『 hi da ma ri - ra se n 』


「 シンプルに生き死にしたかった 」


2002年08月28日(水) 「リハビリ」

書くのが、くるしくなっていくのが、発作になるのが、減ったらいいと思って

じぶんのことばではないことば、だけど
じぶんのみたいに思えたような
じんわり、心にしみたような

すきなうたを、ぽつんと、載せます。


これが、どこかで、乾いたものに降りおちる、みずしずくに、なれるといい。


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思い出して
きみがどんな暮らしをどこでしていても
僕ときみの命をつなぐ絆は生きていく
今をこえて

すべてを過去に変えて時代は過ぎていくけど

裸足のまま歩いてる
きみを きみを 僕が知ってる
忘れないで、この部屋のドアは
いつもあけてある

いろんな時がある
幸せな時、急ぎ足のとき
深い亀裂の底で
見えない空を見上げてる、そんな時も

やさしくなれなくても
自分を責めなくていい

裸足のまま歩いてる
きみを きみを 僕が知ってる
きみがきみを見捨てても
僕がきみを抱きしめる

言葉はむなしくなる、きみのこと思い出せば

裸足のまま歩いてる
きみを きみを 僕が知ってる
きみがきみを見捨てても
僕がきみを抱きしめるから

裸足のまま歩いてる
きみを きみを 僕が知ってる
忘れないで、この部屋のドアは
いつもあけてある



谷山浩子「しまうま」より、「裸足のきみを僕が知ってる」 (1996.11)


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手にとったときの、感覚と、
そこに並んだタイトルと、
それから、じぶんの誕生日に発売されたという理由で買ったCDに
入っていた、うたです。

19歳になって、二週間かそこらの、冬で
浪人生のわたしで

谷山浩子というひとは、
へんなふうに
わたしの生活に落っこちてくるひとで

音楽室に忘れられて半年たって、捨てられるところだったCDを
高校生のときにもらって、それが、このひとのでした。
「ボクハ・キミガ・スキ」
タイトルテーマでは、好きという気持ちはただのワガママ、とうたっていました。
恋人のいるキミを好きになっちゃったボクのうた。
何もないふりしてキミと話してる、言葉と笑顔で嘘を重ねてる
・・・・・(だけど・・・「ボクハキミガスキ」)

すごくいいうたとか
かわいいうたとか
ぜんぜんつまんないうたとか
ちょっとこわいうたとか
泣けてきちゃううたとか
いろんなうたを
谷山浩子さんはつくって、うたいます。

「裸足のきみを僕が知ってる」は
そんな谷山浩子さんのうたのなかの、わたしがばったり出会ったひとつです。


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それから。


ホームページ
できそうです。

リンク先に
ひとつ、ひとつ、
ごあいさつをしているところです。


まだ、ぜんぜん、きちんとしたお相手ができそうにないけど
それを思って、なんだか急にこわくなったりしてるけど

ホームページ、
そろそろと
うごきだしました。



まなほ



2002年08月21日(水) long good bye

見にきてくれた、どこかの、あなたへ。

ちっとも更新できなくて、ごめんなさい。
そうして、それでも足を運んでくれて、
どうもありがとう。

お手紙をくれた、あなたへ。
お返事をかけなくて、ごめんなさい。
でも、ほんとうに嬉しかったです。

物陰からでも、見てくれるひとが、いることを、知って、うれしかったです。


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気候不安定な、あのすぎていった台風のせいなのか
それとも
わたしの頭のどこかに閉ってあった「きのう」に
火がついてしまったのか
ことばを書くことができずに、
かわりに、
日々、突発的にやってくる不安とか吐き気とか、震顫やらとおつきあいして
夏なのに、長袖二枚も重ねてくるまって、
寒がって居ます。

そんな近況で

ことばというものが、わたしから繰り出されるくせにわたしを阻んで、
わたしをじわじわと、刺し殺すためにとってかえしてくる。
むかいあえば、
動悸のはげしくなるわたしが居て、どこからか悪寒がやってきて
そのくりかえしが何度か続いて、発作かなあと漠然と思うけど
病名を知らないわたしには何も説明することができなくて
一方、現実を綴るためのこの日記はちっとも進んでゆけないみたいで
文字を綴るちからが、ちっとも出せなくて

なぜなのか。


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ほんとうに舌足らずな理由と自分でも思いますが、そんなわけで
しばらく、
この日記をおやすみしようと思います。
自分を守るためなのかどうか、よくわからない、
精神的に不穏な気配がむくむくとやってきてわたしを喰らおうとする、
それからただ逃げるだけなのかも、知れないけど……。


戻れるかな

戻って、こられるかな。


……そのうちふいと戻れる日がきたらそのときは
もうすこし、やさしいわたしになれていたらいいなと思います




読んでいただいて、どうもありがとうございました。


たくさん、ありがとう。



8月21日、 記   まなほ



2002年08月17日(土) 今も、昔。

いまのわたしは、日陰にいます。
だから

・・・・・・文字よりの影響をうけやすいかたは、読まないことをおすすめしたいです。

とくに性的な葛藤を抱える方には。
それから、わたしというひとりのにんげんに、
なにか幻に似たような思いを抱いている、ひとにも。

それがなんであれ、
わたしは、あなたをぶちこわすのがこわいです。
壊れたあなたのところまで出かけていって
ごめんなさいと、釈明とを、することはできないから・・・・・
このことばの行く末だけは
わたしは責任をもつことが、まだ、できないから。
そうして、おかしいことだけど
逆にこれから綴る文章を読んで、ただふつうになぐさめのことばをもらったとしたら
わたしはもっとずっとずっと深い日陰に入り込んで
しばらく出てこない、ような気が、します、、、、、、。


混乱してぐしゃぐしゃな頭の中でわたしは綴ります。

ほんとうはお墓の中までもってゆこうと本気で思っていた、5年も6年も思っていた
そのことがらの、きれはしを、なぜか、、、今日は。


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わたしは男のひとがきらいです。
意識したのは高校生のときでした。

「せかいじゅうでいちばんきらいなひとは、パパ。」

ある日さらりとわたしから流れ出したせりふに、友達はおどろいていました。
でも、わたしにはもう打ち消せないことでした。
その、記憶から抹消されていた「じけん」を思い出したのは、大学に入ったあと、
夏休みのレポート課題の参考文献を読み続けていたときでした。
今思えば、わたしは、ひきよせられるように、そのテーマを決めたのかもしれません。

「ACとCA」

タイトルがそうつけられた、おおよそ2万字にもわたるレポート。
吐き気がするような、寒気がするような、
自分のなかの汚い血液に気がついて我慢ならなくなったようなきもちで
おなかをかっさばいてやりたいような衝動にかられながら
気分の悪さに震えながら。文献を読み続け、書き上げたレポート。

