与太郎文庫
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1954年12月10日(金)  いそいそ 〜 something wrong 〜


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 いそいそ 〜 something wrong 〜
https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/blog-entry-2424.html(初稿)
 
…… 超常現象に対しても興味を持ち「それを信じたい人には信じるに
足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。
超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」と発言。
コリン・ウィルソンによってこれを「ウィリアム・ジェームズの法則」
と名づけられた。── (Wikipedia)
 

 Balzac, Honore'de 17990520 France  18500818 51 /《人間喜劇》
 James, William  18420111 America  19100826 68 /“something wrong”
 Weber, Max    18640421 Duitch  19200614 56 /《職業としての政治 19190128 講演》
 外村 繁   作家 19021223 滋賀   19610728 58 /《夢幻泡影 19490400 文春》
 北森 嘉蔵  牧師 19160201 熊本 東京 19980928 82 /神学/義明の父
 Wilson, Colin   19310626 England  20131205 82 /“The Outsider”

 
>>
 
 かつてアメリカの有名な心理学者ウィリアム・ジェイムズは、人生の
中に something wrong(何かしら間違ったもの)がある、といったこと
がある。さきに引用した外村繁氏の文中に出てくる「どこか奇妙なこと」
という言葉は、まさに something wrong に相当するものである。われ
われは以上において、人生の「始」「中」「終」たる出生・職業労働・
死のいずれもが、something wrong としての問題性をもっていることを、
見て来たのである。(P21)
 
 われわれはこれまで既に something wrong を直感して来たが、しかし
何故それが wrong であるかについては一言も触れて来なかった。そのこ
とは、この文章の冒頭に引用した三人──外村 繁、マクス・ウェーバー、
無名の一青年──について既に同様である。これらの人々は、人間の性
行為の中に、職業労働の中に、死の中に、矛盾(「どこか奇妙なこと」)
を直感したのは確かであるが、それが何故矛盾であり、奇妙であるかに
ついては、一言もしていない。ただ「奇妙だ」「さっぱり分らない」と
いっただけである。そしてそれはまたわれわれ人間すべてに当てはまる
ことである。われわれは自己の根源を扼する矛盾を直感しているにもか
かわらず、何故それが矛盾であるかについては、全く知らない。われわ
れにおいては、直感が知を伴わないのである。
 しかるに聖書はわれわれの直感と同じ直感を叙述すると同時に、それ
を解明することをしているのである。ここに聖書の決定的な意義がある。
では聖書の「解明」は如何なるものであろうか。
 一たい「矛盾」というものは、本来あるはずのないものが現にある、
という所に成り立つ。これが「矛盾」の本質である。もしも、本来ある
はずのものが現にある、のであるなら、それは少しも「矛盾」ではない。
本来あるはずのないものが現にあるからこそ、それが「矛盾」と判断せ
られるのである。──そこで人間に既述のような根源的矛盾が直感され
るということは、人間が本来あるはずのない所に硯にある、ということ
を前提している。人間の出生・労働・死が「矛盾」であるということは、
もし人間が本来あるはずの所にあるなら、決して起らない事どもが、人
間において現に起っていることを意味する。一言にしていえば、人間は
本来あるべき所から落ちているのである。「本来あるべき所」とは何処
であるか。それは神のもとである。その神のもとから落ちたということ
が、聖書のいう「人間の堕罪」である。人間は神のもとから離れ落ちる
ことによって、本来あるべきところから、本来あるべきでない所へ落ち
たのである。従って人間には、本来起るべきでないはずの事が起るに至
ったのである。人間の根源的存在に「矛盾」が直感されるのほ、このた
めである。──これが聖書の解明である。
 人間はこのような意味において「脱落存在」である。あたかも列車が
レールの上を走っている限り、きわめて滑かに進み得るのに、レールか
ら脱線すると、起ってほならないはずの事としての転覆が起るように、
人間が神のもとにいたなら、人間存在のうちには何の矛盾も存在しなか
ったはずであるのに、神のもとから脱落したことによって、起ってはな
らないはずの事としてのさまざまの矛盾が人間存在を見舞うに至ったの
である。これが人間存在の「矛盾」に対する聖書の解明である。
 
(五)人問の矛盾を単に「直感」したり「叙述」したりするだけでなく、
これを「解明」することによって、キリスト教はどのようにその「矛盾」
の姿を描くであろうか。(P25-28)
 
 人生における聖書の位置
 
 人間の堕罪以前においても労働そのものが人間に課せられていたこと
は、創世記二・一五に「主なる神は人をとってエデンの園に置き、これ
を耕させ、これを守らせられた」と記されていることによって明かであ
る。しかしこの「本来あるべきはずの状態」にある限りでの人間の労働
は、人間にとって何ら重荷の性格をもたなかった。換言すれば、そこに
は何らの否定的なものが介在せず、人間にとって労働は全く肯定的・調
和的な性格において受け取られていたということが出来る。そこではお
そらく労働は人間にとって積極的に「いそいそと」受け取られたであろ
う。「職業労働」(ベルーフ)が同時に神の「召命」(ベルーフ)であ
るというピューリタン的職業労働観は、本来はこの場所でいわれるべき
ことである。そこではあらゆる職業労働が直接無媒介的に神から祝福せ
られるものと考えられるのである。しかし現実にある職業労働は、人間
の堕罪の結果刑罰として宣言されたものであり、人間にとっては否定的
であり重荷である。したがって「労働を自己目的として追及することは、
人間の本性には属しない」こととなるのである。(P29-30)
 
