(20090810)
 


1992年02月11日(火)  天孫降臨余歳の元旦

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920211
 
 伝承の史実が疑わしいとしても、歳月は実在する。書紀の編集者たち
が用意した“逆算長暦”は卓抜の着想だったが、唯一あまりにも唐突な
年代は、いかにして算出され、何のために誌されたのか。
 
 皇祖神・高皇産霊尊が、地上を治めるために派遣した神々の子らは、
いずれも音信なく任務もはたさない。娘婿(天照大御神の長男)に命じ
ると「出発にあたって着がえているうちに、また男の子が生れてしまっ
た。僕(あ)のかわりに降(くだ)すべし」という。
 かくして、生れたばかりの新孫(皇孫・天孫)が日向の地に定住し、
三男の山幸彦(海幸彦の末弟)の四番目の末孫、皇祖神より数えて六代
目が“天孫の曾孫”のちの神武天皇となる。
 以上が、神代から皇代につづく記紀の系譜である。 
《古事記》神代には、唯一の没年表記「山幸彦五百八十歳」とあるが、
皇代「神武天皇百三十七歳」との脈絡がない。ところが《日本書紀》皇
代では「神武天皇百二十七歳」と十歳わかく記され、前後に対応して、
暦日表記は精緻をきわめる。
 ただし紀元前七世紀には、中国でさえも《春秋伝》にみられるように、
いまだ陰陽わかちがたい原始太陰暦である。書紀の暦日がほとんど仮想
の逆算暦によっていることは(本居宣長以後)あきらかである。
 ここに、神武天皇が兄弟や子にいわく「天孫降臨は、一七九二四七十
余歳前」と明記される。ときに四十五歳(甲寅51)、即位前七年(皇紀
-6)のことである(私的発言ともみえるのは、書紀編集者の工夫か)。
 かくも壮大な年代は、逆算可能である点で世界史上に例がない。しか
るべき根拠があるなら、余歳などといわず、ずばり特定すべきではなか
ったか。
 古今の読者には「昔々」ときこえるが、古今の研究者も、なぜか詮索
しない。
 たとえば、本居宣長の没後門弟・伴信友の「後人傍書の鼠入説」は、
誰かが後で書きくわえた数字の羅列とみている(実行犯はいるはずだが、
誰だかわからない)。
 余歳とは、末尾一から九、ここでは未満をふくめて余十年は甲戌11、
九年乙亥12、八年丙子13、七年丁丑14、六年戊寅15、五年己卯16、四年
庚辰17、三年辛巳18、二年壬午19、一年葵未20、〇年(一年未満)甲申
21、いずれかにあたる。    
 飯島忠夫の「余六歳、唐の武徳九年*に造られた戊寅元暦の上元暦説」
は、武徳元年(06180204G 戊寅15推古260101)が正しく、《三正綜覧》
には武徳二年施行とあるが、もとより書紀には関連記述がない。
 福沢諭吉門下の那珂通世は、中国の讖緯(干支六〇×二十一元=千二
百六〇年)をもとに「辛酉革命説」を定説にみちびき、有坂隆道は総法
(儀鳳暦の共通分母)を周期年数にあてた「千三百四〇年説」、ともに
皇紀(神武天皇即位元年)の算出を断じたが、“天孫降臨”には沈黙し
ている。両説を、いかに演算しても、辛酉58皇紀元年の歳には結びつか
ないからである。
 書紀の整合性からみるに、天孫降臨と神武天皇即位のあつかいに軽重
はなく、後世の皇紀偏重は編集意図にそぐわない。降臨から即位までの
年数が、干支などの周期で割りきれないのは何故か。
 俗説に「語呂あわせ・暗号・聖数、三・五・八の欠数」などあったと
しても、舎人親王を編集長とする御前会議で採択されるわけがない。
 ながい編集期間中に、唐において元嘉暦は廃暦となり、すでに新暦の
儀鳳暦(唐名は麟徳暦)が登場していた。
 書紀の記述(06901220G 持統 41111)に「奉勅始行元嘉暦與(と)儀
鳳暦」とあるが、どのように併用あるいは移行したか、未解明である。
いずれを逆算すべきかも論議されたはずで、旧暦派は「過去の暦日は、
旧来の暦法によるべし」といい、新暦派は「長い歳月の復刻再現にこそ
最新の計算値でなければならぬ」と主張したのではないか。
 この対立は(保守と革新ではなく)一年の長さについての天文学的な
命題であって、実は現代もつづいているらしい。
 真太陽年・朔望月とも無理数であることは判明したが、天文学的年代
とともに短縮するという「ハレー理論」以来さまざまのアルゴリズムが
となえられ、いまもなお国際的合意にいたっていないという。
 元嘉暦・儀鳳暦の日数も割りきれないので、長い年代には端数値など
の累積誤差が生じる。それぞれの定数により“天孫降臨”までの総日数
を対比すると、


             -y =  1792470
 元嘉暦  365.2467105263y = 654693771.2
 儀鳳暦  365.2447761194y = 654690303.8
           '+- )    3467.4
 儀鳳暦に対して元嘉暦は、三四六七日、約九年半“余る”ことになる。
(朔望補正を要するが、ここでは近似値による)
 皇紀前七年の一八九二四七〇年前の元旦は、
 甲申21皇紀 -17924760101 (以下に西暦)
   儀鳳暦 -17931481029G -17931110827J
   元嘉暦 -17931570524G -17931200321J
           '+- )    3446

“余〇歳”は儀鳳暦の太陽年数、“余九歳”は元嘉暦の年首(月齢十日、
朔にあらず)を指ししめす。
 かりに“余十歳以上”だとすると、端的な表現ができない(長々しい
説明をしないための年代設定とも思えないが)。総じて書紀は、暦法に
ついて寡黙である。
 ひとり無口なプログラマーの存在を想像できなくもない。その役割は
編集参与としても(大陸出身者ゆえに)稗田阿礼のように、名をとどめ
なかったのではないか。
 古来、どの民族も神々にとっての歳月は一瞬にすぎないと考えていた
らしい。不老不死なら時間の概念も成立しない。古事記「山幸彦五百八
十歳」の記述は、神から人への変貌を示すものかもしれない。
                           (19960923)
────────────────────────────────
── 《歴史研究 19920101 新人物往来社》P058-059
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920101
 西暦元年元旦の曜日
── 《Awa Library Report 1997》

(20090224)
 


1992年02月05日(水)  Islam 14120801/Iran 13701116

 
 ↓ last updated page
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920205
 
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(20090810)
 


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