「アダルトチルドレン、チャイルドアビューズ」

CHILD ABUSE。
いわゆる、児童虐待のことです。

虐待といえば、すぐに
暴力をふるうことを連想しがちですが、正確には
身体的虐待・精神的虐待・ニグレクト(養育放棄)・性的虐待
この四つに、大雑把にわけられます。

わたしはおそらく、そのうちの3つを、間接的に、あるいはまさに、受けながら
育っていました。文献のなかから立ち上がってくるいろいろな著者の思い出が
わたしの、消えていた記憶を、思い出したくもなかったことを
きちんと、突きつけてきて、くれました。

性的虐待。
肉親からの、それ。
わたしはそれを憎みます。
はげしく、憎みます。
そしていつか少女らしくある自分が憎らしくてたまらず
教室のほかの女の子たちのほっそりした体型をみるたびに
じぶんのふくらんでゆく胸を、まっしろな腿を、憎みました。

これさえなければ
これさえなければ

スカートをはかなくなってゆく、わたしができあがりました。
可愛らしい服、とは無縁のものを好むようになってゆく、わたしができあがりました。
男の人を生理的に受け付けなくなってゆくじぶんが、どんどん強くなってゆきました。
お酒に酔うという行為をも、また、同じように。


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恋人はいますが
セクシャルな意味では、あまりそういうふうに思ったことはありません。
鬱病のお薬をもらうようになる前から、その傾向はひどくなって、
そこに、わたしの存在を感じられたらそれで充分、満たされるくらいになりました。
免疫系と自律神経系にがたがきているわたしは、どうしても、
いつになっても冷たい肌で、体温も低くて、ひとりでは、ちっともあたたかくなれない。
そのくせすぐに熱を出しては、倒れる。
じぶんを勇気付けるためにあつめはじめたお守りにかこまれて暮らしていて
そうしてそのなかで、いちばん大きくてあったかいのが、
たぶん、そのひとで。

「恋人」とよぶにはなにかちがい、
「相棒さん」、とただ、呼んでいます。

たとえば
十日間、あわない毎日が続けば
わたしはそのひとの顔をみることができなくて
手をつなぐ、という、唯一の、あったかな体温を感じることも、
うまくできなくなったり、します。

24時間いっしょに居続けて、はじめて
警戒心がまっさらにとけてなくなって、
言いたいことが気がねなしに言うことができて、手をつなげて、
まっすぐに顔をもることができるような
わたしは、そんなふうな、手のかかる「こいびと」です。


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……これ以上は、書くことができなくなりました。
自分からはじめておいて、ごめんなさい。

早朝の戯言です。
真剣な、戯言、
これでまたなにかがこわれるかもしれないと思いながら
でも、綴ってしまった、わたしの「きのう」。
まるで昨日のことみたいに悪寒の走る、もう12年も前の、「きのう」の日々。
混乱のまま睡眠薬を飲み損ねて眠りについて、3時間ほどで目がさめて
ふたたび眠りにつくことができずにお茶を飲もうと台所へゆけば
ごろりと横たわって眠っていた、父親の姿。全裸の姿。


瞬間、よみがえってきた、酷い、きのうと、嫌悪感。


・・・・・・もう、なにも、いえません。


もし蹴り殺してやりたい人間が居るとすればきっとそれはそこに横たわってる男だと
思いました。どっかに行ってよと半泣きで頼みました。父は聞く耳をもちませんでした。
わたしのことばなんて、昔からうわのそらで、右から左へと抜けていく
そんなひとで、、、、、、期待なんて持たなかったら、もうこれ以上
わたしは傷まなくてすむんだろうか。
自分が汚れているというこのどうしようもない嫌悪感に。
おなかを切り裂いてやりたいという、衝動に。


運良く、深夜にもかかわらず、外から帰ってきた弟が
父親を無理矢理かついで寝室へと運んでいってくれました。

当面の危機は、去り、

うすくらがりに残されたわたしは、ただ
自分を思い切りがんがんとなぐりつけて、それからはさみの刃を、腕にあてて
見つめていました。
きらないで
きらないで
ただ、見つめているだけで我慢しようと、懸命に、おもって。


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こんなに汚れていても、わたしは生きていけますか。
苛まれて切り刻まれていても、暮らしていけますか。

なぐさめられても、同情されても
わたしのこころは麻痺するか、死んでいるか、
あるいは余計に傷むかで。

だから。

わがままなお願いだけれども、
こんな、ひたすら昨日に縛られてるわたしの掃き溜めのような文章、
もしもなにか、声をかけてやりたいと、思ってもらえたら
そうして、声に出すことばがみつからなかったら

読みましたというしるしに
投票ぼたん、ひとつぽちりと
どうぞ、押してください。

ことばではなく
数字で。

それでもう、じゅうぶん、です。


安心して、暮らしていける場所に飢えている、わたしには、もう
それだけでじゅうぶん、こころづよくなれる気がする。



・・・・・・ながい文章、ここまでよんでいただいて、ありがとうございました。




2002年8月17日、深夜〜早朝  まなほ



2002年08月15日(木) 諦めても、いい?

わたしにはブレーキがついてない。
アクセルもついてない。
だから一歩踏み出すのにすごくすごく時間がかかる。
そうして踏み出したら、こんどは止まらない。
下り坂にさしかかれば、どんどん転げ落ちながらスピードアップしてくみたいで
止められない。止めることができない。

疾駆。

足は遅いけどココロが突っ走るのはすごく速いの。たぶん。(笑)


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 だれかわたしを止めてよ、押さえつけてあの樹にしばるの
 だからおねがい止めてよ、きつくきつくあの樹にしばるの
 あー朝が来たとき、わたしは生きてるのかしら?生きてるのかしら?
 がじゅまるの樹のしたで

 (こっこ「がじゅまるの樹」)


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そういうわたしが、前にきめたことを、ひるがえすのは、すごく、気力がいることだけど
とうとう、ひとつ諦めることにした。


……図書館司書のスクーリング、今年は、行かない。

じぶんのからだをだいじにしよう。
ほんのすこしだけど、おちつきかけてきたような気のするこのからだを
酷使するのは、やめよう。


この間の週末、小さな旅に出かけて、楽しかった。
電車にもバスにも人ごみにも知らないおじさんの目つきにも、ずっと無縁で
あの嫌なドキドキも手の震えも、いつもよりずうっと少なくてすんで
温泉にも、大浴場にはムリだったけどお部屋のお風呂で入って
ジェーンマープルのふわふわの白いワンピース、たくさん着た。