 聖書から見た「自殺」
 
 昭和二十八年十二月二十八日に国警本部から、戦前戦後十三年間の日
本における自殺者の統計が発表された。これによると昭和二十五年が最
高で二万千七百十人にのぼり、最低だった昭和十五年の一・六倍となっ
ている。昭和二十六、二十七、二十八年とも二万人をやや上廻っている。
これを平均すると大体一日に五十七人ぐらい自殺していることになる。
日本だけでも毎日五十七人の人間が自分で自分の生命を絶っているので
ある。全世界では驚くべき数字となるであろう。
 しかしこのような客観的な統計などをいくら出しても、自殺という問
題の真相にはほとんど触れたことにはならない。自殺ということは、客
観的な観察では触れられない徹底的に主体的な事柄だからである。「死
にたる者にその死にたる者を葬らせよ」(マタイ伝八・二二)という言
葉がある。これは、人間が死者のことなどあまり考えないで、生きる道
のことを考えるべきだということを、教えていると取られるが、然し裏
から解釈すれば、死者を真実に葬り得る資格はただ死者のみがもってい
る、という意味にも取られ得る。生者には死者を葬る資格がない。生者
には死者を慰める権利がない。自殺しない者には、自殺者のことを考え
る資格と権利とがない。自殺者のみが自殺について考え且つ語る資格と
権利とをもつ。(P73-74)
 
 聖書から見た「罪」
 
 バルザックの『セザル・ビロトー』の中につぎのような一節がある、
https://booklog.jp/item/1/4894341433(19990730)
 
……「利益を侵害されたとか、傷を負わされたとか、あるいは頬をなぐ
られたとかで、そう人間は憎み合うものではない。そうしたことはどう
にかもとに戻せるものである。しかし卑劣な行いをした現場を見つけら
れてしまっては?……その結果として罪人と罪の目撃苦の間に起る決闘
は、どちらか一人が死なないでは結末はつかないのである」。
 罪というものの実相は少くともこの言葉以下のものではあり得ない。
この辺に罪についての考え方の最低線があるとするなら、われわれが普
通「罪」という名のもとに考えているものは、如何にお目出度いもので
あるかが分る。バルザックによれば、罪をめぐっては「どちらか一人が
死なないでは結末はつかない」ほどのやりとりがなされるのであるが、
われわれが罪と呼んでいるものをめぐっては、どちらの一人もゆっくり
落着いて考え合ったり語り合ったりすることが出来るのである。「わた
くしの罪」などといいながら、しかもその「わたくし」は結構生きてき
ているどころか、更にはその「わたくしの罪」について小説を書いたり、
講演をしたりすることさえしているのである。(P78-79)
 
…… 一言でいえば、自己の生活が結局は偶然性の連続ではないかとい
う一種の直感であった。自己が生れてきたのも偶然、生きていくのも偶
然、死んでいくのも偶然、すべては行き当たりバッタリ。誰も自己の背
後から自己を支えて保証してくれる者はいない。私の背後は虚無である。
──この直感が襲い始めると、ほとんど何も手がつかなくなるほどの苦
しみを経験せざるを得なかった。(略)私はこの時始めて新約聖書を手
にして見る気になった。おそらく五高の一年生の秋頃であったろう(P168)
── 北森 嘉蔵《聖書入門 19541210 河出新書》装幀=庫田 綴(綴−糸)
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JB5LCW
 
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 与太郎の書込みメモ
 
 この書物は遂に結論を与えなかった。決定的な動機を与えなかったば
かりか、自分を一歩ふみとゞまらせた。しかしそれこそは、この書物の
最大の良識であり著者の高潔な良心のなすところであった(19560306)。
(P7)
 
 モルガン《人間のしるし》を自分に推した人々は如何なるつもりであ
ったか。人間のしるしは、そんなものはなかった、あるとしても矛盾と、
そのごまかしがあるだけだ。阿部次郎《倫理学の根本問題》に期待しつ。
(P15)
 
── モルガン/石川 湧・訳《人間のしるし 19520210 岩波現代叢書》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4000016229
 
── 阿部 次郎《倫理学の根本問題 191607‥ 19480101 194909‥ 岩波書店》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JBJQ8M
 
 十字架愛(森安牧師)。(P34)
 
…… マルクス主義的進的性をもつ者はニヒリズム・デカダンスに関し
て無気力である(求道者講演会)。(P56)
 
…… キリスト新聞 1018日付けに「北森 嘉蔵召天10年」の記事があ
った。脇見出しが「故人偲び記念会に300人」と出たから、盛会だっ
たと思ったら、次号に「約100人」と訂正が掲載された。ところが
「300人」もしかるべき筋から出た数字らしい。また掲載された記念
写真から判断すると「約100人」も本当か、と思える。人数の報道
は難しい。(Concierge)── 人数の報道は難しい
http://blog.livedoor.jp/cjc_skj/ キリスト教記者クラブ《ロビー》
 
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(20090425)(20210714)


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