与太郎文庫
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1951年10月30日(火)  山びこ学校

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19511030
 
 19511030             from 金谷 常延
 
 御手紙に添えて写真、学級新聞ありがとう。早速先生に持ってゆきま
したら非常に喜んでいました。
 早速 御礼を云はねばならないのに ついこんなに遅くなって了って
相済まぬことだと思ひます。先生は大学病院北病舎二階へ入院しました。
当分絶対安静で身体は動かせないのですが、しゃべるのは差支ないよう
です。勿論 悪化したから入院したのではなくて 先生の例の合理的な
療法を徹底してやってもらふことを実現したのに過ぎませんから 決し
て御心配の無きよう 六年生の皆さんにもよくこのことは御伝え下さい。
しかも入院してかえって 全治可能の希望が十中八九まで持つことが出
来るようになったのも収穫でした。しかし二学期は恐らく駄目でせう。
私たちとて せめて三学期はという気持で一生懸命ですが、病気が病気
なので(薬では決して治らないそうです)自分の体力と回復を待つより
外がありません。
 学級新聞のこと 感想を先生から君に言って呉れるように頼まれたの
で一寸書きませう。またくわしいことは後日 暇なときに遊びによって
下さったら話し合って見たいと思ひます。
 折角張切っていたのに壁新聞になって悲観しているようですね。常に
多数が正しいという事はないわけで、小数意見が正しい場もあるのです
から悲観しないで下さい。紙の問題と材料(謄写版ヤスリ)との点から
いえば 壁新聞がいいでせう。しかし壁新聞にも欠点はあります。プリ
ントだけの分量を壁新聞に納めることは(今書いている位いの大きさで
あれば別ですが)町に貼ってあるようなのだと とても大変ですね。筆
で書くというのも大変でせう。立読みということも(持って歩いていつ
でもとり出してよめない)、とにかく方法は皆さんで考えて いゝのを
作ってください。
 プリントの技倆については君位いに書ける人はそう居ないと思ひます
(大人でも)立派です。少し太い字の研究さえ出来れば満点でせう。
編集、これは君のひとり角力みたいで、とても大変ですね。もっともっ
と皆んなが発表意欲をもたなくてはいけないし、学級新聞としての意義
も薄らぎますね。皆さんが 山びこ学校の生徒たちのように もりもり
自分の意見を発表する機会と訓練を努力すべきでせうね。
 どうでせう 壁新聞になった機会に その方に 皆んなが力を入れる
ように話合うことに努力しては…… プリントは それからでもいゝの
ではないでせうか。君の特技を示す機会は一応押えて、内容を充実する
ための努力をやって見ては……。 そのことの方が、皆んながよくなる
いちばん大切なことだと思うのですが。 
 この間、国語主任をやって居られる岸本先生が先生のところへ山びこ
学校の本を見たまえといって御見舞に来られました。あれはとてもいゝ
本です。
 岸本先生は新洞校のような環境を持っている子供たちこそ ほんとう
に詩が必要だということを云はれ 実際にも教育して居られるようです
が、詩は勿論うたですが 汚れのない童心にうつったまゝのものを真直
に偽りなく見て、感じて、表現することが大切なことなので、そういう
態度を常に持っていることは 自分自身でものを見て、感じとって、表
現する力がつくわけで、自分の意見を持つ一番根本的なものだと 私は
思ひます。私の家は岸本先生が貸して下さった山びこ学校があります。
先生も読んで終いましたので返さねばなりません。
 君がもしその返し役を引受けて下さるのでしたら その機会に岸本先
生と話しすることも出来ると思ひますし どうでせう。勿論こんなこと
は君自身はよく解っていることだろうとは思うのですが、私が見せてい
ただいたプリントとの編集ぶりから憶測して「あの本をもっと読めば」
という気持、それから「先生とお話しすること」が決して無駄でないこ
とが確信されるのです。そしてそのことが君の性格 ひいてはこれから
の有為な人生をあゆんでゆく上にもぜひ必要であろうということを──
 どうも長い、繰言のような格好になって了いそうです。今日はこれ位
ひにして失礼します。たゞ私の思ひつきをいろいろと書いてすまないと
思ひます。御父様や御母様によろしく御伝え下さい。いつも何かと御心
配をかけ、御礼の申しようもありませんが──
 でわ 六年生の皆さんにも 入院した事について誤解されないよう、
かえって希望の光がつよく先生の身体と心を温めていて呉れているとい
うことを御伝え願いたいと存じます。どうも有難う。ぢゃさようなら
 
── 山間の学校は、この春、八人の小学1年生を迎えた。昨年四人、
一昨年が五人、2年生との複式学級が続き、4年ぶり、1年生だけの教
室が戻ってきた。文集「山びこ学校」を生んだ無着成恭先生と四十三人
の子どもたちの母校、「山元小・中学校」は小さな学校に変わっていた。
 終戦後、この中学校で、2年生の作文や詩を集めた文集がつくられた。
貧乏に向き合い、生き方をさぐった作文が心をうった。昭和二十六年に
出版されるやたちまちベストセラーになり、当時の文部大臣もやってき
た。戦前の教育が否定され、新教育への模索が続くなかで、この生活綴
方は山の学校を戦後教育の“メッカ“に押し上げた。
 カヤ葺きの寒村の学校は、戦後の一時期、四百人もの子どもでふくら
んだ。しかし先生がいない。代用教員が入れ替わり立ち代わり教壇に立
った。師範出の無着先生の着任は夢のようだった。「なにしろ元気がよ
くて、熱心でね。足りない備品は泊まり込みで作り、腹が減れば裏山の
墓地の供え物を川で洗って食べさせるメチャクチャなんだ。だけどその
熱意にひきつけられた」と村に残ったクラス代表の佐藤藤三郎さん(6
3)は振り返った。教育課程も試案、教科書もそろっていない。混迷だ
ったからこそ無着流の人間教育が息づいた。
 「雪がコンコンと降る 人間は その下で暮らしているのです」(石井
敏雄)。3行の詩は寒村のいまを訴えた。「僕の家は貧乏です」と書き
だした作文「母の死とその後」(江口江一)は文部大臣賞に選ばれた。
── 山本 稔《名作散歩 199809・・ 東京新聞&中日新聞》http://www.zusi.net


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