でも、やっぱり、いくら楽しくても、疲れはたまってゆくんだね。


ほんの少しの時間、帽子と日傘を怠っただけなのに
日に焼けたところから一日中熱が出て、
炎症がじわじわと広がって、顔や首や肩の皮膚が、水をうしなって
ぴしぴしと細かく亀裂していって、なんだか病人になってしまった。
風が痛くて、空気が痛くて、水がしみて、
夏なのに長袖を着て、抱え込むような姿勢で、倒れこんで、ねむるばかり。
まだらみたく赤と白に腫れてる顔をみるとあんまり哀しいから鏡をみたくなくて
でも現実は見ておかなくちゃと思って、鏡に顔を近づけて見る。
ちっともかわいくないあたしがいる。
きちんと見ておこう。
ごわごわの皮膚のわたしを。


このからだで
真夏のスクーリングに往復3時間かけて朝から夕方まで6日間通い続ける自信が、
もとからあまりなかったけれど、その最後のひとひらまで崩れていったから、
勝つ見込みがものすごく低い賭け。

それだから、

……諦めてもいいですか。


風邪を引くのがこわいんだ。熱を出すのが怖いんだ。
食欲が薄れていく前よりも、もう10キロ以上も痩せてしまったからだで、
体力も抵抗力も落ちているからだで
一度ほかの病気をすると、どんどん体力がなくなってしまうから。
病気とケンカすることができなくなって、
病気に負けて、乗っ取られて
それと一緒にこころもずんずん落ちていく、
わたしはたぶん、それを止められなくて。


世間には、いろんな理由や事情があるに違いないけど
とにかく

からだを芯から壊しながらでも守らなくちゃいけないものは
わたしの生活のなかには、そんなにたくさんないんだって、わたしは思う。
相棒とかともだちとかは、自分が壊れても守ってだいじにしてゆきたい。
でも、このあとの数ヶ月を台無しにするかもしれない6日間に、わたしは、
もう、なんだか、踏み出せないよ。


生きることを諦めるかわりに
諦めた、何日分かの講習の日々と
それにかけてきた、わたしのちっぽけな意地とを秤にかけて
とうとう、決めた。

……バイバイ、大学生に戻れる一週間。

ぽっかりと自分であけることにした空白のなか、
忙しくしている周囲を見ても、
やっぱり自分はだめなんだという劣等感に苛まれないように
せめて、一日を、きちんと、だいじに暮らしていこうと思った。


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13日、お盆の日。
とーさんとかーさんが田舎まで出かけた。
でもわたしは到底そこへは行けなかったから
ただ、たまたま通りすがった一軒の花屋さんで、花を選んだ。
サトくんの顔とふわふわのやさしいことを思い出しながら、
たぶんお盆のためのアレンジメントの追い込みで殺気立ってる店員さんの間をくぐって
一本、一本、
花をえらんだ。

ふわふわした細い細い穂のついたグリーンの野草
ほんのりと桃色にかわってゆくつめ草のような、小さなまるい花の枝
まぎれこませた白いカーネーション
たれさがる、薄黄色の穂花
薄みどりの不職布にくるまれて、ほっそりしたリボンで結ばれて
わたしの手元に抱かれた花束。


今まで編んだ花束のなかで、いちばん手放したくなかった。

やさしい花束。


顔を近づけたら、ふわふわと草のにおいがして、
わたしはやっと、あの日の思いにすこし、近づけたと思ったんだ。


へんなふうにくるしくて、べそべそ泣きながら選んだ、花束だけど
でも
今まで選んだ花の中で、いちばん好きな花束だったんだ。


自分で撮った、まっさおな空の写真でつくったはがきを添えて母さんに託した。
宛名のないはがきと封筒と、野原のにおいのする花束。
差出人だけがわたしで、
何処にもほんとうは届かないって知っていても、でも、


あおいあおいそらをみてほしかったんだ。
草のにおいのする野原にねころんで
いつまでも
そこにいてほしかったんだ。




まなほ



2002年08月10日(土) 冒険

病院に、やっと
行きました。


十日ぶりくらいに外に出ました。
ひさしぶりに見た庭の外のせかいは、
きれいだった。
夏の日ざしで緑が透きとおって
でも、立秋翌日にふさわしいような風が、ふいてた。
さわさわ、さわさわ、なみうつせかいはきれいだとおもった。すごく、すごく、せかいは、
きれいだとおもった。

でもわたしはガタガタふるえていた。
情けないけど、外に出ることを考えて実行しようとしただけで
準備をする手がガタガタふるえだして、喉が詰まって、そのくせカラカラで
落ち着こうと思ってお水を飲んだら気管に吸い込みそうになって咳き込んだりする。
自分でじぶんに裏切られているみたいで、かなしかった。
どこがいけないのかわからない。
だけど、わたしは、わたしに、反逆されているみたいな気がする。
予想をことごとく裏切ってくれるココロの体調、は
闇の中にあるみたい。

自分のココロの面倒がじぶんでみられないんなら、せめて
カラダの面倒くらいは、みられるようになりたいとおもった。
実際のところココロはカラダを投げ出しつつあって
ときどきカラダのほうまでもに抗議される羽目に、なるんだけれども………
たとえばただ気力が出なくてお風呂に入らずに眠ってしまった翌朝、とか
動揺して混乱して、スキンケアが気がつかないうちに荒々しかった日の、翌日とか。


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精神科を信じられないみたいだと、この日記に書きました。
心配のことばをいただいたりして、うれしかった。
そうして考えました。
やっぱり、そのとおりでした。
しんじる、というとすこし違うかもしれないけど、頼り方が前とは違ってしまった。
お医者さんの診察とか処方箋に、どうも期待感がないというのか、そんなふうな。
ただ、その場所からフェイドアウトすることは、
やっぱりかえって自分をさいなむことだと思ったので、(きっとわたしは自分を悪いと思う…)
お薬をもらうためではなくて、釈明をするために、
おなじ精神科に、とうに薬も切れて一週間もたった今になって
やっと、
行きました。


待合室で、ずうっと流れるテレビをいつもぱちんと切ってやりたいと思います。
わたしの不必要にささくれ立ったココロは、
あちこちから聞こえるテレビの音や光やおしゃべりとの喧嘩にあっさりとまける。
自分のなかみがぐんなりと弱く弱くなっていって
そのうち荒い呼吸でパイプ椅子に座ったまま横の公衆電話にあたまをもたせかける。
脈をはかれば120とかあったりする。安静時の倍ちかい数値。
たいてい、誰もいないことでもないかぎり、
わたしが座れるすきまがその待合室にはないので
ひとりで臨時に使うための椅子を受付の下から出してきて、
それに落ちるのが気がついたらわたしの「居るところ」に、なっている。
その空気は、ちっとも変わっていなかった。

お医者さんには、
すっかり詰まってしまった声で、でも言いたかったことの半分くらいは言えたとおもう。
声はふるえて、ときどき詰まったりしてしまったけど。
シュミレーションしておいた甲斐があったのかもしれない。
あとは、わたしの思うように伝わっていればいいのだけれど、
そこまではわたしにはわからない。まだ、わからない。
ただ、

