与太郎文庫
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1987年09月07日(月)  新国劇の人々 〜 極めつけ七十年 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19870907
 
 ぜひ書きとめておきたいこと、極めつけ辰巳の忠治(晩年の白塗)。
 辰年生まれの沢田に、巳年生まれを合わせて、辰巳 柳太郎を芸名に。
 島田正吾は緒方拳の“僕の神様”、島田の神様は“沢正”だった。
 
 島田正吾、妻(えいこ)の臨終を語る(1978ca録画)。
 
 夫と娘に「つつましくやってってくださいね」
 娘に「パパをきれいにしてあげてね」
 夫に「右子(長女)はわたしの宝です」
 
 妻「あなたをとっても好きでした」
 夫「ぼくも、とってもすきだったよ」
 妻「なに云ってんのよ、あたしが好きのは、舞台姿のあなたよ」
 
── 黒柳 徹子《徹子の部屋 20050119 テレビ朝日》
 
 ◆
 
 新国劇に、はじめて時代劇のきらいな役者が入ってきた、とぼくの
師匠(島田 正吾)は思ったらしい。 
 そこで、北条 秀司夫人が、芸名を考えてくれた。
 
「あなた、コンプレックスは?」「手が大きいことかな」
「なら、緒方コブシ(拳)ってのはどう?」「それでいいです」
 すると、ボクサーの役がついた。菊島 隆三・作《遠い一つの道》
 
── 辰巳は芝居の申し子 わたしは只の努力の子
 拳(ガタ)は反逆の愛児 ── 島田 正吾の色紙
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7376/prof.htm

── 「時代劇でカツラ落ち大恥を…緒形 拳」
 今でこそ演劇界の重鎮の緒形だが新人時代、初めて挑んだ時代劇の見
せ場で、かつらを飛ばしてしまい翌日から、かつらにあごひもを付けさ
せられたことがあったという。また、芸名にまつわる意外な事実を明か
すほか、亡き島田正吾さんらの遺志を継いで新たな試みに挑戦するとい
う意気込みを語る。緒形 拳&黒柳 徹子
── 《徹子の部屋 20051125(金)13:20〜13:55 テレビ朝日》
 


 新国劇の系譜(19170418-19870907)
 
 沢田 正二郎 “サワショウ” 18920527 土佐  19290304 38 /新国劇創立〜名月赤城山
 辰巳 柳太郎  籍=新倉 武一 19050420 兵庫  19890729 84 /異19050410〜国定忠治
 島田 正吾 籍=服部 喜久太郎 19051213 神奈川 20041126 98 /一人芝居〜白野弁十郎
♀服部 栄子(えいこ)     19050410  東京 19710311 65 /島田 正吾の妻
 大山 勝己(克己 or 克巳)  19300930 東京  20121009 82 /殺陣「大山勝己塾」主宰
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 緒形 拳    籍=緒形 明伸 19370720 東京  20081005 71 /映=19370730〜《鬼畜》
♀高倉 典江   緒方 拳の妻  19370825 東京  /新国劇女優
 緒形 乾太   拳の長男   19661121 神奈川 /日本大学中退
 緒形 直人   拳の二男   19670922 神奈川 /19931213結婚会見
♀仙道 敦子   緒方 直人の妻 19690928 愛知  /199512‥妊娠会見

 
>>
 
 90歳を過ぎてなお現役として活躍し、舞台、テレビ、映画で厚みの
ある演技を見せた俳優、島田正吾(しまだ・しょうご〈本名・服部喜久
太郎=はっとり・きくたろう〉)さんが26日、脳梗塞(こうそく)の
ため東京都内の自宅で死去した。98歳。葬儀は親族のみで行う。喪主
は長女林右子(はやし・ゆうこ)さん。自宅は公表していない。
 
 横浜市生まれ。明星商高卒業後、新国劇に入団。創立者沢田正二郎に
ついて修業し、21歳で幹部になり、1929年に沢田が急死した後、
辰巳柳太郎とともに劇団の後継者に選ばれた。「辰巳の剛」に対し、
「島田の柔」と呼ばれ、受けの演技を得意とした。寡黙で内に情熱を秘
めた男の役に味わいを出し、「瞼(まぶた)の母」や「一本刀土俵入」
など長谷川伸の股旅(またたび)物の主人公を演じて人気を集め、新国
劇の第2期黄金時代を築いた。
 
 戦後は北條秀司作「霧の音」、竹山道雄原作「ビルマの竪琴(たてご
と)」などで文芸路線をひらく一方、新国劇の名作を映画化した作品に
次々と出演、渋い芸風を生かした名脇役として映画でも一時代を作った。
舞台の代表作に「沓掛(くつかけ)時次郎」「鞍馬天狗」「殺陣師(た
てし)段平」「修禅寺物語」の夜叉王、「風林火山」の山本勘助、映画
では「叛乱」「六人の暗殺者」などがある。
 
 大劇場に女性客が増え、女優を主役にした芝居が主流になると男性路
線をとる新国劇は不振となり、創立70周年公演を終えた87年9月に
解散した。その後はフリーで舞台やテレビで活躍した。
 
 晩年にライフワークとして位置付けたのがすべての役を一人で演じる
「ひとり芝居」で、その最初が89年に長女の家を会場に試演した「白
野弁十郎」。「シラノ・ド・ベルジュラック」を翻案した沢田正二郎も
得意にした作品を選んだところに師沢田への強い敬慕の念がうかがわれ
る。
 
 91年には同作品を新橋演舞場で上演。92年にはフランス公演も果
たした。93年からは毎年のようにひとり芝居を同劇場で上演、200
2年の「夜もすがら検校」で12作12公演を数えた。「ひとり芝居は
いわば空想の芝居」と語り、1年がかりで次の作品を準備。目標は「白
寿(99歳)でのひとり芝居」だった。
 
 94年にはNHKの連続テレビドラマ「十時半睡事件帖」に主演。9
5年11月には中村歌右衛門さんの指名により歌舞伎座の「建礼門院」
で後白河法皇を務めた。2001年10月には新橋演舞場で「信濃の一
茶」に祈祷師(きとうし)役で出演。新国劇の後輩になる緒形拳さんと
の掛け合いが評判を呼んだ。
 
 毎日演劇賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章など受賞・受章多数。
 
 ▽評論家・秋山ちえ子さんの話 菊池寛賞を私が91年、島田さんが
92年と前後して受賞したことが縁で、親しくお付き合いするようにな
り、毎年5月、東京の新橋演舞場での「ひとり芝居」を見るのが楽しみ
でした。島田さんは「白寿の私が芝居をし、米寿の秋山さんに客席で見
てもらうのが夢」と話していて、来年それが実現したのに、と思うと本
当に残念です。
 
── 《毎日新聞 2004年11月27日 10時28分》
 
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 20050107 お別れの会「白寿の芝居を惜しむ会」午後6時から東京会館
「ローズルーム」。発起人は一人芝居のスタッフ一同。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20081006
 握り拳の男 〜 役者の中の役者 〜
 
(20081008)
 


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