与太郎文庫
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1964年04月10日(金)  ピカソ画集

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19640410
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Awa Library;現代美術 月報
 
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 関根 弘《ピカソの庶民性 19640410 現代美術 月報》P1-2
 
映画がピカソをわたしに近づけた。
 ピカソにかんする映画をたしかわたしは三つみている。そのうちの一
つは、クルウゾウの「ビカソ・天才の秘密」である。
 三つみた映面のうちのどの部分にあったか、しっかりとはおもいだせ
ないのだが、いちばん印象深かったのは、ガラスに向って、ピカソが無
雑作に描いたり消したりしている場面であった。舞踊家が瞬間、瞬間に
消えていくポーズに賭けているように、その線もまた美しいと思った。
 たんに美しいと思っただけではなかった。そこにピカソの芸術のいっ
さいの方法が示されていると思ったのである。ピカソくらい目まぐるし
く変貌した画家はいない。目ざしたひとつの世界に到達すると、惜しげ
もなくその世界を捨ててつぎの世界へ向った。干供がオモチャを手に入
れると、すぐ破壊するように、自分自身の世界を壊した。壊したオモチ
ャはもとどおりにならない。
 もとどおりにならないフォルムに、新しい現実があらわれた。芸術家
にとっては、あるいは革命家にとっては、自己を崩壊させるいがいに自
我を拡張する道はない。わかりきったことがだれにもでぎることではな
いのだ。ひとつのトレードマークをつくりだすと、その枠のなかに小さ
くちぢこまろぅとする人間をいやというほどみてきた。
 小説も書くある老画家は、仕事のかんけいで訪ねたとき、まごころの
こもってない絵はつまらない」と言った。老画家が、直接、否定したの
は、岡本太郎であって、ピカソではなかった。たしかに岡本太郎は、ピ
カソよりひとまわりスケールの小さい芸術家であるかもしれない。
 テレビにでて、くだらないお喋べりをする暇があったら、永仁の壷の
ニセモノでもつくったほうが芸術家の本分にかなっているかもしれない。
それほどの偽善者になれないところに岡本太郎の限界がある。
わが日本では、果物の静物面のほうが岡本太郎の絵よりも売れるので
ある。いいかえれば、大衆性があるともいえる。そこで岡本太郎は、絵
だけ描いていては喰えないので、字を書いたり、道化役者の真似ごとを
して大衆に接近しなければならない。これほど策を誤った話はない。し
かし、「まごころ」という言葉を逆手にとれば、岡本太郎は「まごころ」
のかたまりいがいのなにものでもないといえるのだ。その精神の根にお
いてピカソにつながっているのである。かれもまた自己崩壊の道をえら
んでいるからだ。
キャンディの包紙のデザインでもさせたら岡本太郎の右にでる芸術家
はいないのではあるまいか。
 八百屋の店頭で売っているものを描いているからといって、それが
庶民性のある証拠にはならない。貴族趣味のたんなる裏返しにすぎない
はあいもある。
 万物流転などという言葉をとつぜんもってくるのもどうかと思うが、
いわぱそうした流れのなかに立っているために、ひとはいつでも不動な
ものに憧れる。瞬間に永遠を幽閉することを夢みる。きがついてみると、
わたしたちはいつも遺物の壮大な廃嘘の前に立たされているのだ。
 芸術のなかの芸術は、料理であるが、ピカソの絵筆はまさに、板前の
庖丁に似ている。完成した瞬間に完全消化されてしまうことをねがって
いる。記念碑をつくることは板前にとってなんの意味もない。
 陶皿をつくるピカソは、ラーメン屋のコックそっくりだ。
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/B000JAOK70
── 大島 辰雄《現代美術 第11 1960-19640410 みすず書房》
 
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/19591017 ピカソ《葡萄とギター》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19580901 リルケとピカソ 〜 To go, or not to go. 〜
 
── 《ピカソ 〜 天才の秘密 1956 France》カンヌ国際映画祭審査員特別賞
── Clouzot, Henri-Georges《Le Myst�・re Picasso 1956 France》
 
(20100522)
 


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