お医者がわたしに伝えずに両親にだけつたえたこと、
「お嬢さんは薬では治せません。カウンセラーを紹介します」という、
わたしをあの場所不信にする核だったこのできごとについて、
その照会してくれたカウンセラーのひとはすでに
大学のときの担当カウンセラーさんと一緒に検討して
療法の考え方の中心が、たぶん、わたしにとって今よりも「危険」な方向に転びかねない
そういうものだから、かかるにはリスクが大きいので通うリストから外したこと、
そのことを言った。

あとは、わたしに説明なしに話がすすめられてゆくと情緒的に混乱がおきること、とか。

ぼつぼつと、話した。


……診察は、とりあえず継続することになりました。
ほかにゆくところが見当たらないから、という理由もあれば、
あたらしい場所をさがしあてて電話をする勇気がわたしにないせいで、
首をかしげながらも、もうしばらく、
わたしはあのお医者に通うことになるようです。


お盆前だし、いっそ一緒にすませてしまえと行った皮膚科のお医者さんは
ふとした流れで話したわたしの精神科についての話について、首をかしげていました。
その対応は自分のおもう「患者への応対のしかたの筋」から外れているとでもいうように。
そうして、「医者なんて相性がすごくあるんだから、どんどん変えちゃっていいんだよ」
そういいました。

「アトピーはいつかは消えるよ。
ただ消えるのが早いか遅いかなだけなの。
60歳になっても、本当の意味でアトピーのひとはいないんだよ。
でもあなたの場合はストレスがすごく関わってるから、
カウンセリングはできれば必要だとおもう、お薬だけじゃ駄目だろうとおもう
アトピーとちがってストレスは一生続くかも知れないんだし
自分で把握できたストレスの元は、そりゃ確かにストレスだけど、
でも、あんまりそれに囚われすぎないようにしなさいよ」

そういいました。

……わたしはこの病院になら、安心してこられるナ、とほんとうに思ったときでした。


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お薬をなくしたり記憶を飛ばせたり、ここでなきごとを言ったり
アドバイスをもらったり、していた二週間。
どこが病気なんだろう、って考えてました。
いっそクスリなんて断ち切っちゃって、病院なんて行かなくって、
がまんがまんでやっていったって平気なんじゃないの?そうも思いました。
病気ごっこ。
ときどき元気なときもあります。
はしゃぐこともできます。
いっそ家のなかでわたしはとーさんとかーさんの相手であってピエロみたいです。
アルバイト先に行けば、ムードメーカーみたいな雰囲気です。

だからよけいに、そんな気分がつきまとってならず
余計なお金を使わせているような気がした。


でも、

外に出るとくるしい。
なんでかわからないけど、くるしい。
くるしいのが止まなくて、ぶるぶるがたがた震えて
ぐんにゃり歪んでく視界のなかを一本の槍みたいになって突き進んでゆく。
ひとじゃない、にんげんじゃないみたいに。麻痺したからっぽのココロ。


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認知のゆがみ。

基本的に、「じぶんはきたない」と、わたしは思ってる。
剥がれ落ちて床をまっしろにする皮膚のカケラをみるたびに
きもちがずんずん下がっていって止まらない。
晴れた日ならすこしは元気にもなれるけど
舌打ちをして掃除をするとーさんをみると、どうしようもなくて自分をきずつけた。
疲れてるのに片付けをしなくちゃとぼやくかーさんをみるたび、
わたしは拍車をかけている存在なんだと思ってどこかがじんじん傷んだ。
恐怖におびえた。


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わたしはむかしから、掃除機がきらいです。
それは、だれかのきげんがものすごく悪い証拠だったから。
普段見過ごせていることが、腹を立てている誰かの気に急に障りだして、
そうしてあたりに散乱するキタナサに怒り狂ってかけはじめる掃除機。
突然なりだして、両親がわたしを追い詰めてく音だった。

ホコリよりも、わたしのまきちらす、
ばらばらに乾いた白い皮膚や、血痕や、体液のシミの多いばしょ。

それだからわたしはじぶんが無用だと思ってた。
今でも思ってる。

わたしがいないほうが、このウチは滑らかに暮らしていける、って。

ごはんのときに沈鬱にだまりこむわたしがいなくて
すぐに不貞腐れたみたく口をきかなくなる扱いの小難しいわたしがいなくて
あたりの雰囲気にばかみたいに怯えたり急に泣き出したりするみたいなわたしがいなくて
好き嫌いの多くて好みがずれているわたしがいなくて
すぐに寝込んで人の助けをひつようとするわたしがいなくて
あたりを汚すわたしがいなくて

たぶん、わたしはいないほうが、ひとのためになるって。



……そういうことが、病気だって、いうんだろうな。

たぶん。



せかいをきれいだと思うこころはいっぱい残ってるのに
ひとがそばに来ると体がふるえてだんだん混乱してきて、そのうち目眩がしてきて
視界がせまくなる。腕がしびれて引きつったり、息ができなくなったり、する。

ひともせかいの一部なのに
どうしてわたしは
きれいなものを、そこに見つけられないんだろう。




まなほ



2002年08月09日(金) 記憶鮮明

心よわいままにことばを書くと
どこかから、誰かが手をさしだしてくれるので
わたしは
すこしずつ、また、上をみることができるようになるみたいだった。


・・・・・・ありがとうございました。


さがしびとさんは、無事、みつかり、
たくさんの「ありがと」を
昨日は言うことができたみたいで
今日にもそれは引き継がれたみたいで
だからたぶん
「もう、だいじょうぶかもしれない」と、思いました。

何がだいじょうぶなのかは、よくわかってないんだけど。(苦笑)



そんな日だったきのう
そのおわり。
それはもう深夜なのか未明なのかよくわからない時間だったけど。

いつか使おうと思ってだいじに仕舞っておいた
色違いに勢ぞろいしたちっちゃなアイコンを、いざ使おうと思ったら、
薄荷色と菫色のやつのデータが壊れているのがわかって、あわてて、
そのアイコンをもらった素材屋さんサイトに出かけていったら、
閉鎖されていた。

それだから

これも作ったばかりだったじぶんのページのリンクの該当箇所に
閉鎖されました、と書き付けて更新してサーバに送った。

それから少しぽかんとした空白を抱えて
最後のごあいさつを読んでいました。
ちっとも稚拙な素材なんかじゃない、むしろすごく素敵な場所だったんだけどな
わたしはとても、そこが好きだったんだけどな、そう思いながら、
自分のてもとに残っている素材をだいじにしようと思いながら、
自分とすれ違いみたいにその場所がなくなってしまったことに、ぼんやりとたぶん驚いてた。

こんなふうに急になくなるものが、とうぜんだったっけ、と
やっぱり前触れもなく空白はやってくるんだったっけ、と


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


滅多にテレビは見ないけど
春先から、この季節にかけては、なぜか
ドラマを毎年のように、みているような気がする。
毎日がおやすみだからかな、
最初の年は、ある意味今よりもはるかに真剣に病みながら
終わりかけているちゅらさんをみて、
いつか行った沖縄の風をみてた。

今年はなぜか、とーさんと見ている。

サトラレ。

柄じゃ、ないかな?
映画ではぜんぜん観なかった。
でもわたしはこのところなぜか毎週のようにこれを見ている。
そうして、
エンディングのまっしろな背景に次々と花のようにひろがってゆく鮮明な色を見て、
そうしてこれから空を飛ぼうとでもするみたいに
目を閉じたままゆっくりと頤をあげてゆくひとたちの影の薄い姿をみて
いつも少しだけ泣きそうになっていたり、する。

その色と、かたちと、たたずまいとが
わたしにしのび寄ってきて、わたしを揺さぶるんだ。
だから、


昨日の夜もそれをみていて
それは置き去りにされた赤ちゃんとの一日の話で
いつものように心温まるよくできたお伽話で、
そうして、

わたしがこわれた。


「俺の心をよくさとって、よくわかる賢い子だから、サトル」


テレビの画面からそのせりふが何気なしに無邪気に落っこちてきたとき
とーさんが振り向いて、わたしがなんとなく押し黙り、そうして無言でもとに戻った。
なんとも言いがたいような雰囲気を少しだけ忍ばせて、何事もなく話は続いてゆく。
サトル、という言葉を画面からたくさんたくさん落っことしながら。


「サトくん。」


……連想するものは、同じだったのだとおもう。


話のさいごに赤ちゃんはお母さんと出会って、そうして元気に旅立っていった。
よくできた大団円、よくできたお伽話、50分間に収められたハッピーエンド、
だけど。

モノローグでかぶさってくれる心の中のことば。


「サトル、、、、元気でな、、、、元気でな、、、、」


……わたしがこわれた。

無言で
まざまざと

あのときの視界が立ち還ってきて、わたしは爆発しそうに涙を抱えた自分をみつけた。
わたしだけ、棺の前でさいごのお別れをさせてもらったとき
道ばたから盗むように鋏でちぎってきた菜の花を抱えて
がらんとした広い部屋のなかで
棺の上を覆っていた白い布をとりのけたそのときの視界、
ほんの少しだけ傷のついたまっしろな顔で、あなたが横向きのまま眠っていた
あのとき。

かなしいのか、さびしいのか、はらだたしいのか、
その全部をひっくるめてそのときだけ涙が爆発した、わたしの、
濁った視野のなかのあのときの
サトくんが
布をとりのけてゆく従姉の黒い着物の袖からみえるふっくらした白い手と
もうねこんなにね横むいちゃってるんだけどね、、、そんなような声が
どさりと何処かから降ってきてわたしを連れ去った。
あのときの、あの時間の、あの場所の、わたしに。

テレビの画面とかそれを見るとーさんとか
いっそ話を続けていくオダギリジョーと鶴田真由とかそれでもいい、とにかく
そういうのとは別個のところで視界がはじけてわたしの頭のなかがふっとんで


「元気でね」

わたしが言っていた。
どうしてかわかんない、でもわたしが絶対に言わなくちゃいけないと思った、ことば。
叫ばないのが苦労だった、発音するのがそのまま号泣にならないかと怖かった、
泣かずに立ち続けている伯父さんや伯母さんや従姉やもうひとりの従兄、
それを前にしてわたしが泣き崩れるわけにはいかないから、それだけは絶対にだめだから、
そうしてひしゃげた声で、わたしが搾り出した

「元気でね」


その声が聞こえた。
真夏の夜に、扇風機なんて回しながらテレビを見ているわたしに
春先の、まだあたたかいよりも寒かったような季節に着たくもない喪服を着て
唇をひきむすんで、たぶん不貞腐れたような顔をしていたわたしが。
そうだあれは去年の秋にたまたま通りがかりで売られているのを見た両親が買うと言い、
とてもよろしい品ですという店員さんの勧めもあって後日わたしが試着に連れてゆかれ
そうして買った喪服だった。
試着室で唖然とした、いやみなくらい似合う、喪服だった。

「こんなことのために買ったんじゃない」

まだ暗い朝、袖を通しながらぐじゃぐじゃのきもちでそう考え、
そして笑い泣きのように冗談に紛らわせて口に出した。

「っていうかこんなふうに役に立たなくってよかったのにね!」


……結局まだ、サトくんのためにしか、着ていない服だった。


今、実際にみえている世界とはべつに
頭のうしろのほうから覆い被さってきた、4箇月まえのきのう。
わたしはまるで、ふたりいるみたいだった。
あのときのまま、周囲を殴りつけたいようなきもちで泣き出しそうな自分と
テレビ画面をみて、笑う自分と。


たぶん、フラッシュバックというのだと、今は思う。


従姉の言ったことばが、今はおもいだせない。
けれど、きのうの夜あのときのわたしにはくっきりと聞こえた、
わたしの頭の中のどっかにみんな眠っているんだ。
あのときの、部屋の白さも、言われたことばも、サトくんの顔も、
それからまるで怒りみたいな、つよくつよく全部を否定したく憎むきもちも
吹き上げてくる、なみだも。

どうせならもっと前にみた笑ってるサトくんを思い出させてくれ。
そうして焼き付けてくれ。
あたしの脳細胞、
あんたはどっかまちがってるよ。


そんなふうに、自分を罵倒しても
なんにも、思い出せない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


気がつけば、もうすぐお盆が来るんだった。
でもわたしはあのひとに会いに行かない。
届けられる一輪の花もない。
ただ、
あんまりじぶんが泣いてることを知って、ぼうぜんとしてる。
そのひゃくぶんの1も泣いてなくて
悼みは、ながながとひきつづいて
これじゃいなくなったほうが苦しいんじゃないかと思う、だけど

今日こそは病院へ行かなくちゃと思いながら
すこしは、生きいそぐことを、おぼえたほうがいいのじゃないかと思いながら
まだ、ここにいる。


サトくんを連れて、
ひきずってかも知れないけど、背負ってかもしれないけど、
どこかにゆこう。

せめて。

この夏のしっぽのカケラくらいを齧りに、
そとへ、出よう。


・・・出なくちゃ。

・・・・・・出かけなくちゃ。




2002年8月9日、風のふくひるまに   まなほ



2002年08月08日(木) あなたを探してます。

なつやすみ。

必死にならなくてもいいと足を投げ出して、からだを投げ出して、
ついでに、気力も投げ出して、
相棒はどこかに行っちゃうし、
お医者は薬では治せないと言うし、
初回の診察であれだけ心理学をけなしたくせに
今は、カウンセリングを薦めるらしいし

だれにも置き去りにされたような気がして
日々、勝手に生きていた。
じぶんのなかだけ見つめていた。

そうしてふと気がついたら「わたしが」誰かを投げ出していたことに気づいたので
わたしはものすごく恥ずかしくなった。

取り返せないものがいっぱいあるから
できるだけ力をこめて、注意を払って、握っていようと思うのに
わたしの手は小さいから
それでもとりこぼしてしまうと、知っていたのに


「また。なくした?」


………今から追いかけても、遅いだろうか。


いつもいつも、いつも。

忘れてしまう。

自分の手が小さかったこと
置き去りにしたものがいつまでも、その場所で、
わたしを待っていてくれるとは、かぎらないこと
わたしを取り巻くものはいつもわたしと同じに揺れ動いて
そうして流れていくこと


「あなたを探しています」


いつも。
喪失に弱いわたしはなくしたものに気がついてから、泣くんだね。
涙が出ないのに、泣くんだね。
自分のなかがかなしいと気づけていないくせに
泣くんだね。

器用だね、じぶん。


そう言って、嘲った。


朝。そろそろひるどき。
この前に眠りから覚めてから、そろそろ19時間。
何日も、起き続けて、夜も朝も昼も、わたしはここにいたくせに、
今だっているくせに、それでもまだ、よくわかっていなかったらしい。


わたし、ずっと、偉そうだった、

ごめんなさい。

ごめんなさい。



まなほ



2002年08月06日(火) 8月6日

ちいさいころ。
世界が終わる日は、きっと夏だとおもっていた。
こんなふうによく晴れた、熱い熱い八月のある一日に
世界は終わるんだと思っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ヒロシマの日でした。

わたしの住むここも、また、

暑い日でした。

世界の終わりにふさわしい日でした。

ただただ、熱く

白っぽいような夏の日ざしのなかに、ぜんぶが焦げ付いて、

そうして、まっしろに焼け焦げて塗りつぶされていく。

一瞬の、フェイド・アウト。

白昼夢みたいな、ものすごくはっきりした、「終焉」。

せかいのおわり。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


でも実際には終焉は終焉ではなくて地獄のはじまりだったと。
画面にうつる原爆の絵をみながら、わたしは知るのでした。
呪いのように
出来事を背負いながらひたすら永らえてきたひとたちの描く絵と、綴ることばと、
からだをねじり吐くように押し出される台詞と。

一秒の前と後とでは世界はどれだけ変わったか。

わたしはどれだけ変わらねばならなかったか。

57年。57年。57年。
繰り返し告げられるじかんは、わたしの生きてきた年数を二倍してもまだ余りあって、
ああわたしの身体に焼きついた呪いが(そうあの夜から這い出し生きながらえなかったあなたが)
たとえばあと十年で消えなかったからと言って空を恨み悶えることはないのだと
ばくぜんと思いました。

57年を経て語られる出来事のために
それがために
詰まる声や吹き上げてくる涙があることを、わたしは
ひどく鮮明に、今日、このこころに焼きました。
こらえることのできない涙が57年前の一秒の中からやってくる。
そのことを。

なんと言えばいいのだろう。
なんと書けばいいのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日
8月6日。

ヒロシマの日でした。

「せかいのおわりは、熱い夏の日にやってくる」

そう信じ込んでいるただ6つか7つの小さなわたしがわたしを見上げて聞きました。

「今日なんの日か、しってる?」

13歳のとき、はじめてわたしは死にました。
舞台の上で、はじめてわたしは死にました。
その彼女が聞くのです。

「本当はわたし、なんになったの?どこへ消えたの?みんなどこへ行ったの?」

誰もやってこない夏休みの学校で
向日葵の葉っぱの先で光っている、しずくの中の青い空を見つめながら
あの一瞬の光の中で、そのしずくと一緒になった彼女が
わたしに聞くのです。

「わたしってだれ?あなたってだれ?ひとって、ほんとうは、なに?」

ねえ、ねえ、
ねえ・・・・!?


……悲鳴のように問いをさけんで
ひとりのわたしが舞台の上で死にました。
一瞬の光の中に焦げ付いて、まっしろな世界のおわりのなかに消えて、焼けて。
ちぎれた右足を捜し続ける子どもたち。
かくれんぼうしていたそのままに
学校の壁に影になって貼りついた子どもたち。

そのあとに続く地獄をみなかった。


だからわたしは少なくとも今日だけは
見届けるべきものはあるのだと言い聞かせて
逃げ場をなくして
顔をあげていなくちゃいけないと
思うのです。
思っていたのです。

今日この日だけは、わたしは、自分だけで病んでいてはいけないのだと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


病院へは行けず、お薬はわたしを守れず、わたしはわたしを守れず、
それでもわたしはこの夏のなかにいたので、わたしは
今夜、「原爆の絵」を見ました。
丸木夫妻のあの有名な巨大な黒と赤とが叩きつけられた地獄絵図のような現実ではなく、
ただ、
稚拙な線で
塗りたくられた色で
それでも
よじれ悲鳴をあげ泣き叫んでいる無数の絵。
ほんの少しでも、背負ってきた呪いを融かすためにそこにある
三千枚のあの日。
三千人のあの日。


  もしも一枚一枚、これらの絵をひろげ、並べてゆくとすれば、わたしは
  おそらく逃げ出したくなるのだろう。(でも逃げてはいけないのだった)


これに似た絵を、わたしは一度だけみたことがあると思いました。


スペイン、マドリッド、レーナ・ソフィア。
ソフィア王立美術館、
ピカソ、「ゲルニカ」

絵筆を叩き折り眼球を血走らせながら、文字通り身を削りながら
怒りと無念と哀しみとありとあらゆる混乱を画家である自分の腕にたくして
命をかけて。泣き叫ぶかわりに。
描かれたのに違いないと思いました。
掲げられた壁からどうどうと零れ落ちてくる、画家と失われた命の無数のうめきを、
聞いた気がして。


壁が叫んでいる。


そう思いました。
遠い旅のそらの下で、
すすけたような曇り空にうもれた異国の都会で
赤い傘一本だけを手にして
わたしは立っていました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日の日を

今日の日を

あなたは、いつまでおぼえていてくれるのだろう、と

訪れる先々でいなくなったひとたちが呼びかけてくる。

オキナワでも、ヒロシマでも、ナガサキでも
そうして真冬に訪れたあの寒い街でも、呼びかけてくる。

それは記憶のなかでは
いつもよく晴れた暑い八月の一日のような気がして
わたしは世界の終わりはきっとこんな日にやってくるに違いないと
幼いわたしをだぶらせながら、彼女たちを引き連れ歩いてゆくのです。
かずかずの呼びかけにつぶれそうになりながら、
でも、
生きているわたしは、生きているから。

生きているから。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この世界の上に、ほんとうに地獄があったのならば
天国だってあるにちがいないと、わたしはかみさまに訴えました。

今日、この日、
57年目の8月のいちにちの
おわりに。


だからどうぞ、わたしが、
たとえあのひとのことを思ってこわれたこころが泣いても
もう大丈夫だと思える日がいつか来るんだと、
虹の落ちた先にそれはあるかもしれないと、
信じていても、かまわないのだと、

信じさせてください。

これ以上なにも、毟り取られなくても、奪われなくてもいいのだと。
この世界の上に、ほんとうに地獄があるのなら
天国だってあるに、ちがいないと。



2002年8月6日、記  まなほ



2002年08月04日(日) 倒れるひと、走るひと。

なんというか
身の回りで、倒れてゆくひとが多い。
夏だから、というわけでもなくて
たとえば、すでに二十四年生きたから、そんなふうに見えるので
ときどきひどく、心配になる。

病人のわたしがひとのことを心配するのはおかしいかな。
そんなことはない、と思うけど、、、
余裕があるときしか人は人を思いやれない、というのが理屈なら
なんだかそれは、ひどく冷たくてさびしいことだと思う。

といって
じぶんのことをかえりみずに人のために走り回ってじぶんの首をしめる、
それがわたしを追い込んだ、ひとつの要因でもあるのは
身にしみて、わかっているんだけれど。
ひとを頼るより人に頼られていたひとつの結果として、
わたしはおかしなことになってしまったことも、わかってはいるんだけれど。


でも。


病人、という名前がわたしについたのは、一種故意のことでもあります。
抱えているものが、身体にせよ心にせよ、たぶんひどく慢性的なものだから
もしかしたらあのとき何かを殺せばわたしは「病人」ではなかったかも知れないし
今だって、自分のなかのこのなにか、
弱いものを無視して突き進めば、ここで「闘病」ということばを名乗ることも
じぶんに許さないじぶんになると、思う。

わたしの病気には、生命の危機がないから。
わたしの病気には、そもそも、
たとえば外科的な怪我や急性の病気のような、治る「見込み」がないから。
毎日それに取り囲まれて、解放される日は、いつなのかはわからない。
死ぬまで一緒に手をつないでいなくちゃいけないかも知れない、
そういう部分がひどく大きいので。

つまりは「我慢」がすべてを支配する。
そうやって何年か生きて
何年か、それほど病の存在を意識しない日々があって
また何年か病んで
また何年かふつうに近くなって、
それを繰り返して、そうしてまた暗い痛みの時期がやってきた、ある日。

わたしは自分を「病人」と名乗らせることに決めました。

大学生も終わりを迎える年の、ある日に。


それは、それまでつなげてきた「普通の生活」のなかにある
たくさんの事柄をあきらめることでもあるけれど
その無理矢理から守られることでもあったから。
痛みに耐えて、視線に耐えて、怖いのにも不安なのにも耐えて
全部を耐えたうえにある、わたしの力を超えた義務や責務をシャットアウトして
無理しないで眠っていてもいいよ、
そう、自分にイエスを言える口実でもあるから、
わたしは、
いろんなことを捨てて、それを選んだ。

病気だと宣言すること。

だから今はここにこうやっていて、
同じ年のひとたちが働いたり、学んだり、嫌な思いを我慢したりしているのを余所に
隔絶された場所で、おふとんと、自分の痛みをやわらげられるものを周りにあつめて
自分と内側で暴れているものをみつめて、毎日を暮らしています。


そうやって切り離された場所にいると
ときどき、ふと、
(自分のくるしいのがそんなにひどくないときに、という自分勝手な前提だけど)
まわりの壊れていく様子とか追われていく様子が、クリアに見えたりすることがある。
もともと、そういうことに敏感な気はあるらしいのだけれど、それにしても、


だれかが、病んでいくこと。
追い詰められていくこと。どこかが磨耗してゆくこと。
まざまざと見えていて
それがあんまり多いように思えて
わたしは、この場所はなにかおかしいんじゃないかと思ってしまったりする。
ひとがしあわせに笑って満ち足りることよりも大事で
ひとを傷つけても壊してもかまわないような事柄が、まるで確かにあるかのようで、


「どうして、こわれるくらい、走らなきゃいけないのかな。」


そんな、誰も答えてくれないことを延々とおもって、
しまいに混乱してきて泣き出したくなったり、する。


  みんな、やさしいのに。
  みんな、やさしかったのに。
  だれも、わるくなかったのに。


……やっぱり混乱は激しくて
こうやって書き続けるうちに、こころのなかみは暴れだして
からだはやっぱり傷だらけで(それはしかも自分でつけた傷も含んでいて)
細胞は干上がったまま水をなくしていて
外界の刺激に、耐えるということが、できず、
なにかといえば腫れ上がり熱を出し血と体液を染み出させてべたつき肉が露出して裂けていく、
そういう体は、わたしを握って離さない。
そしてわたしはそのからだを我慢しきることができない。
だから、わたしは、病気と、名乗る、、、、名乗ったんだよね、そうだよね。

そうなんだ。

でもね
それでもね

倒れてゆくひとがあんまりに多いので
追われていくひとがあんまりに多いので

わたしは
あんまりに力ないじぶんに歯噛みをして
そうして
そのまま消えていってしまいそうな気に
支配されそうに、なる。


背景に溶かしこまれて消えていく、一本の鉛筆の下書きの線、みたいに。


いったいこれは
どうしたことだろう。


どうしたことなんだろう。



8月3日、深夜 記  まなほ



2002年08月03日(土) 今度こそ、失敗。

ホームページを作っている最中、
この間の精神科の診察のことを思い返していて、
それから、そのあとの生活のことをぼんやりと思い返していて、
困ったことに気がついてしまいました。


それは、「治療を受けている感覚」をわたしが見失ったこと、です。


このまえの診察。
土曜日だった。

はじめて両親と一緒に病院に行きました。
というより、
わたしが独りではそこまで動けなかったので
(行動する、ということが重たくて、ぜんぶ投げ出して眠るだけだったまいにち)
買い物にいく母と父とに同行するかたちで車に乗せていってもらったところ、
たまたまわたしの診察という用事がいちばん長く時間がかかってしまったので
両親が待合室に現れる結果になったのだけれども。

もちろん、
わたしの診察に同行する、その機会を両親がうかがっていたことは間違いなく、
それはあたりまえだろうなと思います。
だからそのこと自体については、
ああついに来ちゃったかあ、というのがわたしのものすごく素直な感想でした。
嫌とか嫌じゃないとかそういうことじゃなくて。
来るべきものが来ただけという、ああそう、というだけの。

なぜって。

以前はどこか、わたしの状態にたいする拒否感が
うちのなかには流れていました。
精神科に通うとかカウンセリングを受けるとか、そういう事柄に対しての、拒否感。
必要ならば行きなさいというその台詞の裏返しにある行って欲しくないという主張。

うちの両親、ダブルバインドが得意なんです。

で、わたし、それを感じ取るのが得意なんです。

笑。

だから、たいていのことはひとりでやっていました。
大学の相談センターに通い続けても報告はしなかったし
たとえものすごくショックを受けたことがあっても家の中には未公開でいて、
卒業してからは、お金が足りないのでカウンセリングには行けないと思いました。
何もしないやつは家から出て行けと
素面のときはともかく酔ったときのパパは怒鳴るので、
通信制大学の願書を取り寄せて図書館司書の講座に申し込みをし、
大学図書館のカウンターに駆け込んで募集もないのに雇ってくださいとお願いして、
運良くそれが通って、卒業式をむかえる前に準職員みたいな立場を得ました。

(なので卒業式はちっとも感慨深くなかったです。だって翌日も来るし、、、みたいな。苦笑)


  それで一年、ごまかしてきました。
  ごまかしなのは、わかっていました。
  だって、
  ちっともわたし、司書講座の勉強、できなかったもの。
  夏期講習に行き始めたら二日目で倒れて熱をだしたもの。
  それでも残り四日間、どうにか通って単位はもらえたけれど、
  のこり21単位は、まったく手付かずなんだもの。
  ちがうの。
  手が、つけられないんだもの。
  テキストを見ると、べりべりと破って地面に叩きつけたくなるもの。


でも
この2月、風邪をひいた日を境にしてあきらかにアトピーの状態が悪くなっていって
状態がいい日と悪い日の波がいつまでも続いて、
外に出かけなくなったり
アルバイトに、いけなくなったり
寝付く日が多くなったり
たべものを、食べなくなったり、、、

そうして、春。
桜が散ったあとに、いなくなってしまったサトくん。
その葬儀や納骨の席に、行くと言い張ったわたし。
ばらばらと崩されたほね。


ひどく、認めがたいことだけれど。
サトくんがみずから消えてしまったことで
わたしに対する風当たりは、かくじつに、よわく、よわく、なっていきました。


  ねえサトくん
  ちゃんと聞いてほしいんだけど、わたし、
  あなたにそんなことで役に立ってほしくはなかったよ?
  それは絶対憶えておいてほしい。憶えておいてください。
  そんなことで役に立ってくれても、わたしはちっともうれしくなくて
  むしろ腹立たしくて
  あなたが信じていたらしい神様をひっぱたきに世界の果てまで走っていって
  それからあなたを怒鳴りつけて
  腕をひっぱって、むりやりにでも帰ってきてやりたいよ。


  (・・・・・・・・・でも、でも、)

  (・・・・・・・・・ありがとう。)


……ひとは、鉄壁じゃないんだと、
どんなにそれを拒んでも、ある日、
死に引きずり殺されてしまうこともあるんだと
たぶんみんな、いつもは忘れているのだと思います。


それを急に、引きずり出したのが、サトくんで。

そこに、わたし、という、病んでいる存在がいて。

………たぶん。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「お父様が待合室にいらっしゃっているそうですが、入っていただきますか」
と、お医者はわたしに聞きました。
いくらなんでも家族面接はちょっと遠慮したいなと思ったわたしは
(なぜってたぶん、そのショックに耐えられないだろうから)
「まだ早いと思います」ということばでそれを断りました。
そうして診察はおしまいになりました、
けれど。
ドアをあけたらなぜか「お父様」じゃなく「お母様」もそこにいて、
そうして両親がわたしと入れ違いに診察室に呼び込まれていきました。

なんでですか?

……よく、わかんない。

そうして、そこで何を言われたかといえば
お嬢さんは薬では治せないと宣言されて、
カウンセラーを紹介されたそうです。

この、一切合切が、わたしの了解なしにすすんだ出来事で、
ちなみにあとで聞いてみればパパママも何も希望していない
家族そろってなにがなにやら?状態で起きた出来事だったようで

それはいったい、
なんなのだろう。

なんなのだろう・・・。

お薬はぜんぶ変わりました。
試していたパキシルだったSSRIが打ち切られて
古いタイプの抗欝剤に切り替わり、一日三食ごとに、それと抗不安剤を飲むように。
それから副作用が消化器系につよく出ることを訴えたがための、胃腸薬。


それから、数日。

わたしはお薬をなくしました。
真っ赤な色をした抗欝剤は持っているけど、胃腸薬はもっているけど、
あったはずの抗不安剤をなくしました。
今までたぶんいちばん「いのちづな」に近かったのじゃないだろうかと思う、
抗不安剤をなくしました。
とにかくばかみたく記憶が曖昧なのは
存在不確かなこの「病気」のせいなのかお薬の副作用なのかわからないけれど
とにかく、1シートまるごとなくして、さっぱり思い出せない。
それをどこに置いてきたのか。


そういえば次に病院に行く日を思い合わせると、それは今日でした。
だけどわたしはすっかりそれを忘れていて、まったくその気がなくて
そうしてふと
病院に行くということに、いったい何の意味があるのかと思いました。


あそこに行っても
楽になる気が、ちっともしなくなっていることに、気がついてしまいました。
医者が何を言おうともお薬は欲しいとか、
いやいっそ新しい薬をもらってコレクションしたいとか
いたって邪道な気分でもかまわないから
持っていなくちゃ意味がなさそうな気がします。

でも、なんだか、その気もないみたい。ひどく薄いみたい。

あらら。

精神科でこれはよくないと思います
治療意欲ゼロというよりマイナスに近く、
担当医に不信感を持っています、なんて
絵に描いたみたいに意味がなさそう。


あらら。

やっちゃった。


どうしようかな。

どうしよう。

どうしましょうね。(笑)

それでも、混乱と不安は襲ってくるまんまなのにね。


とりあえず医者に紹介されたカウンセラーというのが、
前に大学を卒業するときお世話になっていたカウンセラーのひとと二人で、
卒業したあと行ってみる場所の候補として顔つき合わせて検討して
二人揃って「却下!」した人な気がしてならず、
30日に大学に行ったときに相談センターに寄って受付のひとと調べてみたら、
こんなときばっかり、「オメデトウあなたの記憶に間違いなし!」ということで、
それはちょっとねえかみさま勘弁してほしいんだけど、と大音声で思っている、
まなほ、記(笑)


 < キノウ  もくじ  あさって >


真火 [MAIL]

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